大洪水

『加速的に世界が壊れていっている今、…あなたは!?』

 

…やがて11月になり、季節は一気に秋の終わりへ向かおうとしている今、巷ではアジサイや桜が狂い咲き、ツクツクボウシが虚空に向かって鳴いているという。…周知のように永久凍土が溶けて流れ出し、今や当たり前のように世界中で起きている大洪水の凄まじい氾濫画像を観ると、20~30年後の為のCO2削減対策云々などと言っている話が、もはや完全に空々しい。

 

 

…荒れ狂う広大な大海に向かって、如雨露で水をショボショボと垂らすようなこの話。…既に遅すぎて打つ手無しで、人類が壊して来た自然界の猛威的な逆襲は、今後ますます容赦なく、その牙の鋭さを顕にして来ることは必定である。そんな中、今日、明日、明後日…と世界中で数多の新生児が次々に産まれている。…その親達は我が子の無事の生誕を喜び、この子が無事に大きく育ったら…と、やがて間違いなく襲って来る火炎地獄を直視せず、世は事も無しとばかりに狭視眼的にうっとりと、嘘のように晴れた青空をそこに見てでもいるような……。

 

 

 

…話は遡って、9月の某日、私は名古屋に行き、このブログでも度々登場されている、俳人の馬場駿吉さんの事務所で、11月29日から名古屋画廊で開催する予定の、馬場さんの俳句と私の作品によるヴェネツィアを主題にした展覧会の打ち合わせをした。…それから1ヶ月が経った或る日、画廊から連絡が入り、馬場さんが怪我をされたという知らせが入った。…そして、その後で次は私が突然、坐骨神経痛を発症してしまい、高島屋の個展開催すら危ういという情況に襲われてしまった。日々の長時間制作に集中したあまり、遂に脊髄が損傷してしまったのである。…正に万事休すであった。…脚の激痛の中でなんとか個展はスタ-トしたが、会期終了の21日まで、今まで体験した事のない日々を体験する事となった。

 

 

…個展会期始めに、名古屋画廊の中山真一さんが来られて開催日延期の話になり、来春5月9日→24日に開催が決まった。…故に来年の私の展覧会はつごう6ヶ所の画廊で開催するという事になった。

 

…展覧会の話が沢山入るという事は表現者冥利に尽きる幸せな話であるが、果たして、その後の命は……どうなるのであろうか?ちなみに展覧会を順にあげれば、福井(4月)・名古屋、千葉(共に5月)・東京恵比寿(7月)・東京日本橋高島屋(10月)・横浜(12月)である。…

 

 

 

 

 

高島屋の個展は、先日盛況のうちに終了し、旧知の大切な人達、また今回初めて出逢えた人達が、新作のオブジェを介して語り合う事が出来、実り深い19日間であった。

 

 

…また会期中、私は65点の新作を観ながら分析し、今、現在のオブジェの有り様を考えながら、次なる展開の可能性を探り、そこで掴んだ試みのヴィジョンを形にしたく、早速に始めたいという意欲に今、充ちているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて、個展が終わり、次なるブログの内容もほぼ決まった。

…タイトルは『昔、お葉と呼ばれた女がいた』である。

 

行間に大正ロマン特有のゆるんだエロティシズムが色濃く漂う

内容になる事は必至。

 

…乞うご期待である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『死のある風景』

原発の再稼働の是非をめぐって様々な意見が入り乱れているが、どうもこの国の人々は、自明な大前提の事を忘れているように思われる。それは、この日本という国が、いざという時に逃げ場の無い極く小さな限られた〈島国〉であるという事である。

 

1986年4月に旧ソ連のウクライナ共和国の原発で起きたチェルノブイリ原発事故の事は記憶に生々しい。大気中に放射能が飛散した広域な現場は25年以上経った今も死の墓場であり、人々の影すらない。しかし、そこは地続きの大陸であり、被災者は遠方へと避難が可能であった。それにひきかえ、四囲を海に囲まれた我が国にはそれが出来ない。故にドイツ・フランス他の諸国と同一原理で語る以前に、もし地震が発生し、同様の事が生じた場合、もはやその時点で〈滅び〉しか目前にはない事を、SFの話ではなく、現実(事実、その第一波は起きた!!)の事として記憶するべきであろう。現在も、3.11の日に流れ出た大量の汚染水は海底の泥に混じり、小魚から回遊魚への汚染は確実に広がって、日本の近海をじわじわと封じ込んでいる。そして、それを除染する方法を私たちは持ち得てはいない。

 

私たちは地震による津波によって、原発が一瞬で砕けた様をありありと見た。そして今度は想定域が西へと下って関東・東海・そして関西へと、次なる悲劇の誕生が、具体的な〈今、そこにある危機〉として在る事を誰もが知っている。その渦中に在って、原発の再稼働は、人間がかくも愚かである事の実証でしかない。この記述すらも〈風評〉と断ずる者がいるとしたら、その御仁はよほど現実を直視する勇気と理性を持たない御仁であろう。隣国の主席はかつて日本を指して〈意識レベルがあまりにも低く、国家として体を成していない〉と酷評したが、精神の立脚点を自らに持たないこの国の民は皆、怒ることすら知らず、唯、他人事のように苦笑するだけであった。

 

周知のように、幕末から明治維新へと至る改革を可能にしたのは、言うまでもなく米・英・仏を中心とした外圧が発端にあったからである。今、この国に押し寄せている外圧と云えば、それは地震・原発によるオブセッショナルな感覚かもしれない。このまま行けば、逃げ場を持たない日本に待ち受けているのは、全面的な放射能被曝によって化した、住む場所を無くした焦土である事は、〈想定内〉の具体的な現実である。〈本当にエネルギーは不足しているのか!?〉という疑念がある中、今は代替エネルギーへの転化に専念すべきであろう。

 

さて、暗い話が続いたので、次は自分の事を明るく語ろう。先日刊行した拙著『絵画の迷宮』に続いて4月中旬には久世光彦氏との共著『死のある風景』が刊行予定である。明るくと言ったが、何とリアルなタイトルである事か!!先日出版社に行き、その本に載せる私の写真作品を選出する作業を行った(掲載した画像)。そしてその次には、詩人の野村喜和夫氏の詩集(ランボーを主題とした)に絡めて私の写真作品を載せるために、深夜にそのための写真撮影を行っている。〈この本は、今年中に思潮社より刊行予定〉。

 

最近の私は機会を見つけては津波の、あの怖るべき映像を見ながら、500年前にダ・ヴィンチが記した、大洪水によって人類が死滅していく叙景文の描写のそれとを比べている。そこから文章を立ち上げて、次なる書き下ろし執筆の、真近に迫った開始を計っているのである。ダ・ヴィンチの文は、私達の知るあの津波の映像と重なるように生々しく活写したものである。そのダ・ヴィンチは手稿の中で「間違いなく人類は水によって滅びる。」と予言している。現代の人々は中世よりも現代の方が文明において勝っていると思い上がっている。しかし現実は、人類が生んだ最大の知的怪物(ダ・ヴィンチ)の想像した予見の掌中に悲しくも、また愚かにも収まっていこうとしている。ダ・ヴィンチがその水による終末論を主題としたのが、彼の絶筆『洗礼者ヨハネ』なのである。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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