#池田満寿夫

『邪視を持った三人の男について話そう』

…今回は平賀源内について書こうと思っていたが、意外や意外、前回のブログを読まれた人達から、ラストの終わり方が気になって仕方がない、実に面白いので、もう少し続きが読みたい‼…というメールがかなり反響として来たので、先ずはこの類い、…私以外に、予知能力、更には異常な交感能力を持っていた三人の人達について書く事から、今回のブログを始めようと思う。

 

…先ずはパリで客死した佐伯祐三の話から。…1923(大正12)年9月1日、最初のパリ行きを控えた佐伯は家族や友人一行と信州渋温泉に滞在していたが、その前日に、近々に関東にかつてない大地震が来る事を直感的に予言して話していたという。

果たして翌日に未曾有の関東大震災が発生している。…これはパリで佐伯の最期を看取った親友の山田新一の証言にある。

 

 

 

佐伯祐三は時代が違うので残念ながら面識はないが、これから登場するお二人(駒井哲郎・井上有一)は実際に面識があり、またそこには私も絡んでいるという、ちょっと厄介な話。

 

……銅版画の詩人と云われた駒井哲郎さん(1920-1976)のお宅に、土方巽の弟子で、芸大で木版画を制作している友人のAと訪れたのは二十歳の頃であったかと思う。(大学で話し合うより、突っ込んだ話が出来るので、私達は度々訪れていたのである)。

 

 

 

…私達は版画の先達者の恩地孝四郎の画集を拡げながら、駒井さんと様々な意見を交わし合っていた。…今思えば、それは至福の体験であったのだが、私は分裂気味なところがあるらしく、意識の右側で駒井さんが熱心に語る恩地孝四郎論の話を熱く聞きながら、もう一方の左側では別な事を考えていたのであった。駒井さんのその広い家を眺めながら妄想に耽っていたのである。

 

(…いいなぁ、こんな天井の高い広い家に住めて、しかも美しい奥さんが出してくれるコ-ヒ-が実に美味しいではないか‼…それに引き換えどうだ、自分がいま住んでいる下宿は名前こそ『宝山荘』という立派な響きであるが、平屋で傾いていて…しかも暗い、…自分が大学を出たら、はたしてこんな広い家に住めるのだろうか?…ああ、いっそこの家に住んでみたいなぁ)…、二十歳の私はそう強く思ったのであった。…すると、Aと話していた駒井さんが、瞬間に何かを受け取ったらしく、突然私の方に顔の向きを変えてニヤリと無気味な笑みを浮かべながら、低い声でこう言ったのであった。(…俺が死んだら、この家に住めよ…‼)と。

 

…思っていた図星を指摘された私は驚いて駒井さんの顔を見た。…すると駒井さんは、笑うと写楽の絵のような凄みがあると云われている無気味な、もっと正しく謂えば、邪気に充ちた笑いをもう一度ニヤリと浮かべたのであった。…何も知らないAは、ただ私達のこの光景を呆然と眺めているだけであった。

 

…その後に出された天丼を食べながら私は思ったのであった。…これは読心術ではない。何故なら駒井さんはAと熱心に話し合っていた筈。だから私の顔の表情は視ていなかった。…とすれば、自分が出す何かが異常に強く、それをまた異常なまでに鋭く繊細な駒井さんの感性の受信能力と、まるで見えない電波のように交感してしまったのではないだろうか…。ともあれ、恐ろしくも不思議なそれは体験であった。

 

……それから4年後、24歳の私は池田満寿夫さんのプロデュ-スのおかげで、初めての個展を開催した。…版画の全作が完売となり、画廊との契約も順調にいき、個展の最終日に私は横浜の下宿へと帰った。…そこに一本の電話が入った。…駒井さんが舌癌肺転移のために築地の国立ガンセンタ-で逝去されたという知らせであった。

 

 

 

最後に登場する井上有一さん(1916-1985)は、国際的に高く評価された書家である。その突出した作品が放つ香気と狂気の様は他に類がない。…渋谷西武で『未来のアダム』という企画展が開催された折りに、私は出品作家として打ち合わせに行くと、そこに、同じく出品作家として来られた井上有一さんがおられた。

 

…それが出会いであるが、私は書の世界に疎く、そこで初めて井上さんの書を拝見したのであった。そして、その凄まじい集中力に私は唸った。…四谷シモンさんの人形や、建築家の坂茂さんなど様々な分野の作家を集めたこの展覧会のオ-プニングは盛況であった。

 

…そして会が終わり、三々五々、作家達もひきあげる時になった。…見ると、会場を出た通路の先を行く特徴のある後ろ姿が目に入った。……井上有一さんである。取り巻きに囲まれながら歩いているその後ろ姿を視て、邪気めいた悪戯を閃いた私は周りの友人達に(今から、ちょっと面白いものを見せるよ‼)と言って、前方を行く井上さんの右肩から左の背中に、一瞬の居合い切りの思いで強い〈気〉を放ったのであった。…(あれだけの作品を画く強い気を持った人物ならば、私のこの強い念は通じるに違いない‼)…そう思って、視えない、心中の刀で井上さんの背中を真っ二つに切り裂いたのである。

 

…果たして私が思った通り、井上さんは紛れもない本物の人物であった。…正に右袈裟斬りで切られたかのように井上さんは仰け反り、そして、後ろから誰かが鋭い気を放った事を瞬間に覚ったのであった。

…突然の事で驚いている周りの取り巻きに構わず、井上さんはその強い気を放った人物が誰なのかを確かめるべく、後ろを振り返って視たのであった。…そして、そこに私がいる事を知って、(ああ、あなたでしたか‼)と得心の笑みを浮かべながらお辞儀をしたので、私も笑ってお辞儀を返したのであった。

 

…私の友人達も唖然としていたが、それが井上さんとの最期の時であった。…………それを思い出すと、…まるで、平安京朱雀大路で深夜にすれ違った二人の陰陽師のような体験で実に可笑しいのであるが、私はその時の事を時おり懐かしく思い出す時がある。

 

関東大震災を前日に正確に予知した佐伯祐三。…私の想いが空間を一瞬で跳んで駒井さんの感性に受信され、心中の言葉が、正確に伝わった事。…また私の放った強い気が、そのまま激痛となって井上さんが感受した事。…私の事はさておくとして、前述した佐伯祐三、駒井哲郎、…そして井上有一。…その三人の顔(特に眼)を視ると一つの共通点が見えて来る。…三人とも眼力(めぢから)が刺すように強いのである。…澁澤龍彦が何かのエッセイでそれについて『邪視』と表現して書いていたのを思い出す。邪視の持ち主こそが芸術家の証しであり、写真に残る特に十九世紀にはドラクロアなど、沢山の芸術家がみな邪視であったが、昨今は少なくなってしまったと。

 

 

………未だ生まれざる人と、既に死者となった人のために芸術は存在する、という意味の事をパウル・クレ-は書いているが、そもそも芸術とは語り得ぬ視えない物と人との豊かな交感現象である事を想えば、ここに書いてきた体験、更には前回のブログで書いた事は、全く不思議でも何でもなく、十分にあり得る事なのではないだろうか。

 

私事を語れば、…24才の時に、私の作品を初めて見た池田満寿夫さんは〈神経が剥き出しで表に出ている!〉と驚嘆し、また美術評論家の坂崎乙郞さんは、氏が関わっていた新宿の紀伊國屋画廊に持参した私の作品を視て、〈君の神経は鋭すぎる、このままでは精神が絶対に持たない!必ず破綻を起こす!〉と真顔で忠告してくれた事があった。…私は坂崎さんからの影響はかなり受けていて尊敬もしていたので、その忠告は胸に響くものがあった。自分でも、あまりに裸形な自分の神経を自在に御する事が出来ず、今想えばかなり辛かったのだと思う。

 

……紀伊國屋画廊の外に一歩出ると、街は若者たちの夜の雑踏で賑わっていた。その人群れの中を縫うように歩きながら私は自分に誓うように、こう呟いたのを覚えている。(…もう、短距離走者は止めた‼…これからは長距離走者で行こう‼)と。私は意志的な切り替えは速い。…そう意識を変えると、晴朗な気分に変わり、次第に制作への視点も変わっていった。…そして銅版画からオブジェへと表現の軸が変わり、美術に関する執筆活動、詩、写真…と表現の幅も拡がっていって、現在がある。…しかし、前回のブログで書いたように〈考えなくても直感的に突然視えてしまう!!〉という、この予知的な感覚だけは消える事がなく、ますますその頻度が増して今に来ているのである。

 

……次回のブログは、クレ-、ゴッホ、そして平賀源内について書く予定です。乞うご期待。

 

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『雨のメリーゴーランド in Paris』

 

…先日の事である。アトリエで制作している時に、ふと本棚にあるジョゼフ・コ-ネルの画集に目が行き、久しぶりに手に持ってみた。すると本からパラリと落ちる物があったので見ると、それは写真家ロベ-ル・ドアノ-がパリの寂れた「メリーゴーランド」を撮した1枚の絵葉書であった。

 

…パリには珍しい土砂降りの雨の中、無人のメリーゴーランドが雨に打たれて哀しい姿で写っている。絶妙に切り取られた構図の中に凝縮された郷愁が宿り、私の記憶の中の〈何か〉と共振したらしく、たまらない切なさが充ちて来た。………しかし葉書故に細部が見えず、私はもっと大きく撮したこのメリーゴーランドの写真画像が載っている写真集をいつかぜひ欲しいと強く思った。…………

 

 

…その翌日、私はJR日暮里駅で降りて、谷中銀座へと向かう御殿坂を上がっていった。…度々このブログに登場する田代富蔵さんが6月に個展を開催するので、その個展の為に書いたテクスト文を渡すのと新年の打ち合わせがその日の目的であった。……私はこの御殿坂を上がる度にいつも(一体何処に在ったのだろう!?)と思っている或る事があった。

 

…私が高校の時から好きで影響を受けていた画家の中村彝(つね)が未だ19才の頃に住んでいた家が、確かにこの坂の何処かにあった筈であるが、その住所が資料を調べても全く載っていないので、…ここ数年、私はこの100メ-トル近くある坂を上る度に、その場所を探すのであるが、煙に消えたように、それはようとしてわからないままであった。……一本道の坂の途中に在るのは、2つの寺(本行寺経王寺)と、老舗蕎麦屋の「川むら」、…そして数軒の食べ物屋くらいである。…

 

……坂の上の蕎麦屋「川むら」で、富蔵さんと好物の「牡蠣せいろ」を食べ終えて、真向かいのカフェで打ち合わせをしようと店の暖簾を上げた時に、一瞬、横の露地へ消えようとする人が目に入った。…見ると、その人は以前にこのブログに登場した、露地奥で、坂本龍馬等を撮した幕末期の湿板寫眞機にこだわり、寫眞館を経営している写真術師の和田高広さんであった。

 

……奇遇とばかりに立ち話が始まり、和田さんのご高説が始まった。…今日は谷中の寺と借地権の話である。和田さんは話し出すと立て板に水とばかりに止まらない。話は廃れ行く谷中銀座の話になったが、何故か風の向きが瞬間変わったように……

 

(…………だから、彝もその家に昔いたんだから‼……)と突然、川むらから入る露地向かいの一軒の家を指差した。…?!!!

 

 

…(和田さん、今、彝と言いましたが、ひょっとして画家の中村彝の事ですか…⁉)と、私が問うと(そうだよ、中村彝はこの店にいたんだから…‼)と、もう1回指を差した。…(彝がいたのは確か下宿屋ですが…)と私が問うと(そうだよ、このあづま家という家は昔、下宿屋だったんだよ)と言う。

 

予想だにしなかった物がポトリと落ちてくるように、ここ数年来懐いていた疑問が一瞬で解けてしまった事に唖然とした。…何の事はない。…いつも出入りしていた蕎麦屋の隣が、ずっと探していた彝の家だったのであった。

 

 

…彝は実に絵が巧い。そして天性の色彩画家であった。ここに掲載したエロシェンコの肖像画は、僅かに4色で描いているが、そこに気づいている人は案外少ないのではあるまいか。

 

…彝がここにいたのは19才の頃で明治38年、…つまり1905年だから、今から120年前の話になる。…それを何故、和田さんは知っていたのか⁉…そして私が訊いてもいないのに、和田さんの話が急転するように、何故、中村彝の話になったのか、わからないままに私達は和田さんと別れて、カフェに入った。

 

 

カフェで富蔵さんとお茶を飲み、執筆を約束していた個展のテクスト文をお渡しした後、私は駒込駅へと向かった。…その日は駒込のギャラリ-『ときの忘れもの』松本竣介の素描展が開催されており、竣介のご子息の松本莞さんの『父、松本竣介』の刊行記念の対談の日なのである。松本竣介は中村彝、佐伯祐三と並んで、特に私が気になっている画家。…この日は元・池田満寿夫美術館の主任学芸員をされていた中尾美穂さんに連絡して、中尾さんから指定された東洋文庫ミュ-ジアム横のカフェ「オリエントカフェ」で待ち合わせをしていたのである。せっかくなので、池田満寿夫、松本竣介の作品に造詣が深い中尾さんにお会いして、二人の作家像をどう捉えているのかを伺うのも、今日駒込に来た目的なのであった。

 

…私は中尾さんから指定された東洋文庫を目指したのであるが、駒込はあまり来ないので地理に疎い。………迷いながら歩いていると、佇まいが気になる一軒の古書店が目に入った。…表の安売り本に『北原白秋歌集』があったので手に持って入ると、おぉ‼…この店はいいのが揃っている!と直感する。………………ふと、(写真関係の本はありますか⁉)と店主に何気なく問うと(その下の段に少しですがあります)との返事。確かに評論集のようなのが5~6冊しかないが、1冊だけ薄い写真集らしいのがあったので(!?)と思いながら引き出して見ると、『ROBERT DOISNEAU』と書いてあった。…ロベ-ル・ドアノ-の写真集である!!

 

…もうここで私の直感はマックスに達し、(有る、有る!…間違いなく昨日、大きく見たいと思っていたメリーゴーランドの作品が有る筈)と思って頁を捲っていくと、果たしてその写真が強い黒の綺麗な印刷で見つかったのであった。…それにしても昨日の今日とはあまりに展開が早い。…かくして、この日は、欲しかったドアノ-のメリーゴーランドの写真集と、長年不明であった中村彝の家の在所跡がまとめて見つかったのであった。

 

 

…このブログの連載が始まって既に15年以上の時が経つ。…その折々の話題の中で、私は自分が頻繁に体験している予知的な現象についても記録するように書いて来た。…その中で書いて来たものをここで少し挙げてみよう。

 

 

①ある日の昼前に、ふと、江戸東京の魅力を毎回特集している月刊誌『東京人』に何か書くのも面白いな、と漠然と思っていたら、その日の午後に『東京人』編集部から電話が入り、私は翌月に岸田劉生の描いた代表作『切通之写生』の現場について書いた事があった。

 

 

 

 

 

 

②以前に、報道ステーションという番組を観ていたら、番組とは全く関係なく何故か突然、以前に行った太宰治の生家への旅行の事を思い出した。

 

…私は太宰が東京へと旅立った生家近くにある津軽鉄道の金木駅を見たかったのであるが、その時は、知人が数人同行していて急ぐ旅だったので遠慮して行かず仕舞いのままだったのを後になって悔やんだ事を、何故か漠然と思い出したのであった。…すると、アナウンサ-が(ではここで、ちょっと気分を変えて、こちらの映像をご覧下さい)と話すや、テレビの画面からは、私が今、思っていた正にその駅、満開の夜桜の中を最終列車が入って来る、津軽鉄道の金木駅の情景が映し出されたのであった。

 

③熊本の個展の帰り、ANAに乗って東京に向かう機内の中で、機内誌『翼の王国』を読んでいた。…誰かが書いた海外の取材文であるが、文章に艶がなく、有体に言ってかなり硬い。(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ……)と思っているうちに、飛行機は羽田に着いた。…その翌朝、1本の電話が入った。ANAの『翼の王国』編集部からであった。…私の好きな海外の場所に行って取材文を書いて来て欲しいという依頼であった。実に昨日の今日である。

 

…恵比寿のカフェで打ち合わせに行ってわかったのであるが、私が機上にいて(自分だったらもっと巧く書けるのになぁ)と思った正にその時に、私を取材に行かせたいという事が決まっていたのであった。…2ヶ月後に私はパリのパサ-ジュに取材に行き、その時に制作していた版画集の個展も併せてやって来たのであった。

 

 

…こういった現象は、その度に今までのブログに書いて来たので、以前から読まれている方は、既にご存知の事と思う。…今回はその内の3例を挙げたが、覚えているだけでも40以上は書いて来たと記憶する。…人生でこういう事を経験する方がいても、その回数が希であり、又は深入りしたくないという常識が働いて、偶然、或いはたまたま…という言葉で済ませてしまうかと思うが、私のように異常に回数が多いのは、何と云えば良いのであろうか?

 

…しばらくしてから現れる事象を先に視てしまう、或いは直観してしまう事の不思議を身をもって生きているわけであるが、…… 私は自分の経験を通して思う事がある。… この宇宙はわかっているだけでも11次元はあるという。しかし私たちはその内の僅かに1つの次元、すなわち3次元しか知覚出来ないでいる。… だが私の場合のようなこの現象を思うと、時にこの3次元の壁を瞬間的に突破して、別な次元との往還をしているのではあるまいか、そんなふうにも実感をこめて思うのである。

 

 

……このドアノ-の美しい写真集を刊行したのは、京都の祇園に在る何必館(かひつかん)である。7年ばかり前にこの美術館でドアノ-の写真展を開催した事があり、写真集はその時に刊行したのであった。…幾つか伺いたい事があったので、先日、何必館に電話をすると、3月30日頃までドアノ-の写真展を正に開催中との事。何という絶妙なタイミングであろうか。私が願うとそれは向こうからやって来るようで面白い。

 

…記念のポスタ-もありますとの事で、訊くと、メリーゴーランドのその写真もポスタ-になっている由。ならばと、私はそのポスタ-が欲しくなった。………そして、私の個展をプロデュ-スして頂いている福田朋秋さんが、現在、京都の高島屋美術部におられて来月に上京の折りに会食をする約束があるので、そのポスタ-を代わりに買って来て頂く約束を福田さんにお願いしたのであった。

 

……しかし、福田さんはかなり忙しい人であり、ふとそのポスタ-の在庫が何故か気になったので、今日の昼に何必館に電話をして、(京都高島屋美術部の福田さんがちかじか来られるので、そのポスタ-を取り置きしておいて、来られたら渡して頂きたい)旨を連絡して電話を切った。…その直後、入れ替わるように1本の電話が入った。…福田さんからであった。…今、丁度その何必館にいて、学芸員の方に私からポスタ-を取り置きして欲しい旨の電話があった事を知らされたとのお電話である。…福田さんいわく、あまりにジャストタイミングだったので、まるで私に見張られているようで驚いた‼…という。

 

 

…………………ずいぶん前になるが、私が未だ学生だった頃、横浜のマリンタワーでバイトをしていた事があった。…ある日、バイトに行くとマリンタワーの2階でかなりの人だかりがしている。…訊くと、よく当たるという評判の人相占い師がイベントに来ていて、その順番を沢山の人が待っているという。…その占い師に興味が湧いて来て、私は離れた所からその人を視ていた。…すると、私の存在に気がついたその占い師が、私をじっと凝視して、私に手招きをしたのであった。…何だろう!?と思いながら、その占い師の前に立つと、なおもその占い師は私の眼を鋭く凝視しながら、はっきりとこう言ったのであった。…(あなた、…いったい何者‼?)…と。

 

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『登場する明智小五郎』

…いつの頃からか、妙に気になっている場所があった。…場所はJR日暮里駅改札を出て谷中墓地へと上がる石段を上り、天王寺を越えた先の左側の陸橋真下に線路と平行して広がって在る「芋坂児童公園」がそれである。…児童公園とは名ばかりで、児童が遊んでいる姿など見た事が無く、…仮にいたとしても人気の無いこの場所で一人で遊んでいたら、十中八九怪しい男に拐われるだろう。墓地にした方が相応しいのだが何故か墓地にもなっていない。何だか仮っぽく見えるこの土地は、果たして何だろう?

 

……………先日、森まゆみさんの著書『「谷根千」地図で時間旅行』(晶文社)を読んでいたら、あっさりその謎が解けた。そこにはこう書いてあった。(……また三月十日の空襲(東京大空襲)では、いまの日暮里駅に近い児童遊園のあたりに死者が埋葬された。)…と。…古くからある公園の歴史には案外こういう伏せた物語が多い。

 

…例えば墨田区に今もある錦糸公園は、1945年の東京大空襲で命を落とした人たち実に1万余の遺体がこの公園に埋葬されたという。……  (…富蔵さん、児童公園と言いながら遊具など全く無いですね)…跨線橋にもたれながら、私は同行してもらった田代富夫(通称・富蔵さん)さんに、そう呟いた。…すると一人の男性が近づいて来た。訊くとここ谷中墓地の管理をされているとの事。富蔵さんが、この児童公園の来歴を話すと、その方も知らなかったらしく驚いていた。

 

…個展が終わった先日、私は、このブログで度々登場される富蔵さんと日暮里のカフェで久しぶりにお会いして、様々な話をして午前を過ごしていた。午後から私は、件の児童公園~谷中に在った川端康成の旧宅、そして、前回のブログで書いた川端の不気味な短編小説『化粧』の舞台となった谷中の斎場跡(芥川龍之介大杉栄伊藤野枝他を焼いた場所)を探して観ようと思っていた。…午後からの私の行動予定を富蔵さんに話すと、好奇心が強い富蔵さんは付き合ってくれるというので、先ずは児童公園の方へと一緒に向かったという次第である。

 

 

…件の児童公園を見た後で、霊園を抜けて、上野桜木町の川端康成旧宅跡(画像掲載)と隣接して在った斎場跡(画像掲載)を目指すと、すぐにその場所はわかった。

 

 

 

…当時の詳細な地図のコピ-を、私は事前に作って持参していたのである。

 

 

 

 

 

 

 

……川端の小説の中でも最も感性の鋭い時期に書かれたのが、この上野桜木町時代であり、川端康成の122編の短編小説を収録した掌編小説集『掌の小説』(新潮文庫)にその多くが入っているので、ご興味がある方には、ぜひお薦めしたい。

 

 

夕方から用事があるという富蔵さんと上野桜木町で別れて、私は三崎坂を下って、真向かいにV字へと上がっていく急な坂道の団子坂を上がり、次なる目的地へと向かった。…江戸川乱歩の小説『D坂の殺人事件』の舞台となった場所跡を目指したのである。

 

 

………「それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコ-ヒ-を啜っていた。…(中略)…さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先を眺めていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしているといかにも変わり者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが……… 」

 

………という始まりで、話は次第にサディズムを孕んだ陰惨な猟奇殺人事件へと展開していく。…私が目指したのが、正にこの小説の舞台となった団子坂(つまりD坂)であり、後に私立探偵の代名詞となっていく明智小五郎が、この小説で初めて登場するのである。

 

また文中に書かれている古本屋とは、実際に江戸川乱歩が二人の弟たちと営んでいた書店『三人書房』であり、この団子坂を登りきった場所(千駄木五丁目5-14)に乱歩は住んでいたのであった。(…時代は大正8年、あの松井須磨子が自殺した年である。)

 

 

 

この小説を初めて読んだのは高校時代であったが、その時以来、私はいつかこのD坂なる怪しい場所に行ってみたいと思っていたのである。妙にこのタイトルに惹かれるものがあった。…D坂が団子坂という名前である事を知った時は唖然としたが、やがて乱歩のそのタイトルの付け方の妙に私は惹かれていき、影響すら受けたのであった。

 

(これに似たのがクレーの名作『R荘』というのがある)…私がタイトルや、オブジェの中に時々アルファベットの大文字を使うのは、実にこの『D坂の殺人事件』というタイトルからの影響が大きいのである。

 

 

 

……鴎外の旧宅(観潮楼)の跡地に建つ森鴎外記念館が見えて来て、さらに暫く行くと右側の番地が正にその三人書房があった場所。

辺りにいる筈がない乱歩や明智小五郎の影を探すが、時代は既に令和となって抒情も怪しさも、物語の発生する気配すら無い。

 

 

…私はこの小説の芯となっている彼ら「高等遊民」(ある意味、シャ-ロック・ホ-ムズもそうであるが)が生きていた虚構と現実の間(あわい)が好きなので、その影を、もはや暮れ始めて来た、このD坂なる坂道の翳りの中に追ったのであった。…坂を下って途中から左へ折れると、高村光太郎智恵子の旧宅跡、その隣には池田満寿夫さんが若き日に住んだ旧宅跡が在る、それはまた次の探訪の楽しみにするとして、千駄木駅の改札口へと向かったのであった。

 

 

 

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「10月21日迄、日本橋高島屋で個展開催中」

……私が24才の時に、東京国立近代美術館で開催される「東京国際版画ビエンナ-レ展」の日本の代表作家の一人として選出された時に、当時ニュ-ヨ-クに住んでおられた池田満寿夫さんから祝電のお手紙が届いた事があった。その手紙の末尾に、(私はアメリカを代表する作家の一人として出品します。共に頑張りましょう。)と書いてあり、私は燃えるような気持ちで熱くなった事がある。

 

…また、その手紙には(…あなたは、これからはコレクタ-の人達と一緒に人生を生きていく事になるでしょう)と書いてあり、当時の私はその箇所だけは、些か疑問を抱いた事を覚えている。…作品は本質的に匿名である故に、具体的な人達と接点を持つべきではないと思ったのである。…しかし、個性ある作品を遺した人達の生涯の記録を読んでいくと、その人達が具体的なコレクタ-の人達と実に深い生きた物語を交わしながら、作品の質を高めていったかを知るにつれ、私の考えは変わっていった。…コレクタ-の人達もまた作品収集をするという行為を通して、その人自身の人生を豊かに紡いでいるのであり、それもまたその人達における表現行為なのだと次第に気づいていったのである。

 

…想えば、私の版画はそのほとんどが、その人達によって評価され、収集されていき、完売による絶版という形で、私のアトリエに版画作品はほとんど残っていない。…そしてそこに、私を支え続けてくれた人達との不思議な「ご縁」としか言いようのない豊穣な物語が実にたくさん残っている事を、私は時に思い出すのである。…そして、作品を収集するという行為もまた深い創造行為なのだと、私は実感を持って想うのである。

 

版画の次に、私は精力的にオブジェを作り続けて来た。その作品数は既に1200点以上であるが、アトリエに残っているのは僅かに40点くらいである。…考えてみるとこれは驚異的な事であり、表現者としてこれほど幸せな事はないとつくづく思うのである。…その1000点以上の作品は今、各々の作品との出逢いを通じてコレクタ-の人達の身近でまた新たな尽きる事のない豊かな物語を紡いでいるのである。

 

…最近つくづく思うのであるが、人生という限りある時間の中で一番大事な事は、人と人とを結んでいる「ご縁」というものではないかと思う。…ご縁という不思議な運命の筋書き。振り返ってみると、本当にその不思議な縁によって、実にたくさんの面白い出逢いがあった事を思い出し、私は豊かな気持ちになるのである。…昨今のように相手の顔も知らずにネットで不毛な刹那的触れ合いをして、次に消去を繰り返している時代にはもはや、豊かな物語を作る土壌は無いと私は見ている。…時代は寒い方へと傾斜を墜ちていっているが、私はその「ご縁」という不思議なとしか言いようのない現象のドラマにこだわり、それを大切に考えていたいと思っている。

 

…さて、日本橋高島屋での個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」が2日から始まった。…それに関して、「月刊美術」10月号の新刊で、この個展に関する展覧会評が出たので、以下にご紹介しようと思う。…個展は21日迄、休み無しで開催されている。…そして私は毎日、画廊にいて、私の作品と、その作品と出逢った人との不思議な、しかし何かに結ばれているとしか思えない、その出逢いの瞬間に立ち会うのである。…そして、その作品の次なる作者は、私からその人へとなっていくのである。

 

 

 

 

 

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「狂った空の下で書く徒然日記-2024年・狂夏」

災害級の猛暑に、ゲリラ雷雨…。そんな中を先日、馬場駿吉さん(元・名古屋ボストン美術館館長・俳人・美術評論家)と11月29日-12月14日まで開催予定の二人展の打ち合わせの為に、名古屋画廊に行って来た。ヴェネツィアを主題に、馬場さんの俳句と私のビジュアルで切り結ぶ迷宮の幻視行の為の打ち合わせである。馬場さん、画廊の中山真一さんとの久しぶりの再会。打ち合わせは皆さんプロなので、短時間でほぼ形が見えて来た。…後は、私のヴェネツィアを主題にした作品制作が待っている。

 

その前の10月2日-21日まで、日本橋高島屋の美術画廊Xで私の個展「狂った方位-レディ・パスカルの螺旋の庭へ」を開催する予定。今年の2月から新作オブジェの制作を開始して7月末でほぼ70点以上が完成した。6ケ月で70点以上という数は、1ヶ月で約12点作って来た計算になるが、その実感はまるで無い。私は作り出すと一気に集中し、没頭してしまうのである。…2.5日で1点作った計算だが、しかし上には上がいる。ゴッホは2日で1点、佐伯祐三は1日で2点から3点描いていたという証言がある。…二人とも狂死に近いが、私の場合はさて何だろう。

 
…そんな慌ただしい中を先日、月刊美術の編集部から電話があり、横須賀美術館で9月から開催する画家・瑛九展があるので、この機会に瑛九について書いてほしいという原稿依頼があった。…さすがに忙しくてとても無理である。…何故、瑛九論を私に依頼したのか?と訊いたら、私と同じく、画家、写真家、詩人、美術評論…と多面的に彼が先駆者として生きた事、そして瑛九と関係が深かった池田満寿夫さんと、私との関係からであるという。

 

…以前に私の写真集刊行の時に、版元の沖積舎の社主・沖山隆久さんが、印刷に入る3日前に、写真80点に各々80点の詩を入れる事を閃いたので、急きょ書いて欲しいという注文依頼があった。時間的に普通なら無理な話であるが、私は不可能といわれると燃える質である。3日で80点の詩を書き上げた。…その詩を沖山さんが気にいって私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の刊行へと続き、また詩の分野の歴程特別賞まで受賞したのだから人生は面白い。

 

………(とても無理ですね)と最初はお断りしたのだが、今回も瑛九に関して次第に興味が湧いて来て、結局原稿を引き受ける事になり、一気に書き上げた。短い枚数なので逆に難しいのだが、誰も書き得なかった瑛九小論になったという自信はある。

 

 

…しかしそう多忙、多忙と言っていても人生はつまらない。忙中閑ありを信条とする私は、先日久しぶりに骨董市に行って来た。…今回はスコ-プ少年の異名を持つ、細密な作品を作り、このブログでも時々登場する桑原弘明君の為に行って来たのである。

 

…明治23年に建てられた異形の塔・浅草十二階の内部の部屋を、彼は細密な細工で作品として作りたいらしいのだが、外観の浅草十二階の写真は余多あるのに何故か、その塔の内部を撮した写真が一枚も存在しないのである。…先日は、その幻の写真を私が彼の為に見つけんとして出掛けていったのである。(彼とは今月末に、その浅草十二階について語り合う予定)。

 

 

………昔の家族や無名の人物写真、出征前に撮した、間もなくそれが遺影となったであろう、頭が丸刈りの青年の写真などが段ボールの中に何百、何千枚と入っている。…しかし、件の浅草十二階の内部を撮した写真など、見つかりそうな気配は全くない。

 

 

 

 

…私は、次から次と現れる知らない人達の写真を見ていて(…考えてみると、これは全部死者の肖像なのだな)…という自明の事に気づくと、炎天下ながら、背中にひんやりと来るものがあった。……そしてふと想った。…もしこの中に、紛れもない私の母親の、未だ見たことのない若い頃の写真が二枚続きで突然出て来たら、どうだろう。…そしてその横に私の全く知らない男性が仲好く笑顔で、…そしてもう1枚は、二人とも生真面目な顔で写っていたとしたら、さぁどうだろう⁉…と、まるで松本清張の小説のような事を想像したのであった。

 

 

…考えてみると、両親の歩んで来た物語りなど、実は殆んど知らないままに両親は逝き、今の私が連面と続く先祖達のあまたの物語りの偶然の一滴としてたまたま存在しているにすぎないのである。

 

 

 

 

 

 

…ここまで書いて、初めてアトリエの外で油蝉がかまびすしい声で鳴いているのに気がついた。………今は外は炎天下であるが、やがて日が落ちる頃に俄に空が暗転し、また容赦の無い雨が激しく降って来るのであろう。…

 

 

 

 

 

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『人魂に魂を入れてしまった男の話』

…東京の大井町線とJR南武線が交わる所に「溝の口」という駅がある。今ではすっかり様変わりして駅前通りが綺麗になってしまったが、昔は溝(どぶ)の口とよばれた、実にロ-カルな渋い場所であった。…この駅から線路沿いにしばらく歩いた所に、多摩美術大学の男子寮があり、私は18才の一年時からそこに入っていた。(…余談だが、寮に行く途中に地味な布団屋があった。後で知ったのだが、私が来るしばらく前に一人の青年がその店でバイトをしていた。…後のタモリである。私はタモリは頭がいいと思って感心した。…布団屋は暇であり、たまに仕事が入って布団を運んでも軽い楽な仕事、しかし時給は他とあまり変わらない。バイトをするなら、忙しいスタバでなく、布団屋に限る。)ま、それはともかくとして、大学に入ってすぐに私は二つの大きな挫折をあじわった。

 

一つは、日本の美術の分野を代表する作家の斎籐義重氏が多摩美で教えていたので習おうと思って勇んで入ったものの、斎籐氏は学園紛争で外部に出てしまい、目標とする人物が大学にはいなくなってしまったのである。…二つ目は、三島由紀夫の『近代能楽集』に強く感化された私は、三島に長文の手紙を書き、その最後に「貴方の美意識を舞台美術で具現化出来るのは、間違いなく私しかいないと思っています」と熱く書いて投函した。…根拠はなくても強烈な自信だけは満々とあったのである。…出してから数日して丁度届いたと思った頃、ふとテレビをひねると、三島由紀夫が決起して市ヶ谷の自衛隊駐屯基地で演説をしている、まさかの姿が中継で入って来た。そして自決。…上京して半年で、前途の目標を失ってしまったのである。(斎籐氏には後に会う機会があり、私のオブジェを高く評価してもらったが、やはり18才の生な時に語り合いたかったと思う。)……、当面の目標が断たれはしたが、しかし私は未だ18才。生きていかなくてはならない。

 

…二年生の夏に、偶然の導きで池田満寿夫氏の版画と出会い、一気に版画表現にのめり込んで行くのであるが、私はもちろんその運命を未だ知る由もない。…文芸評論、映像作家、或いは悪の道。…しかしどの道に進むとしても先ずは充電と思って、映画はフィルムセンタ-に通い、文芸はかなり読み耽った。…金が無いのでバイトは数々したが一番日当が佳かったのは、桜田門や大手町の地下鉄の送風機を取り付ける仕事で、日当5000円(今に換算すると毎日3万円くらいか)であった。…このバイトは力仕事なのに何故か多摩美と芸大の学生だけが独占し、各々の大学から30名づつくらいが、いつも組んで場所を移動しながら稼いでいた。…昨年亡くなった坂本龍一氏の本を本屋で立読みしていたら、彼もそのバイトをしていた事を知って驚いた。…(そうか、あの学生達の中に彼もいたのか…)と思うと共に、彼もその本の中で書いていたが、どの大学も紛争直後で荒廃し、何か空無な気だるい無力感が漂っていた、そんな時代であった。

 

…多摩美の男子寮は、多摩芸術学園と洗足学園音楽大学(寮も含む)の間に在った。…寮の庭から、洗足学園の女子寮の食堂が見えた。華やかな笑い声が時折聞こえても来た。…この大学は、古くは歌手の渡辺真知子や、近くは平原綾香等が出た、いわゆるお嬢様学校。…私どもの寮の食事はほとんど茶色一色。冷えたご飯に生卵を割れば、先ずは白身が沈んで次に黄身も消えるような粗食。先方の寮の食事はカラフルの一語に尽きる、…同じ人間として生まれて来た筈なのに…いささかの理不尽がそこにあった。一言で言えば、晩飯とディナーの響きの違いか。だから寮の先輩からは、こう言われたものである。(洗足女子寮の食事は見るな!…見れば自分たちが辛くなる)と。

 

…私の部屋の隣室に中村敬造さんという2年上の先輩がいた。…デビュー当時の武田鉄矢を講釈師にしたような飄々とした、何とも味のある人であった。…私達は、そして寮の誰もが、真昼時の太陽が沈むのを忘れたかのように……暇であった。…敬造さんの部屋で、(……しかし暇ですなぁ…)と私。(…まったく、何か面白い事が無いかねぇ…)と敬造さん。……私は言った。(いっそ、人魂でも出しますか!?)と。敬造さんは(人魂かぁ、それは面白いかもなぁ。しかしどうやって作るんだ?)と訊くので、(まぁ任せて下さい!)と言って、私は寮の黴びた物置小屋から細い竿を出して来てピアノ線を結んで艶消しの黒を塗り、綿に油画に使う画材のオイルを染み込ませて、アッという間に作り上げた。

 

…(で、何処に人魂を出す?)と敬造さんが言った瞬間、私達は同じ事が閃いた。…やがて夜になった。…私達は寮の塀を乗り越え、一路、隣の女子寮へと向かった。…ある部屋の前に来たものの意外と窓が高い。敬造さんが踏み台になり、私が部屋の中を見た。…しかしそこに見たのは紫煙けむる中、あぐらにコップ酒、花札の中にいる女子達の姿であった。…(北川、何が見える?)と下にいる敬造さんが小声で訊くので、私は応えた。(見ない方がいいですよ、まるで女囚、ここでは人魂を出しても意味が無い)と話して、静かに下りた。…その時であった。ボロンボロンというピアノの音が近くの窓から流れて来たのであった。…見ると、先程とは一転して真面目風な感じの女子2名が熱心にレッスンの最中であった。…(人魂はここがいい!)…私達は綿にライターで火を入れて、ゆるやかに、かつ怨めしく人魂を闇夜にゆらゆらと浮かべ、そしてさ迷わせた。

 

敬造さんが小声で言った。(しかし北川は上手いね!…まるでプロの文楽の人形師のようにリアルだなぁ!)と。(人魂の中に魂を深々と入れるんですよ。悲しく、あくまでも悲しく!)……自分たちでも感心するような哀しい人魂の揺れ具合である。(これで食べていけるのでは)私はふとそう思った。

 

……、その瞬間であった。突然バタンという、ピアノの蓋を激しく閉じる音が響いたと同時に、部屋の中から複数の叫び声がキャ~からギャ~へとけたたましく響いた。その時であった。「こら~!!」という警備員の鋭い声が響き、私どもの方へ走って来るのが見えた。…私達は咄嗟に逃げて、先ずはバタンバタンと転がる人魂を矢投げのように塀の向こうに投げ、続いて私どもの姿も瞬時に多摩美の寮がある暗闇の中へと消えた。

 

問題が起きたのは、その翌日であった。洗足学園の寮から抗議があり、放火魔らしき二人組が出没して多摩美の寮に消えたので、調べて欲しいという内容であった。寮生全員が集められたが、結局名乗り出る者はいなかった。…洗足学園側は、美大の連中はらちが明かないと見て、浸入を防ぐ為の鋭い有刺鉄線が、まるで収容所の塀のようにして、延々100メ-トル近くも張り巡らされたのであった。…敬造さんと私は反省会議を開いた。…あのようにリアルな人魂をもっと人々にあまねく見せたいが、ではそれを何処に出すか…という会議であった。…そして寮の最屋上の給水設備の所から、第三京浜へと向かう車列に向けて、人魂を出す事になり、それはその夜に決行された。

 

…私達は黒服に身を包み、人魂を闇夜に再び揺らしたのであった。効果は予想以上であった。(北川、見ろ!…車が渋滞し、車から出てきたみんながこっちを指差しているぞ!)と。方々のクラクションが鳴り響き、…私達は想像したのであった。…人魂を見たあの人達は、後々までずっと信じるかもしれない。…人魂は本当にいる!何故なら私は、あの夜に溝の口で見たのだから……と。……しかし、その時、私はまだ知らないでいた。…僅か六年後に本当の人魂を見てしまうという事を。

 

…多摩美の大学院を修了した私は、寮を出て、2つの住所を転々と移り、横浜山手の丘の上に在った「茜荘」というアパ-トに移った。…この建物は以前は連れ込み宿であったのを作り直したのであるが、玄関に料金所の名残りがあって、それとわかるのであった。出て右に行くとすぐに真っ赤に塗られた打越橋というのがあるが、そこは飛び込み自殺の名所。…茜荘を出てすぐ左には牛坂と呼ばれる暗い坂道があるが、引っ越して来てすぐに読んだ、『昭和の猟奇事件-ノンフィクション』という中に突然、その坂の事が出てきて驚いた。…なんとその坂道の途中に在った人家で、狂った若い女が家族を皆殺しに殺すという事件が起きたのであった。その話の出だしは「…食っちゃったぁ」と、その狂女がへらへらと笑いながら、踏み込んだ二人組の刑事に話す場面から書いてあった。…救いは山手へと向かう先にあるミッション系の共立女学園の存在。…しかし、ここだってわかったものではない。

 

池田満寿夫さんのプロデュ-スで初めての個展を開催したのが、私が24才の時。…その個展が始まって、確か3日目の夜、銀座の画廊から帰途につき、石川町という駅を出て、地蔵坂という坂道を上がり、途中から石段を登って家路に着くのであるが、その夜は小雨が降っていた。石段の途中の右側がロシア正教の小さな教会、左が江戸時代からの小さな墓石がたくさん立っている、その墓石の私のすぐ近い所に、ポッと鈍く光るものが突然、出現した。「…人魂か!!?」一瞬そう思った私は、その人魂の走る先を凝視した。…人魂は燐が燃えたものと俗に言うが、燐ならば無機質な物質なので林立して立っている墓石の何れかに直ぐにぶつかって消える筈。私がぞっとしたのは、その小さな人魂が、まるで意識があるように、ランダムに立っている墓石を次々と避けるように薄く光りながら流れていき、やがて墓場の先の暗闇に消えていったのであった。

 

……私が人魂を見たのは、それ1回きりであったが、学生の時に作った人魂とは全く違う、静かな不気味さがあり、今も記憶に焼き付いて離れない。…昔作った人魂は、歌舞伎の怪談で、離れた客席まで見せる為の大きな作りであり、人々はそのイメ-ジのままに今日まで到っている。……私の残りの人生の中で、今一度、あのような薄火の、しかしそれ故に芯から恐怖が伝わって来る人魂を見る機会が果たしてあるのであろうか?…ここまで書いて来て、俳句で人魂を詠んだのがないかとふと考えた。…意外になく、只一作だけあったのを私は思い出した。…「ひと魂でゆく気散じや夏の原」である。気散じとは気晴らしの意味。…ひとだまになって、それでは夏の原っぱをぶらりとゆこうかという、風狂達観の意味がこめられた作である。…作者はいかにもの人。葛飾北斎の辞世の句である。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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