『抒情のかたち—恩地孝四郎』

3月5日から富山のぎゃらり-図南で開催される個展のために制作に入っていた先日、福井のコレクターの荒井由泰さんからメールが入った。「東京国立近代美術館で開催中の恩地孝四郎展(2月28日まで)を、ぜひ見に行かれたし」、という促しである。…おぉ、そうであった。恩地はぜひとも見なければと思っていたのであるが、制作に入ってしまうと、それに集中するあまり、うっかり見逃すところであった。私は荒井さんに御礼の返信をして、翌日さっそく見に行く事にした。…荒井さんは、その質と量に於て日本でも有数の、版画を主とする大コレクターである。画家のバルテュスとも親交が深く、スイスのアトリエにも行き、また福井の勝山のご自宅にもバルテュスが訪れている事からも、芸術に抱いている感性の確かさが伺える。…その荒井さんのコレクションの中心に恩地孝四郎の膨大な作品があり、世の恩地への評価が高まる遥か以前から早々と、その眼差しは、恩地作品の本質にある馥郁とした詩情性と、造型の先鋭性に注がれていた。

 

さてその恩地孝四郎展であるが、会場には予想を越えた作品数が計算された配置で巧みに展示されており、直にして、恩地の作品と対峙出来る構成になっていた。…会場で先ず目に入る『月映』は、その初期に於て、恩地、田中恭吉(結核で夭折)、藤森たち3人によって作られたオリジナル版画を入れた同人誌であるが、私は最初は田中恭吉に特に関心を寄せていた。彼の尖鋭な感受性と迫りくる死の影の気配に、当時影響を受けていた梶井基次郎を重ね見ていたのである。また池田満寿夫さんが田中を強く推していた事もあり、池田さんとは田中の作品について度々話し合った事を、私は会場で思い出していた。恩地孝四郎に学ぶべき事が多々ある事を教わったのは、駒井哲郎氏からである。…しかし、会場の或る作品を見て、私は駒井宅でその作品について解釈が異なり、駒井氏と意見が対立した事を思い出した。私達はお互い一歩も譲らなかった。…この時には、親友の濱口行雄君も一緒であった。早熟な濱口君は、既に土方巽の弟子であったが、恩地の作品からも強い影響を受けていたと思われる。…今から思えば、まだ20才を過ぎたばかりの頃であったが、この駒井氏や池田さんとの語らいの時間は、言い換えれば正統なる版画史の、貴重な時間を享受していた至福の時間でもあったとも言えようか。そして、その版画史を築いて来た正統なる核の先に、版画の黎明期を生きた抒情詩人—恩地孝四郎の存在があった。

 

私は一人の表現者として、時に、黎明期を生きた表現者たちに羨望の感を抱く時がある。… 例えば、この恩地孝四郎にしても、キュビスムの出現から僅か8年後に早々とそれを取り入れているのであるが、今日と違い、綺麗で詳しい画集すら無い時代、…情報不足による解釈の誤謬が逆に豊かな内面の開示をもたらして、更なる可能性への展開を生み出していっている。…対象への距離の乖離が密なモメントとなり、表現者としての生を豊かなものにしているのである。これは岸田劉生のデュ-ラ−からの影響、あるいは古賀春江のクレ−の場合も然りである。…黎明期には何より実験性の自由があり、不足感の飢餓は表現の深化へと繋がり、ともかくも黎明期には、イメージの新たな胚種が鮮やかに芽吹くのである。

 

ポロックやドスタ-ル、そしてロスコやサムフランシスを語るまでもなく、優れた抽象作品には濃密なる詩情性が具体性を帯びて透かし見えるものである。…恩地孝四郎もまた然りである。恩地は具象と抽象の両極をアクロバティックに生きたが、やはり私は、抽象の方に指を折る。…彼に於ては、具象は遠景に在り、抽象は内面の感情や詩情を立ち上がらせるのに有効である事を、彼の天才は気付いている。しかし、表現は本質的に〈抽象〉であるという言を挟めば、恩地の抽象の作品に在るのは、私たちが既知としてありありと知っている領域に咲く草花であり、裏庭や子供部屋で覚えたノスタルジックな感覚の映しである事が、朝霧が晴れるように瞭然となってくる。…クレ−が幼年期が持つ普遍を詩情に高めたように、恩地もまた既知を突いて、観者のイメージの多層を揺さぶって来るのである。つまり、夭折した田中恭吉は美しく鋭い一人称を生きたが、恩地は表現の本質が虚構に咲く華である事をいつからか知り、覚めた複眼の視点から恩地固有の詩を紡いで来たように思われる。そこから、[飛行官能]や[人体考察]といったエロチックなモダニズム的視点が、漸くにして生まれてくるのである。…ともあれ、この展覧会では、その階上に展示されている岸田劉生・三岸好太郎・松本俊介などの作品と共に、今日私達が失ってきたものの多くが静かに息づいているのである。その意味でも、芸術と共に多くの示唆を含んだ、見応えのある展覧会であった。

 

 

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