俳句

『レンズを持って旅をする男の話 (前回のつづき)』

……線状降水帯が、正に世田谷美術館の真上を通過しているという激しい豪雨の中、館内に入ると、『祈り・藤原新也』展は沢山の観客が詰めかけていたが、観る者をして沈黙へと促すような作品の為か、息をのんだように静かであった。

会場は作者の初期から現在に至る迄の写真作品が、まるで大河の流れのように巧みに構成されており、実に観やすかった。しかし初期の『メメント・モリ』の、記録性を越えた凄惨な写真と、作品中に配された文章の妙が持つ相乗したインパクトは、わけても圧巻であり、藤原新也はここに極まれりという感は、やはり強い。

 

 

 

 

 

ガンジス川の岸辺に転がる、膨らんだ白い死体の硬直した足先を喰らう黒犬、その左に立って虚ろな目を放つ茶色い犬、その足元に立っている烏の姿……。そこに添えられた一行のコピ―文。……「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ。」。……これを視た瞬間、人々の背筋に走るのは間違いなく冷たい戦慄であろう。しかし、意味を理解してのそれは戦慄ではない。……藤原新也が書いた文章の、意味がわかるようで掴み切れない謎かけの不可解さ故の戦慄であり、ここで使われた「自由」という言葉のあまりの多義性故に、人は戸惑いを覚え、自分の見えない背中の暗い部位を慌てて覗くように揺らぐのである。「自由」そして「正義」という言葉ほど多面性、多義性を帯びた言葉はないであろう。……また、文章の出だしを人間と書かず片仮名のニンゲンにする事によって、次に漢字で書かれた犬の字面がニンゲンより優位に立ち、そこから一気に「食われるほど」と来て、「自由だ。」で、読む人の背筋に揺らぎと戦慄を作り出す。写真と文章が相乗して実に上手い。藤原新也は殺し文句を知っている。…………いま私は、藤原新也の文章の実存的なくぐもった低い呟きと、その体温に近い人物が、確かもう一人いたな……とふと思い、しばらく考えてから、そうだ、自由律俳句の俳人・種田山頭火があるいは近いのではと、閃いたのであった。

 

山頭火の俳句、……「沈み行く夜の底へ底へ時雨落つ」・「いさかえる夫婦に夜蜘蛛さがりけり」・「捨てきれない荷物のおもさまへうしろ」・「松はみな枝垂れて南無観世音」…………は、藤原新也が写真集『メメント・モリ』の作品中に入れた文章とかなり近似値的ではあるまいか。……藤原新也の「ありがたや、一皮残さず、骨の髓まで」・「契り一秒、離別一生。この世は誰もが不如帰(ほととぎす)。」・「人体はあらかじめ仏の象を内包している。」……。藤原新也の写真に、山頭火の俳句をそっとまぎれこませても面白い相乗が立ち上がる、……そんな事をふと想ったりもしたのであった。

 

 

 

とまれ、今回の世田谷美術館の『祈り・藤原新也展』は、ぜひご覧になる事をお薦めしたい必見の展覧会である。写真展であると同時に、視覚による現代の経文に触れるような、深い暗示性と示唆に充ちた内容である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……藤原新也の写真集『メメント・モリ』の中に、私が最も好きな頁がある。全編、死の気配と記録性に充ちた重い内容の中で、その頁だけがフッと息がつけそうな安らぎに充ちたその頁には、車窓から写した山河と農村の建物と畑と光の煌めき……が写っていて、左頁の端に「こんなところで死にたいと思わせる風景が、一瞬、目の前を過ることがある。」という文章が添えられている。

 

 

 

 

この頁の写真と文章を読んだ時に、すぐに想い浮かんだのは「確かに自分にもそう思う瞬間があった!」という同じ感慨であった。……バルセロナからグラナダへと向かう12時間の長い列車の旅の車窓から視た、或る瞬間の風景、……或いは、ヴェネツィアのジュデッカ運河で視た真夏の花火、または夜半のアドリア海で視た銀色に光る春雷、…………。想いは尽きないが、そのような永遠を想わせる絶体風景を暗箱の中に封印した魔術師のような人物が、今、京橋のギャラリ―椿で個展(12月24日まで)を開催中である。

 

……その人物の名は桑原弘明君。私が最もその才能を高く評価している、超絶技巧の持ち主にして視覚の錬金術師と評していい人物である。……桑原君の作品の緻密さの芯を画像でお見せする事は不可能に近い。0.2㍉、0.5㍉……大きくても僅か数㍉のサイズで作られた室内の木馬や、窓、中世オランダの室内、螺旋階段……といった物が、絶体静寂の韻を帯びて、永遠に停止したままに、精緻に作られた暗箱の中で謎めいた呼吸をし、それを視る人の内心の孤独と豊かな対峙をしているのである。

 

 

 

 

 

 

桑原君が今までで作った作品(scoPe)総数はおよそ160点、最初に作った2点以外は、全てコレクタ―諸氏の所有するところとなっている。その1点の制作に要する時間はおよそ2ヶ月以上。毎日、視神経を酷使する苦行にも似た制作スタイルのそれは、驚異の一語に尽きるものがある。……私も同じく、版画作品の刷った総数はおよそ5000枚以上になるが、全てコレクタ―諸氏や美術館の所有に入り、またオブジェも既に1000点以上を作ったが、アトリエに残っている僅かのオブジェ以外は全てコレクタ―諸氏や美術館の所有するところとなっている。

 

……先日、個展開催中の画廊を訪れ、久しぶりに桑原君と話をしたのであるが、手元に作品がほとんど残っていない事、そして作品が、それを愛してくれる熱心なコレクタ―の人達に大事にされ、その人達の夢想を紡ぐ人生の何物かになっているという事は、表現者として一番幸せな事なのではないか、……そして、私達が亡くなった後の遠い遥かな先において、もはや匿名と化した私達の作品の各々の有り様、そしてそれを視る全く私達の知らない人達の事を考える時、その時が最も夢想の高まる時であるという点で、私達は意見の一致をみたのであった。……桑原君の仕事は凄まじい迄の緻密さであるが、只の細密に堕する事なく、彼はリアリティというものが私達の脳内において初めて結晶化するという事を熟知している点が、彼の作品を他と差別する質の高さに繋がっているのであろうと思われる。

 

……藤原新也という、あくまでも現実に起きる万象に対象を絞りながら、レンズを持って旅をする男。……かたや、桑原弘明君のように錬金術師のごとく密室に隠って、視る事の逸楽や至福をスコ―プ内のレンズを通して立ち上げんとする、あたかも玩具考の如く空想の地を旅する男。……対照的な二人のレンズを持った旅人達の各々の個展であるが、いずれも見応えのある内容ゆえに、このブログでお薦めしたく筆をとった次第である。

 

 

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『寺田寅彦 Part②』

夏目漱石が重度の「うつ」であった事は知られているが、弟子で物理学者の寺田寅彦氏も軽い「うつ」であった。その寺田氏は『春六題』という随筆の中で「桜が咲く時分になると此の血液が身体の外郭と末梢の方へ出払ってしまって、急に頭の中が萎縮してしまうような気がする。・・・・そうして何となく空虚と倦怠を感じると同時に妙な精神の不安が頭をもたげて来る。」と記し、「・・・此のような変化がどうして起こるのかは分からないが、一番重要な原因は、やはり血液の循環の模様が変わった為に脳の物質にどうにか反応する点にあると、素人考えに考えている。」と記している。~ 1921年の事である。

 

 

先日のNHKのTVで『ここまでわかった、うつ病の最新治療』というテーマの番組を見た。もはや日本人で100万人以上の患者がおり、私の知人であった大学教授や画廊主も、うつが原因で自殺をとげている。ために身近な問題事として見入った。番組はアメリカの先端医療で、実に七割ものうつの患者が普通の生活を取り戻している事例を紹介し、その治療法として抗うつ剤ではなくTMSと呼ばれる装置で磁気刺激を前頭部に与える方法を映し出していた。そして、うつが心の病ではなく脳の病であり、その原因が「前頭葉の血液量が少なくなる事にある」と語っていた。原因が血行不良にある事が判明したのは、ベトナム戦争後の1980年頃からの患者の急な増加からであったという。しかし、それより60年も早く、我が寺田寅彦氏は素人考えといいながら、早くもうつの原因を予見していたのであった。この直観力!!

 

『うつ病』を定義すれば、「前頭葉の血流不足により、不安や恐怖の感情を司る〈扁桃体〉が刺激され、その機能が暴走する事」であるという。アメリカの最新医療はここまで突き止めており、前述したTMS装置を多くの病院が取り入れて多くの患者が立ち直って日常生活を取り戻している。しかし、我が国の現状は、効き目が50%以下しかない抗うつ剤を使い、ために改善は見られず患者は日々増加し続けている。アメリカのTMS装置が画期的に効果があると判明しながら、日本は臨床実験からと称していっこうに取り入れる気配がない。理由は、利権か、それともビジネス故か・・・・。ともあれ、ゆるみ歪んだ日本という国は、うすら寒い国である。願わくば一日も早く日本にも導入される日が訪れる事を願うのみである。

 

扁桃体が、芸術・文学・そして犯罪に如何に深く関わったかの事例として、私は『モナリザ・ミステリー』という本の中で詳しく書いた事がある。その代表的例として、ダ・ヴィンチ三島由紀夫、〈少年A〉の三人を挙げ、扁桃体を共通のキーワードとした不気味なトライアングルを立ち上げた。私たちが自分の意志だと思っている事が、脳科学的に見れば、扁桃体が或る条件下において生じて見せた、ある反応の一様態であるという事は、考えてみれば怖いことである。煎じ詰めていくと〈自分の存在とは何か?〉のその先に、無化が立ち現れてくるからである。ともあれ、このままで書き終えれば、今回のメッセージはいささか暗いものとなる。ここは寺田寅彦氏の俳句を挙げて終るとしよう。あれ程の明晰な頭脳から・・・何故?と思わせるような迷句である。こと程さように脳は迷宮・・・と思わせる名句である。

 

蝸牛(かたつむり)の 角がなければ のどか哉

 

睾丸に 似て居るといふ 茄子哉

 

 

補記:かくいう私の24歳の頃に詠んだ俳句もついでに挙げておこう。

 

 

蜻蛉(とんぼ)捕り 十年ぶりの 帰宅哉

 

 

 

 

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