ミラノ・ストレーザ・パドヴァ・ヴェローナ・ヴィチェンツァ・フィレンツェ・ローマを駆け足で巡る12日間の旅が終わり、25日に帰国した。不測の事態やアクシデントにも出会ったが、今後へとつながる良きイメージの充電の旅であったかと思う。
成田からアリタリア航空の直行便でミラノ・マルペンサ空港に着き、バスでミラノ中央駅へと向かった。駅が近くなった辺りで、線路沿いに鉄道官舎が見えて来た。瞬間、私は須賀敦子さんのデビュー作『ミラノ 霧の風景』の中の一節を思いだした。「・・・夫の父が鉄道員だったので、彼の実家はローマ・ミラノ本線がミラノ中央駅にさしかかる最後の登り坂の線路沿いの鉄道官舎にあった。・・・」という一節である。正直な話、私はミラノがあまり好きではない。空襲によって趣のある建物は破壊された為に歴史の澱(おり)を伝える風景に乏しく、情緒に欠ける都市だからである。しかし須賀さんはそのミラノを、美しい日本語で詩情豊かに織りあげている。須賀さんが日本を出てイタリアに着いたのは1953年の夏。当時、全く日本人のいない異国に在って須賀さんの拠って立つものは、美しい日本語が孕む抒情の豊かさではなかったかと私は思っている。それが熟成した果てに須賀さんは奇跡的なまでにと言っていい、美文の著書を次々と刊行して逝った。眼前に広がる対象とは、現象学的に見れば等しく同一なものであるが、実は一様ではなく相対的なものではないだろうか。まことに対象とは、見る者の内面が投射したものであり、内面に深い詩情があれば、対象もまた豊かな詩情を孕む。このように書く私には、更に課題が与えられたといっていいであろう。
ミラノから列車で1時間半。スイスとの国境にあるストレーザに行く。以前のメッセージで記したとおり、ここに在るマジョーレ湖に浮かぶ島、イゾラ・ベッラ島を訪れるためである。駅から湖へと行く途中に壮麗な館かと見まがうホテルが見えてきた。かつてヘミングウェイが『武器よさらば』を執筆した建物である。22年ぶりの再訪であるが、この日は波が荒く、霧が少し出ていた。船に乗って島へと向かう。今も子孫がミラノに住む、貴族ボロメオ一族の宮殿とバロック庭園がこの島には残っている。宮殿の中の一室、部屋の八方の窓からはただ湖の広がりだけが見える寝室に在る天蓋付きの巨大なベッドは、かつて一夜だけナポレオンが使用したと伝わる物であるが、まことにこの建物は、地下は涼を取る為に無数の貝を全面に敷き詰めた奇想のグロッタの部屋まであって、豪奢の一語に尽きるものがある。
分裂症的と云おうか、自動記述的と云おうか、私の連想はこの館の中に在って、ノイスバンシュタイン城の城主〈ルードヴィッヒ〉へと飛び、ヴィスコンティ監督(この人物のルーツも凄い!!)の映画『ルードヴィッヒ』に出演した女優ロミー・シュナイダーの顔が立ち上がって来た。「〈美〉は、〈醜〉が大急ぎで回転した時に、ふと瞬間的に見せる一様態である。」という言葉が在るのを、ご存知だろうか。本来、美と醜は二元論的に対立するものであるが、このレトリックに富んだ言葉は、醜の中に美を孕ませるという一元論で〈美〉を語っていて私には興味深い。それとロミー・シュナイダーがどう結びつくかというと、この女優の顔は見方によって美しく、かつ見方によってはアンバランスに私には映って、いささか気になる人物なのである。
昔、学生の頃に東宝の撮影所で〈セット付き〉というバイトをしていた折、悪さをして勝新太郎からもの凄い迫力で怒鳴られ、説教されたという話は、古いメッセージで書いた。その翌日に私に任された仕事はハウス食品のCM撮りであったが、私のセット付きとなる人は吉永小百合であった。しかし実際に見て、あまりに均整の取れたその顔に私はまったく興味を覚える事が出来なかった。一言でいえば、アンバランスさの無いその顔が、全く面白くなかったのである。
それに比べて、ロミー・シュナイダーは〈美は乱調に在り〉の言葉のとおり、構築と破壊のベクトルがあってなかなかに面白い。画家のダリは、ケネディ大統領夫人のジャクリーヌについて、〈ジャクリーヌは目と目が少し離れ過ぎている。しかし、あれが良い!!〉と語っているが、まぁ、それにちょっと近い話である。毒とポエジーを孕んでこそ、美は完全なものとなる。不均衡ゆえの均衡は、それを見る人の視覚を揺さぶる。私はその事を旅の最終の地、ローマにおけるバロックの洪水で体感する事になるであろう。
・・・・・湖に浮かぶこの島の庭園には一角獣の彫像をはじめとして奇想の彫刻が様々に点在し、その広い庭には白い孔雀が何羽も放たれていて趣が尽きない。彼方に見えるアルプスの連山の頂には残雪が白く映えていて、マグリットの絵画『アルンハイムの地所』をふと想い出す。波は穏やかになって来たが、既に夕暮れが近くミラノへと戻る時間である。「私たちは、なお去り難い気持ちで、ひたひたと波の打ち寄せるマジョーレ湖畔の岸壁を眺めていた。遠くでは、イゾラ姉妹が夜会服に着替えたようだった、宝石をいっぱい飾って・・・・・」澁澤龍彦の紀行文『マジョーレ湖の姉妹』の最終の一節であるが、私もまた同じような気分で、この地を後にしたのであった。