月別アーカイブ: 3月 2019

『桜の下の芥川龍之介』

昭和二年、すなわち芥川龍之介が自殺する年に谷崎潤一郎と交わした「小説の筋」をめぐっての論争は、近代文芸史を代表する一つとしてあまりにも有名である。……芥川は、技巧を凝らさない筋のない小説こそ良いとするのに対し、谷崎が主張したのは、作為や技巧に富んだ小説こそ是とするものである。この各々の主張は、つまりは美意識の相違を通して彼らの資質(芥川の本質は短篇―詩的散文にあり、谷崎はそれに対して緻密で肉厚な構造体を要する長編にある)にまで及んでいるのであるが、この論争はいま読み返してもなかなかに面白い。……しかし、この二人、論争はしたが普段はいたって仲が良く、才は才を知るの言葉を映すように、よく連れ立って出かけてもいる。しかし、仲の良さは死後までも続き、二人の墓が向かい合って在る事を知る人は、あんがい少ないかと思われる。……墓の在る場所は染井墓地に隣して建つ慈眼寺。時は折しも満開の桜が咲く快晴の日。「思い立ったが吉日」は、自由業の云わば特権のようなもの。さっそく出掛けてみる事にした。場所は豊島区駒込、下車する駅は〈巣鴨駅〉である。

 

……巣鴨駅を出て、とげぬき地蔵のある巣鴨地蔵通り商店街に向かう道があるが、そこに入らず通りを右に横断して細い道を進んで行くと、突然右側に、いかにも怪しく謎めいた昭和初期に造られたと覚しき帝都の面影を残す古びた洋館が現れてくる。―その名を『ヴィラ・グルネワルト』。……いかにも怪しい訳ありのようなネ―ミング。火曜サスペンス劇場の舞台としては最適なこの洋館には、私の旧知の友が二人、各々に住んでいて久しい。フランス語翻訳の達人で、西脇順三郎論などの論考も著している中村鐵太郎君と、歴程賞などを受賞している詩人の阿部日奈子女史である。舘の玄関の扉を押すと、重く鍵が掛かっていて開かない。……事前連絡無し、思い立っての突然の訪問であったが、建物の前で携帯電話をかけても、何故か二人とも繋がらない。……ひょっとしてもしやと思い、半開きに開いている窓に向かってオ~イと各々の名前を読んでも返事がない。というよりも建物の住人全員が神隠しにあったような無人の気配、……先を急ぐ旅ゆえ、やはり○○なってしまったのかも知れないとここは急ぎ結論付けて、次のお目当て地の「芥川チョコレ―ト」という、昭和30年代に在った紡績工場のような懐かしい工場へと向かうが、かつて記憶しているその場所に工場の姿が無い。……信号待ちしている自転車に乗った初老の人に訊ねると、最近、巣鴨駅近くに移転したという。聴きなれない「芥川チョコレ―ト」という、この味のある名前。ちなみに芥川龍之介とは無関係らしいが、帝国ホテル専門にチョコレ―トを作って納めているらしい。以前に来た時はチョコレ―トの甘い香りが漂っていたものである。……さて、先ずは染井墓地である。折しもソメイヨシノが満開のこの広大な墓地。……岡倉天心、高村光雲・高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、土方久元(龍馬、中岡慎太郎と共に薩長同盟の仲介に尽力)……等の著名な人達が眠る墓地をゆるりと抜けて慈眼寺へ。境内にある墓地の奥まった場所に、今日の目的である芥川龍之介、そして谷崎潤一郎の墓が向かい合って在る。この二人の墓を目指して来たと思われる何人かの参拝者の姿があった。……芥川龍之介の墓は独立して在り、横の墓に妻の文、ご子息の也寸志、比呂志……の墓碑銘が彫られている。向かいに在る谷崎潤一郎の墓は、やはり独立して潤一郎の墓が在り、その周囲に親族の墓が在る。但し、谷崎潤一郎の墓は分骨であり、もう1つの墓は京都・法然院(やはり桜の名所)に在る。暫し二人の墓を観ながら、生と死の境の無さに想いが至る。…………晴天のこの日、まだ時間があるので、巣鴨の商店街を抜けて、「庚申塚駅」から都電荒川線に乗り、終点「三ノ輪駅」へと向かった。……途中の「飛鳥山駅」を通過した辺りで、車窓から一瞬、チラッと見えた電信柱に「尾久」という地名を記した白いペンキ文字が目に映り、私の脳裡にピンと来るものがあった。……〈荒川区尾久〉……間違いない、ここは、かの阿部定事件(昭和11年)が起きた待合い「満佐喜」が在った場所である。……以前のメッセ―ジでも書いたが、私は以前に、立教大学女子大生殺人事件の犯人、大場教授の別荘裏の事件現場(……警視庁の捜査が始まった同日に)行き、また昭和13年に起きた、津山30人殺しの現場が在った岡山県、美作加茂の現場にも行ったが、不覚にも阿部定事件のこの現場は未だ来ていない。……かつて私は、非公開となっている東京大学医学部解剖学標本室を訪れ、私の事を妙に気にいってくれている教授と話をしている際に、成り行きでたまたま阿部定事件の渦中の逸物(つまり、被害者・石田吉蔵の切り取られた○○)の現物の標本を見たことがあり、ぜひいつか現場へ!……と思っていたのだが、作品制作や個展、はたまた撮影の旅に追われて機会を作れなかったのであるが、う~む、またしても先方(場の強い磁力)から喚ばれているようにも想われる。今日、偶然目に入った電信柱の文字は、私にはそう想われる。…………さて、電車は終点の三ノ輪駅へと着き、私は明治の中期を駆け抜けた天才―樋口一葉の遺品が展示されている記念館へと歩を進めた。……ここ半年近く、私はこの天才女流作家、―かの森鴎外をして(真の詩人)とまで言わしめた樋口一葉の作品世界とその人物に入り込んでいる。……この人物が持つ計り難い多面的な謎と、その純度の高い詩心については、また近々にこのメッセ―ジで書く事を期して、今回の「桜の下の芥川龍之介」を終える事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『産婦人科に行った日の事』

……季節は啓蟄となり、春の芽が息吹きはじめた或る日、多摩美大で喋っている友人のTから連絡があり、「たまにはもの語りなどしよう」との誘いがあったので、気分転換のつもりでアトリエを出て、世田谷の上野毛にある大学を久しぶりに訪れた。……上野毛駅を出て、かつて私も通った多摩美大への道は、まるで時が止まったように昔日の姿を留めていて懐かしい。20才の頃の、よれよれの服と生意気な面。そして金が無いので伸ばし放題の髪をした自分とすれ違うようで妙に懐かしい。……大学の門を入ると、記憶のままに右側の下り傾斜にある、うす暗い駐車場へと至る。信じがたい話だが、この大学には体育館なるものが無かったので、空手部と剣道部がこの狭い駐車場を半分に分けて汗を流していた。当時、私は剣道部に入っていたので、古い日記を開くように、ここにはいっそうの思い出がある。……Tとの約束した時間にはまだ間があったので、私はふと昔日の或る日の事を思い出し、「そうだ、あの時お世話になった、あの産婦人科医院はまだあるかな!?」と思って、大学のすぐ真裏、瀬田にあった産婦人科医院へと向かった。しかし、その辺り周辺を廻っても、あの日の夕暮れに明々と灯っていた「○○産婦人科医院」の大きな看板は見当たらず、あの時、お世話になったあの医院は無くなっていた。そして替わりに、あの日の苦い出来事がまた、フラッシュバックのようにありありと甦って来た。

 

 

……あれは、私が3年の時であった。独学で銅版画にのめり込み、版画科の学生達が制作している明るい時は剣道に励み、皆が帰った夕方から私は誰もいない版画実習室で一人、作品を作っていた。……そしてその日は、私は銅板にミリ単位の間隔で定規を使いカッタ―を引いて深々とした線を刻んでいた。どす黒く、精神に斬り込んでくるような鋭い暴力的な黒の面を作りかったのである。のめり込んで作っていると、現実感が無くなってくる時がある。その時がまさにそれであった。……ザクッと心臓を突くような鋭い感覚と次に鈍い痛みが走った時、、カッタ―の硬い刃先は定規を斜めにえぐってなお走り、更に私の左の親指を深々と斬り込んでいた。パックリと開いた指の腹。直後に噴き上げてくる鮮血を見て、誰もいない実習室の中で私はどうすべきか焦った。何故なら、既に夕方で保健室は閉まっており(開いていても常駐の保健医など見た事がない)、血はどんどん流れ出てくるのである。そして、混乱する頭の中に、剣道部の稽古時に防具を付け裸足で走っていた時にふと見た、瀬田の畑と人家の間に場違いのように建っていた、○○産婦人科医院の事が過ったのであった。

 

指を布切れで押さえながら、大学裏にある産婦人科医院に走ると、まるで地獄で仏のように看板の明かりが灯っていた。医院に入ると、看護婦が二人出てきて、布に染まった鮮血を見て、すぐに事を理解してくれた。「とにかく中へ!」と促してくれたその時、床に鮮血の塊がボタリと落ちた。「おっ、綺麗だな!」と思った瞬間、私の背筋をひんやりとした震えるものが走り、不覚にも私は失神し、後ろへと倒れていった。手慣れた看護婦が倒れていく私をハタと受けとめてくれたのは、いま思い返しても頭が下がる。その看護婦二人が私を抱えて何処かへと運んでいくらしい。…………やけに眩しい照明がバチりと私の顔面を照らしたので、ふと我に帰ると、私がいる場所は分娩台の上であった。数年前のブログに書いたが、かつて私はブル―ジュの博物館の中に設置してあった本物の古いギロチン台の展示を見て、部屋に人が誰もいない事が後押しとなり、好奇心を押さえきれないままに台の上によじ登り、紐で釣り下がっているギロチンの刃の下に首を潜らせ、マリーアントワネットの断末魔の感覚を味わった事があった。もし紐が切れたら一巻の終り「ブル―ジュで日本人の旅人、まさかの事故死!」であるが、恐怖よりも好奇心の方が私を震わせてやまない。とはいえ、ギロチン台に首を潜らせた人間も珍しいかと思うが、次にまさかの分娩台の人になろうとは……。ともあれ、院長の手慣れた技術によって傷口は縫われ、包帯が巻かれて私は安堵した。そして感謝を述べ「今日は治療費は持っていませんので、明日持って参ります!」と云って医院を後にした。……しかし、明日の食費のあてもない苦学生に保険の効かない高い治療費など払えない。……私は医院を去る時に今一度振り返り「すみません、お世話になりました」と呟いた。……名前も告げておらず、私はこのまま消えようと思ったのである。

 

その後、次第に傷口は塞がっていったが、まだカッタ―で銅板に線を切り刻むだけの力は出ない。その時に作っていた作品「Diary―Ⅱ」は、近々にあるコンク―ルに出品する予定だったが、応募〆切迄に時間がない。……その時、美大の後輩のSの事が閃いた。Sは私の事に興味があるらしく、時々、版画の実習室にも遊びに来ている。私はSに電話をして、カッタ―で線を引く作業の手伝いを頼むとSは喜んでやって来た。そして、私の代わりに作業をしながら、傍にいる私との会話を楽しんでいた。……まさかの事が起きたのは、その時であった。私の耳に「北川さん、やっちゃった!」という信じたくないSの悲鳴が響き、見ると、左利きのSは私の時とは真反対の右の親指の腹がパックリと開き、その顔は痛みで歪んでいる。……時刻はあの時と同じ夕刻。私はSを励ましながら、あの、もはや訪ねる事はない……と思っていた産婦人科医院へ行くしかない、と腹を括って駆け込み、Sもまた分娩台の人となった。……Sにも、また院長に対しても、もうしわけないという気分と、とうてい払えない治療費の事が頭を過りながら、Sの治療されるのを見守っていた時、院長が私に「あれからずいぶん経ったねぇ!」と笑いながら語る声が聞こえた。「えぇ、全くこいつが……」と、私は分娩台の上にいるSの頭を軽くピシャリと叩きながら、訳のわからない返答をした。…………私はしかし幸運であった。今のように儲け主義に走って「医は仁術(博愛)」が遠退いた時代と違い、その院長は私がまさに極貧であるのを理解してくれて、今は死語となった「出世払いでいいから、余裕が出来たら持って来なさい」と云ってくれたのであった。…………それからずいぶんの時が経った。あの時、既にご高齢であった院長は、もう亡くなられてしまったに違いない。……私は、あの時に医院があったと覚しき場所に暫し立ち、美大へと戻った。大学に戻り、研究室で助手の人から、かつて地下に在った版画の実習室も、今は演劇の学科の倉庫になってしまったという話を聞いた。…………約束していたTと、暫く美術の現況についてもの語りをして、私はアトリエへと戻ったのであった。

 

 

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