『無機質なる表象―加納光於展を観る』  

 

東京・京橋に在るギャルリ―東京ユマニテで28日まで開催中の加納光於展『〈稲妻捕り〉Elements 1978』のオ―プニングに行く。画家の谷川晃一さん、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、深夜叢書の齊藤慎爾さん、CCGA現代グラフイックア―トセンタ―の木戸英行さん、SHUMOKUギャラリ―の居松篤彦さん、詩人の天童大人さん、など見知った方々に再会する。……加納さんの作品は1978年に制作された旧作であるが、保存が良かった為に作品の状態がすこぶる良好である。……密蝋と顔料を揮発性の高い溶剤でゲル状に溶いて硬い紙の上に流し、固い筆の穂先で何物かを捕らえんとする、有機的な叙情性を排した……これは試みなのか!?

私は加納さんの作品について想う時、かつてフィレンツェのマ―ブル紙の工房で見た職人の熟練した手技の様を思い出す。熟練が絡めとるのは、未知の何物かではなく、そのスリリングな工程の先に在るのは、詰まりは練達が産んだ既知である。……またその穂先のストロ―クの身体性に併せ見るのはジャクソン・ポロックのドロッピングであるが、ポロックは1点を仕上げるのに要する時間は長大であり、その時間の澱の内に宿るのは、濃密なる叙情であり、更に云えばポエジ―である。しかし、加納さんの作品に共通して見るのは、有機的な叙情性を排した、これは一種の意匠に近いものがあると云えるのではあるまいか!? しかし、ここにおける〈意匠〉とは加納芸術の否定ではなく、あくまでも直喩である。―戦後の前衛美術界の礎を築き、今では伝説として語られる南画廊主の志水楠男さんは、デビュ―間もない頃の加納さんの作品を評して「……これは美術作品として、その範疇で括って語れるものではないのではないか!?」と語ったというが、私が志水さんのその言葉を知った時に、志水楠男という稀人の、本質を見抜く眼力の凄みと共に、加納さんの特質とその作品の特異な在りように気付いたのであった。……意匠、さらに云えば、「玄妙なる手技の練達によって捕らえられた、一瞬の色彩の現象学の宿り」と云えば足りるか。…………

私は以前に大英博物館の素描研究室で特別にダヴィンチとミケランジェロの膨大な数の素描を直で手にとって見せてもらった事があるが、ヴァチカン・システィ―ナ礼拝堂の天井画の壮大なヴィジョン―つまり、ミケランジェロの脳裡に「天地創造」の神的な構想が湧いた、まさにそのファ―ストヴァ―ジョンの、コンテの僅かな走りの内に、しかし美術史上、もっとも壮大なスケ―ルを孕んだ素描を見た事があるが、これこそ正に神的な稲妻捕りと想える戦慄があったのを生々しく今も覚えている。まぁそれはさておき、……では、この稲妻捕りと銘打った作品1点に要する時間は、加納さんの場合はどれくらいを要したのであろうか!?……私は試しに横にいた学芸員と、版画家に訊いてみた。1人は2時間くらいと言い、もう1人は半日はかかると思うと言った。しかし、私は僅かに〈10秒〉前後でそれは完了すると見た。個展会場の奥にいた加納さんに直接問うてみると、はたして10秒前後との答が返って来た。併せて展示されていた瀧口修造さんの文章の中に「稲妻、で可能ノ一瞬ヲ垣間見セル。」という謎めいた一文があるが、これは「加納の一瞬の穂先の走りで稲妻を垣間見せる」と倒置的に解せば、その文意は容易に見えて来よう。

 

……会場に、以前のブログでも登場した、我が親友の濱口行雄君が到着したので、詩人の天童大人さんに、濱口君を土方巽のかつての弟子として紹介した。天童さんはピレネーの山頂で啓示を受けたという、謎の朗唱詩人である。道鏡やラスプ―チンを想わせるインパクトがあって面白い。……天童さんは濱口君と私に「自分は雨を降らせる事は出来ないが、降っている雨を止ませる事は出来る!!」と強い語気で言い放った。美術家は仮の姿で本来は陰陽師である私の瞳孔が、ふと光る。まぁ、雨を降らせる事は出来ないが……と云うのは天童さんの謙遜であるかと思うが、……そうこうしている内に、美術界の俗物の版画家や、その他の権威好き、観念大好きの者たちがぞろぞろと入って来たので、それを潮時と見た私と濱口行雄君は会場を去り、二人しての意味ある対話をするために、次の語りの場へと向かった。……これから、私が評価する鋭い批評眼を持った濱口君と、三時間以上の面白い対話が展開されるのである。

 

加納さんの個展の翌日は、5月10日から30日まで開催予定の私の写真展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』の案内状の作成、打ち合わせの為に会場となるギャラリ―サンカイビ(日本橋浜町)で、オ―ナ―の平田さんとスタッフの高嶋さんと一緒に、最後の詰めの話をする。この展覧会に寄せる画廊側の意気込みは強く、案内状のパタ―ンだけで20種類以上も作成し、その最終選択をするのである。…………ようやくそれが決まった後で、私が次に向かったのは、初台にある新国立劇場であった。今日の午後はこの会場で、長年観たかった美輪明宏主演、三島由紀夫作の『近代能楽集』より、「葵上」と「卒塔婆小町」を観るのである。『近代能楽集』、……私の表現者としての始まりは、この『近代能楽集』であったと云っても過言ではない。18歳の私は、三島由紀夫作のこの戯曲を読んで、この戯曲を劇場化した時に最高に耽美的で完璧な舞台美術をやれるのは自分しかいない!!と思い込み、三島が主宰している浪漫劇場方、三島由紀夫様宛てで、その想いを綴った熱い手紙を出した事があった。……根拠が無くても自分を最高の美意識の貴種と思うのが、若者の特権であるが、私もまたその例に漏れなかったのであろう。……そして、その手紙を投函した数日後に三島は自決し、私に大きな落胆をもたらした。人生初めての挫折である。自分の美意識を伝えるに足る唯一の人が亡くなった事で、前途は暗澹となってしまったのである。……それは私が銅版画に可能性を見出だす1年前の事であった。……新国立劇場のその舞台美術は美輪明宏の考えで、ダリの絵の主要なモチ―フである柔らかな時計や、その他で構成されていたが、自分ならば……と想う私がまだそこにいた。『近代能楽集』を観るのはこれで3回目であるが、今回のが最も原作の美意識を生に映していると思った。美輪明宏の放つ華はやはり天性のものがあり、そこに完璧な三島の台詞が相乗して、生霊や、老婆にして絶世の美女が、耽美的に幻視のアラベスクを織り成していくのである。美輪の美意識への確信は、観客をしてもはや、一神教の宗教へと拉致していく凄みがあるのである。

 

 

 

 

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