先日、私は銀座の或る画廊で、知人から50歳前後のたいそう美しい女性を紹介された。その場でその人としばらくは絵の話をしていたのであるが、何故か急に川端康成の事が私の頭に浮かんだので、川端文学に話題を切り変えた。
するとその女性は突然、「実は私、一度だけ川端康成を見た事があるのです」と語り始めた。その女性が少女だった頃の或る日の午後、鎌倉八幡宮の交差点角で家族と車に乗っていたが、渋滞のために車が動けなくなっていた。すると車窓の前に川端康成が黒い影のように急に現れ、未だ少女であった頃のその女性の顔を突き刺すようにして、あの独特の鋭い眼、獲物を狙う大きな鳥のような眼でじいっと食い入るように視線を走らせてきたのだという。「あの時の川端の眼の怖さは今も忘れる事が出来ない」のだと、その女性は語った。しかし何より驚いたのは、その翌日のテレビや新聞で知った〈川端康成 ― ガス管をくわえたまま自殺!!〉の報道であったという。川端康成は、その前日の午後3時に自室のある逗子マリーナに到着し、17時半に布団をすっぽりとかぶってガス管をくわえ、18時に絶命した、と当時の新聞は報じている。1972年4月16日の事である。
…… この記事から察すると、川端はその少女を見た直後に死地である逗子マリーナへ直行した事となる。その女性が当時どのような少女の顔・そして目をしていたかは知らないが、さぞやと想わせるものが、私の前にいる女性には漂っていた。よく知られている事であるが、川端のあの鋭い眼は禽獣(きんじゅう)のそれに例えられる。そして少女のみが持っている叙情性の無垢なるものを、その眼で犯し続け、異常にして普遍なる美を紡いできた人物である。少女はさぞ驚いたであろうが、視点を川端に移せば、川端にとっても、その少女に、つまりは獲物としての最後の少女のそのありように出会ってしまった事は、死へのターニングポイントとなる事故のようなものであったのかもしれない。…… そう想って私はその女性の目を見た。すると瞳孔の奥から、かつて訪れた事のある伊豆・天城山中の暗い隧道(トンネル)の光景の事が浮かんで来た。青年時の川端が踊り子の後を追って抜けた、昼なお暗いトンネルである。
そして私は思いだしていた。川端康成が死してなお幽霊となって現れている事の、その目撃者が実に多いという事を。私の知人は、数名の文学部の友人たちと鎌倉の長谷にある川端の自宅庭の北山杉の下で全員が目撃し、そして詩人の瀧口修造は夫人と共に西落合の自宅の玄関に深夜に川端康成が現れてスッと消えている。…… 私はその川端と瀧口の、一見交わりの無い二人の接点について考えてみた事があった。それはおそらく、時間軸を自在に飛ぶという意味でのシュルレアリスムへの川端の関心と、共に執筆した事のある同人誌『山繭(やままゆ)』であろう。
川端が晩年に愛したのは「仏界入り易く、魔界入り難し」という言葉であった。確かその言葉は一休禅師のものであったと記憶する。抒情とは、水底に無尽蔵の狂気と魔がくぐもっている、その水面(みなも)の静けさを映した言葉である。私は今回の個展に出品したオブジェの中の数点に抒情性を立体的に立ち上げるという試みをしているが、抒情とは何かについて考える時に、決まってこの川端康成という存在が浮かんでくるのである。
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