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『蝉が消えた晩夏、詩人ランボ―について書こう。』

このブログを始めてから早いもので17年以上が経った。内容はともかくとして文量的には『源氏物語』をとうに抜き、ひょっとするとプル―ストの大長編『失われた時を求めて』も抜いているのではあるまいか。……気楽に始めたブログであったが、今や生きた事の証し・痕跡を書いているような感がある。

 

……さて、今回は天才詩人アルチュ―ル・ランボ―の登場である。ランボ―との出逢いは私が16才の頃であったかと思う。…………自分とは果たして何者なのか、自分は将来何者になり得るのか、……等と自分にしか出来ないと思われる可能性を探りながら悶々と考えていた時に、「私とは他者である」という正に直球の言葉が16才の若僧アルチュ―ル・ランボ―(既に完成している早熟の天才詩人・20才で詩と縁を切り放浪、武器商人の後に37才で死去)から豪速球で投げられたのだから、これは一種の事故のようなものである。

 

……以来、ランボ―とは永い付き合いになってしまった。……19才の頃に始めた銅版画では、ランボ―の詩をモチ―フに銅板の硬い表面に荒々しく線描を刻み込み、やがてその表象はランボ―の顔をモチ―フに、その顔に穴を開けて抹殺するような表現へと成るに至った。(版画作品画像二点掲載)……その作品は、現代の最も優れた美術家であり、個人的にも影響を受けていたジム・ダインの評価する事となり、彼は私の肩に手をかけながら「俺も君と同じく、この生意気な若僧の面を抹殺する意図で版画の連作を作ったのだよ。この若僧が詩人のランボ―である事はその後で知った!」と、その制作意図をリアルに語ってくれたのであった。(……ちなみに彼のその版画は、ランボ―をモチ―フとした連作の版画集で、版画史に残る名作として高く評価されている。)

 

……ランボ―を標的として表現に取り込んでいる表現者は、しかし私だけではない。詩人の野村喜和夫氏やダンスの勅使川原三郎氏も然りである。その野村氏は、今年、氏が刊行した対談集『ディアロゴスの12の楕円』中で、ランボ―との永い関わりを私との対談の中で語っているが、私のようなビジュアルではなく、言葉という角度からのランボ―について言及しているのが面白い。……私はその対談の中で、版画でのランボ―との訣別を語っているのであるが、しかし、意識下の自分とは本当にわからない。……先日、10月11日から日本橋高島屋の美術画廊Xで始まる個展の為の制作が大詰めに来た、正に最期の作品で、アルチュ―ル・ランボ―の詩が立ち上がる直前の彼の異形な脳内を可視化したようなオブジェのイメ―ジが二点、正に突然閃いたのであった。

 

……私は一気にその二点を作り上げ、一点に『地獄の季節―詩人アルチュ―ル・ランボ―の36の脳髄』、次の一点に『イリュミナシオン―詩人アルチュ―ル・ランボ―の36の脳髄』というタイトルを付けた。…………作ろうと思って出来たのではない。……『グラナダの落ちる壺』という作品を作っていた時に、突然、光る春雷のように正しく瞬間的に閃いたのであった(作品画像掲載)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ランボ―の詩編、『地獄の季節』と『イルュミナシオン』各々の仏文の原詩を、厚さ2ミリのガラスに黒で刷ったのを粉々に叩き割り、脳髄に見立てた『地獄の季節』『イリュミナシオン』各々のガラスのケ―スに詰めて、詩が立ち上がる直前のランボ―の脳内のカオス的な状態を可視化したのである。

 

……今夏の8月に東京芸術劇場で開催された勅使川原三郎新作ダンス公演『ランボ―詩集―「地獄の季節」から「イリュミナシオン」へ』は、ここ八年近く拝見して来た氏のダンス公演の中でも、生涯忘れ難い作品になるであろう。……ヴェネツィアビエンナ―レでの金獅子賞受賞以来、特に海外の公演が多くあったので、久しぶりの日本での公演である。……佐東利穂子アレクサンドル・リアブコハンブルク・バレエ団」、ハビエル・アラ・サウコ(ダンス)の都合四人から成る「ランボ―詩集」の、身体を通した開示的表現である。

 

……このブログでも度々書いているように、私は氏のダンス公演は何回も拝見(目撃)しているが、私をしてその公演へと熱心に向かわせるのは、ひとえに氏の表現がダンスを通して芸術の高みへの域を志向し、またそれを達成実現しているからである。…………例えば文学者というのは数多いるが、その文学を、更なる高みにおける芸術の表現達成域にまで至っているのは僅かに三人、泉鏡花谷崎潤一郎川端康成のみであると断じたのは、慧眼の三島由紀夫であるが、つまりはそういう意味である。

 

つまり、鴎外も漱石も、その他、数多の作家達の表現は文学ではあっても芸術の域には達していないと三島の鋭い批評眼は分析しているのである。……芸術へと到る為の、毒と艶のある危うさと、詩情、そして未知への領域へと読者を引き込む不気味な深度が、この三人以外には無いと三島は断じているのである。……………………舞台は正面に開かれたランボ―詩集の本を想わせる装置の巨大さで先ずは一瞬にして観客の髄を掴み、その詩集の頁の間から、飛び出す詩の言葉のように複数の演者が現れ、或はその頁の奥へと消え去り、詩人ランボ―の脳髄の中の迷宮が可視化され、次第にランボ―自身の短い生涯がそこに重なって来て、表現の空間が拡がりを見せて、最期のカタルシスへと見事な構成を呈してくる。…………満席の会場の中で、旧知の友である詩人の阿部日奈子さん、舞踊評論家の國吉和子さんと久しぶりにお会いする事が出来た。勅使川原氏の公演の時は、懐かしい友人との再会が度々あるのが嬉しい。

 

…………ランボ―、ニジンスキ―宮沢賢治中原中也、泉鏡花、サミュエル・ベケットブル―ノ・シュルツ、更には音楽領域のバッハモ―ツァルトシュ―マン、…………と彼のイメ―ジの引出しは無尽蔵であるが、しかし、彼におけるランボ―の存在はまた格別の観が私にはある。……ランボ―がそうであったように、御し難く突き上げてやまない、あたかも勅使川原氏自身の感性を映す鋭い鏡面のようにして、ランボ―の存在があるように、私には思われるのである。

 

 

…………さて、10月11日からの個展の出品作は75点に達した。今年の3月から9月迄の7ケ月間に集中して作り上げた全て新作である。校正を重ねた案内状も既に完成し、後は個展の初日を待つばかりである。

 

 

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『10月からの個展を前に……』

……先日、竹橋の東京国立近代美術館で開催中の『ガゥディとサグラダ・ファミリア展』を観に行った。行って驚いた。まるで祇園祭かと想う程の人、人、人の入場者数である。その中をぬってガゥディの脳髄の中に入るようにして、彼の奇想にして、表現の原質とも言えるものに再会する。……再会というのは、以前30年前にバルセロナに一時住んでいた時に、ガゥディの数々の作品に直に触れていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………そのガゥディについては、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)に、私の体験談も含めて詳しく書いているので未読の方はご一読頂ければ有り難い。その中でガゥディと、当時未だ幼かったダリが実際に出逢っていたという、ほとんど知られていない奇跡的な逸話が入っていて、読まれた方はかなり衝撃を覚えられたようである。

………(閑話休題)、…………私がバルセロナにいた時には未だ建設途中であった(当時の画像掲載)が、そのサグラダ・ファミリア贖罪聖堂がまもなく完成との事。…………かなり以前のブログでも書いたが、ガゥディ亡き後、日本人の主導者によって建設は進められたが、彼が語ったという「故人の意志を継ぐ」という一見美しい響きを持った言葉には、しかし絶対的な無理がある。言葉を変えて、故人➡ガゥディ➡天才に言葉を入れ換えてみると、天才にあらざる者が「天才の意志(つまり才も含めて)を継ぐ」になる。

 

……ダ・ヴィンチの作品は未完成の作品が何点かあるが、例えばダ・ヴィンチの『聖ヒエロニムス』の未完成の部分に「故人の意志を継ぐ」と言って、誰が筆を入れる事など可能であろうか。理屈はそれと同じである。

 

……だからガゥディの凄さを体感したいならば、私はお薦めしたいのだが、真正面(ガゥディの手になったファサ―ド部分)の下から仰ぎ視るに限る。すると頭上からは魔的にして荘厳な雫がアニマのように容赦なく降り注いで来るのを体感出来るのであるが、間違っても聖堂の裏側には廻って視ない事をお勧めしたい。……残酷なまでの生な現実を目にしてしまうからである。

 

……しかし、サグラダ・ファミリア贖罪聖堂はまもなく完成するという。……ダ・ヴィンチの未完成の絵と同じく、未完成のままで良いと私は思っている。……「完成」……!?……相手が突出した天才である場合、そこにいかほどの意味があるのであろうか。

 

 

……ガゥディ展を観ながら、私は30年前のその街で過ごした時間を思い出していた。オリンピック前の未だ善きバルセロナ、最期のバルセロナの暗き闇と、眩い地中海を映した光との深い明暗が未だそこにあったと思う。…………さて、そのバルセロナという地名であるが、その語源についての洒落た面白い解釈があるのをご存知であろうか?

 

……バルセロナは三つの言葉で出来ているという。すなわち、①bar(酒場)②Cielo (空)③mar(海)……この三つを繋げると、Un bar flotande entre el cielo y el marとなり、訳すと「空と海の間に浮かぶ酒場」になり、それがバルセロナという地名の語源なのだという説があるが、私はそれを洒落た発想ゆえにたいそう気にいっているのである。(……一説にはカルタゴの名家バルカ家の領土であった事から来ているという説が有力であるが)。……「空と海の間に浮かぶ酒場」、……人生まことに一酔の夢と視れば、生きる事と酩酊は同義語とも映るのである。……さてこのガゥディ展は、しかし充実した展示で見応えがあり、私は多くの友人達に観る事を勧めたのであった。これは私にはめずらしい事である。

 

 

……私の最初の銅版画集、写真集、そして第一詩集を出版社側の企画で刊行して頂いた、沖積舎の沖山隆久さんから先日、突然お電話があり、沖山さん所有の二十点以上の李朝の掛け軸の中から、私が一番気にいったのを一点プレゼントして頂けるという願ってもないお話を頂いた。……こういう時は動くのが私は早い。さっそく神田神保町にある沖積舎に行き、深みと品格のある、鳥と古園を画いた一点を速決で選んだ。

 

 

 

……その後で、沖山さん所有のコレクション(三島由紀夫、西脇順三郎、江戸川乱歩などの書、ルオ―の名品ミゼレ―レ他無数)を次々に視ていたら、あまりの驚きでアッ!!という声を出してしまった。……私が30年も前から探していた月岡芳年の有名な残虐絵(版画)を見つけてしまったのである。

 

……私は前に、芳年の代表作―『英名二十八衆句』をシリ―ズの内から二点持っているが、その内容の残虐性、そのエロティシズムの深さ故に、さすがに画像を未だ今はブログでお伝え出来ないのは残念であるが、その作品は三島由紀夫、江戸川乱歩、芥川龍之介他も入手出来なかった名品であり、私はずっとその作品を探していたのであった。

 

……その事を話し、芳年の作品中でも名品中の名品で市場に全く出て来ないその一点(もし市場に出れば、40万円以上はするであろう)を、私の旧作の銅版画一点と交換トレ―ドを申し込むと、あっさりと了解されたのには驚いた。感謝の一語しかなく、有り難い話である。今、その芳年は我がアトリエに在り、その必然とも云える、想いの一念は岩をも砕くの言葉を噛み締めているのである。

 

 

日本橋高島屋本店6階のギャラリ―Xで、今秋10月11日から10月末日迄開催予定の個展(『幻の廻廊―Saint.Michelの幾何学の夜に』)の為の制作が大詰めであるが、以前から法政大学出版局から依頼されていた原稿(主題は『記憶と芸術』)執筆の締切日が八月末なので、大急ぎで30枚近くを書いて、私の作品画像と一緒に編集部の人に渡した。この本は年末に刊行予定であるが、共著なので、美学の谷川渥さん、前橋文学館館長の萩原朔美さん他15名から成る本である。

 

 

私が書いた原稿のタイトルは『記憶と芸術―二重螺旋の詩学』である。……ただ、この本の企画が面白いと言われ、途中から執筆者に加わられた海野弘さん(幅広い執筆活動で知られる評論家で作家)が4月に虚血性心不全で急逝されたのは本当に残念である。………………果たしていつが自分の最期になるのか、誠に人生とは一酔の夢、……せめて能う限り美しい幻を紡いでいたいものだと思う、昨今である。

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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