老舗甘味処『新鶯亭』

『1987年……阿部定が消えた夏』

 

 

 

 

……1989年の7月某日午後。私は上野の博物館を観た帰りに、公園内にある老舗甘味処『新鶯亭』で名物の鶯団子を食べながら、自分の前途について(さて、これから私はどうしたものか)と、柄にもなく思い詰めていた。…………自分の制作(当時は銅版画)の展開という問題以外に、西洋美術史にまつわる幾つもの未だ私の中で仮説の域にある推論を実証へと展開してみたい、……また美術の領域を越えて欧羅巴で起きた様々な歴史的事件や未解決のミステリ―(特に英国ビクトリア期)の現場などを実際に訪れて、自分の眼で確認しイメ―ジの充電を濃密にしてみたい等々……つまり、ここに至って頭の中で20以上に膨らんだ様々な主題を、机上の文献だけの説を越えて実地に歩き、ことごとく解いていきたいという強い想いに駆られていたのであった。しかし日本を出てそれらの主題を順に片付けていくには、最低でも海外での長期滞在は1年間は必要であろう。だがそれの支えとなる軍資金が無い。……さて金策をどうしたものか?その策がまるで浮かばない。

 

……暗澹とした暗い気持ちのまま地下鉄の銀座線に乗り、渋谷へと向かった。電車の中で吊革にもたれていると「……次は虎ノ門です」という放送が耳に入った。……瞬間、正に天恵のように卒然と閃くものがあり、私は虎ノ門駅で途中下車した。向かう先は当時の文部省であった。省内に入り文化庁の扉を開き窓口で(……在外研修員の応募はいつからでしょうか?)と問うと、担当者らしき人が現れ(既に募集は始まっていてまもなく〆切です)と言われた。美術、音楽、映像、演劇、舞踊……など芸術全般に関する各分野から毎年一人づつ選ばれ、海外の希望する研修先に派遣される制度があった事を、先ほどの車内で「虎ノ門駅」と耳にした瞬間に俄に思い出したのである。

 

説明を聞くと、この制度は書類などの手続きの段階が面倒であるが、もはややるしかない。……やると決めたら私の行動力は光の速度よりも早い。……訊くと、まもなく〆切らしいがタイミングとしてはギリギリ大丈夫との事。毎年全国から沢山の応募者がいる事は何となく噂で聴いていたので「ちなみに版画の部門は今、応募者は何人ぐらいですか?」と訊くと「現時点で800人を越えています」との答。………倍率は800倍かぁ。しかし正直云って倍率はなんら問題ではない。肝心なのは研修のテ―マの方である。自分で云うのも何であるが、私はこういう時、テ―マを立ち上げるのが実に早い。

 

帰りの電車の中でテ―マはすぐに出来上がった。……スペイン・カタロニアの画家ミロタピエスが多用している「カ―ボランダム」という技法があるが、何故か日本には入っていない未知の技法である事を知っていたので、「何故それはスペインのカタロニアだけにとどまっている未知の技法なのかを突き止め、その技法を修得し日本に導入する事で、版画の分野全体の質的向上を具体的に計る」という事をテ―マにして、略歴、日本美術評論家連盟による推薦文、(そして、動く時は一気に動いて入手した)カタロニアの美術家タピエスの版画工房の受け入れ許可書と一緒に文書でまとめ、窓口であった竹橋の国立近代美術館の窓口に提出した。

 

 

 

バルセロナ版画工房

 

ミロの版画

 

 

タピエスの版画

 

 

平行してスペイン語も学ばねばならない。審査は三次審査の面接まであるがなんとか突破して、翌年の1990年10月、遂に機上の人となり一路バルセロナへと翔んだ。(思い出せば、上野公園内の鴬亭で、さてどうしたものか……と思い詰めていた時が懐かしい。)留学の期間は1年間の長旅であるが、私は抱えて来た20近い主題をこなし、それは帰国してから著書にまとめ、『モナリザ・ミステリ―』(新潮社)と題して刊行され、美術書としては異例の増刷となり12000冊が読まれた。(本には、ダ・ヴィンチだけでなく、フェルメ―ル、ピカソ、ダリ、デュシャンが所収され、それは旅の課題(主題)の成果の一部である)。またその後に『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂)や第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』として、詰め込んだ実証はイメ―ジとなって変容し、今もその時の体験は活きている。……あの時に地下鉄の電車に乗っていなかったらと考えると、だから人生は面白い。

 

 

……さて、今までのブログでも折りにふれ書いて来たように、私は〈様々な時に起きた、その現場〉に立つ事が実に多い。アトリエで制作時は外界と隔てて籠っているが、興味があって現場に立ちたい時はそれを実行してやまない。

 

……バルセロナ大学ではガウディについて知るために関連書の翻訳作業をして各所の建造物を独自の視点で漁歩して巡り、パリでは当時は非公開であったメゾンアルフォ―ト獣医学校秘蔵の『フラゴナ―ルの婚約者』と呼ばれる脅威の剥皮標本を観る許可を得るために手紙を書いて校長宛に申請し、ようやく許可が下りて特別に観、イギリスではヴィクトリア期(1888年)に平行して起きた『切り裂きジャック』の五件の現場を訪れた後に、シャ―ロックホ―ムズの小説や映画で度々登場するスコットランドヤ―ド(ロンドン警視庁)に今も現存する切り裂きジャックの担当者を尋ね、またディヴィッド・リンチの映画で知られる『エレファントマン』の死体骨格標本が在るRoyal London Hospitalを訪れたりと、美術の領域を越境して歩き巡ったものである。

 

私はヨ―ロッパの各所を巡り、ド―バ―海峡を渡ってミステリ―の現場ロンドンで見聞きしたことが、今のオブジェのイメ―ジの立ち上げに実に有効に働いている事を実感している。持論であるが、作品とは一種の暗号であり、謎かけであり、つまりは過ぎ去った時間への郷愁―ノスタルジアであり、ポエジ―なのである。

 

 

 

『フラゴナ―ルの婚約者』

 

 

 

 

 

 

 

……留学を終えて日本に帰った後もこの「現場を視たい」という強度な好奇心―不穏なものを視たいという視覚の欲望は深化して川端康成の小説『片腕』ではないが、ますます強くなっている感がある。……20代の時に角川映画の関係で『八つ墓村』の著者・横溝正史氏と会食した事が奇縁となり、その小説のモデルとなった『津山三十人殺し』事件の現場の村(貝尾部落)に入って犯人の足跡を追い、また版画家、藤牧義夫が忽然とこの世から消えた原因(自殺か他殺か!)を追って、藤牧最後の一日の足跡を本人になぞって徒歩で辿り、制作の合間に時間を作って、消えた藤牧義夫の幽かな点を明確な線へと連ねる推理をしたり、また田端の芥川龍之介住居跡、鎌倉の中原中也の住居跡、本郷菊坂の樋口一葉の……と動き巡った事を書けばゆうに1冊の本になる。それもこれも、30代に松本清張の本を全て読破して、実際に現場に行く事の大事な妙を覚えた事が、思い返せば私の好奇心に赤い火が灯ってしまった全ての原因か。

 

 

 

……さて、今回のブログの本題である『1987年―阿部定が消えた夏』に入る前に、随分と遠回りをしたようであるが、以上の事は前振りとして必要であるように思われる。次回はいよいよ真打ちの阿部定の登場である。……絞殺され局部を切断された愛人の男・石田吉蔵は何故、阿部定に魅入られたように従容として死に就いたのか?それに絡めての、声を潜めて語るような逸話も続出予定。

…………またその後にはもう一人の毒婦と云われた高橋お伝と、谷崎潤一郎との知られざる関係についても実証を交えながら執筆する予定。秘蔵されている吉蔵の○○やお伝の○○を実際に視てしまった私ならではの異文を展開します。……後編に乞うご期待。

 

 

 

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