コレクション

『個展 – 私の現在』

三週間続いた日本橋高島屋本店の美術画廊Xでの個展がようやく終了した。世の不況にも関わらず、出品点数82点の内、50点以上の作品がコレクターの方々のコレクションとなっていった。昨今の美術表現の傾向は、薄く脆く、ぼんやりしたイメージの芯のない傾向へと向かっているが、私は芸術とは強度で美と毒とポエジーこそ必須であると考えている。そしてマチスが美の理念とした言葉「豪奢・静謐・逸楽」ー つまりは、眼の至福たる事を範とし、その実践をしているという意識は強烈にある。しかし、そうは言ってもやはり実際にコレクションを決断されるというその行為に対しては本当に感謝したいと思っている。かつて池田満寿夫氏が語ってくれたように、「コレクションされるという事が、作品に対する最高の批評」なのである。

 

さて、今回も様々な方と会場でお話する機会があった。この国の最大のコレクターといっていい東京オペラシティの寺田小太郎氏は、毎回の個展でコレクションして頂いているが、今回は三点のコラージュを求められた。その後、私と寺田氏は一時間ばかり会話を交わした。この国の現在の混迷の元凶は、明治新政府において西郷隆盛の農本主義が廃された事に拠るという自説を語ると、実は寺田氏もまた同じ考えを持っておられた事に驚いた。そして日清・日露で勝ってしまった事がこの国の軌道を狂わせたという話になり・・・・寺田氏の豊富な体験談を伺って、私はずいぶんと教わる事となった。

 

有田焼十四代の今泉今右衛門氏とは、芸術作品の表象にある肌(メチエ)が如何に決定的に重要なものであるかについて、分野の垣根を超えて共通な眼差しをみられた事は意義深いものであった。メチエが持つエロティシズム・魔性・暗示されたイメージの豊饒、・・・・そして気品。ちなみに、この当然なメチエへのこだわりに眼を注いでいる美術家は、私の知る限り皆無であるといっていい。

 

さて掲載した作品写真は今回の出品作『ベルニーニの飛翔する官能』である。この作品をコレクションしたのは、短歌の第一人者、水原紫苑さんである。水原さんは、あの白州正子さんが「稀に見る本物の歌人」と高く評価した才人。このコラージュは危うく妖しいエロティシズムに充ちた難物であるが、さすがに天才の眼は、一瞬でこの作品に意味を見た。水原さんの購入が決まった後に売約済を示す赤いシールがタイトルの横に貼られた。その後、この作品を購入したかったという人が8人続いたが、その全員が女性であった事に私は作者として驚いた。男性は作品に理論的な意味付けを試みるが、女性は直感で作品の本質を見抜く。女性の感性たるや恐るべしである。

 

今一つの画像作品は、詩人の野村喜和夫氏がコレクションを決められた。野村氏は現代詩の第一人者として、昨今最もその評価が高い。先日は歴程賞を受賞し、この春は萩原朔太郎賞を受賞するなど、刊行する詩集や評論集のことごとくが注目の的となっている。野村氏は個展の度に私の作品をコレクションされているが、その選択眼は確かであり、私の作品の中でも代表作となるような重要な作品ばかりを必ず選ばれている。来年の一月には詩人のランボーを主題に絡ませた、野村氏と私の詩画集が思潮社から刊行予定となっており、作品は既に作り上げている。さて先述した水原紫苑さんや野村氏といった表現者の人にコレクションされる事には今一つの更なる楽しみがある。それは御二人に見るように、短歌や詩の中で私の作品が変容して再び立ち現れる事である。既に野村氏は今年の「現代詩手帖」の巻頭で、それを実行し、水原さんも近々の作品の中に詠まれる由。ともあれ、今年の個展は全て終了し、私は束の間ではあるが休息となる。しかし、このメッセージはしばらく休んでいた分、書きたい事が多くある。乞うご期待である。

 

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『個展 – 中長小西』

中長小西(NAKACHO KONISHI ARTS)での個展が、20日からいよいよスタートした。前日の飾り付けは、オーナーの小西哲哉氏のミリ単位での作品展示の位置、照明へのこだわりが徹底されて夜半過ぎまでかかったが、それを反映して洗練された完成度の高い展示となり、作品が更に映えて密度の濃い会場空間が立ち上がった。

 

 

初日の開場と共に、先ず最初に入ってこられたのは日本経済新聞社のK氏であった。会場内をゆっくりと一巡して再び『パスカルの耳』と題したオブジェの前に立ち、即決したようにコレクションとしての購入を決められた。この早い決断は私を驚かせたが、そういう決断はその後も続き、予想以上の作品が、初日からたちまち私の手元を離れていく事となった。もとより作者とは、作品がこの世に形を成すための客体的存在であり、作品からイメージを夢見のように紡いでいくのは、作品を所有する人の主体的な特権である。その意味でコレクションという行為もまた、作者とは異なるヴェクトルを持った豊かな創造行為であるという持論が私にはある。

 

二日目の来場者の中に美術雑誌の編集者のB氏がいた。B氏は今回の作品を見て「今年に入って五百以上の展覧会を見て来た中で、最高にレベルの高い内容だと思う!!」と、私に感想を告げてくれた。いろいろな方が個展の感想を語ってくれるが、B氏のように仕事上も含めて数多くの展示を見ている人はいない。その意味でより客観性を持ったB氏の言葉は、私の現在形に対する自信と確信を強度に抱かせてくれるものがあった。今後仕事に対峙していく上で、このB氏の言葉はひとつの強い追い風となっていくであろう。

 

さて、今回の個展は『立体の詩学 – 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で』という題を付けている。少しそれについて語れば、フリュステンベルグとは、パリ・六区に現存するフランス浪曼派の巨匠- ウジェーヌ・ドラクロワの館がある所の番地名である。その館には美しい庭が在り、私はその場所を、今回の個展で発表する作品のイメージを紡ぐ場所として想定した。ご存知のように昨今の美術作品の多くは、色彩各々が本来持っているドラマやアニマを失って、薄く脆弱なものと化している。しかし本来、芸術とは強度であり、危うく、かつ毒があり、ゆえに深く美しいものであるべきであろう。私はその批評的考えをベースとして「色彩のアニマの復権」をテーマとして立ち上げ、タイトルにそっと、その意図を伏せた。ドラクロワは、その象徴として登場しているのである。「立体の詩学」は、詩の分野だけでなく、芸術創造の最終行為においてポエジーを孕ませることは必須であり、私の作品は美術という分野を超えて、〈詩〉の領域に在るものでありたいという想いから付けたものである。現代の美術の傾向は、ますます無機質な不毛なものへと行きつつあるが、私は、それとは真逆の、有機的な韻を帯びた馥郁として名付けえぬ危うい作品を作っていきたいと思っているのである。

 

 

「立体の詩学 - 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で」BOXオブジェ(部分)

 

「千年の愉楽 - サルーテ聖堂の見えるヴェネツィアの残照 」BOXオブジェ(部分)

 

 

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