月別アーカイブ: 12月 2024

『2024年が自転車に乗って去っていく…』

アトリエの片づけを3日間続けてやったら、引っ越して来た時に失くしたものと諦めていた手紙がまとめて出て来たのには驚いた。掃除はするものであるとつくづく思った。……作家の森まゆみさん、写真の分野を革新して芸術の高みへと押し上げたツァイト・フォト・サロン石原悦郎さん、私が最も影響を受けた比較文学者の芳賀徹さん、作家の松永伍一さん、…同じく作家の矢川澄子さん、版画家の浜田知明さん、加納光於さん、…他。大事と思って手紙をまとめてアトリエの奥の奥に仕舞っていたのがよくなかったのである。

 

 

…『週刊ポスト』で、私と久世光彦さんの共著『死のある風景』(新潮社刊)の書評を書いてもらったご縁で知り合った作家の倉本四郎さんのご自宅に喚ばれた時に、森まゆみさんとお会いしてご一緒に流し素麺を食べたのが出会いである。

 

…当時刊行したばかりの拙著『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)を森さんにお送りしたら、後日に読まれた感想を記したお手紙が届いた。…その末尾には(絵描きにこんな素晴らしい文章を書かれたら困る‼)…という強烈なお褒めの言葉が書いてあって私を喜ばせてくれた。……今、私の書斎には森まゆみさんの著書が20冊以上あり、中でもお互いが好きな樋口一葉に関する著書が最も多い。私が昨今とみに探訪している谷中に関しては、その多くを森さんの著書を導きの杖としているのである。

 

 

 

………芳賀徹さんの『與謝蕪村の小さな世界』から比較文化論的に思考する事の蒙を拓かれた私は、拙著『美の侵犯-蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)と『「モナリザ」ミステリ-』を芳賀さんにお送りしたら後日にご丁寧なお手紙が届き、(『美の侵犯』は、小生も一度はこういう自由自在でまた的確な画文交響を演じてみたいと願っていたような面白さ。

 

…(中略)…モナリザミステリ-は、特にモナリザと漱石を小生論じつつありますので大いに使わせて頂きます。云々)という内容が綴られており、私はこれらの本を書いた事の手応えを芳賀さんのお手紙から最も強く覚えたのであった。

 

……またこの『美の侵犯-蕪村×西洋美術』を刊行してすぐの事であるが、この国の西洋美術史研究の礎を築かれた高階秀爾さんが、高島屋の個展初日に会場に来られ、私に、(新聞の書評で読んだ『美の侵犯…』の事が気になって買いに来ました。)と言われて驚いた。…高階さんは蕪村にかんする造詣も深いのであるが、専門の西洋美術史と蕪村は、高階さんの中ではあくまで別物であった。…それを私が一本の線で結びつけて論じてしまった事に驚かれたというのである。……これも芳賀徹さんからの比較文化論的な影響が奇想の着想を成したのであった。………加納さん、森さん以外は既に逝かれてしまったが、この手紙は私の大事な生きた証しとして大切に持っていようと、あらためて思った。

 

 

さて話は変わって、今度はカニの話を。……先日、私の故郷の福井から越前がにが沢山届いた。送ってくれたのは、高校の美術部の後輩だった小川正隆君である。(…小川君、こんなに沢山送ってくれたら、日本海からカニが絶滅しちゃうではないですかぁ…)と、バカな独り言を言いながら木箱を開け、…そして食べた。……カニの味噌や脚を裂きながらひたすらに食べた。

 

 

 

 

…そして、おもむろにカニの顔を視て恐怖した。三島由紀夫がカニが苦手でカニを出すと卒倒したという話も頷けるという、…何とも怨みがましい顔つき。…いずれの顔も渋い表情でいかにも無念げである。…ふと昔、家に出入りしていた大工の棟梁の留さんの顔を思い出した。頑固一徹の職人に、こういう顔つきの人が時々いる、そう思った。

 

 

………そして、カニと蜘蛛が先祖は同じだという説があるのを思い出し、タブレットで両者の顔を比較した。蜘蛛の顔を初めて視たが、こちらもゾッとする。

しかしよく調べたら同じ節足動物で、分類学上では鋏角亜門に入り、蜘蛛とカブトガニ、サソリは近いが、大別的には先祖はだいぶ離れているというので、少し納得をした。

 

 

 

 

…先ほど書いた、見つかった手紙の束の中に30年前に亡くなった父親からの手紙もあった。久しぶりに読み返すといろんな事が思い出されて来た。……その中にこんな事があった。…私が未だ小学生の頃、町内の家の並びの中で、何故か一軒だけ3メ-トルばかり奥に引っ込んでいる家があった。その空いた空間も私たちの善き遊び場であったが、しかしその家が放つ佇まいが子供心にも暗く不穏であったのを今も覚えている。……確か岩堀、そういう苗字であった。(…どうして、あの岩堀の家だけが奥に引っ込んでいるの?)…ある時に父親に訊いたら、笑いながらこう言った。(あの岩堀の家は稼業が泥棒なんだよ。だけど、市内の遠くで泥棒をしているが、この近所では絶体にやらないので、みんなが大目に見ているんだよ)…笑いながらそう言った。…奥に引っ込んでいるのは、そういう近所への頭を下げた感謝と遠慮を現しているのだというのである。…今では信じ難い話であるが、本当の話である。その頃は、そんなゆるい話がまかり通っていた、そんな時代だったのである。

 

 

前回のブログで盲目の按摩の話を書いたが、その後で旧知の友のMYさん(福岡市在住)と話をしたら、MYさんは面白い話をしてくれた。…昔、子供の頃の話であるが、MYさん宅で按摩にマッサ-ジを頼む為に電話をすると、盲目の按摩の人が自転車に乗ってやって来るのだという(しかももの凄い早さで正確に)。…私は闇夜に笛の音を頼りに按摩を探したが、未だそれは抒情的な方で、MYさんのこの話は、イタリアのフェリ-ニの映画や、唐十郎の舞台を想わせるものがあって面白い。…ベ-ト-ヴェンゴヤは聴覚を失ってから、更にその表現世界は深化したというが、人間がもつ代替の潜在能力たるや恐るべきものがあるのである。……そして、あらためて、自転車で疾走して来る盲目の按摩の姿を想像すると、その身体が一種の「闇だまり」(舞踏家・土方巽の造語)に見えて来た。

 

 

 

……思えばこの一年はろくな事がなかった。…世界はますます狭くなり、一触即発の気配が増す中で、人類はますます滅亡へのカウントダウンを早めているように思われる。…だから、ろくな事がなかったこの闇だまりのような2024年を、自転車に乗せて何処か遠くへと走り去らせたい、今は気分なのである。

 

…では来年は⁉…………その答えは誰もが直観の内に感じとっている事であろう。…決して口には出さないが、その次に来るであろうもっと巨大な「闇だまり」が、チリンチリン…と不気味なベルを鳴らしながら近づいて来ている事を。

 

 

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『記憶の中の夕暮れに属する部分』

 

…異常気象のために春や秋がその姿を消して久しい、2024年の12月はじめ。…(これぞ秋の姿!!)という風景が、一瞬目の前に恩寵のように現れた。場所は日暮里御殿坂に沿った谷中墓地。…銀杏の大樹から綺麗な黄葉が落ちて地表に充ちたその様が、記憶の中の或る絵画と重なったのであった。…パリ近郊の村グレーを描いた浅井忠の名作『グレーの秋』である。

 

『グレーの秋』

 

 

 

 

 

…最近の私は、木下杢太郎の詩をよく読んでいる。同時代の北原白秋と比べると、詩の才は虚構の美文へと高める白秋に指を折るが、杢太郎は画家を志望しただけに、その詩から当時の風景が生に立ち上がって来て、白秋とは異なる不穏な郷愁を喚んで、私の記憶の中の夕暮れに属する部分を少し揺らすのである。

……『玻璃問屋』という詩をここに挙げよう。玻璃は「はり」と読むが、ここでは「がらす」。また、盲目は「めくら」。

 

 

……………「空気銀緑にしていと冷き/五月の薄暮、ぎやまんの/数数ならぶ横町の玻璃問屋の店先に/盲目が来りて笛を吹く。その笛のとろり、ひやらと鳴りゆけば、/青き玉、水色の玉、珊瑚珠、/管の先より吹き出づる水のいろいろ/一瞬の胸より胸の情緒。…………(以下は略)。

 

 

 

この詩の(盲目が来りて笛を吹く。)という部分から、推理作家の横溝正史の名前を連想した方もおられるであろう。…そう、横溝正史は間違いなく、木下杢太郎のこの詩を読んで、彼の代表作『悪魔が来りて笛を吹く』という題名を着想した事は間違いないのである。

 

…私が未だ20代の頃に、その横溝正史と出会った事がある。昔々、都内の某ホテルで角川映画の完成記念パ-ティに招かれたので行くと、沢山の映画人、文化人がおり、通された席の白い円卓に私の名前があり、同じ席にデビュ-直後の薬師丸ひろ子と、横溝正史夫妻の名もあったのである。…(この人が、江戸川乱歩と交わりがあり、あの『八つ墓村』を書いた人なのか‼)…じっくり眺めたその顔を私は今でも覚えている。

 

 

…後年、私は彼が『八つ墓村』を書く切っ掛けとなった実際に起きた凄惨な事件『津山三十人殺し』の現場となった、岡山県の西加茂村にある貝尾部落を訪れた事があるが、横溝正史は事件発生直後に、この三十人殺しの余韻が生々しく残る現場を訪れて、後に『八つ墓村』を書いたのである。…同席した時に、もしその事を先に知っていたなら、私は横溝正史に直接訊く事が山ほどあったのにと悔やまれる。

 

 

…木下杢太郎の詩に戻ろう。…この詩に登場する盲目の男の姿は直に虚無僧や、めくらの按摩師を想わせる暗い気配がある。…歌舞伎の『東海道四谷怪談』に登場する按摩・宅悦(仏壇返しという不気味な場面は見どころ)や、勝新太郎『座頭市』演ずるところの、その按摩(現在のマッサ-ジ師)である。…昨今は見かけなくなったが、昔は地方の町にはいたものである。…朝は豆腐売り、昼は金魚売り、…そして黄昏後から深夜にかけて哀しい笛を吹きながら、町の辻々を流していた昔日に視た一編の風物詩であろう。

 

…私は覚えている。子供の頃に父に頼まれて、笛の音を頼りに按摩を探しに行った事があった事を。…子供心に盲目の按摩は不気味であったが、親の頼みだから仕方がない。…夜の闇へ、さらに深い闇へと探しながら私は歩いた記憶がある。…そして子供心に想ったものである。(…ここは、江戸か…⁉)と。

 

 

…按摩と言えば、やはり勝新太郎の座頭市であろう。その勝新と三島由紀夫が面白い会話をした事がある。映画『人斬り』で薩摩の田中新兵衛役を演じた三島が、土佐の岡田以蔵役を演じた勝新に(勝さんの居合い斬りは、実に見事ですが、何処で学ばれましたか?)と剣の流派を問うと、勝新いわく(俺かい?…俺は杉山流だよ)と答えると、三島いわく(なるほど、道理で‼)と、さも納得したように頷いたという。

 

 

 

 

 

 

…この話には落ちがある。勝新は或る人にその話をして(杉山流と言うのはな、…あれは按摩の流儀なんだよ)と言って豪快に笑った。…絶対に、〈私はそれを知らない〉と言うのが嫌いな三島由紀夫の負けず嫌いな面が表れた面白い逸話である。

 

 

 

 

……さて、2024年も間もなく終わりであるが、このブログは、今年は今回で終わりになるのであろうか。…何だかもう1回だけはありそうな。…ともかく、今は昼は木下杢太郎や室生犀星を読みながら、夜は詩を書いている、年の暮れの私なのである。

 

 

 

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『何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…完結編』

今年もアッという間に年末になってしまった。…12月になると、ジンタの楽隊のように遠くから〈クリスマス〉という響きが聴こえて来る。…私は耶蘇教の信徒ではないので別段関心はない。…むしろクリスマスと聴くと、私の耳の中で変換されるのか、…クリスマスが→苦しまず、に聴こえて来てしまう。…出来るならば…苦しまずに一瞬で逝きたいものだ…と。

 

 

 

…さて、12月に入ったある日の事、私は日本橋人形町の老舗洋食店『小春軒』に入って早めの昼食を食べていた。…店の隣は文豪・谷崎潤一郎の生誕の地である。

 

 

 

 

…出てきた好物の海老フライを食べながら幼年時代の谷崎について考えていると、そのライバルであった川端康成の事が浮かんで来て、あれこれと思う事があった。今回のブログは、それについて書くのである。

 

 

 

…この国が戦後にやってしまった愚策の代表的なものが2つある。1つは抒情豊かであり、先人達との魂の結び付きの深かった地名(町名)が1962年に変更になり、何とも褪せた浅い名前になってしまった事である。…例を挙げれば、小石川初音町が→文京区小石川1~2丁目に、また、樋口一葉が住んでいた本郷菊坂町が→文京区本郷1~2丁目に、湯島天神町が→文京区2~3丁目…といった具合に。…この愚策を、第二の東京大空襲と評して怒った人がいるが至言かと思う。

 

…もう1つが、教科書からルビを無くしてしまった事である。…「日本の戦後教育の大誤算の一つは、ルビをなくせば漢字学習の民主化が徹底されると考えて、あの便利なルビを極力一掃してしまったことであろう。じつに馬鹿げた発想というべきだ。…」と、澁澤龍彦は自著『狐のだんぶくろ』の中で書いているが、この愚策を考えた役人は万死に値するといっても過言ではない。

 

…さて、そのルビに関してであるが、川端について小春軒でつらつら考えていたら、今まで全く考えていなかった或る疑念が卒然と湧いてきた。……それは川端康成の代表作である『雪国』のまさしく冒頭に書いてある「国境」の文字であるが、あれは本当は、「こっきょう」でなく「くにざかい」と読むのが正しいのではないか⁉…という疑念である。日本語本来の読みは訓読み(和語)が正しいので、当然くにざかいが正しい。…しかし今では当然のように「こっきょう」と皆が読んでいる。川端自身もそれを否定していない。…確かにその方が勢いがある、しかし、川端の抒情豊かな世界から見ると、この勢いは…いささか速すぎる感があり、列車から見る風景に、哀しみを含んだ村々の景色がありありとは見えて来ないのである。

 

……早速アトリエに戻って調べが始まった。…そして驚いた。…私が懐いたこの疑念は当たっていて、文学界でも未だに結論がつかないまま論争中なのだという事がわかり、俄然面白くなってきた。……事実、川端自身が武田勝彦(武田はくにざかいが正しいと読んでいる)との対談で「くにざかい」の読みを諾なっているのであるのを知った時に、徹底して詰めて考える私は、これはミステリ-として実に面白い…と思ったのであった。…つまり、誰よりも美しい日本語に厳しい筈の、しかも作者自身である川端康成が、「こっきょう」の読みも否定せず「くにざかい」の読みも諾なっている事のこの曖昧さ。もっと言えばいい加減さ。……その川端自身の曖昧さの奥にある、秘めた心理の実相を開いてみようと私は考えたのである。

 

…川端のもう一つの代表作は『伊豆の踊子』である。清らかな14歳の踊子に惹かれる、孤独な青年を美しく描いた、あまりにも無垢な短編小説。…しかし、この小説が誕生する裏には1冊の本の存在が原点となっている事はあまり知られていない。

 

田山花袋が大正7年に書いた『温泉めぐり』がそれである(ちなみに伊豆の踊子は大正15年に発表)。

…田山はその本の中で書いている。(湯ヶ野にある温泉宿の福田屋の湯槽からは、向かいで湯浴みする旅芸人の若い娘たちが見えた)という意味の事を。

 

……それを結び付けたのは猪瀬直樹の川端康成と大宅壮一に関する著書である。猪瀬の調査は川端自身が書いている気象の記録までを精査した徹底ぶりで、まるで偽証やアリバイを覆すようで面白い。…濁った視線の欲望から結晶化した無垢なる産物『伊豆の踊子』の生誕逸話としては実に面白い。

 

…さて、その猪瀬の本が出る遥か前に、一人の美大の学生が、中伊豆のその福田屋に泊まり川端が入った浴槽につかった。……「私」である。

 

 

 

 

 

 

部屋で名物の猪鍋を食べていると仲居がやって来て、(このお部屋は百恵ちゃんも泊まったんですよ)と嬉しそうに話した。

 

…はて、百恵ちゃん?…伊豆の踊子に主演した山口百恵の事か、なるほど、そう思った。

 

 

 

…私は学生時は梶井基次郎の文章が好きで、彼が泊まった『落合楼』に翌日は泊まり、大学の寮に戻ってから50枚ばかりの論文『伊豆の踊子小論』を書いた。

 

川端の資質の内に生来ある突然の時間感覚の飛翔性に及んだもので、…その論旨は、川端も評価していた伊藤整の伊豆の踊子論と重なる視点だったので、大いに自信を得たが、銅版画の制作が忙しくなってきたので、文芸評論家への道はやめた。やめた後に、文芸でなく美術評論を手掛けるようになり、それは『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)となり、美術書としては異例の増刷となった事は善い事である。

 

 

 

…さて急いで結論に入ろう。…私はこう考える。…つまり川端自身が当初思っていた以上に作品は独り歩きを始め、いつしか作者を離れて『雪国』は川端の生涯を代表する名作であるばかりか、日本の近代文学を代表する名作となっていった。

 

……本当は国境は「くにざかい」と読むつもりで抒情豊かに書いたのであるが、自分がまさかのルビを打たなかったばかりに、いつしか「こっきょう」として読まれ始め、その速度感が読者にも気持ちよく響いて広く知られる事になり、口々に誰もが知る〈国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。…… 〉になっていった。……ここに至って、(くにざかい…と訂正を入れる事にもはや意味はないだろう。…このまま曖昧なままでいよう。それがいい。…それでいい。)…彼の内なる生身の俗性と野心はそう思ったと私は視る。

 

 

 

俗性と野心?…私は今そう書いた。…………後年に、(今回は私に譲って欲しい。)…ノ-ベル賞受賞が決まる前に、川端が、今一人の候補者として下馬評が高かった三島由紀夫に書いた焦りとも映る、手紙で見せたノ-ベル賞受賞という栄誉への異常なまでの執着は凄まじい。

 

 

…受賞の決定は三島が審査するわけではないのに、そこまで見せてしまった俗を極めた名誉欲に映る様は、ある意味、不気味ですらあるだろう。

 

…………この受賞以後、川端の執筆はその勢いを停めてしまい、自裁した三島由紀夫の幻を度々視るようになり、睡眠薬への依存はやがて、誰もが知る逗子マリ-ナでの終焉へと繋がっていったのである。

 

 

…さて最後にささやかな秘話を一つ書こう。…実は川端康成は1971年に①仰天すべき或る事をしてしまった。…もしこの事実が明るみに出れば、新聞は一面に載るばかりか、ノ-ベル賞の歴史までもが根底から覆る出来事なのである。…さすがに私でも、それをここで書く事は憚られる、秘密にしなければならない質の、それは内容なのである。……日本の文芸界の裏の秘話を実によく知る知人から最初に聞いた時は、私もさすがに疑った。…しかしあの川端ならあり得ない話ではないな‼…私はすぐに切り替えた。

 

……②話は全く変わるが、1971年に秦野章(元・警視総監)が都知事選に立候補した時に、川端康成が応援演説で登場した時、世間は大いに戸惑い、川端という人物に疑問を呈した事があった。…政治には全く関わりを持たない事を信条としていた、あの川端が何を考えているのか理解に苦しんだのである …。

 

さて、今書いた①と②は各々が別な2つの点である。…しかし、この2つの点に1本の線を引いたとしたら、さぁどうだろう。……直観の鋭い、このブログの賢明な読者諸氏の中にはピンと来た方がおられるのではあるまいか。…ヒントを?…ヒントなら今回のブログの中にそっと伏せたそのままに。…とまれ、「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、それは話なのである。どうしても知りたいという方は、いつか、人形町の小春軒でお会いしたその時に。………………

 

 

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