月別アーカイブ: 2月 2015

『何故かビジネスクラスで』

先だっての台湾の飛行機事故の映像は凄まじかった。CGでは絶対に出ない「気」といおうか、機内の人々の絶叫が伝わってくるようで、背筋を伝ってくる迫力があった。あのような事故を見る度に思う事がある。…… 今迄の事故のデータから見て、確率的に最も安全な機内の場所は何処なのかと。― 先日の事故の関連番組を見ていて遂にそれがわかった。断言的に言ってしまうと後々に差し障りが出てしまうのであろうか、取材を受けた航空関係者はアナウンサーのその質問にやんわりと答えていたが、その最も安全な場所とは、掲載した画像の左側の人物の手首の位置辺り、―  つまり、主翼と尾翼の中間辺りの席が、今迄で最も助かった率が高いという。事実、今回の事故もそうであった。その裏付けの一つとして、「ブラックボックス」は実は尾翼の近くに設置してあるという。私はてっきり機長の側かと思っていたが事実はそうらしい。逆を言えば、ファースト、そしてビジネスクラスの方が死ぬ確率が高い事になる。何となく、世の中は一勝一敗に出来ている。…… そのビジネスクラスに、清貧を生きる私が何故か今まで二回乗った事がある。それも自力ではなく、他力で。

 

 

1度目はANAの機内誌『翼の王国』からの執筆依頼を受けた時であった。世界の何処でも望む場所に行かせてくれるという。私はふとベトナムに行こうかと思ったが、やはり最も好きなパリにした。折しもパリのパサージュVERO-DODATで、私の版画集『夢の通路 ― VERO-DODATを通りぬける試み 』の全作品を展示している事もあり、私はそれに合わせてパリやナントを巡る事にしたのである。初めて乗ったビジネスクラスは、人が少なく何やら霊安室に似た感じがして馴染まないものがあった。そして、長椅子に座るようにして私は本を取り出した。

 

スタンダールの紀行文に読み耽っていると、何やら私の足元がコチョコチョとむず痒い。何だろうと思って見ると、やっと歩けるくらいの男の子が私の足を無心でさわっているのである。そして、その子供が私の顔を見て、あろう事か「パパ…」と言ったのであった。「パパじゃないでしょ!!」そう言って一人の若い母親が慌てて私の席にやって来た。「すみません、申し訳ありませんでした。」と言って私と目があった。見るとその女性は、当時パリ在住の女優で歌手のNであった。このNには以前にも会った事がある。(渋谷の東急ハンズ前の熊本ラーメン屋の中で。)その時はこの女性の横にスタイリストの堀切ミロがいたので、雑誌の撮影の途中でもあったのか。数人の女子高生が「サインを下さい!!」と頼むのを無視して、Nは無心でラーメンを食べていた。……… あれから時が経ち、Nとその子供が私を見ている。Nは相変わらず美しい。その時、私は確かこのように想ったのではなかったか。「いいんだよ、パパと呼んで、このままずうっと…… 」。かくして私たちを乗せた飛行機は一路パリへと飛んで行ったのであった。

 

2回目は、それよりも古く、一年間の留学を終えて帰国する時であった。前日にパリ在住の建築家のM君から連絡があり、お別れなのでエスカルゴの美味しい店に招待してくれるという。パリを去る当日の午前中に私とM君はその店で待ち合わせて、思い出話に熱中した。……… やがてM君がおもむろに時計を見てこう言った。「ヤバイですよ!!…… 出発に間に合わないかも……です!!」私はタクシーに飛び乗り、空港へと向かった。予約していたJALの所に行くと、人影がなくシンとしている。私は焦った。そして、フランス人の若い受付嬢が、航空券を渡しながら、早口で確かにこう言った。「Vous etes de la classe touriste!!」(でも、本当はあなたはエコノミークラスなのよ!!)

 

勿論、私はエコノミークラスで予約しているので、彼女の言う(あなたは本当はという)意味がわからない。わからないままに、私は空港内のあの長いドラムを走り抜け機内へと駆け込んだ。私が入ったのを確認してスチュワーデスは重いハッチを閉じた。???… やけに人気が無く、座席がゆったりとしている。その時私ははじめて気付いたのであるが、私の席はエコノミーからビジネスに変わっていたのであった。私は最初、あの受付嬢の個人的な好意かと思ったが、そうではない事に気がついた。前日に私はリコンファームという、予約確認の電話を忘れていた(今と違い当時は少し厳しかった)。そして、ギリギリまでエスカルゴを食べていたので、その間にエコノミーは次々と埋まっていったのであった。そして運良く、ビジネスの方に空席が一つだけ在ったので、私はそちらに回されたというのが真相らしい。

 

これからも写真の撮影などで飛行機に乗る事はあるだろうが、もうあの霊安室のような席に座ることはないであろう。ましてや今回の事故で死亡率の低い場所がある事を知ってからは、私は積極的に主翼と尾翼の間を選んで座りたいと思う。ともあれ、どうせ死ぬなら爆死が一番いいと生前に語っており、事実、高雄上空での飛行機の爆発事故で予言通りに亡くなった向田邦子女史のような死生観といったものは、未だ未だ今の私には出来ていないようである。

 

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『及川哲也さん』

小説家や元・獄中に在った人までも含めて、私の交際範囲は、わりと幅の広い方かと思う。その中でも最も多い分野の人は「編集人」が断トツに多い。「今」という時代を読み、その半歩先に神経を集中している彼ら「時代の仕掛人」と話をしている時は、本当に楽しい時間なのである。その中の一人に、及川哲也さんという人がいる。

 

及川さんは、マガジンハウス社の雑誌『ブルータス』発刊時から企画・編集でもその才能を発揮し、写真家としても、90年代に流行した「メメント・モリ」の主題を先取りした写真を撮って世に問うている。その及川さんとの出会いはいつであったか。たぶん西武百貨店で開催された『未来のアダム展』(企画・高橋睦郎)に私が招待作家として出品した時ではなかったか。ちなみにこの時の出品者は他に、井上有一(書)・坂茂(建築)・四谷シモン(人形)・田原桂一(写真)・金子国義(洋画)……と多彩であり、澁澤龍彦氏をはじめ多くの来訪者があり、連日会場は賑わっていた。頭の固い美術館の学芸員にはちょっと真似の出来ない企画であり、色気とエスプリ、そして切り口の鋭さがこの展覧会にはあった。

 

…… さて、その及川さんであるが、詩人の高橋睦郎氏から紹介されてすぐに意気投合し、たちまち私たちは親しくなったのであるが、この数年後に及川さんは「イタリア」にはまり、その居をフィレンツェ他に移したりして、なかなか帰国時にタイムリーには会えなくなり、私も制作が忙しくと、……  たちまち会わないままの20年以上の時が流れ去っていった。ところが昨年の春にイタリア・ジェノバのスタリエーノ墓地を撮影していた時に、無性に及川さんの事が思い出され、再会を果たしたくて仕方がない気分が立ち上がって来たのであった。しかし、その連絡先がわからない。ネットで名前を追って調べると〈及川哲也〉という名前があったので、電話をしてみると、同名ながら全くの別人であった。夏が過ぎ秋が去り、そして年が明けての一月の或る日、信じ難いメールが私の携帯電話に入った。…… それは早朝の5時半頃であった。

 

開いて見ると、何と発信者は及川哲也さんからであった。文面を読むと、昨年来、及川さんも又、どういう訳か私の事が急に思い出されて、アタマにこびりついていたとの由。宗教人類学者の植島啓司氏や、人形作家の四谷シモン氏に私の事を尋ねたりして、ようやく私のサイトに辿り着いたとの事。…… つまり私たちは昨年ほぼ同じ頃にお互いを何故か急に想い出し、気になっていた事になる。私はさっそく返信し、日本橋室町のマンダリンオリエンタル東京38階にあるラウンジで待ち合わせて再会し、そこのカフェで長い時間語り合った。「及川さん、これが男女だったらもう恋愛ですよ。いや、男同士でもありえるか」と言って、私は20年間の時の中での、及川さんのイタリアでのお仕事に聞き入ったのであった。

 

…… 四国の一匹のサルが突然、芋を洗い出すと、彼方の東北のサルの群れの中の一匹も、ほぼ同時期に芋を洗う事に目覚めるという例がある。身近な例では、10年以上前の或る日、突然私の脳裏に「distance(距離・隔たり・差異)」という言葉が急に引っ掛かって来た。私の版画集のタイトル『ローマにおける僅か七ミリの受難』や、写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』といった言葉の多くは、突然下りて来るように閃くのであるが、この場合も突然であった。やがてそれは『Distance ― 距離の詩学』という主題となり、一連の作品へと結びついていく事となった。しかしこの「distance」という言葉が引っ掛かって間もない頃の或る日、私はTVを見ていた。それは宇多田ヒカルのドキュメンタリー番組であったが、その中で彼女の口から「何か最近〈distance〉という言葉が急に気になって仕方がないんですよ。」と話した時は、この発言に興味を持ったものであった。同時期に空間を隔てた者が、同じ着想をしてしまう(サルまでも含めて)。集合体的無意識ともまた少し違う、何かがここには在る。私が脳科学者になってみたいと思うのは、およそこんな時なのである。

 

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『その時、私は24才であった』

横浜高島屋での個展が終わった。今まで発表しなかった作品や新しい試みも展示したので、昨年秋に東京で御覧になれなかった方も興味を持たれたようである。いろいろな出会いがあったが、中でも関西からはるばる来られ、今回の個展で、版画『Bruges – グラン・プラスの停止する記憶』を購入された女性の方は、特に印象的であった。私に「以前あなたの事はTVで見ていて知っていたわよ!」と突然言われ、別に犯罪者でもないのに一瞬ドキリとしたのであった。

 

私はタレントではないので、それほどTVには出ていない。以前にフジテレビでダ・ヴィンチについて語り、日本テレビでは拙著『モナリザ・ミステリー』が刊行された際に出ている。「水と終末論」についての番組にも出た。しかし話しぶりからすると、もっと昔の私をどうやらその方は知っているらしい。

 

…… それは38年前にNHKの教育テレビで日曜日の夜8時から放送された若い世代向けの1時間番組であった。(題名は忘れてしまった。)突然NHKのプロデューサーから連絡が入り、芥川賞を受賞したばかりの池田満寿夫氏に対し、各々のジャンルでこれから飛躍しそうな若い男女二人とを、30分づつ対談させるという内容であった。そしてプロデューサーが選んだ若者二人が、私と女優の桃井かおりさんであった。共に24才である。台本も何もない、いきなりのぶっつけ本番である。その本番前に私たち三人が控室で1時間ばかり談笑していると、三人の感性が合ったのか、面白い話がどんどん飛び出した。プロデューサーがあわてながら、「あんまり面白い話はここではなく、どうか本番でお願いします」と言われたので、私たちは少し静かになった。

 

最初は池田満寿夫X桃井かおりで本番撮りが始まった。バーのカウンターを模したようなセットで酒を飲みながら話が始まる。各々1時間くらい話をして、その中から30分づつを編集する。話のテーマは私たちに自由に任されていたので、桃井さんが出したテーマは〈男と女〉というくだけた内容であった。それに比べ、私が出したテーマは硬かった。〈文学と美術の間(はざま)で 〉という愚直なまでに真面目なものだったのである。当時42才だった池田氏は24才の尖った若僧である私の話に、しかし真剣に応えてくれたものであった。それ以前に画廊や焼き鳥屋などで既に何度も話は交わしていたが、本番時に私が出す質問はかなり鋭かったらしく、私たちはいつにない深い話 ― 言葉(語り得るもの)と語り得ぬ暗示を常とする美術について語り合い、その番組はかなり反響が大きかった。

 

あれから38年の月日が経った。既に池田満寿夫氏は逝かれ、ふと振り返ると、今の私は美術と文学の間(はざま)を一人切り開きながら、北川健次という独自のジャンルを作ろうともがいている。思えばあの時、池田氏に向けた問いは、池田氏を通して、おそらくは文学にも関わっていくであろう彼方の自分に対しての問いかけであり、予感であったのかもしれない。後日にニューヨークから送られて来た池田氏の手紙の末尾にもそれは記してあった。「…… あなたの美術と文学との関わり合いに僕は大きな関心があります。」と。

 

個展で初めてお会いした女性の方から言われた突然の言葉。それは、私を38年以上前に引き戻してくれる懐かしいものであった。…… 昨年夏に刊行した『美の侵犯 ― 蕪村 X 西洋美術』に続き、次作への執筆を促してくれる、それは嬉しい言葉であった。個展にはいつも面白い出会いが待っている。今年もまたいろいろな出会いがあるに違いない。

 

 

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