『作者は二人いる!?』

先日、江戸東京博物館で開催中のレオナルド・ダ・ヴィンチ展を観に行った。「モナ・リザへつながる《糸巻きの聖母》日本初公開!!…絵画、手稿、素描、ダ・ヴィンチの真筆が勢ぞろい!!」が謳い文句として、チラシに大きく書かれていて、それを期待した人々で会場はかなりの入りであった。…その日の数日前に、私は近所の駅内に貼られている、この展覧会の大きなポスターの前に立っていた。そしてかなり拡大された、本展の目玉である《糸巻きの聖母》を眺めながら、幾つかの不自然な点がある事に気がついていた。

 

…真筆の定義とは何であるか!? 辞書を引くまでもなく、その定義は「その人自身が書いた本当の筆跡」である。ちなみに反語は偽筆。つまり言外に100%その人だけの手に拠る事を意味し、その素晴らしさを高く評した…というニュアンスが次に続く。これに対し、複数の人による共作はまた別な意味となり、ここの線引きは明確に分ける必要がある事は言うまでもない。故にかつてダ・ヴインチの師—ヴエロッキオの『キリストの洗礼』の部分を弟子のダ・ヴィンチが描いているが、これは誤解を含む言い方となる真筆とは云わず、あくまでも共作と言う方が正しい。しかし、この『糸巻きの聖母』は、ダ・ヴィンチの描画法の特徴であるスフマ-ト(薄く絵の具を重ねて描くぼかし技法)で部分的に描かれている箇所もあるが、ダ・ヴィンチならば絶対に描かない、稚拙な黒い輪郭線で描かれた箇所(幼子イエスの左腕の部分)もまた、この絵には見て取れるのである。…「君の人物画の輪郭はその人物を囲む背景そのものと異なる色で描いてはならぬ。すなわち君は背景と君の人物との間に黒いプロフィルを描いてはならない。」…ダヴィンチの手記の言葉であるが、彼の科学者としての明晰で合理的な見地から、この世に輪郭線なる物は存在しないとして、事物の境を明瞭化する為に彼が独自に考案した技法がスフマ-ト技法なのである。つまり、この絵には矛盾がありありと同居しており、そこから考えられる結論として、少なくとも二人の作者が存在した事が見えてくるのである。更に言えば、そのスフマ-トの箇所も、正に真筆と断言出来る『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』の卓越したそれと比較すると、その霊妙とも言える神秘性、深遠性から見れば筆に躊躇いがあり、確とした強いものが伝わって来ない。そもそも、この『糸巻きの聖母』自体の表現は、押せばたちまち崩れる平行四辺形のようにあまりに弱々しく、実は私達の知るダヴィンチからは、かなり遠い。本展のチラシには「15点にも満たないダヴィンチ絵画のうちの1点!」…とあるが、ダ・ヴィンチの真筆と確認されているのは僅かに7点くらいしか無い事もまた周知の事実である。

 

私は薄暗い会場の中で『糸巻きの聖母』を見ながら、今一人の作者、…つまり輪郭線を描いた作者の名前を推理した。そして導き出した結論は、妖しい寵童の弟子サライではなく、その忠実なる愛弟子であったメルツィであり、師のダ・ヴィンチが愛弟子にスフマ-トを教える為に自らもスフマ-トで描いて示し、そして弟子のメルツィもまたそれになぞって描いた、いわゆる「手ほどきの絵画」がこの作品であるという結論である。「手ほどきの絵画」—私はそう断言したが、それには明らかな根拠がある。…それは、同じ会場内の別のコ-ナ-で、ひっそりと息づくように展示されている数点の素描の中の1点《手の研究・弟子との共作》と題された素描の内に見て取れるのである。

『糸巻きの聖母』と共に、この素描《手の研究・弟子との共作》も併せて画像を載せたのでご覧頂きたいのであるが、『糸巻きの聖母』の聖母の手と、この素描の手の表情は正に鏡のように対の同じものとして見えないだろうか!?。鏡をダ・ヴィンチは多用して人体の描写を行っている事は彼の手記にも明記してあり、この対は、正にこの手の表情に絵の主題性を込めたものである事が伺える。… この手の表情は、また『岩窟の聖母』にも登場しており、岩の描写との共通した関係性から見て、この絵は『岩窟の聖母』とほぼ同時期の作と見て良いかと思われる。…しかし、臍から突き出たようなこの『糸巻きの聖母』の手の描写は、人体解剖から筋肉の動きを知り尽くしたダ・ヴィンチの実力からは遠く、ありていに言えば、素描《手の研究・弟子との共作》(むろん、下がダ・ヴィンチ、上の稚拙なのが愛弟子メルツィ)の、上の方の描写と酷似して見えるところから『糸巻きの聖母』とこの素描は、続けて描かれた可能性が高い。つまり、この点から見て『糸巻きの聖母』は、真筆ではなく共作と解釈する方が、この絵の意味性がより見えてくるのである。

 

しかし、それにしてもこの展覧会には強い失望と疑念の感を私は抱いてしまった。完全なダ・ヴィンチの作と言える物は、上記した素描(弟子の手も入った作品も含めるとして)数点と直筆の手稿の僅かな展示だけで、後は他人によるリトグラフやエッチングのコピー、またファクシミリによる手記の展示物は、私が持っているファクシミリの手記と全く同じ物であり、物置から出して来たような『聖アンナと聖母子』の煤けたような汚い模写の展示に至っては、「当時の状態を示す物として極めて貴重である云々…」という巧みに主語を抜かした説明(?)があったりと、かなり張りぼての展覧会に見えて来た。 では観客の反応はどうであったかと思い出口に立っていると、「コピーばっかりじゃないか!」と怒る人もおれば、母親が小さい息子に一生懸命に話している姿もあったりと様々であるが、何か最も大切な何かが崩されていくような危惧を私は覚えたのであった。芸術の尊厳が商業主義によって侵蝕されているような不快感が、観た後の率直な感想であった。マルセル・デュシャンは早々とその傾向に警鐘を鳴らしているが、近年の展覧会には多々、内容に疑問ありの展示が目立つように思われる。西洋に比べてこの国の人々は、美術についてあまり詳しくない事は事実である。そこにつけ入ったような展覧会は如何なものであるかと疑問が膨らんでくる展覧会であった。

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