……前回のメッセ―ジで、私は画家の到津伸子さんについて書いた。その文中で、私はパリの深夜のカフェで、到津さんに積極的に文筆活動をしていく事を強く薦めた事を記した。彼女の友人で作家のロラン・トポ―ルもまた同じ頃にそれを薦めていたという。到津さんは私達の薦めもあってか、以後の拠点をパリから日本に移し、文筆活動を精力的にしていく事となる。……しかしその頃(1991年の冬)の私はと言えば、雑誌『太陽』からの執筆依頼で『X宛のバルセロナよりの書簡』という短い連載文や他雑誌からの紀行文をパリの屋根裏部屋で書いているくらいで、文章に関しては未だ散文的な日々を送っていた。到津さんにアドバイスはしたが、自分への何かモメントのような物を私はまだ見いだせないでいた。その私が文章への意欲を俄然立ち上げたのは、石のパリの灰色の冷たさが和らぎ始めた頃であった。……パリの14区に世界中の留学生や研究者が滞在している「パリ国際大学都市」というのがあり、そこにバロン薩摩と称された薩摩治郎八が私財を投じて建てた日本館がある。ある日、私はそこに滞在している友人で、当時は京大の建築科の助手であった平尾和洋さん(現・立命館大学教授)を訪ねて行った事があった。しかし平尾さんはまだ帰って来ていなかった為に、私はそこにある図書室で本を読みながら彼を待つことにした。その図書室の中で、幾冊かの本をつらつらと読んでいた時に、私は初めて饗庭孝男(あえば・たかお)という優れた文芸評論家の存在を偶然知ったのであった。何気なく書棚から取り出したその本は、饗庭さんの『石と光の思想』という本であった。……10代の頃から、三島、川端、谷崎、また泉鏡花、永井荷風……更には数多の詩人達の作品らに影響を受けていた私ではあったが、優れた文芸評論……というよりも、その深い思索を実に美麗にして読みやすい文体で綴ったそのフォルムに、私は打ちのめされ、自分の進むべき指針を得たような決定的な出逢いを覚えてしまったのである。以前にニュ―ヨ―クから頂いた池田満寿夫さんからの手紙に「私はあなたの文学との関わり方にも大いに興味があります。」と記された一文があったが、自分が進むべき文章の有り様へのヒントが、饗庭さんの文章との出逢いで漸くうっすらと見えて来たのであった。しかし……具体的な発表の場など、美術の分野にいる私などにあろう筈がない。
〈日本館〉
しかし、一年間の留学を終えて帰国した私に、積極的に文章を書いていく事になる大きな転機が待っていた。名編集者としてその慧眼を知られる新潮社の中瀬ゆかりさん(現・出版部部長)と幸運にもめぐり逢えたのである。……文芸誌『新潮』の中の小説の挿画を画く事になり、その打ち合わせで先ずはお会いしたのであるが、中瀬さんは私の語る留学時の様々な話に興味を持たれ、視点と着想に独自性があると言われた時は大きな自信となった。中瀬さんは不思議な眼力の持ち主で、これから伸びていく人は、私にはオ―ラのような光を放って輝いて見えるのだと言う。その後に本郷にある東大の医学部解剖学教室の部屋で再びお会いした時に、先ずは『新潮』に文章を書くように突然言われた。『新潮』と言えば、三島由紀夫、川端康成ほか名だたる文豪達の主要な発表の舞台であるが、そこに近々に書くように言われた私は、いきなりの事にさすがに緊張したが、硝子という素材への私の偏愛と郷愁を主題にした『水底の秋』という文章を書いてOKとなり翌月号にそれが載った。そして中瀬さんからは続けて書くように言われ、私はピカソ、ダリ、デュシャンの知られざる逸話を絡めた『停止する永遠の正午―カダケス』という、80枚ばかりの原稿を書いた。中瀬さんは私の手書きの原稿をプロならではの速読の物凄い速さで読み進み、書き直し無しの一発OKがその場で出た時は、本当に嬉しかった。……中瀬さんはその後、『新潮45』に異動されて編集長として活躍されるのであるが、異動後もいろいろとサポートして頂き、本当に助けて頂いた。そして、私は続けて、フェルメ―ル試論とも云うべき『デルフトの暗い部屋』を書いて『新潮』担当編集者の方に渡した。……掲載の是非の知らせがなかなか来ずに気をもんでいたある日、『新潮』の編集長自らが電話をかけて来られ、昨日、編集会議があり、編集者全員の一致で掲載が決まった事、また美術に関する物としては過去に類が無いほどの緻密にして美しい文章である事を言われ、引き続き執筆していく事を強く薦められた。私はその時に、目標としていた饗庭さんの事がふと頭を過った。……その後に書き下ろしで170枚以上となる異形な視点から書いたレオナルド・ダ・ヴィンチ論『「モナリザ」ミステリ―』を書き上げ、新潮社から『「モナリザ」ミステリ―』のタイトルで、以上の三部作を収めた本が刊行されすぐに増刷となり12000部以上が読まれて話題となった。……そして、書き下ろしの詩を80点近く入れた写真集(沖積舎)を出し、また新潮社からは久世光彦さんとの共著『死のある風景』の刊行などが続き、求龍堂からは『美の侵犯―蕪村X西洋美術』……へと刊行が続いていく。この本も話題となり、多くの書評が書かれたが、最も鋭い批評眼で知られる齋藤愼爾(さいとうしんじ)さんからは、新聞の書評で「この国の美術評論家が束になってもかなわない事を、北川健次はこの一冊で成し遂げた」と書かれたのは嬉しい手応えがあった。しかし、それに相当するような存在感のある美術評論家が、では現実にいるかと云えば、現在全く見当たらないのは、美術界の哀しい現実かと、また思われる。
鉄をも切り裂くような鋭い批評眼を持った齋藤愼爾さんに新刊の『美の侵犯』を献呈としてお送りするのは、些かの躊躇いというのがあった。真っ向から否定されるのではという不安と、この眼力の高い人ゆえにこそ、踏み絵に乗るようなつもりで送らねば……という想いが交差していたのである。だからすぐに齋藤さんから電話が入り、その切り口を絶讚されて、「新聞の書評欄に書く!!」と云われた時は安堵し自信もまた甦って来た。しかし、本をお送りするのに躊躇した人がもうお二人存在した。……日本を代表する比較文学者の芳賀徹さんであり、もうお一人が饗庭孝男さんである。芳賀さんの『与謝蕪村の小さな世界』『絵画の領分』……といった名著の数々から、比較論的にかつ複眼的に物を観て、考える事の豊かさと蒙を開かれた私は、30代に芳賀さんの本に出逢って、どれだけ視野が拡がった事か。しかも芳賀さんには一面識もないにも関わらず、私は今まで多大なる影響を芳賀さんから受けた事を記した手紙を添えて本をお送りした。まもなくして、その芳賀さんから「私も本当はこのような自在な切り口で、蕪村を書いてみたいと思っています。」と書かれた長文のお手紙を頂いた時はさすがに熱くなり、また執筆の労が一気にほどけていくような安堵と手応えを覚えたのであった。……しかし、饗庭孝男さんには、まだまだ!という躊躇が先行して遂に送らないままに時が過ぎていった。……それからも饗庭孝男さんは、私にとっての鋭い指針であった。
時が過ぎて、私はそれまで19年間過ごしたアトリエを移り、現在の仲手原という場所に引越して来て、新たに制作の場を作った。通りから一歩入った閑静な場所である。……引越して来て片付けも完了し、ようやく落ち着いたある日、そのアトリエに詩人のKさんが私との詩画集の打ち合わせの為に来られた事があった。……詩の舞台はヴェネツィアにしたいというKさんとの話の流れで、話題がふと饗庭孝男さんの話になった。饗庭さんの本の中にもヴェネツィアが度々登場するからである。……聴いて驚いた事は、Kさんは饗庭さんと長い知己があり、最も影響を深く受けた人であるという。しかし、その後に続いて出た話に私は驚いた。……饗庭孝男さんのお宅は、私のこのアトリエのすぐ間近にあり、その饗庭さんは私がこの場所にアトリエを移すべく引越して来た、まさにその同じ月に亡くなられたのだという。私はKさんに饗庭孝男さんのご住所を教えて頂き、すぐにその場所へと向かった。何と歩いて数分の場所にそのお宅はあった。……そして、饗庭さんと私のアトリエの間には、饗庭さんが散歩の折りによく休まれていたという小さな公園があった。そこは私にとっても密かな安息の場所であった。……パリで偶然に知った饗庭さんの文章の、美しくも強靭な思索と陰影に富んだ世界。その方向の凛とした気韻ある表現の有り様を範として、私は文章を、自分の分野を越境するようにして書くようにようになった。その範とする私を導いてくれた人が、まさか私の間近に長年住んでおられて、数多の美しい文章を紡いでおられ、私はその場所に引かれるようにして引越して来た、……というのも、また何かの不思議な縁なのであろうか。…私にとって、文章を綴る営みというのは、オブジェなどの「語り得ぬ領域」に対する、もう一方に在る「語り得る領域」という、これもまたスリリングな世界である。…………思えば、中瀬ゆかりさん、芳賀徹さん、……そして饗庭孝男さんは、私が文章を書いていく上での導きの人達である。私が次に書く内容は、更に深化したものでなくてはならず、またそのように自分を追い込む事は、表現者としての愉楽でもあるだろう。とまれ、この不思議な導きを得難い縁と思って、また新たに次なる執筆に私は向かいたいと思っている。