浅草六区

『光の旅人』

……ここに1冊の写真集がある。1932年から1935年の僅か数年間の短い間に写真雑誌『光画』に幻の夢見のような写真を連続的に発表しながら、突然、本人自身が幻のように消えてしまった写真家・飯田幸次郎の写真集である。浅草六区に住み、木村伊兵衛に人工着色の技術を伝授したのも飯田幸次郎であるが、忽然として、台頭しつつある写真の表舞台から消えてしまったのである。…………私がその写真家の存在を知ったのは昨年の秋であった。私のアトリエに毎月届く『がいこつ亭』なる私家版の薄い文芸冊子があるが、詩・映画評論・短歌・小説など多彩な内容が詰まっており、その質は高く私は毎回楽しみにしている。ある日届いたその冊子の中に、私の40年来の知人である中村恵一さんが「飯田幸次郎を発掘」と題して、その消えた写真家について詳しく言及してあり、なかなかに興味深かったのであるが、私はそこに掲載されていた飯田の二点の写真をみて、この写真家がただ者ではない事を直感した。……その数日後に、私は高島屋の個展に中村さんをお呼びして来て頂き、さらに、この幻の写真家―飯田幸次郎について詳しく教えて頂いた。……それによると、最初にこの人物に強い興味を持ったのは、写真評論で知られる飯沢耕太郎氏であった。そして、飯沢氏から中村さんは飯田幸次郎の消えた後の追跡調査を依頼されたのである。……しかし、中村さんの難航しながらも徹底した追跡によって、飯田幸次郎のその後の謎に光が当てられるようになり、今回の写真集が刊行されるに至ったのである。

 

「……看板と建物ばかりで、人の影すらもない、この写真。夜半にふとみた夢の中に、突然現れたようなこの光景。……パリの通りを描いたバルチュスの絵をふと連想したが、あの絵のようなマヌカンめいた人物たちは、ここにはなく、全くの無人……。まるで芝居の書き割りでもあるような。そして人間の視点からは僅かに外れた高みが呈する、不思議な静寂と懐かしさ、そして不安。……この不安は岸田劉生の『切り通し』にも通じる不穏と犯意があるが、やはり、画面を第一に領しているのは郷愁であろう。懐かしいが、しかし今まで見た事のない不思議な風景、不思議な時間。……そして死者たちが静かに佇んでもいるような…………。私は中村さんが飯田幸次郎の写真集を大変な苦労をされて刊行したというのを伺った時に、購入を申し出たのであるが、初版は私が最後ですぐに絶版になってしまったという。

 

 

飯田幸次郎「看板風景」1932年 

 

 

前回のメッセージでも書いたが、先日、川田喜久治さんの写真展を観に.東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」を訪れた。オ―プニングで沢山の来客であったが、私は一点一点、川田さんの表現世界の強度な暗部に入るべく、あたかも現代の『雨月物語』を読むような覚悟で集中して視入った。川田さんの写真には観る度にひんやりとする発見がある。…「美しい、そしてぞっとするような光景」……海外の美術館のキュレタ―達の多くもまたこのように高く評価している川田さんの写真世界は、その表象の皮膚が実に厚い。この厚さは、以前に川田さんと並べて書いたゴヤに通ずる厚さである。……ゴヤの中には、その後のシュルレアリスムや、更にはピカソまでが既に内包されていると鋭く指摘したのは、美術評論の坂崎乙郎や澁澤龍彦といった慧眼の人達であるが、私が川田喜久治という異才の人に視るのも、そういった意味の厚みであり、昨今ますます貧血と迷走の観を呈している写真の分野を尻目に、更には無縁に、川田喜久治さんの強靭な厚みが更に極まりを見せてくるのは必然であり、また事実でもあるだろう。……光の謎を直視している川田さんのみの独歩が、写真が未だ魔術的であった時代の韻を帯びて、現代の陰画の様を光を刈り込んで放射してくるのである。

 

私は前回、今回と続けて写真について記してきたが、この熱い想いは、数年ぶりとなる水都幻想の街―ヴェネツィアへの写真撮影行が控えているからなのかもしれない。また、今年に予定されている数々の画廊での個展、そして、6月から9月の長期にわたって、福島の美術館―CCGA現代グラフィックアートセンターで開催される予定の、大規模な私の個展が控えているからなのかもしれない。そう、つまり私は年始めから熱くなっているのである。……一昨年は中林忠良氏、そして昨年は加納光於氏、そして今年が私の個展と、この美術館では作家を密に絞って個展を開催しているが、これから、この個展に多くの時間を私は割いていく事になるであろう。出品作は私の版画を主として、近作のオブジェも出品する事になっている。……この個展については、折々にまた触れていく予定である。

 

 

 

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『晴子・浅草・マジョーレ湖』

ミュゼ浜口陽三で今月20日まで開催中の『絶対のメチエ ― 名作の条件』展は、連日たくさんの来場者で賑わっている。先日、私が行った時には美術大学の学生が目立った。おそらく版画家を目指しているのであろうが、皆が熱心に見入っている。普段は名作と称されるような作品に接していないのか、眼と精神の飢えが彼らを沈黙させている。パソコンの画像ではなく、実際に本物の前に立って直視する事。豊かなる体験とは、そういうことである。地方の美術館での巡回展を望む声もあるが、20日で本展は終了する。未だご覧になっていない方には、ぜひのご高覧をお勧めしたい充実した展覧会である。

 

先日の小保方晴子嬢30歳の会見は、サムラコウチよりは面白かったが、底意が見え見えの浅いものであった。純粋客観をもって諒とする科学者と比べ、主観・思い込みの激しさを常とするこの女性。適性を欠いたこの人物をリーダーに配した理研。そのどちらも茶番の極みであるが、そこに巨額の税金が投じられている事の実態は、そのままこの日本の構図の断片であろう。

 

先の会見、その感想を三島由紀夫の戯曲風に書けば、以下のようなものになるであろうか。「あぁ、晴子お嬢様。貴女のその眼にかかれば、この世で見えないものなど何もないのですね。その水晶体の硬い煌めきの奥には、バビロンの空中庭園も、アレクサンドリアの大灯台も、それから・・・・始皇帝が夢見た不老不死の火の鳥の、高みを翔ぶ銀の羽撃きさえも、何もかもが、ありありと立ち上がるのですわ。今、そこに無い物が、あぁ、晴子お嬢様、貴女にだけはそれが見える!!・・・・それは観念や幻視のうつろいを越えた、もはや一篇の詩だわ!!そこに孤独や罵倒があるとしたら、それこそが恩寵の賜物・・・・、そう、それこそが絶対の恩寵なのですわ。」

 

昨日、私は江戸期に生きた二人の天才の墓が見たくなり、浅草へと向った。二人の名は、平賀源内と葛飾北斎。北斎の墓があるのは誓教寺、しかし源内の墓は橋場という所に在るが、寺は移って墓のみが史跡としてある。源内のように多才にして風狂たらん事を欲し、また北斎のように突出した存在となる事を私は自らに課して来た。しかし未だ未だ道半ばである。北斎の墓の側面に彫られた辞世の句「人魂で  ゆく気散じや 夏の原」の文字が実に美しい。帰りに浅草六区に立ち寄り、かつてその地に聳え立っていた凌雲閣(浅草12階)を想像のうちに透かし見た。悪魔が人間たちに異界の幻妙さを見せるために建てたといわれるこの高楼。実際に建てたのはイギリス人の建築家WK・バートン。この人物は後に日本全国の水道局の建物を作り続けたのであるが、それらの建築がことごとく美しく、又、幻想的である。誰もこの人物に着目していないのであるが、私は時間を作って、この幻視の建築家の生涯を調べてみたいと思っている。

 

さて、先に私はバビロンの空中庭園について触れたが、それを現実に模して建てた場所が、イタリアとスイスの国境近い、マジョーレ湖の水上の島に存在する。1630年頃に貴族のボロメオ家の当主カルロ三世が奥方のために造営した別荘があり、三つの島(イゾラ・マードレ・イゾラ・ペスカトーリ・イゾラ・ベッラ)から成る。庭園は五階層のテラスで豊富な植物が茂り、雉や白孔雀が遊歩している。島の一番高いテラスには大小の彫刻群がそそり立つ円形劇場やグロッタの洞窟が在る。私の今回のイタリアでの最初の撮影は、このマジョーレ湖から始まる。20年前の夏に私は一度この地を訪れているが、また再び来ようとは!!この場所に関する記述はジャン・コクトーの『大膀びらき』や、澁澤龍彦の『ヨーロッパの乳房』所収の「マジョーレ湖の姉妹」にその詳しい言及がある。ご興味のある方はご一読をお勧めします。

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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