『偽』

今年1年間の日本のありようを漢字一文字で表わすのは、京都・清水寺の大僧正の仕事であるらしいが、毎年「?」という違和感を覚えていた。今年もやはりそうだった。今年は「輪」であるという。私だったら、〈歪〉〈空(から)〉〈虚〉〈脱〉〈偽〉〈疑〉・・・・・などが浮かぶが、まぁ今年は『偽』がふさわしいだろう。そう思っていたら、何と韓国も『偽』を挙げていた。知らなかったが、中国や韓国でも一年の世相を漢字一文字で表わす習慣があるらしい。中国の今年のそれは知らないが、想うに孤立の『孤』であろうか・・・・・。

 

今年の後半は偽装問題が次々と明るみに出たが、たとえばエビ料理を例に挙げれば、普通のエビの味をブラックタイガー風にするのは、調理上の当然のテクニックとしてあるのだという。又、それを見破れない私たちの文化の底の浅さも、つまりは浮き彫りになるわけで、これは現代の日本を正に映した事象のようにも思われる。

 

偽装と直結するとは言えないが、例えば骨董市に行くと、明らかに偽物の棟方志功の版画などがあったりするが、警察が踏み込んだといった話は聞いた事がない。また逆に店主がその価値を知らず、おかげで私は月岡芳年の『英名二十八衆句』を二点、信じられない安価で入手出来た事もある。芥川龍之介・江戸川乱歩・三島由紀夫といった面々もコレクションしていた逸品である。さて、ここに掲載した書は勝海舟と山岡鉄舟の書であるが、各々に二十八万と十五万の値が付いていた。本物であればかなりする物であるが、高からず安からず、つまりは(掘り出し物感)を揺さぶる絶妙な価格である。因みに手元にある勝海舟の手紙の資料と比べてみたが、どう見ても別人といった観がある。

この話をもっと膨らますと、例えば伏見にある〈寺田屋〉はどうであろう。薩摩藩の侍同士が殺し合った寺田屋事変・龍馬の常宿・幕府の役人に囲まれた時、おりょうが全裸で階段を駆け上がって急報した際に入っていたという風呂までが今に残るという龍馬ファンならずとも必見の場所である。今日まで残っていることの不思議を、むしろ奇蹟と熱く感じながらこの地を訪れる人は今も絶えない。大の龍馬ファンで知られるタレントの武田鉄矢氏などは学生時に訪れて興奮の延長で一泊したという。私も学生時に訪れて、熱く高揚しながら階段の手摺りをさすったものである。しかし、史実に照らせば、寺田屋があった辺りは全て、鳥羽伏見の戦の時に焼けて全てが灰燼と化している。この事を知った時はさすがに〈あの時の青春を帰せ!!〉という怒りと虚しさが突き上げたが、今は、まぁ良いかという想いになっている。一種のテーマパークと見れば、それも諒とする感じであるが、そう思わせるのは、つまりは龍馬の魅力の投影のようなものかもしれない。しかし、京都の壬生にある新撰組屯所のあった八木邸の子孫は、かつて私にこう言った事がある。〈うちのは間違いなく本物で、寺田屋はんとは違いますからね!!〉と。・・・・・。しゃべり方は柔らかい分、その内に京都特有のトゲを覚えたものである。

 

赤穂事件から今年で310年以上経ったが、浪士たちの墓所である泉岳寺は今も線香の煙が絶えない。ここにある資料館には、かつては赤穂浪士たちの遺品と称する物が、ザクザクと展示されていた。吉良邸前の米屋に潜入していた浪士(確か・・・前原伊助と神崎与五郎であったか!?)の話はスリリングであるが、その米屋の看板までもが展示されているのを見た時には、私は興奮のあまり脳内出血をしたものである。しかし、さすがに各方面から疑惑を呈されるようになってからは自粛したらしく、最近訪れた時は、展示物が五十分の一くらいに激減していたのには唖然としたものである。おそらく客寄せの為に明治の頃に、浅草の道具市あたりで、夕暮れ時に住職か誰かが、それらしい物を買い集めていたのであろうが、その姿を想えば〈切なさ〉すら漂ってくるものがある。偽装に対する言葉を書けば〈いっそ知らずにいたかった〉、そして〈知らぬが仏〉という言葉になろうか。知らぬが仏、・・・・・まことに古人は含蓄のある、うまい言葉を考えたものである。

 

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