月別アーカイブ: 4月 2025

『土方歳三に会って来た話』

…桜の花弁が散ったと思ったら、もう5月の足音が…。そしてますますの気象の乱高下が、今夏の更なる異常熱波の到来を不気味に暗示してでもいるような。

 

……さて、前回のブログでご紹介した福井のギャラリ-サライでの個展は今月末まで開催中であるが、…先日、雷雨の隙間を縫うようにして午前中に名古屋画廊に入り、夕方までかけて作品の展示に関わって来た。…5月は9日から24日まで、俳人で美術評論など他分野までも幅広く活動されている馬場駿吉さんとのヴェネツィアを舞台にした俳句と美術作品による二人展が開催され、また5月22日から6月9日迄は千葉の山口画廊で3回目の個展が開催されるのである。…画廊のオ-ナ-の山口雄一郎さんは毎回、作品の本質を見極めるような鋭い視点で長文のテクストを書かれるので、今回も私はそれを拝読するのを愉しみにしているのである。…このブログでは順を追ってご紹介する予定なので、次回のブログは、先ずは名古屋画廊での展覧会について詳しく書こうと思っている。

 

 

…さて、あなたがもし犯人に疑われ、警察の取調室で無罪を証明する為に1年前のこの日にどうしていたか⁉…と突然問われたら、その日の事を直ぐに思い出せるだろうか。…日記に書いてでもいない限り、まず即答は無理であろう。…しかし、私がいまブログを書いている4月21日に限っては、1年前のこの日に何をしていたかを即答出来る。…それほどに1年前の4月21日は記憶に強く残る日であった。

 

……1年前のこの日、私は日野に在る佐藤彦五郎新撰組資料館に行き、新撰組副長、土方歳三の生身の物を目撃するという体験をしていたのである。その物とは、新政府軍による箱館総攻撃で、土方が銃弾を浴びて亡くなる前日に、未だ少年だった小姓の市村鉄之助に、自分の写真、愛刀と共に土方の日野にある生家に届けるように命じた、土方が自分で切った形見としての遺髪であった。

 

(…少年の市村鉄之助は、官軍の厳しい捜査網を掻い潜り、実に2年をかけて日野にある土方の生家に遺品を隠し持って辿り着いたが、その時の姿はまるで衰弱しきった悲惨な乞食のようであったという。)……その後、土方の写真や愛刀は折りにふれて公開されたが、遺髪だけは土方家の仏壇内に仕舞われたままで、その存在は今まで全く秘密であった。

 

 

………その秘密にされていた土方の遺髪の存在をずばり指摘したのは、死者の遺品、或いは行方不明者の持ち物に残る「残留思念」から、その時の状況を言い当てる事で知られる超能力者のジャッキ-・デニソンさんというイギリス人の女性である。…私はたまたま或る番組で、ジャッキ-さんが土方の子孫の前に座り、土方の刀に触れた後で、静かな、しかし確信を持った口調で、(もしかすると、この人の遺髪がある筈だ)とずばり言い当てて、子孫の人が驚愕するその場面を観ていたのであった。

 

…このジャッキ-さんのような、残留思念から不明者の様々な事を透視する能力が確かに存在する事は以前から知っていた。……残留遺物から事件の真相(例えば誘拐犯人の居場所や死体遺棄現場……など)を突き当てる捜査法が、欧米の警察捜査では実際に活用されている事はつとに知られているが、ジャッキ-さんの持っている透視能力は特に突出している感がある。…ちなみに、このブログでも度々書いているが、私は予知的な能力、或いは強度な「気」を発する、更には瞬時に離れた場所から物事の本質を視ぬいてしまう直感力…などといった能力は多分に持っているが、ジャッキ-さんのように残留思念から捜査の対象者の当時の事柄を透かし視るという能力は、私とは違うまた別なものである。…

 

その土方歳三の形見の遺髪が初公開されるという2024年の4月21日。…日野にある佐藤彦五郎新撰組資料館の前は、そのテレビ番組を観て、公開日を知って訪れた人、人、人…で溢れていた。資料館の人の話では、公開日は限定した数日間に限られていたが、1日で約6000人もの人が全国から訪れているという。…私が行ったその日も整理券が配られて、…遠方から遙々来ても入れない人もいるという状況であった。

 

私達の列が観れる番が来たが、限られた見学時間は僅かに10分。…近藤勇沖田総司永倉新八、…等々の書簡、土方の愛刀、写真(複写)…と順に展示されている別な場所に、件のその束ねた遺髪が白紙の上に展示されていた。

 

 

…私はその髪を観ながら、間違いなく死ぬという明日の激戦を前に髪を形見に切った瞬間の土方の心境を想った。

 

そして、その束ねた毛髪からは、池田屋事件時の叫びや長州人の断末魔の怒声、鳥羽伏見の闘いの時の大砲の破裂音や硝煙の匂いさえも透かし視るように伝わって来るのであった。

 

 

 

 

…熱くなって覚えたこの感覚の先に、ジャッキ-デニソンさんには、残留遺物からの様々な事が見えてくるのであろう。

 

 

 

………ふと気がつくと、遺髪を観ている私のすぐ横に、たいそう美しい女性が静かに立っていた。その顔を見て…土方歳三の子孫だと直感したので、(もしかして子孫の方ですか?)と問うと、果たしてそうであった。…私は好機と思い、以前からずっと気になっていた或る事を確認したく、その方に訊いてみた。(…実はものの本で知ったのですが、市村鉄之助が隠し持って来た土方歳三の写真の実物には、その写真の端を噛んだ土方の歯跡が残っていると書いてありましたが本当でしょうか⁉)と。

 

………………女性の方は、おそらくは今まで誰も訊いて来なかったであろうこの質問に一瞬戸惑ったようであったが、(……うっすらですが、その写真には土方の歯跡が今も確かに残っています)と答えてくれた。……やはりそうであったか。……私は写真の端に付いているというその歯跡こそ、土方の生きた証と矜持を映す物であると常々思っていたのであるが、今まで機会ある度に見た写真の複製には写っていなく、或いは伝説上の話かとも思っていたのであるが、タイミングよく子孫の方に直に訊けて得心したのであった。

 

………(新撰組で一番恐かったのは、それはもう副長の土方歳三です。隊列の先頭で歩いて来る、あんな鋭い眼をした人は今も忘れる事は出来ません。) ……司馬遼太郎が書くずっと以前に、作家の子母澤寛が、土方歳三を目撃したという、当時まだ存命中だった京の街に住んでいた老婆から訊いた覚え書きには、そのようにある。…幕末史に詳しい人でも、西郷隆盛暗殺未遂事件というのがあった事を知る人は案外少ないのではないだろうか。…

 

 

 

その暗殺未遂事件、単独で仕掛けたのは誰あろう、土方歳三である。…実行したのも土方歳三ただ一人(近藤も沖田も関わっていない幕末遺聞の閉ざされた一頁。)…土方は一人、平服で待機しており、薩摩藩邸から出て来た大男を視るや、通り越し時に抜き胴で一瞬で仕留めたが、それは西郷ではなく別人であった。

 

もしこの時、西郷本人であったら間違いなく明治維新は無く、徳川政権が続いた事は必至であろう。幕府の最大の敵になるのは西郷隆盛である事を、土方は早々と明察して、単独で暗殺を謀ったのである。

 

 

 

 

…今回のブログは土方歳三のその豪胆な話と先見性に詳しく言及したかったのであるが、信号が赤く点ってしまった。…どうやらブログの分量が尽きてしまったようである。

 

 

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『室生犀星&恩地孝四郎 in福井』

…いよいよ4月。…先日の桜の頃に、個展のために福井に行って来た。3日間の慌ただしい滞在であったが、故郷である事もあって久しぶりに会う人が多く、嬉しくも駆け抜けたような3日間であった。

 

 

……個展会場であるGalleryサライのオ-ナ-の松村せつさんのセンスの良い采配で、作品34点が壁面に掛けられていき、緊張感を帯びた個展空間が立ち上がった。翌日の初日、朝10時の開廊と共に福井のコレクタ-の人達が次々に入って来て、会場はすぐに人で埋まった。

 

 

初日の夕方、福井に来たもう1つの大事な目的があった。日本の近・現代版画の主要な作品を数多くコレクションされているコレクタ-の荒井由泰さんが来られて、車で一緒に荒井さんのご自宅がある勝山(恐竜博物館でも知られる)に行き、作品の数々を(今回は近代版画の地平を切り開いた恩地孝四郎を中心に)拝見するのである。

 

…そして、その後で、同じく勝山に住む画廊サライのオ-ナ-の松村さんのご自宅と古い蔵(築300年)に行き、その壁面に掛けられている作品の数々を拝見するのである。…画廊で、これから勝山に行く事を知った私の作品のコレクタ-の若い男性2人も同乗する事になり、夕方一路、深い自然が残っている古刹の永平寺を通過して勝山へと向かった。

 

荒井さんは、以前のブログでも何回か登場されているが、美の眼識が実に高く、交流関係の実に広い人で、画家のバルテュスが来日した際も、はるばる勝山を訪れて、荒井さんのご自宅で寛いだという逸話がある、荒井さんとはそういう人である。荒井さんとのお付き合いは長いが、いつも作品について熱心に熱く話をされる荒井さんを見ていると、「作品を収集するという行為もまた、確かな創造行為なのである。」という言葉があるが、この言葉は実に至言だなと思うのである。…熱い思いでコレクションされて来た作品の総体。それがすなわち、荒井さん自らが紡ぎ上げた紛れもない自画像なのである。

 

 

 

2階で恩地孝四郎の代表作にして近代版画の頂点に在る「『氷島』の著者・萩原朔太郎像』、『Allegorie No.2 Ruins (Haikyo)』が先ず在って私を驚かせた。

 

『氷島』の著者(萩原朔太郎像)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そしてその場で私は荒井さんから恩地孝四郎の貴重な随筆と写真が載っている限定本『博物志』をプレゼントとして頂いた(美術家にして詩や文章も書く恩地孝四郎は私における具体的な導きの先達なのである)。

 

 

…その後で恩地の貴重な作品を数多く拝見したが、特にその夜に私の関心を惹いたのは、室生犀星の『青い猿』の挿画作品として刷ったグロテスクな女達の相を描いた木版画であった。…私は反射的に〈あっ、これはあれだな‼〉と閃く、室生犀星の詩があった。…それについて以下に少しく書こう。

 

 

ここに掲載した室生犀星の詩。…画像は裏が透けて読みにくいかと思うが、これは私が詩集の新しい表現の為の印刷の可能性を実験した為で他意はない。さて犀星の詩はこう書いてある。

 

…(あさくさに来りて/くらき路地をくぐりぬけつつ/哀しきされど美しき瞳をさがす。/うつくしき瞳はみな招へども/こころ添いゆかず/さまよい疲れて坐る/公園のつめたき石。)

 

……哀しき、美しき…が前面に出ているロマンチケル、理想の高い夢追い人、室生犀星の都会のさ迷い日記の一頁のような…詩である。…しかし、この詩に登場する舞台や人物は、このブログで度々登場する凌雲閣(浅草十二階)下に迷宮のように広がっていた銘酒屋(店に置いている酒は飾りで実際は淫売屋)で客の男性を漁っている女郎たちである。…室生犀星は夜行列車で金沢から上京するや、上野からすぐその足で浅草に行き、銘酒屋の女達を求めて頻繁にさ迷っていたのである。

 

…恩地孝四郎が描いたこのグロテスクな女達の不気味な相は、それを直に表した作品なのである。……今は無きこの銘酒屋にいた女郎たちはその数実に2000人はいたというから、浅草十二階下から拡がっているその様を迷宮といったのは誇張ではない。…室生犀星は(うつくしき瞳はみな招へども…)と美しい言葉で装おって書いているが、次の行の(こころ添いゆかず)は、リアルである。

 

…この淫質な迷宮をさ迷っていたのは室生犀星だけではなく、…谷崎潤一郎今東光石川啄木竹久夢二永井荷風高村光太郎…と挙げればきりがない。…室生犀星は幼児期に姉が東京の女郎屋に売られた事があり、最初は姉の行方探しもあったかと思うが、次第にこの都会-浅草の毒に、はまっていったように思われる。

 

…それにしても、すぐれた抽象、具象の抒情…と恩地孝四郎の表現の幅は実に広く、かつ深い。…恩地だけにとどまらない荒井さんの膨大なコレクションを全て見ようと思ったら数日はかかってしまうに違いない。…(荒井さん、もう1度機会をみてまたぜひ、今度は個展でない時に来たいですね。) ……そう話していると、ギャラリ-から松村せつさんが戻られたので、続いて、松村さんのご自宅へと向かった。

 

…300年前に建てられたという大きな蔵に入って驚いた。…広い四方の壁面に私のオブジェや版画が沢山掛かっていて、それがアフリカの古いお面やタピエス…などの作品と調和していて、また新たに変容した私の表現世界が静かにそこに、松村さんの美意識と相乗していたのであった。

 

 

 

 

 

そして蔵に隣して在るご自宅は、昭和の初期に建てられたという大きな病院だった家で、電話室がある玄関から入ると、奥は寺院や老舗の旅館の奥座敷を想わせる深い気品があり、松村さん手製の大きな提灯が広い和室に深い韻を醸し出していた。

 

 

 

 

 

 

……勝山は、周囲を深山が領している、時間が止まったような静かな美しい土地である。夜、暗い道を歩いていると、既に亡きこの土地に生きた先祖たちの魂が豊かに息づき、生者を見守っているような気配を私は感じたのであった。…荒井さん、松村さん、…共に私の作品を相当数コレクションされていて、その作品がこの勝山の夜と同化している。…私は表現者冥利に尽きる感慨を覚えながら、数日後に横浜に戻って来たのであった。

 

 

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