#樋口一葉

『2024年が自転車に乗って去っていく…』

アトリエの片づけを3日間続けてやったら、引っ越して来た時に失くしたものと諦めていた手紙がまとめて出て来たのには驚いた。掃除はするものであるとつくづく思った。……作家の森まゆみさん、写真の分野を革新して芸術の高みへと押し上げたツァイト・フォト・サロン石原悦郎さん、私が最も影響を受けた比較文学者の芳賀徹さん、作家の松永伍一さん、…同じく作家の矢川澄子さん、版画家の浜田知明さん、加納光於さん、…他。大事と思って手紙をまとめてアトリエの奥の奥に仕舞っていたのがよくなかったのである。

 

 

…『週刊ポスト』で、私と久世光彦さんの共著『死のある風景』(新潮社刊)の書評を書いてもらったご縁で知り合った作家の倉本四郎さんのご自宅に喚ばれた時に、森まゆみさんとお会いしてご一緒に流し素麺を食べたのが出会いである。

 

…当時刊行したばかりの拙著『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)を森さんにお送りしたら、後日に読まれた感想を記したお手紙が届いた。…その末尾には(絵描きにこんな素晴らしい文章を書かれたら困る‼)…という強烈なお褒めの言葉が書いてあって私を喜ばせてくれた。……今、私の書斎には森まゆみさんの著書が20冊以上あり、中でもお互いが好きな樋口一葉に関する著書が最も多い。私が昨今とみに探訪している谷中に関しては、その多くを森さんの著書を導きの杖としているのである。

 

 

 

………芳賀徹さんの『與謝蕪村の小さな世界』から比較文化論的に思考する事の蒙を拓かれた私は、拙著『美の侵犯-蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)と『「モナリザ」ミステリ-』を芳賀さんにお送りしたら後日にご丁寧なお手紙が届き、(『美の侵犯』は、小生も一度はこういう自由自在でまた的確な画文交響を演じてみたいと願っていたような面白さ。

 

…(中略)…モナリザミステリ-は、特にモナリザと漱石を小生論じつつありますので大いに使わせて頂きます。云々)という内容が綴られており、私はこれらの本を書いた事の手応えを芳賀さんのお手紙から最も強く覚えたのであった。

 

……またこの『美の侵犯-蕪村×西洋美術』を刊行してすぐの事であるが、この国の西洋美術史研究の礎を築かれた高階秀爾さんが、高島屋の個展初日に会場に来られ、私に、(新聞の書評で読んだ『美の侵犯…』の事が気になって買いに来ました。)と言われて驚いた。…高階さんは蕪村にかんする造詣も深いのであるが、専門の西洋美術史と蕪村は、高階さんの中ではあくまで別物であった。…それを私が一本の線で結びつけて論じてしまった事に驚かれたというのである。……これも芳賀徹さんからの比較文化論的な影響が奇想の着想を成したのであった。………加納さん、森さん以外は既に逝かれてしまったが、この手紙は私の大事な生きた証しとして大切に持っていようと、あらためて思った。

 

 

さて話は変わって、今度はカニの話を。……先日、私の故郷の福井から越前がにが沢山届いた。送ってくれたのは、高校の美術部の後輩だった小川正隆君である。(…小川君、こんなに沢山送ってくれたら、日本海からカニが絶滅しちゃうではないですかぁ…)と、バカな独り言を言いながら木箱を開け、…そして食べた。……カニの味噌や脚を裂きながらひたすらに食べた。

 

 

 

 

…そして、おもむろにカニの顔を視て恐怖した。三島由紀夫がカニが苦手でカニを出すと卒倒したという話も頷けるという、…何とも怨みがましい顔つき。…いずれの顔も渋い表情でいかにも無念げである。…ふと昔、家に出入りしていた大工の棟梁の留さんの顔を思い出した。頑固一徹の職人に、こういう顔つきの人が時々いる、そう思った。

 

 

………そして、カニと蜘蛛が先祖は同じだという説があるのを思い出し、タブレットで両者の顔を比較した。蜘蛛の顔を初めて視たが、こちらもゾッとする。

しかしよく調べたら同じ節足動物で、分類学上では鋏角亜門に入り、蜘蛛とカブトガニ、サソリは近いが、大別的には先祖はだいぶ離れているというので、少し納得をした。

 

 

 

 

…先ほど書いた、見つかった手紙の束の中に30年前に亡くなった父親からの手紙もあった。久しぶりに読み返すといろんな事が思い出されて来た。……その中にこんな事があった。…私が未だ小学生の頃、町内の家の並びの中で、何故か一軒だけ3メ-トルばかり奥に引っ込んでいる家があった。その空いた空間も私たちの善き遊び場であったが、しかしその家が放つ佇まいが子供心にも暗く不穏であったのを今も覚えている。……確か岩堀、そういう苗字であった。(…どうして、あの岩堀の家だけが奥に引っ込んでいるの?)…ある時に父親に訊いたら、笑いながらこう言った。(あの岩堀の家は稼業が泥棒なんだよ。だけど、市内の遠くで泥棒をしているが、この近所では絶体にやらないので、みんなが大目に見ているんだよ)…笑いながらそう言った。…奥に引っ込んでいるのは、そういう近所への頭を下げた感謝と遠慮を現しているのだというのである。…今では信じ難い話であるが、本当の話である。その頃は、そんなゆるい話がまかり通っていた、そんな時代だったのである。

 

 

前回のブログで盲目の按摩の話を書いたが、その後で旧知の友のMYさん(福岡市在住)と話をしたら、MYさんは面白い話をしてくれた。…昔、子供の頃の話であるが、MYさん宅で按摩にマッサ-ジを頼む為に電話をすると、盲目の按摩の人が自転車に乗ってやって来るのだという(しかももの凄い早さで正確に)。…私は闇夜に笛の音を頼りに按摩を探したが、未だそれは抒情的な方で、MYさんのこの話は、イタリアのフェリ-ニの映画や、唐十郎の舞台を想わせるものがあって面白い。…ベ-ト-ヴェンゴヤは聴覚を失ってから、更にその表現世界は深化したというが、人間がもつ代替の潜在能力たるや恐るべきものがあるのである。……そして、あらためて、自転車で疾走して来る盲目の按摩の姿を想像すると、その身体が一種の「闇だまり」(舞踏家・土方巽の造語)に見えて来た。

 

 

 

……思えばこの一年はろくな事がなかった。…世界はますます狭くなり、一触即発の気配が増す中で、人類はますます滅亡へのカウントダウンを早めているように思われる。…だから、ろくな事がなかったこの闇だまりのような2024年を、自転車に乗せて何処か遠くへと走り去らせたい、今は気分なのである。

 

…では来年は⁉…………その答えは誰もが直観の内に感じとっている事であろう。…決して口には出さないが、その次に来るであろうもっと巨大な「闇だまり」が、チリンチリン…と不気味なベルを鳴らしながら近づいて来ている事を。

 

 

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『何故、川端康成はそれについて黙っていたのか…完結編』

今年もアッという間に年末になってしまった。…12月になると、ジンタの楽隊のように遠くから〈クリスマス〉という響きが聴こえて来る。…私は耶蘇教の信徒ではないので別段関心はない。…むしろクリスマスと聴くと、私の耳の中で変換されるのか、…クリスマスが→苦しまず、に聴こえて来てしまう。…出来るならば…苦しまずに一瞬で逝きたいものだ…と。

 

 

 

…さて、12月に入ったある日の事、私は日本橋人形町の老舗洋食店『小春軒』に入って早めの昼食を食べていた。…店の隣は文豪・谷崎潤一郎の生誕の地である。

 

 

 

 

…出てきた好物の海老フライを食べながら幼年時代の谷崎について考えていると、そのライバルであった川端康成の事が浮かんで来て、あれこれと思う事があった。今回のブログは、それについて書くのである。

 

 

 

…この国が戦後にやってしまった愚策の代表的なものが2つある。1つは抒情豊かであり、先人達との魂の結び付きの深かった地名(町名)が1962年に変更になり、何とも褪せた浅い名前になってしまった事である。…例を挙げれば、小石川初音町が→文京区小石川1~2丁目に、また、樋口一葉が住んでいた本郷菊坂町が→文京区本郷1~2丁目に、湯島天神町が→文京区2~3丁目…といった具合に。…この愚策を、第二の東京大空襲と評して怒った人がいるが至言かと思う。

 

…もう1つが、教科書からルビを無くしてしまった事である。…「日本の戦後教育の大誤算の一つは、ルビをなくせば漢字学習の民主化が徹底されると考えて、あの便利なルビを極力一掃してしまったことであろう。じつに馬鹿げた発想というべきだ。…」と、澁澤龍彦は自著『狐のだんぶくろ』の中で書いているが、この愚策を考えた役人は万死に値するといっても過言ではない。

 

…さて、そのルビに関してであるが、川端について小春軒でつらつら考えていたら、今まで全く考えていなかった或る疑念が卒然と湧いてきた。……それは川端康成の代表作である『雪国』のまさしく冒頭に書いてある「国境」の文字であるが、あれは本当は、「こっきょう」でなく「くにざかい」と読むのが正しいのではないか⁉…という疑念である。日本語本来の読みは訓読み(和語)が正しいので、当然くにざかいが正しい。…しかし今では当然のように「こっきょう」と皆が読んでいる。川端自身もそれを否定していない。…確かにその方が勢いがある、しかし、川端の抒情豊かな世界から見ると、この勢いは…いささか速すぎる感があり、列車から見る風景に、哀しみを含んだ村々の景色がありありとは見えて来ないのである。

 

……早速アトリエに戻って調べが始まった。…そして驚いた。…私が懐いたこの疑念は当たっていて、文学界でも未だに結論がつかないまま論争中なのだという事がわかり、俄然面白くなってきた。……事実、川端自身が武田勝彦(武田はくにざかいが正しいと読んでいる)との対談で「くにざかい」の読みを諾なっているのであるのを知った時に、徹底して詰めて考える私は、これはミステリ-として実に面白い…と思ったのであった。…つまり、誰よりも美しい日本語に厳しい筈の、しかも作者自身である川端康成が、「こっきょう」の読みも否定せず「くにざかい」の読みも諾なっている事のこの曖昧さ。もっと言えばいい加減さ。……その川端自身の曖昧さの奥にある、秘めた心理の実相を開いてみようと私は考えたのである。

 

…川端のもう一つの代表作は『伊豆の踊子』である。清らかな14歳の踊子に惹かれる、孤独な青年を美しく描いた、あまりにも無垢な短編小説。…しかし、この小説が誕生する裏には1冊の本の存在が原点となっている事はあまり知られていない。

 

田山花袋が大正7年に書いた『温泉めぐり』がそれである(ちなみに伊豆の踊子は大正15年に発表)。

…田山はその本の中で書いている。(湯ヶ野にある温泉宿の福田屋の湯槽からは、向かいで湯浴みする旅芸人の若い娘たちが見えた)という意味の事を。

 

……それを結び付けたのは猪瀬直樹の川端康成と大宅壮一に関する著書である。猪瀬の調査は川端自身が書いている気象の記録までを精査した徹底ぶりで、まるで偽証やアリバイを覆すようで面白い。…濁った視線の欲望から結晶化した無垢なる産物『伊豆の踊子』の生誕逸話としては実に面白い。

 

…さて、その猪瀬の本が出る遥か前に、一人の美大の学生が、中伊豆のその福田屋に泊まり川端が入った浴槽につかった。……「私」である。

 

 

 

 

 

 

部屋で名物の猪鍋を食べていると仲居がやって来て、(このお部屋は百恵ちゃんも泊まったんですよ)と嬉しそうに話した。

 

…はて、百恵ちゃん?…伊豆の踊子に主演した山口百恵の事か、なるほど、そう思った。

 

 

 

…私は学生時は梶井基次郎の文章が好きで、彼が泊まった『落合楼』に翌日は泊まり、大学の寮に戻ってから50枚ばかりの論文『伊豆の踊子小論』を書いた。

 

川端の資質の内に生来ある突然の時間感覚の飛翔性に及んだもので、…その論旨は、川端も評価していた伊藤整の伊豆の踊子論と重なる視点だったので、大いに自信を得たが、銅版画の制作が忙しくなってきたので、文芸評論家への道はやめた。やめた後に、文芸でなく美術評論を手掛けるようになり、それは『「モナリザ」ミステリ-』(新潮社刊)や『美の侵犯-蕪村x西洋美術』(求龍堂刊)となり、美術書としては異例の増刷となった事は善い事である。

 

 

 

…さて急いで結論に入ろう。…私はこう考える。…つまり川端自身が当初思っていた以上に作品は独り歩きを始め、いつしか作者を離れて『雪国』は川端の生涯を代表する名作であるばかりか、日本の近代文学を代表する名作となっていった。

 

……本当は国境は「くにざかい」と読むつもりで抒情豊かに書いたのであるが、自分がまさかのルビを打たなかったばかりに、いつしか「こっきょう」として読まれ始め、その速度感が読者にも気持ちよく響いて広く知られる事になり、口々に誰もが知る〈国境(こっきょう)の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。…… 〉になっていった。……ここに至って、(くにざかい…と訂正を入れる事にもはや意味はないだろう。…このまま曖昧なままでいよう。それがいい。…それでいい。)…彼の内なる生身の俗性と野心はそう思ったと私は視る。

 

 

 

俗性と野心?…私は今そう書いた。…………後年に、(今回は私に譲って欲しい。)…ノ-ベル賞受賞が決まる前に、川端が、今一人の候補者として下馬評が高かった三島由紀夫に書いた焦りとも映る、手紙で見せたノ-ベル賞受賞という栄誉への異常なまでの執着は凄まじい。

 

 

…受賞の決定は三島が審査するわけではないのに、そこまで見せてしまった俗を極めた名誉欲に映る様は、ある意味、不気味ですらあるだろう。

 

…………この受賞以後、川端の執筆はその勢いを停めてしまい、自裁した三島由紀夫の幻を度々視るようになり、睡眠薬への依存はやがて、誰もが知る逗子マリ-ナでの終焉へと繋がっていったのである。

 

 

…さて最後にささやかな秘話を一つ書こう。…実は川端康成は1971年に①仰天すべき或る事をしてしまった。…もしこの事実が明るみに出れば、新聞は一面に載るばかりか、ノ-ベル賞の歴史までもが根底から覆る出来事なのである。…さすがに私でも、それをここで書く事は憚られる、秘密にしなければならない質の、それは内容なのである。……日本の文芸界の裏の秘話を実によく知る知人から最初に聞いた時は、私もさすがに疑った。…しかしあの川端ならあり得ない話ではないな‼…私はすぐに切り替えた。

 

……②話は全く変わるが、1971年に秦野章(元・警視総監)が都知事選に立候補した時に、川端康成が応援演説で登場した時、世間は大いに戸惑い、川端という人物に疑問を呈した事があった。…政治には全く関わりを持たない事を信条としていた、あの川端が何を考えているのか理解に苦しんだのである …。

 

さて、今書いた①と②は各々が別な2つの点である。…しかし、この2つの点に1本の線を引いたとしたら、さぁどうだろう。……直観の鋭い、このブログの賢明な読者諸氏の中にはピンと来た方がおられるのではあるまいか。…ヒントを?…ヒントなら今回のブログの中にそっと伏せたそのままに。…とまれ、「事実は小説よりも奇なり」を地でいく、それは話なのである。どうしても知りたいという方は、いつか、人形町の小春軒でお会いしたその時に。………………

 

 

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『台風直下に登場する宮沢賢治』

…かつて死者3000人以上を出した伊勢湾台風に匹敵する強烈な台風が発生し、九州地方で猛威を奮った後で、今、東へと向かっている。…このブログを書いている時点で、ようやく台風は熱帯低気圧に変わったが、これから関東にやってくる為、まだ大量の雨の心配が残っている。…止まらない海水温度の更なる上昇は、来年以降、前代未聞の破壊力を持った台風へといよいよその狂暴さを増していく事は必至である。…(ここはヴェネツィアか⁉)と映るほどに、特に東日本は水都(いや廃都)と化し、車が水に漬かっている光景が、もはや日常的になって来た。

 

山は常に大量の水を孕んでいるので、今や何れの山も、実質は砂山のように脆い。特に、山を真後ろに背負って暮らしている人々にとっては、梅雨から秋まではメメント・モリの心境ではあるまいか。

 

人類におけるカタストロフ(悲劇的な破局)が、遠くから次第に、うっすらと視えて来てでもいるような…………

 

 

…話は変わるが、少し前に親しい知人の方から、私の書いたいわゆる直筆原稿なる物がオ-クションに出品されているという事を教えて頂いた事があった。…寝耳に水の事で早速ネットを開いたら、確かに私の書いた原稿が、入手した誰かによって出品されていた。…それも原稿3枚で3万円の高値であった。競売でこれから更に上がっていく気配で、私は驚いた。原稿が高値で流通しているという話は小説家ではよく聞くが、美術家では例がない。

 

…小説家の直筆原稿で一番高いのは、漱石樋口一葉を筆頭に、三島由紀夫もかなり高い。…私の価格のクラスでは、色紙の北原白秋がやや近いか。……その話を友人に話したら嬉しそうに喜んでいる。彼が持っている私の年賀状や手紙に未来を託してでもいるのだろうか。…しかし当人の私としては疑念が残って気持ちが悪い。…ネットで視た私の原稿は30年以上前に書いた原稿で、老舗書店の丸善から刊行しているお堅い冊子に書いたものであったと記憶する。確か英文学者の高山宏氏からの依頼で書いた原稿で、その号には荒俣宏氏ほか何名かの方も書いていた記憶があった。

 

…(何故、その原稿が流れてオ-クションに出ているのであろうか??)…流して売ったのは誰か!?まさかとは思うが、消去法で考えていくと、忽ち一人の人間に辿り着いた。丸善の当時の編集者である事は間違いがない。…そう思うと、その痩せた小柄な編集者の顔や姿がありありと浮かんで来た。…当時私はシェイクスピアに関心があったので彼にその話をしたら、頼んでもいないのに直ぐに分厚いシェイクスピア学会の大事な名簿のコピ-を送って来た事があった。(この人物、ちょっとバランスを欠いているな)…そういう印象を、その編集者に持った事が思い出されて来た。…

 

高山宏氏から自由に書いてほしいと言われたので、私は宮沢賢治と、アッサンブラ-ジュの先駆者として知られるジョゼフ・コ-ネルに共通する試論のような事をその原稿に書いた。……宗教を信仰するという事は、ある意味、他力本願の要素があるので、自力を持って道を切り開く事を旨とする表現者とは道が違うと思われる。少なくとも私自身はそう思っている。…しかし客観的に考えてみると、私の知る限りでは、二人の表現者が宗教の教義を背景にして創作活動をしていたな!…という共通点が見えてきた。…それが宮沢賢治でありコ-ネルなのである。私はその事をその原稿に書いた覚えがある。…

 

周知のように宮沢賢治は法華経との出逢いにより、あの特異な宇宙観を自らの物とした。…一方のコ-ネルが信じた宗教はクリスチャン・サイエンスというキリスト教系の新宗教で、世界は、つまりはイリュ-ジョン(幻影)であるという考えである。なるほど、その視点から視るとコ-ネルの消え入りそうな表現世界の芯がそこには視えて来る一面がある。

 

 

…ちなみに拙著『美の侵犯-蕪村X西洋美術』(求龍堂刊)でもその事が出て来て、更にミステリアスなコ-ネルの震撼すべき姿へと話は発展して書いているので、ご興味があり、まだ未読の方は、お読み頂けたら有り難い。

 

…今年の始め頃から何故か宮沢賢治の事が度々気になって仕方がない。文芸史の域を超越した彼の表現世界の特異さに関心がやたらに行くのである。…私が何か或る事を強く思っていると、向こうからそれがやってくるという事は度々あるが、今回もそういう事が起きた。横浜高島屋美術部の荒木さんから、宮沢賢治を主題とした展覧会を今秋(10月9日から14日まで)開催するので、という出品依頼が届いたのである。

 

…私は秋(10月2日から)の日本橋高島屋の個展と、11月29日からの名古屋画廊への出品予定があるが、宮沢賢治ならば話は別とばかりに、6月に宮沢賢治作品への想いを具現化した一点の作品を作り、その作品に『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』というタイトルを付けた。…すると先日、荒木さんから自作に寄せた文章を書いて欲しいというメールが来たので、私はそれを一気に書いた。今回のブログはそれを掲載して終わろうと思う。

 

 

「『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニと、親友のカムパネルラとの薄雪の結晶のような透視的なまでの詩的叙述の旅。

……賢治の特異な宇宙観や自然界との強い交感力は、現実の世界とは異なる位相への同化を希求してはじめて獲得出来た、云わば自己放棄ゆえの精神的な達成であった。

……本作品『幾何学に封印された銀河鉄道の幻の軌跡』は、その詩的結晶に迫る試み、…語り得ぬゆえの、オブジェに秘めた硬質な試みである。」

 

 

 

 

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『日暮里に流れている不思議な時間…』

…今年は展覧会が5ヵ所で予定されている。…5月は金沢のアート幻羅(5月9日~6月2日)と千葉の山口画廊(5月22日~6月10日)での個展。金沢は初めてなので、私の今迄の全仕事総覧。千葉の山口画廊は全く新しい試みと挑戦による鉄の新作オブジェを中心とした展示。10月9日~14日は横浜の高島屋で、これは個展でなく、宮沢賢治の世界を主題としたグル-プ展。…10月2日~21日は日本橋高島屋ギャラリーXでの大きな個展。11月29日~12月14日は名古屋画廊で、ヴェネツィアを主題とした、俳人の馬場駿吉さんとの二人展である…。今はアトリエで制作の日々であるが、それでも忙中閑ありで、時間を見つけては度々の外出の日々であり、数多くの人と会っている。

 

…その中でも一番多くお会いしているのは、このブログでも度々登場して頂いている、真鍮細工などの超絶技巧の持ち主である富蔵さん(本名、田代冨夫さん)である。富蔵さんは、パリで昔建っていて今は無い建物とその一郭をアジェの古写真を元に精密に真鍮で再現し、その時に流れていた時間や気配までもそこに立ち上げるという、不思議なオブジェを最近は集中的に作っていて、作品のファンが多い。…富蔵さんとは初めてお会いした時から波長が合い、前世からのお付き合いが現世でもなお続いているような、懐かしの人である。昨年からは特に制作の具体的な話から、文芸の話、幼年時代の記憶までも含めて幅広い内容でお会いする事があり、私には気分転換と充電を兼ねた密にして大切な時間がそこに流れているのである。…待ち合わせ場所は決まって日暮里の御殿坂の上、谷中墓地の前にある老舗の蕎麦屋『川むら』であり、その前にあるカフェでさまざまな事を語り合っているのである。

 

3月のある日、その日も富蔵さんとの約束の日で、私は日暮里駅を降りて、御殿坂を上がっていったが、未だ約束の時間には早すぎたので、坂の途中にある古刹・本行寺の境内に入った。…この寺は江戸時代からの風光明媚な寺として知られ、小林一茶種田山頭火も俳句を詠んでいる。また寺の奥には徳川幕府きっての切れ者、永井尚志の墓があるので、それを見に行った。…坂本龍馬が暗殺の危機にあり、周りから土佐藩邸に入るように勧められた時に、龍馬が「自分は永井と会津に面会して、命の保障をされているんだ」と言った、その永井である。結局、龍馬は中岡慎太郎と共に見廻り組によって斬殺されてしまったのは周知の通り。……ちなみに文豪の永井荷風三島由紀夫の先祖である。

 

…墓参して引き返す時に、面白い光景が目に入った。…寺の塀に沿って夥しい数の卒塔婆がズラリと立ち並んでいるのである。その向かい側にはすぐに家々が建っていて、明らかに、その部屋から見える朝からの光景は、障子や窓越しに並んで立っている、卒塔婆、卒塔婆…のシルエットなのである。私はそれを見て思った。「…こういう眺めが平気で住んでいる人というのは、一体どういう人たちなのだろうか?」と。映画『眺めのいい部屋』の裏ヴァ-ジョンである。

 

 

…私は卒塔婆の傍に立って、様々な人物像や、その生活の様を、オムニバスの短編小説を書くようにして想像(妄想)した。…すると、何よりも好奇を好む私のセンサ-が強く反応して「いや、きっと面白い人物が住んでいるに違いない」、そう思い、私は待ち合わせ場所の『川むら』の横にある露地へと入っていった。

 

…昭和然とした家々がひっそりと建っている、その先に、はたして一軒の家が目に入った。

 

 

『湿板冩眞館』と書かれた白い看板。そして見ると、この家を訪れて撮影したとおぼしき、女優の杏さんや北野武、草彅剛の写真がその下にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…そして、坂本龍馬を撮影した幕末期の写真機を使って、現在も活動中である由が書かれた看板も目に入った。…入ってみたい衝動に駈られたが富蔵さんとの約束の時間である。いったん戻り、再び私達はその家の前に立って、呼び鈴を押した。

 

 

 

中から出て来られたのは、写真家(写真術師の方が相応しい)の和田高広さん。…玄関壁には今まで撮影された人達の硝子湿板写真(その誰もが現代と昔日のあわいの不思議な時間の中で生きているようだ)。

そして、和田さんに案内されてスタジオの中に入るや、そこは、現代の喧騒とは無縁の、まるで時間を自在に操る光の錬金術師の秘密の部屋に入ったような感慨を覚えた。

 

 

…それから、和田さん、富蔵さん、そして私の、表現創造の世界に人生の生き甲斐を見いだしてしまった、云わば尽きない物狂いに突き動かされている私達三人の熱い話が、堰を切ったように、およそ二時間始まった。…話を伺うほど、和田さんが独学で究めてきた、写真術が未だ魔法の領域に属していた頃の世界に私達は引き込まれていった。

 

 

…私は以前のブログで書いた或る疑問を和田さんに問うてみた。…幕末の頃は写真機の前でポ-ズする時間がおよそ30分位は必要と言われているが、私には1つの疑問がある、それは龍馬と一緒に暗殺された中岡慎太郎が笑って写っている写真があるが、…30分くらい、人は可笑しくもないのに笑っていられるのか?…という疑問であった。…長年懐いていたこの疑問を和田さんは一言で解決してくれた。…(30分くらい必要というのは間違いで、実際は20秒あれば写ります!と。

 

 

…また樋口一葉が手を袖の中に入れて写っているが、その訳は何故か?…その答えは樋口一葉研究者達を一蹴するような、古写真撮影の現場を実際に知っている人にしかわからない話で、私は長年の疑問の幾つかが、忽ち氷解して勉強になったのであった。

 

…富蔵さんの話も面白かった。話が進んでいくと、富蔵さんと和田さんに共通の知人がいる事がわかってくる。私達はアンテナが何処かで間違いなくつながっている、そう思った。…二時間ばかりがすぎて私たちは写真館を出てカフェに行き、余韻の中で更なる会話がなおも続いたのであった。

 

 

2日後の22日に、東京国立近代美術館で4月7日まで開催中の写真展-『中平卓馬 火/氾濫』展を観る前に、私は今少し和田さんにお訊きしたい事があったので、事前に連絡を入れて、再び日暮里の写真館を訪れた。…すると嬉しい事が待っていた。午後から写真を撮られに来る人がいるので、その撮影の為に感光液を新たに作ったので、(その液の試験に)と、私を撮影する準備が出来ていたのであった。いつか私も生きた証しとなるような記念写真を和田さんに撮影してもらいたいと考えていたのであるが、まさか今日!とは嬉しい限りである。…しかも坂本龍馬を撮したのと同じ写真機で。

 

 

 

……思えばつい先日、本行寺に寄って龍馬と関わりがあった永井尚志の墓を見た帰りに、ふと見た卒塔婆に導かれて、細い露地へと入っていったその先に、このような出会いが待っていようとは、だから人生は面白い。…和田さんの二階から見えた本行寺の墓地は実に明るい眺めで、彼岸の陽射しを浴びて墓参に来られた人達もまた穏やかな会話を交わしている。…最初に予想していた逆で、この部屋こそ正に『眺めのいい部屋』なのであった。…ちなみに、私が撮ってもらった写真の仕上がりは、龍馬というよりは、高杉晋作、或いは石川啄木の姿に近いものであった。

 

 

 

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『2024年…いよいよの波瀾の幕開けか!?』

新年明けましておめでとうございます。今年も命ある限りはブログの連載執筆を続けていきますので、引き続きのご愛読を何卒よろしくお願いいたします。

 

………さて、さて正月と云えば先ず浮かぶのは年賀状の事か?……思い立って明治期の年賀状を調べたら、例えば樋口一葉などは僅かに5通ばかり。他の人もまぁそんなものであった。私なども上京したての頃は知人など一人もいないところから始まったのであるが、生来の明るい社交性が逆に災いとなったのか、年月と共に人とのご縁が雪だるまのように膨み、昨年までは年賀状を数百通も出したり、受け取ったりする始末。……現世で本当にご縁があれば、また何処かで必ずお会い出来る筈!と考えて、今年は濃い血縁者以外の人への年賀状はやめにして、代わりに書き初めの「辰」を書いて、ブログ上からの言寿のご挨拶とする事にした。……それがこれ。書家の井上有一ばりに気合いだけは入れたつもり。

 

 

 

1月1日。さすがにこの日だけは読書だけにしようと思ってアトリエに入ったが、やはり制作へのスイッチが入り、新たな作品作りへと向かってしまった。閃きが洪水のように押し寄せて来て、集中すると時間の感覚さえも無くなってしまっている。ふと気がつくと、14点の具体的な作品構想が出来上がっていた。

 

……4時を少しまわった頃であろうか、突然アトリエが揺れ始めた。……このアトリエの在る建物は地下室もあるので、地盤も含めて造りはかなり頑丈である。なのに揺れるという事は、何処かでかなり大きな地震が発生しているに違いない。……すぐにテレビをつけると、能登半島で震度7、日本海側全域に津浪注意報が出ており、各局いずれも「津浪注意!すぐに避難を!」の声を鋭く連呼している最中であった。……輪島には暗黒舞踏の創始者の土方巽の弟子であった友人がいるので、すぐに電話をしたが、何故か繋がらない。……今度は福井の知人に電話すると「かつて体験した事のない激しい揺れで、次の余震を怖れて、玄関を開けたままの状態でいる」との事。賢明である。

 

……3日経った現在、輪島市、珠洲市だけでも死者は57人に。国土地理院の報告によると、今回の地震で、輪島市が西に1.3m動き、最大4mの隆起による大きな地殻変動があった由。……人知の想像を超えたもの凄いエネルギ―の噴出である。……輪島の友人に再度、電話をしたが今も安否が不明。……大惨事を前にすると、人はかくも無力である事を痛感した。

 

……天災の極みの地震に続いて、翌日の2日、今度は人災の極みとも云える事故が羽田空港で発生した。JAL機が海上保安庁の航空機と衝突し大炎上したのである。乗客乗員379人全員は脱出。保安庁の乗組員5人が死亡。滑走路上でJALの機体は炎上爆発したので379人全員が無事であったのは奇跡といっていいだろう。

 

1日、2日…と立て続けに起きている、この異常な事変。何やらこの一年を、いやこれから先の世界と人心の崩れを暗示したような幕開けと視た人は、私だけではないだろう。…… 想えば、昔日の正月はのどかであった。

 

俳人の与謝蕪村は.正月の言寿を「日の光/今朝や鰯の/かしらより」と詠んだ。……私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)の中で、この蕪村の俳句を読み解き「……ふと思うのであるが、実際は雨や雪の時もあったはずなのに、どうして子供の頃の正月の記憶は、いつも決まったように快晴の日として思い出されるのであろうか。年が改まったことの華やいだ気分が印象として強く残り、澱んだ空までも蒼天の青へと変えてしまうのであろうか。……(中略)……新春のことほぐ心を詠んだこの俳句は、そのような記憶の変容までも想い立たせてしまう言葉の力といったものを持っている。………… と書いた。

 

しかしいつ頃からか、新春の朝に覚えた清浄な初日の光や浮き立つような気分は消え失せ、正月は唯の寒いだけの唯の一日となってしまった。……そして、何か先の方からじわじわと押し寄せて来る不気味な崩壊の予感の内に、私達はいつしか身構えるようになってしまった。…あたかも先方が見えない霧の中、関ヶ原の陣に立って、彼方の丘の方から押し寄せて来る家康率いる東軍に対する、元来が胃弱であった石田三成率いる西の陣地にでもいるような。……便利さに快楽や意味を覚えてしまう私達の迂闊な脳が産んでしまったAIも、小早川秀秋よろしく早々と寝返って絶妙な位置に立ち、総崩れ、人間の総家畜化のタイミングを狙って私達へその槍の鋭い穂先を研いで、あからさまな裏切りの時を計っているのであろうや。……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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