月別アーカイブ: 3月 2016

『4月…日々の制作の中で』

秋の高島屋・美術画廊Xでの個展の会期が、今年は9月28日から三週間に決まった。未だ半年先であるが、既に熱心なコレクターの方々から、早くも会期の問い合わせが相次いで画廊に入っている由。… 個展では常に新しい試みをしているが、今回の個展では、二つの異なった主題を個展の中で絡め合わせると、そこに果たして何が立ち上がるか!?という、誰も今まで着想しえなかった試みを構想中である。個展会場とは、解体する期限付きのイメージの劇場であると私は思っている。この構想、普通の画廊の4倍以上の空間を持つ美術画廊Xならではの試みになるかと思われる。… 乞うご期待である。

 

 

さて、今年の5月に予定されていた銀座の画廊香月での個展が少し早まって、3月29日(火曜)から4月16日(土曜)の会期で開催される事になった。私が最も信頼する美術家の大先輩である池田龍雄さんから、画廊香月での個展をぜひ…というオファーを頂いてから、早いもので今回で三回目の個展である。…映画などで、イギリスの旧館の壁面に絵画や写真が隙間なく飾られているビクトリアン風な場面を見かける事があるが、画廊香月での展示はそれに近い。…そこに私の作品各々が持つ虚構のアラベスクが紡ぎ出している特異な世界が濃密に絡み合って、全体に名状し難い何とも不思議な空間が立ち上がる。… これが画廊香月での個展の最も大きな醍醐味であろうか。…とまれ、このブログがアップされる時には、私はパリで撮影に没頭している頃である。今回はその為に、このサイトの共同制作をして頂いている音楽家の鈴木泰郎さんにアップを依頼した次第。ベルギーのテロの次なる目標はまたしてもパリであった由。…不穏な風がそこには吹いているらしい。私の運が良ければ、画廊香月での個展は遺作展になる事はないであろう。…不穏なる風立ちぬ、されど、いざ生きめやも…である。

 

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『後を絶たない天一坊』

〈天一坊〉という人物の事をご存知だろうか? …我こそは8代将軍吉宗の実子−ご落胤であると吹き回り、町奉行の大岡忠相に見破られて処刑された「大岡政談」に登場する男であるが、実在した人物から取材しているという。出自、経歴などを詐称してメッキで装う人生であるが、どうしてもメッキはいつか剥げるものである。…しかし、この類の人間は昔から後を絶たず、騙される者もまた後を絶たない。
 

 
先日、ヒットを連発中の文春の記事で、テレビのコメンテーターで経営コンサルタント、ハーバード大学卒を売りにしていたショ-ン・マクア-ドル川上(本名 川上伸一郎)という人物が、経歴詐称、しかも整形疑惑のおまけ付きで、嘘で固めたそのメッキを剥がされた。甘いマスク、酔わすような低音、淀みのない語り口…。何回かテレビで見た事があるが、私とは対極にいるタイプの人種だと思っていた。私の場合は、この顔で初対面の相手は先ずは身構えるらしく、宙に浮いたような妙な声(しかも早口)、学歴と言えばアメリカではなく、世田谷上野毛のしがない多摩美術大学卒である。私も健次だから、いっそケーン・エクアドル北川とでも名乗ろうか!?…それはともかく、4月からはテレビのメーンキャスターに決まって、さぁこれからといった矢先だけに、「好事、魔多し」という古人の言葉が語った含蓄の知恵には、今さらながら教えられるものがある。

 

…そういえば美術の世界でも似た事があった。 東京芸大卒を東京大学卒と略歴に記していた、その一行の為に信用の箍が外れて、公立の美術館での個展が中止になった美術家がいた事を、このブログを書きながら私は今思い出した。…まだある。ご存命なので実名を略してM氏とするが、そのM氏は日本の版画史に駒井哲郎氏などと同時期に並ぶ重要な作家である。M氏は権威を嫌う孤高の人であるが、何故か私の作品を気に入っておられ、M氏を通じて美術館に私の作品が収蔵された事もあり、いわゆる私における恩人の一人である。…10年ばかり前になるが私が個展をしている時にM氏は画廊に京都芸大の教授の人と一緒に来られて久しぶりの雑談となった。するとM氏の口調が突然低い声になり、私に「北川さんはAという版画家とは親しいのですか?」と問われたので、私は「名前と顔は知っていますが、全く私の関心外の男です。…それが何か?」と答えた。するとM氏は「私もその版画家とは面識も無いのですが、私の個展にカメラを持った人と一緒に突然やって来て、私と並んだ写真を撮り、それが私に無断でそのAの画集に載っており、実は多いに迷惑をしているのです」と話された。察するにAはM氏との間に嘘の関係付けをして、メッキの箔付けを目論んだ思惑がありありと透かし見えて来る。それにしても手がこんでいる。…これは明らかにM氏の肖像権への侵害であり、本来は版元の出版社が掲載前にその許可を打診する義務があるが、後日に私がその編集長に問うと、確認は一切していなかったという、迂闊で呆れた返答が返って来た。まぁ、この国の美術の分野もまた、ことほどさようにメッキによる粉飾が蔓延っているのが実状である。

 

しかし、矛盾するようであるが、そのキャスターや、版画家Aのように経歴詐称や粉飾をする人間の動機を想う時、彼らの心底に流れる根深いコンプレックスや歪んだ上昇志向には、落語に登場する愚者の哀しみに通じるものがあり、呆れを通り越した、もう笑うしかない、何か我々の存在原理の底で蠢いている共通分母の重石を担っているような哀愁さえも私は何故か覚えてしまうのである。この世の物語としての人間劇場には、この種の存在は一種の必要悪にも映って、私はひたすら笑ってしまうのである。 談志は、「落語に登場する人物は、例えば、討ち入を果たした華やかな赤穂浪士ではなくて、討ち入に参加しなかった、その連中の言い訳、詭弁、弱さ、情けなさこそが主題になるのだ」と言っていたらしいが、落語の核を見たような想いがしたものである。…我々も、またピカピカの底浅のメッキに全身を装った彼らもまた等しく、この束の間の生をあたふたと生きて、やがて静かに死んでいくのである。私は彼らの足元のシルエットに、その存在の哀しみを、より見てしまうのである。

 

…さて、今月の26日から短期間であるが、彫像や他の幾つかの主題を併せてパリに撮影に行く事になっている。2年前のイタリアの後の久しぶりの撮影である。現在はアトリエに籠ってオブジェを制作しているが、まもなく頭の切り換えが要求されてくる。視覚を単眼と複眼の二つに、感覚を眼前の光の変幻を刈り込む、もう一人の自分への変身が、この先に待ち受けているのである。

 

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『富山・ぎゃらり−図南で個展開催中』

北陸新幹線に乗って富山へと向かった。今月の5日から20日迄、ぎゃらり−図南で開催中の個展の初日に合わせて訪れたのである。オ−ナ−の川端秀明さんから10年前に個展のオファーを頂いてから早いもので今回が7回目になる。最初にお会いしたときから川端さんとは旧知の盟友のように話しや美に対する価値観が合い、また画廊に来られるコレクターの人達も眼識のある人が多いので、毎回の個展では私も自ずと力が入ってくる。特に今回は、オブジェ、コラージュ、版画、写真など計50点以上という、およそ二回分の個展にも相当する大規模な出品数であったが、川端さんの展示のセンスは実に見応えがあるものであった。…各々の作品が最も映える位置と高さをピタリと決め、そこに照明が緻密に配慮して当てられており、画廊に入った瞬間に、その強いこだわりが伝わって来て、私は思わず唸ってしまったのであった。…しかも最も大事な〈品格と華やぎ〉というものが、各々の作品から静かに立ち上がっている事に、私は作者としての、手応えと感動を強く覚えたのであった。川端さんは、今回の展示に二日間という長い時間を要したという。…そこから私の作品への川端さんの思い入れの深さが伝わって来て、私は本当に感動してしまったのである。

 

川端さんご夫妻と再会の挨拶をゆっくり交わしている間もなく、早くもコレクターの人達が訪れて来て、画廊は人でいっぱいになってしまった。そしてすぐに作品を選ぶ真剣な視線へと変わり、購入を決められた作品に次々と売約済みの赤いピンが刺されていく。…中にはオブジェの大作を、お一人で二点購入される方もおられて、私は来廊してすぐに今回の個展の手応えを実感したのであった。…何より嬉しいのは、まさに数日前に完成したばかりの新作の主な作品がコレクターの人達に評価され、コレクションされた事であった。…池田満寿夫氏は、「作品の最大の批評とは、唯の誉め言葉ではなくて、実際にコレクションするという行為である」という名言を語ったが、それは正しい見方であると、私は作り手としての実感を持ってつくづく思うのである。……そして、この初日だけで、早くも七点の作品の購入が決まっていったのであった。(まだまだ2週間の会期を残して。)私は今まで数千点という作品を作り出して来たが、そのほとんどが全国のコレクターの人達に大切にコレクションされており、アトリエには旧作というものが全く残っていない。それを想うと、私は本当に幸せな作家なのだと、川端さんご夫妻やコレクターの人達と別れた後の深夜のホテルの部屋で、一人思ったのであった。

 

版画と違い、オブジェやコラージュは1点だけのオリジナル作品である。本当は全国にいる私のコレクターの人達にも今の私の新作を観て頂きたいのであるが、それは無理な話しで、購入された作品は画廊からコレクターの方へと渡っていく。そして、私の作品を所有された方は特権のように、その作品との親密でミステリアスな対話をこれから長い時間をかけて交わしていくのである。そして私はまた未知なるイメージの領土を求めて、新たなる方法論を持って、狩人のように分け入って行くのである。

 

……翌日の午前中には、既に私の版画をコレクションされている方が、金沢から来られて、実験作というべき新作の写真作品に興味を持たれ購入を決められた。既にお持ちの杉本博司氏の『海景』と並べて楽しみたいとの由である。…かくして、あっという間の2日間という富山での滞在であったが、良い思い出となる旅であった。画廊を出て遥か彼方を見やると、立山連峰の高みに見える白雪が、春の到来を告げるようにあくまでも美しい。…私は立ち去り難い想いのままに川端さんご夫妻と別れ、富山を発ち、次なる制作が待っているアトリエへと戻っていったのであった。

 

 

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『作者は二人いる!?』

先日、江戸東京博物館で開催中のレオナルド・ダ・ヴィンチ展を観に行った。「モナ・リザへつながる《糸巻きの聖母》日本初公開!!…絵画、手稿、素描、ダ・ヴィンチの真筆が勢ぞろい!!」が謳い文句として、チラシに大きく書かれていて、それを期待した人々で会場はかなりの入りであった。…その日の数日前に、私は近所の駅内に貼られている、この展覧会の大きなポスターの前に立っていた。そしてかなり拡大された、本展の目玉である《糸巻きの聖母》を眺めながら、幾つかの不自然な点がある事に気がついていた。

 

…真筆の定義とは何であるか!? 辞書を引くまでもなく、その定義は「その人自身が書いた本当の筆跡」である。ちなみに反語は偽筆。つまり言外に100%その人だけの手に拠る事を意味し、その素晴らしさを高く評した…というニュアンスが次に続く。これに対し、複数の人による共作はまた別な意味となり、ここの線引きは明確に分ける必要がある事は言うまでもない。故にかつてダ・ヴインチの師—ヴエロッキオの『キリストの洗礼』の部分を弟子のダ・ヴィンチが描いているが、これは誤解を含む言い方となる真筆とは云わず、あくまでも共作と言う方が正しい。しかし、この『糸巻きの聖母』は、ダ・ヴィンチの描画法の特徴であるスフマ-ト(薄く絵の具を重ねて描くぼかし技法)で部分的に描かれている箇所もあるが、ダ・ヴィンチならば絶対に描かない、稚拙な黒い輪郭線で描かれた箇所(幼子イエスの左腕の部分)もまた、この絵には見て取れるのである。…「君の人物画の輪郭はその人物を囲む背景そのものと異なる色で描いてはならぬ。すなわち君は背景と君の人物との間に黒いプロフィルを描いてはならない。」…ダヴィンチの手記の言葉であるが、彼の科学者としての明晰で合理的な見地から、この世に輪郭線なる物は存在しないとして、事物の境を明瞭化する為に彼が独自に考案した技法がスフマ-ト技法なのである。つまり、この絵には矛盾がありありと同居しており、そこから考えられる結論として、少なくとも二人の作者が存在した事が見えてくるのである。更に言えば、そのスフマ-トの箇所も、正に真筆と断言出来る『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』の卓越したそれと比較すると、その霊妙とも言える神秘性、深遠性から見れば筆に躊躇いがあり、確とした強いものが伝わって来ない。そもそも、この『糸巻きの聖母』自体の表現は、押せばたちまち崩れる平行四辺形のようにあまりに弱々しく、実は私達の知るダヴィンチからは、かなり遠い。本展のチラシには「15点にも満たないダヴィンチ絵画のうちの1点!」…とあるが、ダ・ヴィンチの真筆と確認されているのは僅かに7点くらいしか無い事もまた周知の事実である。

 

私は薄暗い会場の中で『糸巻きの聖母』を見ながら、今一人の作者、…つまり輪郭線を描いた作者の名前を推理した。そして導き出した結論は、妖しい寵童の弟子サライではなく、その忠実なる愛弟子であったメルツィであり、師のダ・ヴィンチが愛弟子にスフマ-トを教える為に自らもスフマ-トで描いて示し、そして弟子のメルツィもまたそれになぞって描いた、いわゆる「手ほどきの絵画」がこの作品であるという結論である。「手ほどきの絵画」—私はそう断言したが、それには明らかな根拠がある。…それは、同じ会場内の別のコ-ナ-で、ひっそりと息づくように展示されている数点の素描の中の1点《手の研究・弟子との共作》と題された素描の内に見て取れるのである。

『糸巻きの聖母』と共に、この素描《手の研究・弟子との共作》も併せて画像を載せたのでご覧頂きたいのであるが、『糸巻きの聖母』の聖母の手と、この素描の手の表情は正に鏡のように対の同じものとして見えないだろうか!?。鏡をダ・ヴィンチは多用して人体の描写を行っている事は彼の手記にも明記してあり、この対は、正にこの手の表情に絵の主題性を込めたものである事が伺える。… この手の表情は、また『岩窟の聖母』にも登場しており、岩の描写との共通した関係性から見て、この絵は『岩窟の聖母』とほぼ同時期の作と見て良いかと思われる。…しかし、臍から突き出たようなこの『糸巻きの聖母』の手の描写は、人体解剖から筋肉の動きを知り尽くしたダ・ヴィンチの実力からは遠く、ありていに言えば、素描《手の研究・弟子との共作》(むろん、下がダ・ヴィンチ、上の稚拙なのが愛弟子メルツィ)の、上の方の描写と酷似して見えるところから『糸巻きの聖母』とこの素描は、続けて描かれた可能性が高い。つまり、この点から見て『糸巻きの聖母』は、真筆ではなく共作と解釈する方が、この絵の意味性がより見えてくるのである。

 

しかし、それにしてもこの展覧会には強い失望と疑念の感を私は抱いてしまった。完全なダ・ヴィンチの作と言える物は、上記した素描(弟子の手も入った作品も含めるとして)数点と直筆の手稿の僅かな展示だけで、後は他人によるリトグラフやエッチングのコピー、またファクシミリによる手記の展示物は、私が持っているファクシミリの手記と全く同じ物であり、物置から出して来たような『聖アンナと聖母子』の煤けたような汚い模写の展示に至っては、「当時の状態を示す物として極めて貴重である云々…」という巧みに主語を抜かした説明(?)があったりと、かなり張りぼての展覧会に見えて来た。 では観客の反応はどうであったかと思い出口に立っていると、「コピーばっかりじゃないか!」と怒る人もおれば、母親が小さい息子に一生懸命に話している姿もあったりと様々であるが、何か最も大切な何かが崩されていくような危惧を私は覚えたのであった。芸術の尊厳が商業主義によって侵蝕されているような不快感が、観た後の率直な感想であった。マルセル・デュシャンは早々とその傾向に警鐘を鳴らしているが、近年の展覧会には多々、内容に疑問ありの展示が目立つように思われる。西洋に比べてこの国の人々は、美術についてあまり詳しくない事は事実である。そこにつけ入ったような展覧会は如何なものであるかと疑問が膨らんでくる展覧会であった。

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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