新撰組

『……それは拷問の話から始まった』

①…………今から思えば、…あれはその場所の「残酷な土地の記憶」というものが多少なりとも響いていたように思われる。……あれ、あの時、つまり前々回のブログで書いた、大寒波の夜に京都.先斗町で、京都精華大教授の生駒泰充さん、そして京都高島屋美術部の福田朋秋さんと一緒におばんざい屋の酒席で語り合っている時に、どういう弾みであったか、話は美術から離れて次第に血の気の多い世界史上における残酷な様々な拷問の話へと移っていった。……その話題へと突き動かしたのは、やはり、私達がその時、語り合っていた場所の土地の記憶の成せる業であったのか?

 

 

…………先斗町、その場所の残酷な土地の記憶。……それは今から158年前の「池田屋事件」に遡る。……河原町四条上ル東(先斗町近く)で古道具屋を商っていた尊皇攘夷の志士、古高俊太郎宅を急襲した新撰組に踏み込まれ、武器弾薬を押収され、諸藩志士と交わした手紙や血判書が押収され、屯所に連行された古高は過酷な拷問を受け、遂にその痛みに耐えきれず口を割り、御所に火を放ち、天皇を長州に連れ去ろうという計画を自白、それが池田屋事件へと発展した事は周知の話であるが、その時の自白へと至らしめる為の拷問が凄かった。新撰組副長・土方歳三の指示で、古高は屯所の二階から逆さ吊りにされ、足の甲から五寸釘を打たれ、貫通した足の裏の釘に百目蝋燭を立てられ火をつけられたのである。日本拷問史に残る特筆すべき一例であるといえよう。

 

 

 

 

……また、この先斗町近くは、桂小五郎の愛人・後の妻の幾松寓居(ここにも新撰組が踏み込んでいる)跡があり、佐久間象山大村益次郎、そして坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺現場も近いという血飛沫が飛び交った場所柄、私達の話が自ずと熱くなってしまったのは仕方がない。……拷問の話は西洋の方へと拡がっていったが、突然「北川さん、こんな話は知ってますか?」と生駒さんが面白い中国の拷問の話を切り出してくれた。……拷問と云えば、痛みが伴うものだが、生駒さんが語ってくれた話は違っていた。全く痛みが伴わない「ジワジワ」の話なのである。……生駒さんは語る。「狭い部屋の中に人間を閉じ込める、ただそれだけの話です。しかしこの部屋にはちょっと変わった仕掛けがあって、部屋の四面の壁面に一本に繋がった平行線が引かれています。しかし、その1ヵ所の平行線だけが〈ちょっとだけ〉歪んでいる。……ただそれだけですが、部屋に閉じ込められた人間は、日々の中でその歪みがどうしても眼に入ってしまい、やがて次第に精神に歪みが生じ、常軌を逸して来るという、そういう話です」。

 

……その場では、確かに面白い話の1つを教えてもらったというだけで、話題は別な方に移っていき、やがてお開きとなったのであるが、祇園の宿に帰ってから、先ほど生駒さんが語ってくれた、その歪んだ平行線の話が妙に気になり出し、今やその話は、鉄による立体作品の構想へと発展して来ているのである。元来、私の作品には垂直性と正面性がオブセッションのように食い込んで来ている事もあり、垂直線と平行線の交差した絡みがそこに入り込んで来て私の感性を揺さぶり、日々、時間の合間をみては、狭い部屋に見立てた立方体や直方体を描いて、その一辺に歪みを入れた図面を作っているのであるが、なかなかにこれが面白く、私は今、のめり込んでいるのである。

 

 

②2月最終の1週間は特に慌ただしかった。4月から5月に、私の親しい人達三人の方が続けざまに個展を開催するので、個展案内状に載せる序文の詩や、画廊で展示する為のテクストを頼まれていて、その作品を拝見し、各々の方の作品に寄せる想いを伺ってから文章にしていくという作業をしていたのである。その中の一人、私の後輩としても永いお付き合いをしてもらっている彫刻家の川越三郎君のアトリエに行く為に千葉へと向かった。電車で横浜から二時間で千葉の茂原駅に行き、そこから川越君の車でアトリエに向かうのである。……アトリエといっても彼は石を彫る彫刻家なので、仕事場は外である。このあたりはミケランジェロの時代と何ら変わらない。……広いスペ―スの中に石彫りの未だ途中の作品も幾つか在り、私はこういう生の現場を視るのが好きである。最初訪れたのは昨年の春であった。気軽に訪れたのであったが、なかなか重厚にして深い作品が何点かあるのを視て、私は彼に個展の開催を薦め、それがこの5月に実現の運びとなったのである。……何点か撮影したので、その画像と、私が彼の作品から触発されて書いた詩をここに掲載しておこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光のプリズムを浴びて
石の豊穣の中に神話学が走る。
打つ、削る、弾く、磨く……………………、

そこに生まれる
メビウスの曲線、スピノザの直線、
或いはカッラ―ラの石化する感情よ。
………………………………

幾何学の深奥にイメ―ジが宿り、
石の表が官能の華と化す。
物語の最終行が
遂には伝説に変わるように。

 

 

 

 

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『ラスプ―チンの忘れ物』

……先日、谷崎の『細雪』や、川端の『雪国』などの翻訳で知られるサイデンステッカ―の著書『東京下町山の手』を読んでいたら面白い事を知った。幕末の1858年頃から感染が広まったコレラ(通称コロリ)は、当時、長崎港に停泊していたイギリスの船から広まった由。今年2月に新型コロナウィルスの感染者を多数乗せて、さ迷える幽霊船のように横浜港に長期停泊していたクル―ズ船と同じパタ―ンであり、やはりイギリスの船であった。まさに歴史は繰り返すを地で行く話である。……さて、その幕末のコロリの流行であるが、当時「試衛館」という剣術道場を経営していた道場主の近藤勇はハタと困ってしまった。コロリの為に入門者が途絶えてしまい経営が行き詰まってしまったのである。周りは次々と感染者が出て、死者が絶えないのであるが、不思議な事に、この道場の食客としてごろごろしていた、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助……達、天然理心流の凄腕の連中(後に新撰組の原型となる)は全く感染する気配もなく、ただ、この後、どうやって食べていくか?……だけを憂いていた。あくの強い連中には、コロリ菌の方から避けていたような節がある。そして彼らは、徳川家茂の上洛警護をする幕府の「浪士組」募集に応募し、活路を求めて京都へと向かった。……やがて、京都でこの連中から暗殺される運命にあった、あくの強さと強烈なキャラを兼ね備えていた芹沢鴨(水戸藩浪士・後に新撰組初代筆頭局長)もまた活路を求めて運命の転げ坂を辿って、地獄へ引き寄せられるように京都へと向かった。……その後の顛末は読者諸兄のご存じの通りである。

 

…私は覚えている。……あれは私が18の暑い夏であった。美大に入った私は、ふと西陣織の職人にでもなろうかと思って大学の夏休み時に京都へと向かった。……しかし、駅に着いて私が直ぐに向かったのは何故か西陣ではなく、壬生であった。この地に残る新撰組発祥の地、彼らの宿舎(屯所)が今もそのままに遺る八木源之丞邸を見に行ったのである。その当時は今のような新撰組ブ―ムは未だ無く、訪れる人もさほど無く、また屋敷は非公開の為に門が閉まったままであった。……歴史好きな私は熱い感動のままに大きな屋敷の周りをぐるぐる廻っていた。……すると、門が突然開き、中から八木家の子孫とおぼしき初老の方が出てくるところに偶然遭遇した。一瞬閃くものがあり、「……私はまだ学生ですが、大学で幕末の歴史を頑張って研究しています!」と言った。(もちろん、美大に幕末史の講座などはない)……すると温厚そうなその方は「もしよろしおしたら中に入りませんか?」と気軽に言ってくれて、私を八木邸の中へと導いてくれた。〈私は肝心な時に、こういう人との導きのような出会いが実に多い〉……100年以上もずっと非公開の為ゆえか、広くて薄暗い屋敷の中は幕末の頃の空気がそのままに残っているような張りつめたリアルな気配に充ちていた。……「そこの火鉢、土方はんや沖田はん達が、寒い冬の日に囲んでいたそのまんまや言うてました」……幾部屋かを巡って離れに行くと「ここで、この文机に芹沢はんが躓いたとこを斬られたんですわ」。「この鴨居にも、こんな深う刀傷が付いてますやろ」……私は「…確か、お梅(芹沢の愛妾)も一緒でしたね」と言うと、ご当主の八木さんは手応えを覚えて熱が入ったらしく「可哀想にお梅さんは、たぶん沖田はんや思いますけど首をはねられましてな、昔はこの天井にそのお梅さんの血が噴き上げて、えろうぎょうさんかかってしもうて、まぁその後もずっとそんままでしたが、来た嫁がえろう気持ち悪がって、仕方おへんから弁柄(べんがら)で塗ってしもたんどす」。……「一緒にいた芹沢の仲間の平山(五郎・通称めっかちの平山)はんは斬られましたが、まぁ運が良かった言うんでしょうなぁ、野口、平間いう人は真夜中に芸妓と一緒にここから走って、畑の向こうに消えていったと聞いてます」。……私は深夜に畑の向こうに必死で逃げていく野口健司(のちに切腹)、平間重助、そして災難に巻き込まれた芸妓の必死な姿がリアルに透かし見えるようであった。…………さて芹沢鴨、この京都で暴れまくった性豪列伝に載るような男の名を聞くと、私はそのあくの強さから、したたかな免疫力のごときものを持ったタフな男の名をそれ以前の歴史の中に想い浮かべるのである。……奈良時代の女性の天皇「孝謙天皇」。その孝謙天皇が病に臥せっていた時に加持祈祷を行って接近し、その寵愛を受け、ついには「法王」の座にまで出世した男である。道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った「日本三悪人」として平将門・足利尊氏と同列に並ぶが、いわゆる性豪列伝を代表する人物として今にその名を残している。

 

……しかし、道鏡の上を行く人物がロシアにいた。……ご存じ、帝政ロシア末期の祈祷僧……ラスプ―チンである。ラスプ―チンの生涯は前述した道鏡に似ている。ニコライ2世の皇后アレクサンドラと血友病の皇太子の治療と称して宮廷に入り込み、アレクサンドラの寵愛(愛人説が高い)を受けて、ロマノフ朝を影で操る怪僧となり帝政は乱れ、後に二月革命が起きて第二次ロシア革命へと至るのである。……退廃するロマノフ朝の皇族三人がラスプ―チンの暗殺を謀り、私邸に招き入れ、青酸カリ入りのケ―キを食べさせ、毒入りのワインも飲ませたがラスプ―チンが平然としているので、次にピストルで何発も撃ち込んだ。……ようやくぐったりとなったラスプ―チンを、近くの運河(氷が張って冷たい)に投げ入れた。やがて死体が上がって来て検死をして、再び驚いた。……なんと、ラスプ―チンの死因は意外にも溺死であった。…という事は、数発の銃弾を被弾してもまだ彼は死んでおらず、運河の冷たい水底でようやく溺れ死んだというわけである。……毒でも死なず、被弾しても死なない驚異的な抗体の持ち主ラスプ―チン。今のコロナ渦の時代に生きていたら、どのような姿がそこにあるのであろうか!?……突出した強力な抗体を持った人間の遺伝子を大量に殖やして新型コロナウィルスに対抗するという研究が進んでいると聞くが、もしラスプ―チンが今いれば、この化け物のような驚異的な生命力はかなり世界に貢献する事、大だと思うが如何であろうか。……今回は、現在サンクトペテルブルグの博物館に保管され一般にも公開されているラスプ―チンの性器のご紹介を持って、このコロナ渦関連のブログを終わろうと思う。……ちなみに女性たちが楽しそうに見学しているのが気にかかるが、もう1つ、ちなみにラスプ―チンの娘マリ―が父親の遺物のそれを返すよう博物館側に求めているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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