川田喜久治

『断章・二つの展覧会を観て』

 

先ずは写真展から。…先日、東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火-氾濫』展(4月7日まで開催)を観に行った。会場の展示が、中平卓馬の作品世界の固有な鋭さを映すように工夫がされていて、その知的配慮とセンスの良さに先ず感心する。

 

 

 

…中平の写真作品は、我が国を代表する写真家の一人川田喜久治の写真が持つ作品世界と共に、不穏な気配、凶事の予感に充ちていて特に惹かれるものがある。しかし川田の作品が個々に時代性を孕みながらも、普遍性という先の時間にもその効力を十分に併せ持っているのに対し、中平のそれはあくまでも60年代のオブセッションの闇に、そのレンズの切っ先が、あたかも同士討ちのように突き刺さっている、そう私には見えたのであった。

 

中平の言葉「…写真は本来、無名な眼が世界からひきちぎった断片であるべきだ」と語っているが、この世界という言葉はこの場合、彼が生きた60年代のそれに錐を揉むような鋭い集中を見せている。…中平の写真には、まるで殺人犯が逃げる時に視えているような風景の映しといった感の脅えがあるという意味の事を、以前に写真評論家の飯沢耕太郎さんに雑談の折りに話した事があったが、その特異なものが何から由来したものなのかを見つけ出す事が、今回、展覧会を訪れた主たる目的であった。…………広い会場の中で寺山修司と組んだ連載の雑誌が幾つか展示されていたのを見た瞬間、「これだ!」と閃くものがあった。…寺山の特異な言語空間(文体)を視覚化すれば、それはそのまま中平のそれと重なって来る。…もう一度、私は「これだ!」と思うものがあった。…寺山の文章が持っている固有な犯意性(犯人は本能的に北へと逃げる-北帰行の心理)とそれが重なったのである。……もう1つ思った事は、川田喜久治の作品各々が一点自立性を持っているのに対し、中平のそれは、引きちぎったメモの切れ端のように見えた事であった。…正に先に書いた中平の言葉そのものを映すように。……

 

 

先日の29日に、ア-ティゾン美術館で開催する展覧会『ブランク-シ/本質を象る』展の内覧会に行く。会の開始は3時からであるが、夕方に用事があるので午後の早い内に美術館に入った。取材中のプレス関係の人が沢山いたが、会場が広いので作品に集中して観る事が出来た。…先の近代美術館の展示と同じく、実に展示に配慮が行き届いていて感心する。展覧会への気合が伝わって来るというものである。…作品の高さ、そして最も大事な照明の具合。その配置。その何れもが作品各々に与えているのは、美というものが放つ超然とした品格である。

 

……周知のようにブランク-シは、ロダンから弟子になる事を求められたが拒絶した。ここに近代とそれ以前との明らかな分断がある事を彼の表現者としての本能が直観したのである。その独歩への意志と矜持と自己分析力が、彼をして時代を画するモダニズムの高みへと押し上げた。…そして、彼の作品の本質が意味するものを見極めていたのはマルセル・デュシャンである。その関係の豊かな物語りが、或る一角の展示の妙に現れていて、いろいろと再確認する機会ともなったのであった。

 

…内覧会の特典は展覧会の図録が付いて来る事であるが、今回の図録は読み応えのある内容で実に面白く、私は帰宅してから一気に読み終えてしまった。この図録はブランク-シについて考える時に今後の一級の資料ともなるに違いない。………中平卓馬の展示では、表現者として写真にも挑んでいる私にいろいろと考える機会を与えてくれ、またこのブランク-シ展では、今、正に制作中の鉄の作品、そして今、構想中の石の作品への善き刺激となる揺さぶりを与えてくれたのであった。…質の高い展覧会を折に触れて観る事は大事な事である。…中平卓馬展は今月の7日迄開催。…そして、このブランク-シ展は始まったばかりで7月7日迄の開催である。

 

 

…最近は制作に入り込んでいるので、なかなか出掛ける事は叶わないが、今、板橋区立美術館で4月14日迄開催している『シュルレアリスムと日本』展と半蔵門にある執行草舟コレクション/戸嶋靖昌記念館で4月30日から開催する予定の『砂の時間』展だけは、ぜひ観ておきたいと思っている。…………実は今回のブログでは、『一から三へと拡がっていく話』と題して昨今の事件騒動について書く予定であり、この展覧会の事はその序章のつもりで書き始めたのであるが、体力と字数がここで燃え尽きてしまったようである。…次回は、その事件の話から、優れた芸人だけが持っている性(さが)と、その狂気について具体的に書く予定。……その頃はさすがに桜も散っている頃か。ともかくも、…乞うご期待である。

 

 

 

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『Pensione Accademia―Venezia』

①オミクロンの猛威で人心が暗く鬱々としている昨今であるが、それを払うようなニュ―スが先日、海外から飛び込んで来た。樋口一葉、三島由紀夫、浅草十二階、永井荷風……等と並んで、このブログでも度々登場して頂いているダンスの勅使川原三郎氏が、ヴェネツィア・ビエンナ―レ・ダンス部門2022で金獅子賞を受賞という知らせが入って来たのである。氏の今までの実績や実力を考えれば当然と云えるが、やはりこれは快挙であろう。生前に親しくさせて頂いた池田満寿夫氏や棟方志功氏はヴェネツィア・ビエンナ―レ版画部門の国際大賞を受賞しているが、またそのお二人とは違った印象が、勅使川原氏のこの度の受賞にはある。たぶん、空間芸術のみの美術の領域と、勅使川原氏のように空間と時間軸を併せ持った表現との、それは違いであろうか。それとも同時代を生きている事の、それは違いででもあろうか。私はご縁があって、8年前から荻窪の『カラスアパラタス』で、氏と佐東利穂子さんによる絶妙な、そして毎回異なった実験性を追求した身体による美の顕在化、美の驚異的な詩的叙述を目撃して来たが、氏の、そして佐東さんとのデュオが如何なる高みまで登り詰めて行くのか、興味が尽きないものがある。

 

 

……勅使川原氏の金獅子賞受賞の知らせが入って来た時、まさに偶然であるが、アトリエの奥にしまってあった、初めてのヴェネツィア行の時、私が厳寒の冬のヴェネツィアで二週間ばかり滞在していたホテル―Pensione Accademiaのパンフが出て来たので、往時をまさに想いだし、次回の撮影の時はまた泊まろう!……と思っていた時であったのは面白い偶然である。運河に面したこのホテルは、もとロシア領事館だった建物で、庭に古雅を漂わせた彫刻が在り、何より部屋が広く、静かで、しかも安いという穴場のホテルなので、このブログの読者には、機会がある時はぜひにとお薦めしたい宿である。アカデミア橋近くに在る、須賀敦子さんが常宿にされていた『ホテル・アリ・アルボレッティ』も瀟洒で良いが、私がお薦めする宿は更に静かである。念のために住所を書いておこう。

 

 

1―30123 VENEZIA-Dorsoduro 1058-ITALIA

 

 

……私が最初にヴェネツィアを訪れた時(今から30年前)は、今のようなネット通信のない時だったので、住んでいたパリの部屋から電話で直に滞在の予約が簡単に出来、こちらの希望する条件も詳しく話せ、何より彼方のヴェネツィアからの肉声や空気感が伝わって来て、まさに旅の始まりといった趣があったものであるが…………。ヴェネツィアを訪れるならば、ぜひ冬の季節をお薦めしたい。……私はかつて『滞欧日記』なるものを書いているが、そこには次のようないささか古文調で書いた記述がある。「……1991年2月5日、薄雪の舞う中、夜半に巴里リヨン駅を立ち、一路ヴェネツィアへと向かう。深夜、雪その降る様いよいよ盛んなり。スイスの国境を越え、アドリア海へと至り、早朝にヴェネツィア・サンタルチア駅に着く。眼前に視る。薄雪を冠した正に現実が虚構の優位へと転じ、妖なるも白の劇場と化している様を。」

 

……またこうも書いている。「冬のヴェネツィアの荘厳さは、正にリラダン伯爵のダンディズムを想わせるものがあって実に良い。それに比べ、夏の真盛りのヴェネツィアは、腐敗を露にし、全身で媚びた娼婦のそれである」と。……これは今から想うに、私の好きな高柳重信の短詩「月下の宿帳/先客の名はリラダン伯爵」……から連想して書いたものであろう。とまれ、次回のヴェネツィア行は、冬のカルナヴァレの時に撮影に行き、フェルメ―ルが使用した暗箱を再現した器材を使って、原色の内に息づく狂気を引き出そうと思う。写真家の川田喜久治さんは、「ヴェネツィアでは、作品とするに足る写真を撮る事は実に難しい」と言われた事があるが、その至難の切り裂ける角度のまさぐりを、私は次回の撮影行の課題としているのである。

 

 

 

 

②昨日、東京都庭園美術館に行き、開催中の『奇想のモ―ド・装うことへの狂気、またはシュルレアリスム』展を観た。……庭園美術館学芸員の神保京子さんからお年賀と一緒に展覧会のご招待状が届いたので、この日を愉しみにしていたのである。

 

 

 

 

 

神保さんは特にシュルレアリスムと写真の領域に深く通じ、東京都写真美術館の学芸員の時に企画された『川田喜久治―世界劇場』展はあくまでも唯美的で、かつ危ういまでの毒があり圧巻であった。今まで観た展覧会の中でも特筆すべき完成度の高さであったと記憶する。……その時に私は初めて川田さんと神保さんにお会いして以来であるから、思えばお二人とは永いお付き合いになる。川田さんの写真は、以前に北鎌倉の澁澤龍彦さんのお宅で写真集『聖なる世界』(1971年刊行)を拝見した時に端を発しているが、その重厚な深みある川田さんの表現世界を、神保さんは見事に展覧会としてプロデュ―スされ、その手腕とセンスの冴えは正に〈人物〉である。そして、今回の庭園美術館での切り口も、シュルレアリスムとモ―ドを融合し、そこに「狂気」「奇想」という芸術表現に元来必須なものを絡ませ、この展覧会を、最近稀に視る内容へと鮮やかに演出したものであった。

 

ダリ、マン・レイ、デュシャン、コ―ネル、エルンスト……など既に歴史に入って久しい彼らの作品が、モ―ドを切り口とする事で鮮やかに別相へと転じ、むしろその本質が浮かび上がって来ることに私は唸った。ある意味、それらは今日現在形の新作となるのである。……以前から私は、展覧会の企画の妙は比較文化的な視点で着想するか否かで決まると度々このブログでも書いているが、その事が正解である事を、この展覧会は見事に証しているのである。その事を示すように会場はたくさんの来館者で埋まり、盛況であった。

 

 

 

 

以前に練馬区立美術館で開催された『電線絵画展』の企画をされた学芸員の加藤陽介さんと、昨年末に美術館でお会いして、開催中の『小林清親展』(1月30日迄開催中)を拝見する前にお話ししたのであるが、「むしろ美術愛好者や来館者の方が、美術館の企画者よりも先をよんでいる」という、加藤さんの言葉には、企画者としての鋭い分析があると私は思った。……昨今、ネットによる情報化が進み、美術館不要論なるものまで出ているが、それはあまりに不毛なものがある。要は、馥郁とした、そして先を仕掛けるセンスを持った学芸員のいる美術館にはたくさんの人が訪れるのである。……人は、やはり現物が展示してある善き展覧会を、間近で観たいのである。……今回の図録に神保さんが興味深い論考を執筆されていて、私はそれも勉強になり、多くの示唆を頂いた。

 

……それにしても、今回の展覧会図録は実に造本が美しい。そう思って見ると、やはり青幻舎が作ったものであった。青幻舎の代表取締役へと、すっかり偉くなってしまった田中壮介氏は、私が編集人の第一人者として推す人であるが、京都に行かれてからもお元気なのであろうか?東京時代は青山にあった青幻舎に遊びに行き、お仕事の邪魔をしたものであったが、……氏とは何故か無性に話したくなる時がある不思議な人である。今度、京都に行く機会があるときは、ぜひ深夜まで話そうと思う。とっておきの怪談話などをしてみたいのである。……というわけで次回のブログは、泉鏡花の怪談夜話、祗園の芸妓が深夜に語ってくれた怪談実話、ヴェネツィアの今も現存する謎の舘の話などを……書く予定。……乞うご期待。

 

 

 

 

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『かくもグロテスクなる二つの深淵 ― ゴヤ×川田喜久治』

ゴヤ

……ここ最近の私のブログは、イタリアやパリを舞台にした内容だったので、このコロナ禍で海外に行けないために、良い気分転換になって面白かった!というメールを何通か頂いた。とは言え私が書く旅の話は、善き人々にお薦め出来るような明るいガイドブックではなく、不思議な話や奇怪な話を扱った実体験、云わば『エウロ―ペの黒い地図』といったものであろうか (※エウロ―ペは「ヨ―ロッパ」の語源)。しかし、だからこそ面白いと人は言ってくれる。まぁ、それに気をよくした訳ではないが、今回はスペインからこのブログは始まる。

 

 

………………………………………………その時、私が乗った飛行機は南仏の上空を飛び、ピレネ―山脈を越え、一気にスペインへと入った。今まで緑の豊饒に充ちていた大地の色が、突然、荒涼とした赤へと一変する。「ピレネ―を越えたら、そこはもうヨ―ロッパではない」という言葉が頭を過る。眼下はもはやバルセロナである。

 

バルセロナ、……ここに来るには、1つの旅の主題というものを私は持っていた。この地に古くから伝わる呪文のような言葉「……バルセロナには今もなお、一匹の夢魔が逃れ潜んでいる。」という言葉の真意を掴む為に、ともかく現場を訪れなくては!という想いで、私はこの地に来たのであった。……ちなみに夢魔という特異な怪物は、深夜に女性の寝室に忍び入り関係を持つが、その女性が宿した子供は天才になる」という伝承がある。……参考までに『夢魔』という絵を描いた画家ヘンリー・フュ―スリ―の作品をあげておこう。

 

 

 

 

 

 

……美術史を俯瞰して観ると、スペインは特異な立ち位置にある。ルネサンスの影響やそれ以後の繋がりを絶って、謂わば単性生殖的にこの国からは、特異な美の表現者が輩出しているのである。ピカソダリミロガウディ ……。私は特異なその現象と、この呪文めいた言葉に何らかの関連を覚え、地勢学、地霊との絡みも合わせて、この現場の地で考えてみたかったのである。そして、その中心にガウディを配し、夢魔の潜み息づいている場所を暗いサグラダ・ファミリア贖罪聖堂に見立て、1ヶ月ばかりの時をバルセロナで過ごした。……結論はそれなりに出し、幾つかの文藝誌や自著の中にそれを書いた。しかし、私はあまりに近代から現代に焦点を絞り過ぎていた観があったようである。……アンドレ・マルロ―の秀逸な『ゴヤ論―サチュルヌ』の最終行「……かくして近代はここから始まる。」という暗示に充ちた一文を加えるべきであった。……それをマドリッドのプラド美術館に行き、ゴヤの『黒い絵』…画家が晩年に描いた14点からなる怪異と不条理と謎に充ちた連作を目の当たりにして、それを痛感したのであった。1つの極論を書くならば、ピカソ、ダリ、ミロ、ガウディ……といった画家のイマジネ―ションの原質は、ゴヤのそれから放射された様々な種子に過ぎなかったと、今にして私は思うのである。一例を挙げればピカソの『ゲルニカ』をゴヤの『黒い絵』の横に配せば、私の言わんとする事が瞭然とするであろう。その深度において『ゲルニカ』は、『黒い絵』に遠く及ばない。ダリ然り、ミロ然り、ガウディ然り……である。極論に響くかも知れないが、しかしゴヤの『黒い絵』の前に実際に立った人ならば、私の言わんとする事に首肯されるであろう。ゴヤを評して「……かくして、近代はここから始まる。」と書いたマルロ―の視座がプラドに到ってようやく実感出来たのである。ことほどさようにゴヤは重く、何より強度であり、そのメッセ―ジに込めた、この世の万象を「グロテスク」「妄」「不条理」とするその冷徹な眼差しは、近・現代を越えて遥か先、つまりこの世の終末までも透かし視ているのである。……私は、このプラドでの体験を経て、ゴヤが晩年の『黒い絵』と同時期に描いた、その主題が最も謎とされている銅版画集『妄―ロス・ディスパラ―ティス』のシリ―ズを欲しいと思った。しかし、他の版画はスペインにあっても、『妄』のシリ―ズは無かった。……そして先のブログで書いたパリのサンジェルマン・デ・プレに移って間もなく、私は近くにある版画商の店で、まるで導きのようにして『妄』の連作版画の内の七点を購入したのであった。私はゴヤの凄さと、その深度を知ってからは、数年間は熱に浮かされたようなものであった。……しかし、現代の表現者の中に、しかもこの日本で、その遺伝子と言おうか、ゴヤに通じる存在を知ったのは、これもまた導きであろうか。……その存在こそが、写真術師―川田喜久治氏なのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

川田喜久治

……写真術師・川田喜久治氏の事を知ったのは、北鎌倉にある澁澤龍彦氏の書斎であった。私は氏の写真集『聖なる世界』に初めて接し、その深い黒のマチエ―ルに驚嘆し、かつて私も訪れた事のある、ボマルツォの怪異な庭園や、このブログでも書いたイゾラ・ベッラの奇想なバロックの世界の危うさと妖しさ、それらが深部に精神の歪んだグロテスクの相を帯びて、写真集の中に見事に封印されているその様に、言葉を失った。そして、写真という妖かしの術が持つ可能性の一つの極をそこに視たと直観した。

 

それ以前には、暗黒舞踏の創始者―土方巽を被写体にした細江英公氏の写真集『鎌鼬』を第一に推していた私であったが、川田氏の『聖なる世界』は、それを揺るがすに十分な強度と艶を持って現れたのである。……写真集『鎌鼬』は、種村季弘氏の紹介で面識のあった土方巽夫人の元藤燁子さんから初版本を頂いており、私は帰宅してから『鎌鼬』を開き、その日に目撃した川田喜久治氏の作品との異なる黒について想い、幾つかの考えが去来した。

 

……川田喜久治氏の写真作品を強引ではあるが一言で言えば、ポジ(陽画)にして、その内実に孕んでいるのはネガ(陰画)で立ち上がる世界であると言えようか。誰しも経験があるかと思うが、白黒が反転したネガフィルムに映っている世界は何故あのように不気味なのであろうか。見知っている親しい筈の家族も不気味、風景も、群像もみな不気味である。ある日、私は川田氏にその話をした事があった。……想うに、世界の実相とはあの不気味さに充ちた世界(まさに異界)であり、光は、世界のその実相を隠す為に実は在るのではないか?……という話である。

 

……さて、その川田喜久治氏の個展が今、東麻布の写真ギャラリー『PGI』で、まさに開催中(4月10日迄)である。タイトルは『エンドレスマップ』。……先日、私は拝見したのであるが、このコロナ禍の時期を背景にして観る氏の作品は、正に光によって刻まれた黙示録、しかも、様々なプリント法を試みた実験の現場としても画廊は化している。個展のパンフに記された川田氏の文章「………それぞれのプリントから表情や話法のちがいを感じながら、魂の震えに立ち止まることがあった。寓話になろうとする光も時も、共鳴する心と増殖を始めていたのだ。いま、寓話の中の幻影は、顔のない謎へと移ってゆく。」

 

……この自作への鋭い認識を直に映した、今、唯一お薦めしたい貴重な展覧会である。

 

 

 

川田喜久治作品展『エンドレスマップ』

会期2021年1月20日(木)―4月10日(土)

日・祝休館 入場無料

11時~18時

会場・『PGI』東京都港区東麻布2―3―4 TKBビル3F

TEL 03―5114―7935

 

日比谷線・神谷町駅2番出口から徒歩10分

大江戸線・赤羽橋駅から徒歩5分

南北線・麻布十番駅からも可能。

 

 

 

 

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『大規模な個展終了、そして次へ……』

やく3週間の長きに渡って開催された日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの個展が先日、盛況のうちに終了した。今回で12回目になるが、夏にアトリエに来られて「出品作品全てが、今までで最も高い完成度を示している」と分析された、美術部の福田朋秋さんの予見通り、個展初日のオ―プンと同時にコレクタ―の人達が次々に来られ、また、美術館も運営され、私の作品と3年前に出会って以来、既に50点以上収蔵されているS氏が、秘書の方と共に来廊され、今回も鋭い直感力と眼識を持ってたちまちの内に作品が選ばれていき、初日の午前の2時間だけで早くも10点以上の作品が、その人達のコレクションに入っていった。それが幕開けとなって、会期中に都内、また遠方の各地からも、連日数多くの方が来られ会場は賑わった。そして、この賑わいは年毎に高まりを見せている。……私は、「作品の作者は二人いる」という考えを強固に持っている。その一人は、まぎれもなく作品を立ち上げた私。そしていま一人は、それをコレクションし、日毎に様々なイメ―ジを組み立て、長い年月をかけて、その作品と対話していくコレクタ―の人達である。コレクションするという行為はまさしく創造行為であり、特に私の作品をコレクションされている人達は、その意識の高みが高く、美意識が強いという感想を、私は経験的に抱いている。作品とは本質的に匿名であり、故に作品を観て、またコレクションに何れを決めるか!……と考えている時の、会場でのその人達が放つ「気」は真剣そのものであり、鋭い空気が会場に充ちている。作品の前で、いま彼らは自身の観照の意識と向き合って対峙している!……会場にいて、私が最も手応えを覚えるのは、まさにこの瞬間なのである。

 

…………かくして、3週間が過ぎ、個展最終日がやって来た。毎日会場にいる私の疲労も、さすがにピ―クを迎え、最終日は静かな終わり方をすると思っていた。…………午前中から画廊の奥の小部屋では、私の次に開催される個展『現代美術の室礼―村山秀紀の見立て』で特別上映される映像インスタレ―ション『糸口心中』の為の器械設置で、美術家の束芋さんが設営準備に取り組んでいる。そして、個展をされる、我が国の表具師の第一人者である村山秀紀さんが、照明などの事で美術部の人と奥で打ち合わせをされている。……村山さんと「見立て」についての話をし、意見が一致する。どの表現の道も詰まる所の着地点と、その深度は同じなのである。ただ、多くの表現者たちがそれに気づかず、狭い概念を安易になぞっているだけである。……個展最終日も夕方に近づいた頃に、写真家として私が最も尊敬している川田喜久治さんが来られた。川田さんが笑みを浮かべながら私にA3大の硬いカルトンに入ったものを渡された。開けて見ると、昨年の個展の際に私を被写体として背景にオブジェを配した、私のポ―トレ―トを厚い和紙にプリントした貴重な作品である。裏面には川田さんのサインが書かれており、氏の代表作に加え、私はまた一点、貴重な作品を川田さんから頂いたのであった。暫く歓談されて川田さんは帰られた。そして画廊にまた静寂が訪れたと思ったのも束の間、個展最終日を知って訪れた人達で会場が再び人群れで埋まった。……その中に、私は一人の人物(しかし、最もお会いしたかった人の一人)が来られているのを見つけ、熱いものが込み上げた。……アメリカの美術界でもその名は知られる存在であり、私のオブジェを絶賛したクリストやホックニ―とも親しいコレクタ―のW氏が、昨年に続き来廊されたのである。話を伺うと、先ほど成田に着かれ、その足で私の個展に直行された由。……さっそく、展示作品の中から鋭い直感力で、たちまちの内にコレクションの数々が選ばれていった。……かくして、美術画廊Xでの個展は終了した。……来年の会期も早々と決まり、私は福田朋秋さんに、来年秋の個展のタイトルを書いた紙をそっとお見せした。生き急ぐ私は、もう次を見据えているのである。そのタイトルはまだ秘密であるが、次の個展では、更なる展開と実験的な拡がりを暗示すると思われるそのタイトルを見て、福田さんはすぐに私の秘めた意図を了解された。

 

…………11月12日~30日迄は本郷のギャラリ―884で、そして12月6日~11日迄は鹿児島の画廊レトロフトで3年ぶりの個展が開催され、今年の私の表立った活動は終わる。しかし、私の頭の中では、来春刊行予定の初の詩集の為の構想がじわじわと沸き上がっており、またオブジェの新たな領土への模索が既に始まっているのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『川田喜久治・勅使川原三郎―表現の深度に沿って』

個展が終わり、アトリエに静かな制作の時間が戻って来た。……語り得ぬ物、立ち上がらんとする何物かを捕らえんとする、イメ―ジの狩人のようなもう一人の私に変わる事の、緊張と静寂に充ちた至福の時間。…このアトリエでは満ち足りたものと、逃がすまいとする焦燥が混在化して、何とも不思議な時間が流れていく。……………その制作の合間を縫って、二日間続けて、以前から楽しみにしていた写真展と公演を観に出かけた。写真の川田喜久治作品展「影のなかの陰」と、勅使川原三郎ソロ公演「青い記録」である。

 

……川田喜久治さんから個展の度に頂くオ―プニングパ―ティ―のお知らせは、いつも決まって実に昂るものがある。私はよほど本物の表現に接する事に飢えているのであろうか、美術家の個展などには全く見向きもしない私であるが、こと川田さんの場合だけは、暦にその日時を書き込み、逸る気持ちを抑えるようにして、その日を待つのである。 ……今回の個展のタイトルは「影のなかの陰」。実に上手いタイトルで、やられた!!と思った。英語ではshadowの一語しかないが、日本語だと書き分けによって、更に〈かげ〉〈蔭〉〈カゲ〉〈翳〉という文字までも孕んで自著のテクストの中に使い分け、そこに複雑な表情を持った陰影のマチエ―ルが立ち上がる。短い言葉の中に、川田さんが抱く「闇の多彩な透層」というものへの様々な拘りと凝視的な視座が伝わって来て、「タイトルとは、こうでなくてはならない」という感をあらためて持った。この短いタイトルだけで、既にして自らの川田喜久治論が饒舌に内包されているのである。……東麻布にある会場の「PGI」の壁面には、新作の写真作品が、やや間を詰めながら、通過する魔群のような表情を帯びて数多く展示されていた。……昨年辺りから、川田喜久治さんはインスタグラムを始められた由であるが、気軽に発信可能という、その意識のフットワ―クの良さを掌中の武器として、また新たな表現世界を顕在化したように思われる。昨年の高島屋の個展に川田さんが来られた際に、私はその被写体として撮られ、それは数日後には川田さんのサイトにたちまちアップされた次第であるが、私もまた、虚構と現実とのあわいに潜む実体不明な住人の一人と化したのであった。……会場で、黒い仮面を付けた、なんとも強い黒の深度を帯びた女性の写真があり、気になったので川田さんに伺うと、その黒い仮面は、ゴヤの版画『ロス・カプリチョス』中に描かれている仮面を実際に作って、妖しいモデルに付けさせた由。……あぁ、確かにあの作品の中にこの仮面があった……と思いが至ると、そこまでゴヤに入り込んでおられたのか!という、その徹底に驚嘆する。私はかつて「……かくして時を経て、ゴヤの遺伝子は間違いなく川田喜久治のそれへと受け継がれた。」という主旨の文を書いた事があったが、その想いをまた新たにしたのであった。……さて川田喜久治さんの写真であるが、そのほとんどがニュ―ヨ―ク近代美術館やテ―ト・モダン……また国内外の主要な美術館に収蔵されているので、なかなかに入手困難であるが、私のアトリエには奇跡的に、その川田さんの代表作二点(ボマルツォの怪獣庭園の巨大な怪物の顔と、日蝕の闇夜を飛ぶ奇怪極まる怪しいヘリコプタ―を撮した写真作品)が、ルドンやホックニ―、ヴォルスなどと共に掛けてあり、我がアトリエの空間をいよいよ緊張の高みへと誘って私を鼓舞してくれるという、コレクションの中でも、極めて重要な作品であり、その黒のメチエは群を抜いて深く、私に様々な示唆を与えてくれるのである。……さて、この個展は7月5日(金曜)まで。お問い合わせは会場PGIまで。入場無料にて開催されているので、ご覧になられる事を強くお薦めする次第である。

 

……川田喜久治さんの個展を拝見した翌日の6月1日の夕刻、私は荻窪にいた。この荻窪にあるスタジオ「アパラタス」を拠点として、まさしくアップデイト(更新)するように、公演の度に新たな身体表現の未踏の極へと迫って留まる事を知らない、勅使川原三郎氏のアップデイトダンス公演(62作目)『青い記録』のソロ公演の、その日は最終日なのである。いつもながら会場は既にして満員。公演は2部構成(「光の裏側」と「白い嘘」)から成る。……川田喜久治さんの闇の透層への拘りは、写真という2次元であるが、このダンス公演では、川田さんとはまた異なる勅使川原氏の拘りを見せて、3次元の舞台空間に妖しくも劇的に開示されていく。……始まりは闇。……そして薄い光が射すや、舞台空間はあたかも、かつて視た銀閣寺の白砂の枯山水の夜の面のような清浄とした表情が点り、その立ち上がりと共に、影から実体へと勅使川原氏の姿が顕と化していく。……そして様々な光のマチエ―ルの移りと共に、身体による様々な変幻が、不思議な時間感覚の中で揺れ動く。そして、一条の過剰な、刃の切っ先にも似た〈或る意思〉を帯びたかのような鋭い光が、勅使川原氏の身体上部(丸い頭部、肩、腕の直線、……指先の先端まで遍く)を貫いていく。……次に一転して、会場を切り裂くように響く、細い板木が執拗に何度も倒れる音。(これもまた聴覚から強引に入り込んで観者を揺さぶる一つのダンスか!!)…………倒れるようにして倒れる事、或いは絶対に倒れないようにして倒れる事。そのしなやかな背反の身体的トレモロ。……2部に移ると、私達の身体が、僅かな最少の骨と筋肉があれば、そこはもはや感情がかしぎこわれ、或いは逆巻く場としての異形な、形なき皮袋である事実を危ういまでに突きつけてくる。もはやこの段では、勅使川原氏は自らの身体にマネキンのごとき客体〈オブジェ〉性を課し、積算された緊張は、対極の緩やかな官能性の襞までも見せてくる。……極限まで引きつった顔の筋肉の戦慄は一転して、ダ・ヴィンチの描いた聖アンナのごとき慈愛の相へと落下するようにして転じ、その極から極への変容を支える、中空に浮くかのような(静の中に動を内包した)アルカイックな美しき身体は、あくまでも勅使川原氏のものであるが、そこに本作の主題である「身体の記録性―記憶の曖昧なる虚ろ性」が絡んで、つまりは、圧巻的に美しい。本作は、記憶の曖昧なる虚ろさよりも、身体に刻まれた記録こそ、或いは確かなのではないか!?……という設問が核にあるが、私は、勅使川原氏が常に自問していると想われる、イメ―ジと偏角性までも孕んだ〈距離の問題〉も、本作に観て取ったのであった。……かつて私は拙作の作品―或る版画集に『ロ―マにおける僅か七ミリの受難』というタイトルを付けた事があったが、本作を観ながら、私は『僅か七ミリの距離を52分をかけて渡りきる試み』という設問を勅使川原氏に伝えたいという、妙な閃きに捕らわれたのであった。……凡庸な表現者であるならば、「そんなのはダンスの主題ではない」「ダンスを知らない者の戯言」と言って、ダンスの狭い概念に汲々として安逸な顔を見せるであろうが、もはやダンスの概念を越境している勅使川原氏ならば、この七ミリの僅かな距離が、遠大にして不到達な距離としてイメ―ジされ、そこに多層的な解釈が加わって艶までも呈するに違いないと私は思うのである。……敏感な人ならば、私のこの設問が、ジャコメッティのオブセッションに繋がっている事に気づかれたかもしれない。……とまれ、次の勅使川原氏の公演へと、もはや私の関心は跳んでいるのであるが、それは間近の今月17日から~25日にわたって早くも開催される事が用意されている。驚異的な速度である。……『マネキン・人形論』(ブル―ノシュルツ原作)。……その案内の葉書には「無限なき物質的生命の陶酔」と記されている。……こちらも、ぜひご覧になられる事をお薦めする次第である。……お問い合わせはKARAS APPARATUSまで。

 

 

川田喜久治『影の中の陰』

会場:PGI
東京都港区東麻布2―3―4 TKBビル3F
TEL:03―5114―7935
時間:11―19時(月~金)11~18時(土)
(日・祝日/休館)
*入場無料

 

 

勅使川原三郎『マネキン・人形論』
(ブル―ノシュルツ原作)

日時: 6月17 ,18,19,20,日/24,25日 20:00
6月22,23日  16:00〜
*受付開始:30分前、客席開場:10分前
料金:一般 予約 3,000円 当日3,500円
学生 2,000円 *予約・当日共

場所:東京都杉並区荻窪5―11―15
カラス・アパラタスB2ホ―ル
TEL03―6276―9136

 

 

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『作品集刊行の反響』

求龍堂の企画出版で私の作品集『危うさの角度』が刊行されて半月が過ぎた。本を入手された方々からメールやお手紙、また直接の感想なりを頂き、出版したことの手応えを覚えている。……感想の主たるものは先ず、印刷の仕上がりの強度にして、作品各々のイメ―ジが印刷を通して直に伝わってくる事への驚きの賛である。……私は色校正の段階で五回、ほぼ全体に渡って修正の徹底を要求し、また本番の印刷の時にも、二日間、埼玉の大日本印刷会社まで通って、担当編集者の深谷路子さんと共に立ち会って、刷りの濃度のチェックに神経を使った。私の要求は、職人が持っている経験の極を揺さぶるまでの難題なものであったが、それに響いた職人が、また見事にその難題に応えてくれた。昨今の出版本はインクが速乾性の簡易なもので刷られているが、私の作品集は、刷ってから乾燥までに最短でも三日はかかるという油性の強くて濃いインクで刷られている。私の作品(オブジェを中心とする)の持っているイメ―ジの強度が必然として、そこまでの強い刷りを要求しているのである。……しかし、当然と思われるこのこだわりであるが、驚いた事に、自分の作品集でありながら、最近の傾向なのか、色校正をする作家はほとんどおらず、また印刷所に出向いて、刷りに立ち会う作家など皆無だという。信じがたい話であるが、つまり、出版社と印刷所にお任せという作家がほとんどなのである。……、昔は、作家も徹底して校正をやり、また印刷所にも名人と呼ばれる凄腕の職人がいて、故に相乗して、強度な印刷が仕上がり、後に出版物でも、例えば、写真家の細江英公氏の土方巽を撮した『鎌鼬』や、川田喜久治氏の『地図』(我が国における写真集の最高傑作として評価が高い)のように、後に数百万で評価される本が出来上がるのであるが、今日の作家の薄い感性は、唯の作品の記録程度にしか自分の作品集を考えていないようで、私にはそのこだわりの無さが不可解でならない。だから、今回、その川田喜久治氏から感想のお手紙を頂き、「写真では写せない深奥の幾何学的リアル」という過分な感想を頂いた事は大きな喜びであった。また、美学の谷川渥氏からも賞賛のメールが入り、比較文化論や映像などの分野で優れた評論を執筆している四方田犬彦氏からは、賛の返礼を兼ねて、氏の著書『神聖なる怪物』が送られて来て、私を嬉しく刺激してくれた。また、作品集に掲載している作品を所有されているコレクタ―の方々からも、驚きと喜びを交えたメールやお手紙を頂き、私は、春の数ヵ月間、徹底してこの作品集に関わった事の労が癒されてくるのを、いま覚えている。

 

私のこの徹底した拘(こだわ)りは、しかし今回が初めてではなかった。……以前に、週刊新潮に池田満寿夫さんが連載していたカラ―グラビアの見開き二面の頁があったが、池田さんが急逝されたのを継いで、急きょ、久世光彦さんと『死のある風景』(文・久世光彦/ヴィジュアル・北川健次)という役割で連載のタッグを組んで担当する事になり、その後、二年近く続いたものが一冊の本になる際に、新潮社の当時の出版部長から、印刷の現場にぜひ立ち会ってほしいと依頼された事があった。これぞという出版本の時だけ印刷を依頼している、最も技術力の高い印刷所にその出版部長と行き、早朝から夜半まで立ち会った事の経験があり、それが今回役立ったのである。……久世光彦さんとの場合も、久世さんの耽美な文章に対峙し、食い殺すつもりで、私は自分のヴィジュアルの作品を強度に立たせるべく刷りに拘った。結果、久世さんの美文と、私の作品が共に艶と毒の香る本『死のある風景』が仕上がった。……表現の髄を熟知している名人・久世光彦の美意識は、私のその拘りの徹底を見抜いて、刊行後すぐに、手応えのある嬉しい感想を電話で頂いた。共著とは云え、コラボなどという馴れ合いではなく、殺し合いの殺気こそが伝わる「撃てば響く」の関係なのである。……今はそれも懐かしい思い出であるが、ともかく、それが今回役立ったのである。だから職人の人も、印刷の術と許容範囲の限界を私が知っている事にすぐに気づき、その限界の極とまで云っていい美麗な刷りが出来上がったのである。この本には能う限りでの、私の全てが詰まっている。…………まだご覧になっておられない方は、ぜひ実際に手に取って直にご覧頂きたい作品集である。

 

……さて、6月から3ヶ月間の長きに渡って福島の美術館―CCGA現代グラフィックア―トセンタ―で開催されていた個展『黒の装置―記憶のディスタンス』が今月の9日で終了し、8月末には作品集『危うさの角度』も刊行された。(『危うさの角度』の特装本100部限定版は、9月末~10月初旬に求龍堂より刊行予定)……そして今の私は、10月10日から29日まで、東京日本橋にある高島屋本店の美術画廊Xで開催される個展『吊り下げられた衣裳哲学』の作品制作に、今は没頭の日々を送っている。今回は新作80点以上を展示予定。東京で最も広く、故に新たな展開に挑むには、厳しくも最高にスリリングな空間が、私を待っているのである。今年で連続10回、毎年続いている個展であるが、年々、オブジェが深化を増し、もはや美術の域を越境して、私自身が自在で他に類の無い表現の領域に入ってきている事を、自分の内なる醒めた批評眼を持って分析している。「観者も実は創造に関わっている重要な存在であり、私の作品は、その観者の想像力を揺さぶり、未知とノスタルジアに充ちた世界へと誘う名状し難い装置である」。これは私独自の云わば創造理念であるが、私の作品は、今後ますます不思議な予測のつかない領域に入りつつあるようである。……その意味でも、10月から始まる個展には、乞うご期待という事を自信を持って、ここに記したいと思う。

 

 

 

 

 

 

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『光の旅人』

……ここに1冊の写真集がある。1932年から1935年の僅か数年間の短い間に写真雑誌『光画』に幻の夢見のような写真を連続的に発表しながら、突然、本人自身が幻のように消えてしまった写真家・飯田幸次郎の写真集である。浅草六区に住み、木村伊兵衛に人工着色の技術を伝授したのも飯田幸次郎であるが、忽然として、台頭しつつある写真の表舞台から消えてしまったのである。…………私がその写真家の存在を知ったのは昨年の秋であった。私のアトリエに毎月届く『がいこつ亭』なる私家版の薄い文芸冊子があるが、詩・映画評論・短歌・小説など多彩な内容が詰まっており、その質は高く私は毎回楽しみにしている。ある日届いたその冊子の中に、私の40年来の知人である中村恵一さんが「飯田幸次郎を発掘」と題して、その消えた写真家について詳しく言及してあり、なかなかに興味深かったのであるが、私はそこに掲載されていた飯田の二点の写真をみて、この写真家がただ者ではない事を直感した。……その数日後に、私は高島屋の個展に中村さんをお呼びして来て頂き、さらに、この幻の写真家―飯田幸次郎について詳しく教えて頂いた。……それによると、最初にこの人物に強い興味を持ったのは、写真評論で知られる飯沢耕太郎氏であった。そして、飯沢氏から中村さんは飯田幸次郎の消えた後の追跡調査を依頼されたのである。……しかし、中村さんの難航しながらも徹底した追跡によって、飯田幸次郎のその後の謎に光が当てられるようになり、今回の写真集が刊行されるに至ったのである。

 

「……看板と建物ばかりで、人の影すらもない、この写真。夜半にふとみた夢の中に、突然現れたようなこの光景。……パリの通りを描いたバルチュスの絵をふと連想したが、あの絵のようなマヌカンめいた人物たちは、ここにはなく、全くの無人……。まるで芝居の書き割りでもあるような。そして人間の視点からは僅かに外れた高みが呈する、不思議な静寂と懐かしさ、そして不安。……この不安は岸田劉生の『切り通し』にも通じる不穏と犯意があるが、やはり、画面を第一に領しているのは郷愁であろう。懐かしいが、しかし今まで見た事のない不思議な風景、不思議な時間。……そして死者たちが静かに佇んでもいるような…………。私は中村さんが飯田幸次郎の写真集を大変な苦労をされて刊行したというのを伺った時に、購入を申し出たのであるが、初版は私が最後ですぐに絶版になってしまったという。

 

 

飯田幸次郎「看板風景」1932年 

 

 

前回のメッセージでも書いたが、先日、川田喜久治さんの写真展を観に.東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」を訪れた。オ―プニングで沢山の来客であったが、私は一点一点、川田さんの表現世界の強度な暗部に入るべく、あたかも現代の『雨月物語』を読むような覚悟で集中して視入った。川田さんの写真には観る度にひんやりとする発見がある。…「美しい、そしてぞっとするような光景」……海外の美術館のキュレタ―達の多くもまたこのように高く評価している川田さんの写真世界は、その表象の皮膚が実に厚い。この厚さは、以前に川田さんと並べて書いたゴヤに通ずる厚さである。……ゴヤの中には、その後のシュルレアリスムや、更にはピカソまでが既に内包されていると鋭く指摘したのは、美術評論の坂崎乙郎や澁澤龍彦といった慧眼の人達であるが、私が川田喜久治という異才の人に視るのも、そういった意味の厚みであり、昨今ますます貧血と迷走の観を呈している写真の分野を尻目に、更には無縁に、川田喜久治さんの強靭な厚みが更に極まりを見せてくるのは必然であり、また事実でもあるだろう。……光の謎を直視している川田さんのみの独歩が、写真が未だ魔術的であった時代の韻を帯びて、現代の陰画の様を光を刈り込んで放射してくるのである。

 

私は前回、今回と続けて写真について記してきたが、この熱い想いは、数年ぶりとなる水都幻想の街―ヴェネツィアへの写真撮影行が控えているからなのかもしれない。また、今年に予定されている数々の画廊での個展、そして、6月から9月の長期にわたって、福島の美術館―CCGA現代グラフィックアートセンターで開催される予定の、大規模な私の個展が控えているからなのかもしれない。そう、つまり私は年始めから熱くなっているのである。……一昨年は中林忠良氏、そして昨年は加納光於氏、そして今年が私の個展と、この美術館では作家を密に絞って個展を開催しているが、これから、この個展に多くの時間を私は割いていく事になるであろう。出品作は私の版画を主として、近作のオブジェも出品する事になっている。……この個展については、折々にまた触れていく予定である。

 

 

 

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『君は初夢をみたか!?』

1月1日だけでなく、2日にみた夢も初夢というらしい。私が2日にみた夢は奇妙なものであった。私がかつて版画で度々モチ―フにしたバレエダンサ―のニジンスキ―が、どうも『牧神の午後』を踊り終えた後らしく、疲れて寝そべっている姿が現れたかと想うや、夢のカメラには次にポンペイの浴場が官能的に霞んで見え、次に噴火前のヴェスビオス火山がわずかに噴煙を不穏げに上げているのが、これまた薄く霞んで彼方に見えるという、……ただそれだけの、いささかの淫蕩、暗示に富んだ夢であった。以前のブログでも書いたが、私は美大の学生時にそれまで打ち込んでいた剣道をやめて方向転換し、何を考えたのか、熱心にクラシックバレエを学んでいた時期があるが、夢に出てきたニジンスキ―はその時の自分が化身した、ふてぶてしい姿なのであろうか。…………ともあれそんな夢をみた。

 

……正月5日は、映画『ジャコメッティ・ 最後の肖像』を観た。観て驚いた。昨年の夏に私はこのブログで、3回に分けてジャコメッティのこれが実像と確信する姿を直感的に書いた。それはこの国の評論家や学芸員、更にはジャコメッティのファン、信奉家諸君が抱いているようなストイックな芸術至上的な姿ではなく、殺人の衝動に駆られ、特に娼婦という存在にフェティッシュなまでの情動を覚える姿―その姿に近似的に最も近いのは、間違いなく、あのヴィクトリア時代を血まみれのナイフを持って戦慄的に走り抜けた〈切り裂きジャック〉である……という一文を書いたが、この映画は、まさか私のあのブログを原作としたのではあるまいか!!と想うくらいに、ピタリと重なる内容の展開であった。切り裂きジャックと同じく、〈女の喉を掻き切りたいよ!!〉と言うジャコメッティの犯意に取り憑かれたような呟き。……マ―グ画廊から支払われる莫大な額の画料のほとんどを、気に入りの娼婦とポン引きにむしりとられる老残を晒すジャコメッティ……。妻のアネットを〈俗物〉と罵り、自らは深夜にアトリエ近くの娼婦街を酔ったように虚ろにさ迷うジャコメッティの姿は、矢内原伊作の名著『ジャコメッティのアトリエ』の真摯な表層を一掃して、不可解な、その創造の神髄に更に迫って容赦がない。私の持論であるが、フェティシズムとオブセッション(強迫観念)、犯意、更には矛盾の突き上げが資質的に無い表現者は、創造の現場から去るべしという考えがある。芸術という美の毒杯は、強度な感覚のうねりと捻れから紡ぎ出される、危うさに充ちた濃い滴りなのである。……ともあれ、この映画はジャコメッティ財団が協力に加わっている事からも、かなり客観性の高い事実や証言に裏付けられたものとして興味深いものがある。

 

7日は、勅使川原三郎氏、佐東利穂子さんのデュオによるアップデ―トダンス『ピグマリオン―人形愛』を観るために、荻窪の会場―カラス・アパラタスに行く。……実は、昨年12月に両国のシアタ―Xで開催された、勅使川原・佐東両氏によるデュオの公演『イリュミナシオン― ランボ―の瞬き』の批評の執筆依頼をシアタ―Xから頼まれていたのであるが、極めて短い原稿量でありながら、これが意外に難航して年越しの作業になってしまった。私はかなり書く速度が速く、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の連載時も、毎回二時間もあれば、直しなく一発で書き上げていた。しかし、勅使川原氏の演出・構成・照明・音楽・出演を全て完璧にこなすその才能に対しては、私ならずともその批評なるものの、つまりは言葉の権能がその速度に追いつかない無効というものがあって、私は初めて難渋して年を越してしまった。このような事は私には珍しいことである。最初に書いた題は『勅使川原三郎―速度と客体の詩学』、そして次に書いたのが全く異なる『勅使川原三郎―ランボ―と重なり合うもの』である。そもそも、このような異才に対するには、批評などというおよそ鈍い切り口ではなく、直感によって一気に書き上げる詩の方が或いはまだ有効かと思われる。……さて今回の公演であるが、毎回違った実験の引き出しから呈示される、ダンスというよりは、身体表現による豊かなポエジ―の艶ある立ち上げは、私の感性を揺さぶって強度に煽った。キリコの形而上絵画やフェリ―ニの映像詩を彷彿とさせながらも、それを超えて、この身体におけるレトリシャン(修辞家)は、不思議なノスタルジックな光景を彼方に遠望するような切ない抒情に浮かび上がらせたと思うや、一転して最後の場面で、『悪い夢』の底無しの淵に観客を突き落とす。その手腕は、〈観る事〉に於ける時間の生理と心理学に精通したものがあり、ドラマツルギ―が何であるかを熟知した観がある。とまれ、この美の完全犯罪者は、今年のアパラタス公演の第1弾から、全速力で走り始めたようである。

 

…………翌日の8日は、ご招待を頂き、歌舞伎座で公演中の『初春大歌舞伎』を観に行く。松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎の高麗屋―同時襲名披露を兼ねている事もあり、勘九郎・七之助・愛之助・扇雀・猿之助……と賑やかである。しかし私が好きな、九代目中村福助が長期療養中の為に観れないのは寂しいものがある。静かな面立ちに似合わないこの破天荒者の才が放つ華の光彩には独特の魔があって、他の追随を許さないものがある。……さてこの日、私が観たのは昼の部―『箱根霊験誓仇討』『七福神』『菅原伝授手習鑑』であった。『菅原伝授……』を観るのは今回が二回目である。伝統の様式美の中に如何にして「今」を立ち上がらせるかは、歌舞伎の常なる命題であるが、私はそこに脈々と流れる血と遺伝子の不思議と不気味を垣間見て、時としてこの華やいだ歌舞伎座が一転して暗い宿命の呪縛的な檻に見えてゾゾと想う時がある。三島由紀夫は「芸道とは、死んで初めて達成しえる事を、生きながらにして成就する事である。」と、その本質を見事に記しているが、確かに芸道とは、その最も狂気に近い処に位置しており、精神の過剰なる者のみに達成しえる業なのかもしれない。精神の過剰が産んだ美とは、西洋では例えばバロックがそれであり、この国に於いては、歌舞伎、すなわちその語源たる「かぶく―傾く」が、それに当たるかと想われる。精神、感性の過剰のみが達成しえる美の獲得、……それはこのブログの先に登場したジャコメッティ、それに勅使川原三郎についても重なるものがあるであろう。……さて、飛躍して結論を急げば、おそらく20年後の歌舞伎の世界にあって、これを牽引しているのは、松本幸四郎の長男、……今回襲名した市川染五郎(現在まだ12才)と、市川中車(香川照之)の長男―市川團子、つまり名人・三代目市川猿之助(現二代目市川猿翁)の孫あたりがそれであろうかと想われる。……遺伝とはある意味で残酷なものであり、才はそれを持って宿命へと変える。美におけるフォルム(形・形状)の問題とは何か。……それを考える機会とそのヒントを歌舞伎は与えてくれるのである。…………さて、今月の12日からは東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」で、写真家・川田喜久治さんの個展『ロス・カプリチョス―インスタグラフィ―2017』が始まり、私はそのオ―プニングに行く予定である。私は先に写真家として川田さんの事を書いたが、正しくはゴヤの黒い遺伝子を受け継いだ写真術師という表現こそ相応しい。唯の言葉の違いと思うと、その本質を見逃してしまう。シュルレアリストの画家たちの事を絵師という表現に拘った澁澤龍彦のこの拘りに、いま名前は失念したが、フランスのシュルレアリズム研究の第一人者もまた同意したことと同じく重要である。光の魔性を自在に操って、万象を川田喜久治の狙う方へと強力に引き込んでいく恐るべき術は、正に魔術師の韻にも通ずる写真術師のそれである。私はゴヤの最高傑作の版画『妄』のシリ―ズの何点かを、パリやマドリッドで購入してコレクションしているが、この度、川田さんから届いた個展案内状の写真を視ると、伝わってくるのは、写真の分野を越えて、世界を、万象を、暗黒のフィルタ―で透かし視たゴヤの変奏を想わせて尽きない興味がある。個展は12日から3月3日までと会期は長い。……ぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

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『必見 – 川田喜久治写真展』

「幻視者」という言葉は、或いは現実の核にある不気味で異形な実相をも見究められる人の謂ではあるまいか。・・・・昨日私は、フォト・ギャラリー・インターナショナルで開催中の川田喜久治写真展「2011-Phenomena」を見ながら、そう思った。そして本当の意味での写真が持つ権能と力に対峙した思いがした。タイトルにあるPhenomenaとは〈現象〉の複数形。ここは森羅万象と解すべきか。ともあれ、川田喜久治氏の表現世界にこの世の万象が引き寄せられている。そんな印象を抱きながら、耽美と凶事の気配が濃密に詰まった氏の世界を、畏怖を覚えながら堪能したのであった。

 

ゴヤ『砂に埋もれる犬』

アンドレ・マルローの『ゴヤ論』の最終行は「・・・・かくして近代はここから始まる。」という文で終っている。この言葉はある意味で正しく、例えばそれを受け継いだのがマネであり、そこから近代絵画の幅が広がった。しかしゴヤの目は、私に言わせればむしろ近代を超えて現代の実相までも遍く照射しているのではあるまいか。私は昨日の川田氏の個展会場でそこまでも考えてみた。そう思ったのは、その場で見た氏の或る写真(それは太陽と、今一つのどす黒い太陽の巨大なシルエットが共存しているという凄みのあるもの)を見た時の印象が、かつてプラドで見たゴヤの『黒い絵』中の名作『砂に埋もれる犬』と卒然と重なったからである。つまりゴヤの眼差しは、時を経て、絵画ではなく写真の領域の上に —-  川田喜久治氏に受け継がれていると思ったのである。かつてベンヤミンは写真におけるアニマの可能性を否定したが、それは凡百の写真に対してであり、こと川田氏の写真を見る限り、それが間違いである事を観者はその場で体感し首肯するであろう。

 

私のアトリエには、ルドンゴヤ(妄のシリーズ)、ヴォルスベルメールホックニーレンブラント・・・・などの版画が掛かっている。そして私はあえてゴヤの横に川田氏の名作「ボマルツォの奇顔」の写真を掛けているのであるが、その写真が持つ強度な波動は、表現者として生きている私を鼓舞してくれている。ここに掲載した画像は川田氏の巨大な写真集「ラスト・コスモロジー」の中の「太陽黒点とヘリコプター」である。鮮明に掲載出来ないのが残念であるが、太陽の黒点と不気味に飛翔するヘリコプター、そして夢魔のような暗雲と、日付が写っている。したたかなまでに完璧であって、付け足すものは何もない、妖かしの瞬間定着術!!これを見ると、写真家というよりは写真術師と呼びたい衝動に駆られてくる。写真が未だ光線魔術と呼ばれていた頃の手を、川田氏は間違いなく掌中に隠し持っている。(想定外・・・・)などと言い逃れている現代人の盲目を突き刺してくる、これは現象の奥に不気味に息づく「気」を捕えた紛れもない名作であろう。川田氏の写真展は始まったばかり。しかし暑い中を汗を流しても訪れて見るだけの価値は充分にある。ぜひ御覧になられる事をお薦めしたい写真展である。

 

写真集「ラスト・コスモロジー」より見開き(部分)

 

「ラスト・コスモロジー」より見開き(上の写真の更なる部分アップ)

 

 

川田喜久治写真展「2011年-Phenomena」

2012年9月4日(火)~10月31日(水)
フォト・ギャラリー・インターナショナル
東京都港区芝浦4-12-32/TEL.03-3455-7827

月~金 11:00 – 19:00
土   11:00 – 18:00
日・祝日休館 入場無料

JR田町駅・芝浦側(東口)より徒歩10分

 

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『写真集、遂に刊行さる!!!』

11月の24日に福井を訪れて以来、実に19連泊続いたホテル暮らしがようやく終わり、横浜へと戻った。福井にいる間は、展示、新聞の連載執筆、テレビ、ラジオの収録、講演、対談、そして画廊での新作展発表、さらには中学の同窓会、高校での講演etc、あっという間に過ぎた多忙な19日間であった。

 

 

 

 

 

福井県立美術館刊行による私の個展図録があまりに出来が良く、充実した内容になっているので、その事をメッセージに記したところ、全国から美術館宛に問い合わせや注文が殺到し、係の人が対応に追われている。係の人に伺ったところ、ひとりで5冊まとめて注文する人などもおり、在庫がかなり少なくなっているようで、作者としても嬉しい反響である。おそらく今のペースでいくと、個展が終了する今月の25日頃には完売の為に絶版となる事は必至であるだろう。

 

 

 

さて、予告で記したとおり、遂に私の写真集『サン・ラザールの着色された夜のために』が、出版社の沖積舎から刊行された。写真74点それぞれに詩を74篇書いているが、私はその詩の全てを三日間で書き上げた。今までにない集中力を出したために、書き終えた後はしばし放心状態であった。写真集であると同時に、独自な詩集としての新しい形も倶えている。帯には、「〈美の侵犯〉美術家:北川健次による、写真と詩が切り結ぶ夢の光跡!幻視のエクリチュール!!」の文が入り、写真家 ー 川田喜久治氏のテクストからの引用文が光彩を放っている。既に福井県立美術館の個展会場では先行販売され、一日で二十冊以上のペースで売れているという。限定五百五十部(内五十部はオリジナル写真入り特装版)と少ない部数の為、これもおそらくは二ヶ月で完売・絶版となるであろう。印刷は最先端の技術を使ったアミ点の少ない直刷りの為、極めて美しく、日本の印刷技術のレベルの高さを示している。私の、詩集としての最初の本でもある。御興味のある方はぜひ御購読頂き、写真と詩による、私の新しい表現世界を楽しんで頂ければと願っている。

 

 

限定五百部の普及版は定価が7140円(税込)。限定五十部の特装版は定価が31.500円(税込)で、未発表のオリジナル写真が1点、写真集に付いている。ご注文は直接、沖積舎まで。TEL.03-3291-5891。FAX03-3295-4730。注文の受付は毎朝9時より開始しています。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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