『今夜はフラゴナ−ル』

部屋の改造をしていると、思わぬ物が現れる事がある。先日はパリ滞在時に書いていた日記が出てきたのでアトリエの庭に出て、久しぶりに読んでみた。すると次なる記述が目に止まった。「3月24日、米田君よりTELあり。解剖学者フラゴナ-ルの人体標本を見る許可が下りた由。極めて吉報なり」と。

 

パリ市の郊外に、18世紀に始まる獣医学校−メゾン・アルフォ-ルがある。映画『存在の耐えられない軽さ』に登場する異形な建物である。…この舘の中に解剖学者フラゴナ-ルが作った何体ものエコルシェ(人体剥皮標本)が封印されて在る事はあまり知られていない。…様々な動物の標本、人の片腕、片脚、羚羊、猿、男の頭、…三人の胎児の死体を立たせて作った『踊る胎児』や『ヘラクレス』のポ-ズを模して作った巨大な長身の男の標本、…しかし分けても注目すべき物は、ロジェ・グルニエの小説『フラゴナ-ルの婚約者』に登場する、馬に跨がった一人の女の標本である。その解剖学者の婚約者であった10代後半の女性は、結婚を両親に反対されて自殺したが、彼はその遺体を掘り出して、標本にした。「……両者とも皮膚はすっかり剥ぎとられている。鋭く切り込まれた筋肉の下から、静脈は青く、動脈は赤く浮かびあがり、色鮮やかな網の目を作りだす。馬は脚を曲げ、ギャロップのかたちを示していた。女は頭を僅かに後ろにのけぞらせ、乾いた唇から歯をのぞかせて、言い知れぬ恐怖に大きく見開いた琺瑯製の眼は極度の不安を叫んでいるようだった。…」(『フラゴナ-ルの婚約者』より)。

 

この驚くべき標本がパリに在る事を知ったのは、私宅に毎月送られてくる月刊誌『太陽』の「パリ-光の都市」の特集であった。不気味極まる写真がその中に在った。ある日、拙宅にその雑誌の編集長をしているS氏が遊びに来たので、話題はその話しになった。…しかし、その標本は非公開の為に取材許可が下りるまでにそうとうな時間と手間を労したという。…近く1年間の留学を控えていた私は、「僕も見たいなぁ、それを!」と言うと、「北川さん、個人で見れるほど甘くないですよ。…絶対に無理です!!」と言われた。「絶対に無理!!」と言われると、絶対に突破してみせるという異常なエネルギーが湧いてくるのが私の常なる癖である。…そしてバルセロナから、滞在をパリに移した私は、その突破に向けて、パリの部屋で獣医学校の校長宛てに手紙を書いた。…今までに私が書いた文章の中でも突出した内容であったと思う。学士論文的な品を保ちつつ、わかりやすく、かつ深い。…それを、知人で東北大学から派遣されていたA氏に仏語に翻訳してもらい、パリに詳しい知人の米田君に渡して、後は結果を待ったのであった。

 

私がパリの友人達に、そのフラゴナ-ルの話しをすると、誰も聞いた事がないという。完全な非公開ゆえに当然であろう。…しかし、私に取材許可が下りたと知るや、ぜひ見たいという人が続き、待ち合わせ駅改札口に集合した時には、つごう6人になっていた。しかも全員が手にカメラを持って来ている。… 折しも雨がぱらつき始め、舘に着いた時は、激しい豪雨になっていた。校長とはお会いした瞬間から波長が合い、私は持参したボルドーのワインを、A氏の手から渡させた。A氏が一番真面目な顔をしていたからであり、私があらかじめ打ち合わせておいた通りに、ワインを校長が喜んで手にした瞬間に、A氏は流暢な仏語で、写真撮影の希望を申し出た。校長は、勿論と言って快諾してくれた。(ちなみに、この半年後にロンドンで、私はエレファントマンの骨格標本…あのマイケルジャクソンが巨額の金を出してでも欲しいと、ロンドン病院に購入を申し出た、その非公開の標本を見る為に私は再び策を練るのであるが、その話しはまたいつか。)…そして私達は案内されて、舘の奥深くにある重い鉄の扉の前に着いた。校長が鍵を取り出して、ギシギシと擦った音を立てながら扉が開かれ、私達は世にも恐ろしい死体標本が夥しく林立する中を通って、目的とするフラゴナルの婚約者(別名—花嫁)の前に立ったのであった。その背景の巨大な硝子窓に激しい雨が吹き付けており、時折、不意の侵入者である私達を怒るかのように、春雷の青白い光がバリバリと、その窓を強く揺らした。私達は三脚を立て、夢中でシャッターを押した。…圧倒されたのか、誰もが無言であった。

 

…それから数年後、本郷の東大医学部の解剖学標本室の中に私はいた。ここも一般人は入れないのであるが、何故か私は自由に出入りを許されている。「…………と、いうわけで私はフラゴナ-ルのエコルシェ(剥皮標本)を見たわけですよ。」と語る私の言葉に、教授M氏の手がピタリと止まり、その目が一瞬光った。…M教授の膝には死んだオランウ-タンが在り、先ほどから教授は剥皮標本を作りながら、私の話に聞き入っていたのである。「君は本当にあのフラゴナ-ルの標本をみれたのか!?」教授の話によれば彼が留学時に見学申請をしたが、どうしても許可は下りなかったのだという。…「君、あのフラゴナ-ルという男は、…天才というようもむしろ…怪物だよ」と言葉が続く。ちなみに今、この膝の上にいるオランウ-タンの標本を、ここまで作るのに半年がかかっているという。…それを、あの男はたった3日間で仕上げてしまうのである。私はパリで、校長から見学の帰りがけに頂いたフラゴナ-ルの研究書を訳したのであるが、生涯に作った標本は2万体、しかしその多くがパリ革命の際に破壊されてしまったのである。
…それから数年後に東大のM教授が急死したという報を受け取った。私達が話しをしていた、あの研究室での急死であったという。…………パリでのこの非日常的な体験は、帰国後に「イメージを皮膚化する試み」という主題へと変容し、『DE SPECULO-或いはスピノザの皮膚の破れ』、『Study of skin—Rimbaud』などの作品の生まれる源になった。 ……… 暖かかった午後の日差しがいつしか薄れて来て、冷たい風が、このアトリエの庭に吹いてきた。…私は日記を閉じて、部屋へと入った。

 

フラゴナール

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