月別アーカイブ: 3月 2022

『人形狂い/ニジンスキ―と共に』

満開の桜がいよいよ散りはじめた今日は、3月31日。……イタリアでは3月の事を〈狂い月〉と云うらしいが、それも終わって、いよいよエリオットが云った〈4月は最も残酷な月〉への突入である。アトリエの私の作業机の上には、何枚ものニジンスキ―の様々な写真が無造作に置かれている。これから、ニジンスキ―を客体として捕らえた残酷な解体と構築、脱臼のオブジェが何点か作られていくのである。

 

「われわれはヨ―ロッパが生んだ二疋の物言う野獣を見た。一疋はニジンスキ―、野生自体による野生の表現。一疋はジャン・ジュネ、悪それ自体による悪の表現……」と書いたのは三島由紀夫であるが、確かにニジンスキ―を撮した写真からは、才気をも超えた御し難い獣性と、マヌカン(人形)が放つような無防備で官能めいた香気さえもが伝わってくる。私はその気配に導かれるようにして、この天才を題材にした何点かの作品を作って来た。……版画では『サン・ミケ―レの計測される翼』、『Nijinsky―あるいは水の鳥籠』、オブジェでは『ニジンスキ―の偽手』という作品である。

 

版画では、彼の才能を操り開花させ、ダンスそれ自体を高い芸術の域に一気に押し上げた天才プロデュ―サ―、ヴェネツィアのサン・ミケ―レ島の墓地に眠るディアギレフとの呪縛的な関係を絡めた作品であったが、オブジェの方はニジンスキ―を解体して、全く別な虚構へと進んだ作品である。しかし、全てはあくまでもオマ―ジュ(頌)と云った甘いものではなく、客体化という角度からの、ある種の殺意をも帯びて。

 

……以前に、来日したジム・ダインは、拙作『肖像考―Face of Rimbaud』を見ながら、パリの歴史図書館とシャルルヴィルのランボ―博物館でかつて一緒に展示されていた時の私の作品への感想を語り、彼の作ったランボ―をモチ―フとした連作版画(20世紀を代表する版画集の名作)の創作動機を、ランボ―への殺意であった事を話し、私の創作動機もそこにあった事を瞬時にして見破った。……難物を捕らえる為には、殺意をも帯びた強度な攻めの姿勢が必要なのである。

 

 

 

 

 

 

 

ロダン作 「ニジンスキー」

 

 

 

……かつてスティ―ブ・ジョブズから直々に評伝を依頼されて話題となった、ウォルタ―・アイザックソンが書いた『レオナルド・ダ・ヴィンチ』を読んだ。……ダ・ヴィンチに関しては拙作『モナリザ・ミステリ―』(新潮社刊)で書き尽くした感があったので、以後は遠ざかっていたが、久しぶりに読んだこの本はなかなか面白かった。その本の中でダ・ヴィンチが書いた手稿の一節に目が止まった。『……そこで、動きのなかの一つの瞬間を、幾何学的な単一の点と対比した。点には長さも幅もない。しかし点が動くと線ができる。「点には広がりはない。線は点の移動によって生じる」。そして得意のアナロジ―を使い、こう一般化する。「瞬間には時間的広がりはない。時間は瞬間の動きから生まれる」。………………』     読んでいて、先日拝見した勅使川原三郎氏のダンス理論、そのメソッドを垣間見るような感覚をふと覚えた。

 

 

 

3月25日。勅使川原三郎佐東利穂子のデュオによる公演『ペトル―シュカ』を観た。ストラヴィンスキ―作曲により、ニジンスキ―とカルサヴィナが踊った有名な作品を、全く新たな解釈で挑んだ、人形劇中の悲劇ファンタジ―である。ニジンスキ―、そして人形……。先述したように、私は今、ニジンスキ―をオブジェに客体化しようとしており、また人形は、今、構想している第二詩集『自動人形の夜に』の正にモチ―フなのである。天才ニジンスキ―に、天才勅使川原三郎氏が如何に迫り、また如何に独自に羽撃くのか!?また対峙する佐東利穂子さんが如何なる虚構空間を、そこに鋭く刻むのか!?……いつにも増して私は強い関心を持って、その日の公演の幕があがるのを待った。

 

ちなみに、この公演はヴェネツィア・ビエンナ―レ金獅子賞を受賞した氏が、7月の受賞式の記念公演で踊る演目でもあり、その意味でも興味は深い。……「人形とは果たして何か!?」「人形が死ぬとはどういう事なのか!?」「踊る道化」「内なる自身に棲まう、今一人の自分……合わせ鏡に視る狂いを帯びた闇の肖像」……そして命題としての……人形狂い。私は彼らが綴る、次第にポエジ―の高みへと達していくダンスを観ながら激しい失語症になってしまった。言葉を失ったのではなく、観ながら夥しい無数の言葉が溢れ出し、その噴出に制御が効かなくなってしまったのである。

 

…… 開演冒頭から巧みに仕掛けられた闇の深度、レトリックの妙に煽られて、ノスタルジアに充ちた様々な幼年期の記憶が蘇って来る。……不世出のダンサ―というよりは、闇を自在に操り、視覚による詩的表現へと誘っていく、危うい魔術師と私には映った。……そして、かつて『ペトル―シュカ』を踊ったニジンスキ―にも、どうしても想いが重なっていく。翔び上がったまま天井へ消えたという伝説を生んだニジンスキ―もまた魔術師であった。……開演して一時間の時が瞬く間に経った。……そして私がそこに視たのは、生という幻の、束の間の夢なのである。人形狂い……ニジンスキ―。1911年の『ペトル―シュカ』と2022年の『ペトル―シュカ』。時代は往還し、普遍という芸術の一本の線に繋がって、今し結晶と化していった。

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『対岸の火事に非ず』

 

今回のブログは『毒婦・高槁お伝、遂に登場!』と題して、明治の殺人犯、高槁お伝谷崎潤一郎の奇妙な関係、また後年にそこに絡んだ私の奇妙な体験談について書こうと思っていたが、昨日の久しぶりに大きな地震で大地が激しく揺れたので気が変わり、現実の側に傾いた話を書く事にした。

 

……昨夜、日も変わろうとしている夜半、テレビを観ていたら急に、仙台と福島に地震警報が出た。そこには友人が何人かいるので「地震が来てもたいした事が無ければ善いが……」と、思っていたら、なんの事はない、直後、東北からの地震の連動で、この横浜もガタガタと揺れ始め、静岡辺りまでがかなり揺れた。オミクロン、ロシア軍のウクライナへの非道な侵攻、……そして昨夜の地震といい、ここに至って、現実が正に「負」一色に塗り変えられた観がある。

 

 

時代錯誤の帝国主義の復活妄想にその髄まで染まったプ―チンの采配の下、ロシア軍による軍事侵攻が続く昨夜、ウクライナのゼレンスキ―大統領が米連邦議会で行った支援要請演説の中で「真珠湾を思い出してほしい。1941年12月7日、米国の空はあなた方を攻撃した戦闘機で黒くなった」と話した時に、急にひんやりとするものがあった。現代と過去を思い重ねたのである。

 

……第二次世界大戦中のソ連軍は、1939年に宣戦布告無しに突然フィンランドを急襲し、また1945年8月9日に不可侵条約を突如破って実に157万人のソ連軍が満州に侵攻し、彼の地は生地獄と化した。それと同じく日本軍は米国に宣戦布告無しに突然、真珠湾を奇襲し、その成果で日本国内は沸いた。日清、日露からの軌道を外した狂気が更なる悪夢を紡ぐように人々は沸いたのである。……私は醒めた気持ちでそれを思い出していた。

 

 

そのソ連軍であるが、太平洋戦争終戦後3日目の8月18日に、北から千島列島東端の占守島に突如攻め入り、日本軍の戦車隊と激しく交戦した。この時の日本軍は作戦立てが巧みで、急襲されながらも、日本側の死者は600~1000名に対し、ソ連側の死者は1500~4000名であったという。日本は既に敗戦国であった為に、この局地戦は結局意味の無いものとなったが、姑息にもスタ―リンは、戦後に北海道占領を米国に要求、しかし当時のトル―マン大統領がこの要求を拒否した事で、ソ連の北海道占領は無くなった。もしそれを受け入れていたら……と想うと寒気が走る。しかし、その後で、なおもソ連は米国に対し、日本の分割統治を強く求めたがマッカ―サ―が拒否。この時点でもし別な道を行っていたら、日本は今の韓国と北朝鮮のように分断という悲劇の可能性も多分にあったのである。………日本列島を分断するフォッサマグナよろしく、北はソ連が、南は米国に占領されたとすれば、北の方では例えば、アルハンゲリ弘之スキ―とかアデリ―ナ政子……といった名前が……或いは。

 

しかし、敗戦直後の史実の中には、もう1つ「まさか!」という日本受難とも云える構想があった事を知る人は案外少ないのではないか。……まるで井上ひさしの書いたような非現実的とも映るその話とは、日本占領下のリスク分担という発想から出た構想であるが、つまり、以下のように戦勝した各国が、日本を各々に分けるのは如何か?という話である。

 

すなわち、ソ連が北海道と東北を。米国が本州中央を。そして中国が四国、そしてイギリスが西日本を分割するという話が実際に立ち上がっていたのである。……こう想うと、「日本」とは詰めて語ればもはや観念の中。……しかし、「私の国は私が守る」と言って危険な前線に行くウクライナの若者の映像を視ると、それを日本に置き換えた場合、もしロシアが、或いは中国が宣戦布告無しに突然攻め入って来た場合、もはや国としての体を成していないと諸外国から揶揄されているこの国において、「私の国は私が守る」という、国と自身のアイデンティティーが結び付いていないこの国は、果たしてそこに呈する姿や如何に…………である。……公海とは云え、津軽海峡を連日、日本を冷笑或いは煽るようにして、ロシアの軍艦が我が物顔で通過して行く。……ウクライナの事は対岸の火事に非ず、しかしそれをこの国に移し変えて見た場合、そこに見えて来るのは寒々とした、日本の素顔の実体なのである。

 

『国の根幹は教育である』と言ったのは、凶徒に刺殺された初代文部大臣の森有礼である。その根幹たる、この国の教育現場は理念を欠いて荒廃の一途である事は周知の通り。……かつて終戦直後の日本が、まるで死肉に集るハイエナの如く、四つの戦勝国によって分断される危機があったという重大な事実を多くの人が知らないのは、ひとえに教育の現場でそれを語って来なかったからである。

 

……なぜ教育の確たる現場で語って来なかったのか!?……理由は明白で、米国への小心な媚びへつらいと保身が生んだ忖度に他ならない。ギブミ―チョコと俄に輸入された、その出自の背景を理論的に教える事を欠いた(民主主義教育)によって、この国は根拠のない性善説と他国の力に依存する弱徒と化し、早75年が経過して、この国の不気味さは今や絶頂に達した観がある。……そして今や、この国の若者の多くは「誰でもいいから、相手が何者なのか知らなくてもいいから、ただただ繋がっていたい」という不気味な感性を持ち、持論を持って語る事を怖れる、ある意味、神経症と言っていいアバターと化した。……かつて日本であった土地の上に、ただただ生きて流離っている、凡そ1億2千万の人間が烏合の如くいる。……それが今の「にっぽん」の姿であると云えば、言い過ぎであろうか。

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , | コメントは受け付けていません。

『一期一会』

……1970年代、美大の学生の頃は川崎の溝の口に在った学生寮に住んでいたが、卒業した後は横浜の各所を転々とした。本牧、山手町、中華街と海岸通りに挟まれた山下町……10回ばかり転居したが、ずっと変わらず横浜に住んでいる。一方がざっくりと海であるという開放感と、無国籍風な如何わしさ、犯罪の臭いが漂う不穏な怪しさが性に合っているのであろう。昨今は横浜も小綺麗な街へと変貌してしまったが、私が転々としていた頃の横浜は、ノスタルジアの気配が色濃く充ちていて面白かった。その記憶の一隅に今は無い古色然とした桜木町駅が在り、そのすぐそばに横浜市民ギャラリ―が在った。……『今日の作家展』をはじめとして度々優れた企画展を発信し、東京や遠方からもたくさんの人が訪れていて活気に充ちていたのを今も懐かしく思い出す。しかし、いつしかその市民ギャラリ―も無くなり、記憶の中に幻のように今も在る。

 

 

桜木町駅

 

 

昔の横浜市民ギャラリー

 

 

1964年に開設された横浜市民ギャラリ―は、その後2度の移転を経て、2014年から新しく運営が始まった。場所も桜木町駅側から近くの丘の上へと移り、明治の頃は横浜港が眼下に映えて風光明媚を極めた伊勢山皇大神宮の側に今は在る。……その横浜市民ギャラリ―で、今月13日迄、『モノクロ―ム/版画と写真を中心に』と題した、ギャラリ―コレクション展が開催されている。……私の版画もコレクションされていて、80年代に作った版画『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』と『死と騎士と悪魔』の二点が展示されている。他の出品作家は、一原有徳斎藤義重高松次郎宮脇愛子長谷川潔、……写真では浜口タカシ土田ヒロミ……など26人の作品が展示されている。私は個人的には、斎藤義重さん、一原有徳さん、高松次郎さんとは一期一会のご縁があったが、今日は一原さんと、写真の土田ヒロミさんについて書こうと思う。

 

 

 

『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』

 

 

 

先ずは版画家として既に活動を始めていた26才の頃であったか、札幌でNDA画廊というのを開設している長谷川洋行という人から「個展をぜひ開催したいので、とにかく会いたい」という電話が入り、横浜、桜木町駅近くの喫茶店でお会いした。非常に熱く語られる方でその熱意に共鳴して、半年後の冬に開催が決まり、私は初めて札幌の画廊を訪れた。

 

時計台近くに在るその画廊は、大正時代に建てられた「道特会館」という石造のビルの中に在った。……薄雪が舞う中、画廊に入るとたくさんの来客で会場は埋まり、みな熱心に作品を観ているところであった。その人達は以前から私の版画のファンの方で、私を囲んで語らいが始まった。……すると突然ドアが開き、吹雪く外の雪と共に、ご年輩の男性の方が入って来た。その方は皆から尊敬を集めているらしく、その熱気が私にも伝わって来た。その人を長谷川さんから紹介され、「一原有徳」というお名前の人である事を知った。もちろん初対面ながら、その人は私が作者である事を知ると近寄って来られて開口一番、何とも言えない笑顔で「北川さん、私はあなたの作品が大好きなのです」と言われた。個展の初日に私に会う為に、はるばる小樽から札幌まで列車で駆けつけて来られたのだと言う。話を伺うと、郵便局に勤めながら、ひたすら制作に没頭する人で、版画の市場性から離れて独自な人生を悠々と歩まれている方と見た。この自在な生き方は、後年にご縁が出来た浜田知明さんとその高潔さにおいて重なるものがある。……長谷川さん、一原さん共に逝かれたが、その一原さんの大作を今回ギャラリ―で拝見しながら、こうやって共に作品が並んで展示されているのも、なんだか不思議な廻り合わせを視るようで、考えるところがあった。まさに一期一会であったが、一原さんと過ごした僅かな時間ながら、無性に懐かしく、その時の時間を幻のように思い出す事がある。……一原さんの信念をそのまま映したような、美しい黒が刻印された強度なモノタイプの作品群は、これからますます評価が高くなっていくと、ある種の断言を持って、私は強く思った。

 

写真家の土田ヒロミさんとは、ちょっと奇妙なご縁がある。(共に福井の出身)……土田さんとお会いしたのは、2011年の秋、福井県立美術館で開催中の私の個展の時であった。当時館長をされていた芹川貞夫さんに紹介されたと記憶する。……私は迂闊にも土田ヒロミさんは女性の写真家だとずっと思っていたので、全くイメ―ジと異なる年輩の男性であった事に先ず驚いた。話をしているとちょっと面白い符合が見えて来た。

 

……私は小学6年生の頃まで、福井大学工学部の塀の横に広がる森の気配に引かれ、足繁くそこに通う日々であった。森の横には小川も流れ、そこで感性を養ったと言ってもいいくらい、隠れ家のようにして遊んでいた。……今の作品に繋がるイメ―ジ舞台の原型がそこに在る。……マックス・エルンストも幼児期に近所に広がる黒い森が画家としての魂が羽化する場所であったと告白しているが、その感覚はよくわかる。……森の中には一軒の洋館があった。噂では大学教授の持ち物という事だが、それを鵜呑みにする私ではなく、何か不穏な気配をいつもそこに感じとっていた。………………土田さんと話をしたら、その森の事はよく覚えていて、あすこの森は何か異質な雰囲気があったと言う。私は嬉しくなった。更に話をして、面白い事がわかって来た。私が件のその森に入り、高い木の上に登ると、そこから大学工学部の実験棟の広がりが遥かに見えた。子供というのは何でも怪しいものと視てしまうので、その実験棟も暗く見え、大学とは仮の姿、夜な夜な何かの機械が不気味に唸る音を立てており、白衣姿の怪しい大人達の暗い影が動いているに違いない……と空想する日々であった。……しかし、私がその不穏な気配を感じとっていた7才の頃、土田さんは何と、福井大学工学部の学生として、その実験棟の中で研究する日々を過ごしていた事が話していてわかった。あの時、土田さんは塀を隔てたすぐ間近にいたのか!!……同じ森の記憶を持っている人に出逢ったのは初めてだけに、土田さんを前にして、何か遠い記憶が活性化して少し揺れた。……その土田さんの写真のタイトルは『砂を数える』という連作が出品されている。

 

 

……横浜市民ギャラリ―を出て、すぐ近くに在る『伊勢山皇大神宮』の石段を昇り、大きな鳥井の在る前に出た。かつて明治の頃は、この高台からは横浜港の絶景が見えたが、今は高層ビルの群立で海は全く見えないのはいかにも残念である。……一期一会は人との出逢いだけに在らず、風景も、そして時間もまたそうなのだと思った。

 

 

 

伊勢山皇大神宮

 

 

100年前の伊勢山皇大神宮

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , | コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
Web 展覧会
作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律