永井荷風、三島由紀夫

『日暮里に流れている不思議な時間…』

…今年は展覧会が5ヵ所で予定されている。…5月は金沢のアート幻羅(5月9日~6月2日)と千葉の山口画廊(5月22日~6月10日)での個展。金沢は初めてなので、私の今迄の全仕事総覧。千葉の山口画廊は全く新しい試みと挑戦による鉄の新作オブジェを中心とした展示。10月9日~14日は横浜の高島屋で、これは個展でなく、宮沢賢治の世界を主題としたグル-プ展。…10月2日~21日は日本橋高島屋ギャラリーXでの大きな個展。11月29日~12月14日は名古屋画廊で、ヴェネツィアを主題とした、俳人の馬場駿吉さんとの二人展である…。今はアトリエで制作の日々であるが、それでも忙中閑ありで、時間を見つけては度々の外出の日々であり、数多くの人と会っている。

 

…その中でも一番多くお会いしているのは、このブログでも度々登場して頂いている、真鍮細工などの超絶技巧の持ち主である富蔵さん(本名、田代冨夫さん)である。富蔵さんは、パリで昔建っていて今は無い建物とその一郭をアジェの古写真を元に精密に真鍮で再現し、その時に流れていた時間や気配までもそこに立ち上げるという、不思議なオブジェを最近は集中的に作っていて、作品のファンが多い。…富蔵さんとは初めてお会いした時から波長が合い、前世からのお付き合いが現世でもなお続いているような、懐かしの人である。昨年からは特に制作の具体的な話から、文芸の話、幼年時代の記憶までも含めて幅広い内容でお会いする事があり、私には気分転換と充電を兼ねた密にして大切な時間がそこに流れているのである。…待ち合わせ場所は決まって日暮里の御殿坂の上、谷中墓地の前にある老舗の蕎麦屋『川むら』であり、その前にあるカフェでさまざまな事を語り合っているのである。

 

3月のある日、その日も富蔵さんとの約束の日で、私は日暮里駅を降りて、御殿坂を上がっていったが、未だ約束の時間には早すぎたので、坂の途中にある古刹・本行寺の境内に入った。…この寺は江戸時代からの風光明媚な寺として知られ、小林一茶種田山頭火も俳句を詠んでいる。また寺の奥には徳川幕府きっての切れ者、永井尚志の墓があるので、それを見に行った。…坂本龍馬が暗殺の危機にあり、周りから土佐藩邸に入るように勧められた時に、龍馬が「自分は永井と会津に面会して、命の保障をされているんだ」と言った、その永井である。結局、龍馬は中岡慎太郎と共に見廻り組によって斬殺されてしまったのは周知の通り。……ちなみに文豪の永井荷風三島由紀夫の先祖である。

 

…墓参して引き返す時に、面白い光景が目に入った。…寺の塀に沿って夥しい数の卒塔婆がズラリと立ち並んでいるのである。その向かい側にはすぐに家々が建っていて、明らかに、その部屋から見える朝からの光景は、障子や窓越しに並んで立っている、卒塔婆、卒塔婆…のシルエットなのである。私はそれを見て思った。「…こういう眺めが平気で住んでいる人というのは、一体どういう人たちなのだろうか?」と。映画『眺めのいい部屋』の裏ヴァ-ジョンである。

 

 

…私は卒塔婆の傍に立って、様々な人物像や、その生活の様を、オムニバスの短編小説を書くようにして想像(妄想)した。…すると、何よりも好奇を好む私のセンサ-が強く反応して「いや、きっと面白い人物が住んでいるに違いない」、そう思い、私は待ち合わせ場所の『川むら』の横にある露地へと入っていった。

 

…昭和然とした家々がひっそりと建っている、その先に、はたして一軒の家が目に入った。

 

 

『湿板冩眞館』と書かれた白い看板。そして見ると、この家を訪れて撮影したとおぼしき、女優の杏さんや北野武、草彅剛の写真がその下にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そして、坂本龍馬を撮影した幕末期の写真機を使って、現在も活動中である由が書かれた看板も目に入った。…入ってみたい衝動に駈られたが富蔵さんとの約束の時間である。いったん戻り、再び私達はその家の前に立って、呼び鈴を押した。

 

 

 

中から出て来られたのは、写真家(写真術師の方が相応しい)の和田高広さん。…玄関壁には今まで撮影された人達の硝子湿板写真(その誰もが現代と昔日のあわいの不思議な時間の中で生きているようだ)。

そして、和田さんに案内されてスタジオの中に入るや、そこは、現代の喧騒とは無縁の、まるで時間を自在に操る光の錬金術師の秘密の部屋に入ったような感慨を覚えた。

 

 

…それから、和田さん、富蔵さん、そして私の、表現創造の世界に人生の生き甲斐を見いだしてしまった、云わば尽きない物狂いに突き動かされている私達三人の熱い話が、堰を切ったように、およそ二時間始まった。…話を伺うほど、和田さんが独学で究めてきた、写真術が未だ魔法の領域に属していた頃の世界に私達は引き込まれていった。

 

 

…私は以前のブログで書いた或る疑問を和田さんに問うてみた。…幕末の頃は写真機の前でポ-ズする時間がおよそ30分位は必要と言われているが、私には1つの疑問がある、それは龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎が笑って写っている写真があるが、…30分くらい、人は可笑しくもないのに笑っていられるのか?…という疑問であった。…長年懐いていたこの疑問を和田さんは一言で解決してくれた。…(30分くらい必要というのは間違いで、実際は20秒あれば写ります!と。

 

 

…また樋口一葉が手を袖の中に入れて写っているが、その訳は何故か?…その答えは樋口一葉研究者達を一蹴するような、古写真撮影の現場を実際に知っている人にしかわからない話で、私は長年の疑問の幾つかが、忽ち氷解して勉強になったのであった。

 

…富蔵さんの話も面白かった。話が進んでいくと、富蔵さんと和田さんに共通の知人がいる事がわかってくる。私達はアンテナが何処かで間違いなくつながっている、そう思った。…二時間ばかりがすぎて私たちは写真館を出てカフェに行き、余韻の中で更なる会話がなおも続いたのであった。

 

 

2日後の22日に、東京国立近代美術館で4月7日まで開催中の写真展-『中平卓馬 火/氾濫』展を観る前に、私は今少し和田さんにお訊きしたい事があったので、事前に連絡を入れて、再び日暮里の写真館を訪れた。…すると嬉しい事が待っていた。午後から写真を撮られに来る人がいるので、その撮影の為に感光液を新たに作ったので、(その液の試験に)と、私を撮影する準備が出来ていたのであった。いつか私も生きた証しとなるような記念写真を和田さんに撮影してもらいたいと考えていたのであるが、まさか今日!とは嬉しい限りである。…しかも坂本龍馬を撮したのと同じ写真機で。

 

 

 

……思えばつい先日、本行寺に寄って龍馬と関わりがあった永井尚志の墓を見た帰りに、ふと見た卒塔婆に導かれて、細い露地へと入っていったその先に、このような出会いが待っていようとは、だから人生は面白い。…和田さんの二階から見えた本行寺の墓地は実に明るい眺めで、彼岸の陽射しを浴びて墓参に来られた人達もまた穏やかな会話を交わしている。…最初に予想していた逆で、この部屋こそ正に『眺めのいい部屋』なのであった。…ちなみに、私が撮ってもらった写真の仕上がりは、龍馬というよりは、高杉晋作、或いは石川啄木の姿に近いものであった。

 

 

 

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『谷中幻視行―part①』

……二月頃から、アトリエに籠ってオブジェの制作の日々が続いている。しかし、発想の転換や充電も兼ねて、時折は行きたい所に出かけてもいる。ここ連日続いていた長雨がその日は止んだので、これ幸いとばかりに日暮里から下車して谷中への散策をする事にした。……日暮里は、「日暮しの里」という言葉が語源である。その名が示すように夕焼けが美しく、震災前までは、この高台からはかつては素晴らしい眺望が見えたらしい。蛍が出て、この地から根岸にかけては多くの文人墨客が住んでいた。

 

さて、日暮里駅を出て御殿坂を上がるその途中に、すぐに本行寺(別名・月見寺)という大寺がある。小林一茶も句を詠んだこの古刹には、先ずは目指す永井尚志(若年寄)の墓がある。幕臣中随一の切れ者であり、大政奉還の上奏文を書いた人物である。しかし、とてつもなく広い墓地なので、その場所がわからない。……「御免下さい」と言って寺内に入り、奥から出て来たご住職に問うと、塀沿いの最奥がその墓であるという。「永井尚志の子孫に、永井荷風と三島由紀夫がいますね」と言うと「そうです。この三人は繋がっています」との返事。「何故、永井の墓がこの寺にあるのですか?」と問うと、「この寺の開祖が初代江戸城を築いた太田道灌で、永井はその子孫になります」との答え。……と言う事は三島由紀夫、永井荷風の先祖が太田道灌に結び付く訳で、これは知られざる「ファミリーヒストリ―」として勉強になった。ちなみに言えば,藤原鎌足にそのルーツが辿り着く。……ご住職は、私の質問に響くものがあったのか、帰り際に茶菓子を「持っていきなさい」と言って手渡してくれた。……令和の今と隔絶して江戸・明治の時間が止まったままのような深い趣のある古刹である。

 

 

 

……その隣の寺が経王寺。幕末の上野戦争で彰義隊の分屯所があった場所であり、その史実を映すように、入口の山門には官軍が撃った弾痕がいくつか生々しく残ったままである。穴に指を入れると、中指が丁度すっぽりと入ったので、それから官軍が撃った弾の大きさが見えてくる。

 

さて、その隣が延命院。樹齢六百年という椎の木を見ながら本堂の方に進むと、目立たない右陰にひっそりと建つ古い墓が一つある。墓の主は「行硯院日潤聖人」。享和の初め頃に、江戸城の奥女中や商家の内義、その数およそ60人以上……を惑わし、祈祷と称してかなり淫らな色事に耽ったという悪僧、いわゆる延命院事件の主役、住職日潤の墓である。やがて寺社奉行の捜査が入って露見、後に死罪となっている。この事件は後に河竹黙阿弥の『日月星享和政談』で芝居にもなった由。……前回のブログに書いた怪僧ラスプ―チンや道鏡、また以前のブログで書いた鎌倉尼寺の尼ばかりを狙った怪僧と言い、困ったものであるが、まぁ話としては面白い。その墓をじっと見た後で写真を撮る。……「夕焼けだんだん」を下って、谷中銀座の蕎麦屋で、谷中の名物と言えば谷中生姜なので、生姜、海老の天麩羅が入った蕎麦を食べ、最も気になっていた次の場所へと向かった。

 

 

 

延命院と経王寺の間の路を石塀に沿って歩く。長谷川利行、いずみたく、橋本関雪……達が住んだ路を、その先、諏訪神社の方に私が目指す「太平洋美術研究所」があった筈なので、その跡地を目指して進むと、幻覚なのか、……「太平洋美術研究所」の看板がありありと見えて来たのには驚いた。……実は、この「太平洋美術研究所」、美大に入りたくても貯えがない家庭に育ったので、美大を諦めて、ここに入ろうかと真剣に考えていたのが16才の高校生の頃であった。あの頃は中村彜や佐伯祐三にのめり込んでいた時期である。…………しかし、この太平洋美術研究所は明治の初期は、黒田清輝の白馬会と洋画界を二分する存在であり、初期の学生に坂本繁二郎、朝倉文夫、川端龍子、後に中村彜、中村悌二郎、……長沼智恵子(後の高村智恵子)などが学んだ研究所であり、私の狙いはそれほど間違ってはいなかった。ただ、あまりに時代の読みを間違っていた。……なにしろ、東京の国立という地名を知らず、夏期講習会のチラシを見て、国立(くにたち)美術研究所を、「こくりつ」の研究所と思っていた、そんな具合なのであった。もうとっくに無いと思っていた建物が、まるで私を待っていたかのように、幻のように眼前に在るのを見て、私は感動してしまった。……もし親が美大行きを許可しなかったら、私は上京して谷中近辺に下宿をして、ここに来た可能性が多分にあったのである。玄関のチラシを見ると、「高村智恵子が描いたデッサンが二点発見さる!!」と書いてあり、私はしげしげと見入った。……そして、扉を開けて中に入ると、奥から絵描きらしい人が出てきたので、「実は、昔、ここに入りたかったのですよ!」と言うと、「今からでも入れますよ!」と親切に言ってくれて、「二階が雰囲気があるので、良かったらご覧になりませんか?」と言って二階に通された。扉を開けて驚いた。松本竣介も時おり来て描いていたという、戦前の面影を残したままの画室がそこにあったのである。

 

後で帰ってからじっくり森まゆみさんの本を読むと、果たしてその画室の事が書かれている文章を見つけた。……「古びた灰色の建物の中を、ギシギシいう木の階段を上り、そうっとドアを開けると、薄暗い画室で何人かがキャンバスに向かっていた。O.ヘンリ―の『枯葉』を思わせる、油彩の臭いが漂う独特の雰囲気がある場所である。」と書いてあった。……帰りに、もう1度、その絵描きらしい人が「良かったら、是非!……いつでもお待ちしていますので!」と言って、案内の要綱を詳しく書いたチラシを渡してくれた。……歩きながら私は考えた。……もしここに入っていたら、後の私の人生は果たしてどうなっていたであろうか。……ほんのちょっとのモメントや偶然で、人の一生なんて大きく変わってしまう。……だから人生は面白いのだと。

 

さて、私が次に向かったのは、今日の本命の谷中墓地である。……私は以前から、この墓地の中を自転車に乗って、時に風のように飄々と。また時に、周りの誰も知らないもう1つの全く別な顔をして鋭い目付きで人生を送っていた、一警察官の足取りを追っていた。それを今日は詰めに来たのである。……その為に、私は墓地の中に在る派出所にも行かなければならないのであった。

 

…………次回part②に続く。

 

 

 

 

 

 

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