谷崎潤一郎 途上

「…果たしてその時、エアコンは動いていたのか!?」

…私の美大の後輩でS君というのがいる。普段は実家のある岡山に住んでいるのだが、たまに上京してくるので、その時は私の好きな哀愁漂う浅草で会って食事をしたりする、まぁ長い付き合いの友人の一人である。

 

先月、S君が久しぶりに上京したので浅草で会って話をした。すると驚く事を語りだした。何と、昼夜、温度差がなく暑い熱波地獄の中、彼はエアコンの無い部屋で暮らし、夜は寝ているのだと言う。「熱中症で間違いなく死ぬぞ‼」…私がそう言うと、彼が語ったのは、信じがたい身内の事情の話であった。…昔はイラストレーターで稼ぎもあったが、パソコン技術の進化で仕事が激減し、やむなく故郷の岡山に帰り、今は兄夫婦の家で食事を食べさせてもらい、悲しいかな居候をさせてもらっているのだと言う。しかも今、彼は無職なのだと言う。(そういえば、別な友人のイラストレーターも職代えしているので、今、その方面の仕事はなかなか難しいらしい。)…そういう前途の見込みが薄い居候の弱い立場なので、言われるままにエアコンのない部屋で一人で暮らしているのだという。

 

(何という気弱な話である事か。)一度エアコンを…と兄夫婦に頼んだらしいが金が無いという理由で相手にされなかったという。……双方とも根本的な事が欠けている情けない話に唖然としたが、「エアコンの有る無しは別問題だよ、もう一回言うが、間違いなく熱中症で死ぬぞ‼」…と、別れ際に私がそう言うと、彼は哀しい顔を浮かべ、隅田川河岸の吾妻橋の方へと消えていった。

 

……「大丈夫だろうか?」さすがに心配になり、先日電話をしたら、果たして明け方に軽い熱中症になったらしく、体がぐったりして気持ちが悪い…と言って、力なく電話が切れた。

 

なんとも「悲惨物語」を地でいく話であるが、どうもその後の事が気になって仕方がない。……エアコンが唯一の生命線となった現在、それを使わずに亡くなっている人が次々と病院に運ばれて、毎日たくさんの人が亡くなっているのは周知の事実。…そう思っていると、足下にク-ラ-の風のようなのがひんやりと流れて来たと思った瞬間、ある疑念のような仮説が卒然と湧いて来た。

 

 

……兄夫婦が何故、そこそこの出費で何とか買えるであろうエアコンを弟のS君の部屋に設置しないのか?…今やかなりの確率で死へと至らしめるこの危険な状況を何故、兄夫婦は持続しているのか。…高い確率でS君は今や死線にいる事は間違いない。

 

…仮にS君が熱中症で亡くなったと仮定しよう。すると、もしそこに高額の生命保険がかけられていたとしたら、さぁどうだろう。…保険金詐欺、その多くが事故死に見せかけて使うのはトリカブトや、大量の風邪薬を摂取させたりする犯罪である。しかし司法解剖によって、そのほとんどが露見し、ことごとく逮捕されている。しかし、…毎日たくさんの人が、(特にエアコンを嫌う老人などが)熱中症で病院に運ばれて亡くなっていて、もはやその死が日常の中に紛れ込んでいる現状の今。熱中症はもちろん掛け金というリスクはあるが、かなり高い確率で死へと至らしめられる、何処にも証拠なしの合法という隠れ蓑を被った不気味なものへと一変しよう。……私の考え過ぎならいいが、しかしS君は今もなお死線の日々を送っている事は間違いがない。

 

 

…読者諸兄をはじめ、人は私のこの考えを突飛な妄想として一笑に伏すであろうか。…しかし実はこのような疑念(或る確率をもって死へと至らしめる犯罪の可能性)を題材として一篇の小説に仕上げた先人がいるのである。…大谷崎と評された文豪・谷崎潤一郎である。

 

…大正九年に発表した『途上』という小説で、彼は新しい表現を模索する中でその題材に着目し、探偵小説という形で人の心理の奥に潜む暗い闇を照射したのであった。

 

小説の中で主人公は先妻を、高い確率で死へと至らしめる様々な、しかし何処にも犯罪として他人が切り込む隙が無いような合法的な方法で試み、遂には先妻を死亡させてしまうのである。しかし主人公に疑念を抱きじわじわと追い詰めていく探偵は語る「…ちょっとお断り申しておきますが、あなたがあなたの最愛の奥さんを、あれほど度々あの自動車へお乗せになるという事は少なくとも、あなたに似合わない不注意じゃないでしょうか。一日置きに一と月の間あれで往復するとなれば、その人は三十回衝突の危険に曝される事になります。」…これに対して犯人の主人公は「けれども僕はこう考えたのです。自動車における衝突の危険と、電車における感冒伝染の危険と、どっちがプロバビリティーが多いか。……」と。

 

 

江戸川乱歩が推理小説の傑作として讃えたこの作品、実は当時の谷崎が自身の潜在的な「妻殺し」を「探偵小説」の意匠を借りて断罪した実験小説であったというから面白い。……ともあれ昔、学生の時に読んで記憶にあったその視点が、友人に迫っている今、そこに有る危機として卒然と思い出したのであろう。

 

…………今日は異常な熱波から一転して、異常に凄まじい猛威の台風が迫っている。どのみち異常な日々に変わりはなく、もはや天が割れて気象が狂い、人心は疲れきっている。………〈そうだ、〉と思い、S君に電話を入れてみた。…意外にも元気であった。S君は少なくとも今日は未だ生きている。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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