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『夏の行方―成田尚哉さんに』

このブログでは、私の親しい人達が実名で度々登場するが、映画の企画、制作、プロデュ―サ―をされている成田尚哉さんは、最も登場回数の多い内のお一人である。つまり、それだけ意識の内側に深く関わっているのだと思う。私のアトリエにも度々来られ、また成田さんの吉祥寺や現在の平井のご自宅にも伺って愉しい時間を過ごした。

 

ブログでは、昨年11月21日付けの『一葉に恋して/本郷編』に成田さんが登場する。……私はこの日の午前に成田さんと本郷三丁目駅で待ち合わせて、明治の面影が遺る菊坂下にある樋口一葉の旧宅跡や、その周辺を共に歩き、老舗の鰻屋『鮒兼』で鰻重と肝焼き、そしてビ―ルを飲み、私は成田さんに熱く、ひたすら熱く語った。樋口一葉の映画化の話をである。成田さんは、鮒兼の鰻重がたいそう気に入り、味に感動しながら話が進んでいった。「……例えば、女性の謎を追い求めた最期の絵師・あの上村一夫が最終的に辿り着いたのが樋口一葉です。成田さん、ここ大事です、樋口奈津(一葉の本名)には、追うと逃げ水のように消え去る不可解な謎があまりにも多い。天才にして、捕らえ難い実に面白い人物です。……」と語った。いつもそうであるが、この日も成田さんは終始聞く側に徹していた。ただ頭の中ではプロの映画の企画者としての感性が俊敏に動いている。そして、成田さんの語りから、気持ちが映画化の企画へと傾いている事が手応えとして伝わって来た。昨年の7月にアトリエに来られた際に、既に一葉の件は振ってあり資料も手渡してあったので、この日は、その続きなのであった。「確かに一葉は映画化しても面白いですね!」成田さんがそう言うので、私はなおも喋った。喋り続けた。……まさか今、目の前にいるこの親しき人が、半年後の9月に、もはや永遠に会う事が出来ない黄泉へと旅立ってしまう運命にある事など全く知らずに………………。

 

今年の2月、版画家、藤牧義夫が24才の若さで、版画家小野忠重の家に行った時点で忽然と消えてしまった謎を追って、私は追跡していたのであるが、ある日、その消えたといわれる向島小梅の現場に行く際に成田さんも誘おうと思って、「2月10日の正午に吾妻橋の中央の欄干で待ち合わせしませんか?」とメールを送信した事があったが、成田さんから来たメールには「最近、足がきついので、もし宜しかったら平井の拙宅は如何でしょうか?」という内容であった。……そして私は平井へと赴いた。奥様の可子さんもおられ、手作りのご馳走を美味しく頂きながら話が弾んだ。成田さんは、今秋開催予定の個展に向けて、制作の場になっている部屋の一角に進行中の作品が溢れていた。映画の企画の本業と共に成田さんはオブジェやコラ―ジュの制作も永くされており、その表現の深みは年毎に増して、完全に第一線級のプロの完成度を持つようになって来ている。昨年に開催した個展で、私は成田さんの作品が気に入り、購入させてもらい、次なる展開を本当に愉しみにしていた。…しかし、個展の開催は叶わず、成田さんは肝臓癌の転移により、この夏の終わりに旅立ってしまった。その日にお会いしたのが、結局は今生での最期となってしまったわけである。…そして私には、ひたすらの寂しさと共に多くの悔いが残る事となってしまった。

 

 

 

……成田尚哉さんとの出逢いは、20年以上前に遡る。渋谷の東急セミナ―から話があり、オブジェの講座を暫くやっていた事があった。ある日の講座で、私のアトリエに近い大倉山にある、大倉山精神文化研究所(現・大倉山記念館)なる建物で、私が23才の頃に目撃した、全裸の少年がその建物から飛び出して来た話や、その不穏な気配、謎の多い「精神文化研究所」なる物の来歴などについて話をした事があった。受講生の多くは、オブジェの技法でなく、そのような話ばかりする私に呆れていたようであるが、一人だけ、その話に興味深く食い込んで来てくれた人が、成田尚哉さんであった。そればかりか、成田さんは実に興味深い話をしてくれた。私はそこ(大倉山精神文化研究所)に行き、映画のロケをした事がありますよ、と切り出してくれたのである。メイクの女性が勘が実に鋭い人で、その現場に着くなり、成田さんに「ここはヤバイですよ、かなり危ない気が充ちていますよ!」と真顔で語ったという。果たしてその通りで、撮影の連日に事故がおき、あまりにも危険過ぎるので予定を早めに変更して撮影を切り上げたという。……成田さんがプロデュ―サ―を勤めた映画『1999年の夏休み』(原作・萩尾望都)がそれであり、当時は水原里絵の芸名だった、深津絵里が主演しスクリ―ンデビュ―して話題となった作品である。私は成田さんとは、初めてお会いしたその日に感性が合い、以来親しき友としての交流が始まった。

 

成田さんは慶應大学の美学美術史を専攻し、当時全盛を極めていた日活に入って、数百本以上のロマンポルノの企画を担当(わけても全ての石井隆原作のシナリオを企画)。日活から移籍後、2003年以降は自身の映像プロダクション『アルチンボルド』を立ち上げ、『ひぐらしのなく頃に』『海を感じる時』『花芯』……などの名作を連発していった。……私が(そして成田さん自身にとっても)残念だったのは、芥川賞受賞作の松浦寿輝『花腐し』の映画化を企画して、既に脚本までも完成しながら実現しなかった事である。この企画の話はかなり早い段階から伺っていて、幾つか私なりの考えも話した事があった。……実現していれば映画史に残る可能性があっただけに残念である。

 

……私が成田さん宅を訪れた2ヶ月後の6月、突然、成田さんから電話が入り、肝臓癌で余命が半年である事を告げられた。……私は自身が思っている人生の意味を語り、そして、その生において最も幸運な事は、自分を活かす生き甲斐のある仕事を見出だす事が出来、自らの可能性の引き出しをあまねく全開し、達成出来たか否かではないかと思う……という話をし、成田さん、貴方は全的に達成した人だと思う、と私は話した。……そして、映画の企画だけでなく、コラ―ジュなどの美術表現においても、成田さんの表現の域は、かなりの高みに在るという私見、確信を話した。……そして、私は死とは終わりに非ず、新たなる生の始まりであり、転生があると確信しており、私は今生の生が終る直前に、明治26年の9月6日の朝未だ来の浅草、花川戸に魂を翔ばし、まだ名作『たけくらべ』を書く直前の極貧の樋口一葉の横をかすめて、浅草十二階(凌雲閣)の螺旋階段を昇って上昇し、その高みに自分の魂を本気で翔ばすつもりですよ!と話した。普通の人なら私の考えを唯の夢想と片付けてしまうが、私に度々起きる様々な不思議な現象のある事を知っている成田さんは「……北川さんは陰陽師ですからね」と優しく言ってくれた。……それが今生で交わした成田さんとの最期の会話になってしまった。

 

まことに成田さんが作り出す作品はその初期から、完成度が高く、イメ―ジに艶があり、エスプリがあり、強度な毒と妖しさがあり、つまり、表現世界に既に確かなる芯があった。だから、渋谷の画廊から始まり、銀座、下北沢の画廊も結び付けて成田さんにご紹介し、画廊企画での個展開催に微力ながら尽力出来た事は、今思えば本当に良かったと思う。成田さんの表現力は瞬く間にその密度を増して、昨年の個展での作品の素晴らしさは私を感動へと導き、また驚かせた。4月に平井のご自宅の制作現場で見た新作への意欲は、美術作品の制作が成田さんの生き甲斐の強い手応えとなっている事を映していたと今にして思う。9月16日、斎場には映画の関係者を始め沢山の方が来られ、成田さんとの別れを惜しんでいた。……その中に在って、私は今、この時の成田さんの魂の行方について考えていた。願わくば、何らかの形で幽かな信号を送って欲しかったのである。

 

 

 

 

 

 

人間の死には2つの段階があると思っている。或る人が逝去したとしよう。しかし、その人の事を覚えている人がいる限り、その人は亡くなってはいない。そして、その人を知る最期の人が遂に亡くなった時、その人の生が終わり、初めてその死は完結するのである。しかし、魂の行方はまた別である。……これは私の持論であるが、永六輔さんが全く同じ事を言っていたのは興味深い。……私は携帯電話に記してある知人が故人となっても、その電話番号を消さないでいる。何かの弾みで、かかってくるような気もあり、またこちらからかけてみたいという気持ちも、あるのである。成田尚哉さん、またいつか再び逢いましょう。……そして昔、話をした……「成田さんが作り出す映画も、また私が作る作品も、詰まりは同じ〈夢の結晶〉、光を当てれば忽ちに消え去る泡沫のような淡い夢かもしれない」という、あの話の続きをしましょう。

 

 

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『ダリオ館再び―in Venezia』

脚本家で小説家の向田邦子さんには苦手なものがあった。……魚の目である。『父の詫び状』所収の「魚の目は泪」と題したエッセイの中で、芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」について書き、実は魚の目玉が恐くて、「目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛」で、魚屋へ行くと見まいと思っても、つい目が魚の目にいってしまう、と書いている。食通の向田さんにしては意外な話で印象深い。……魚の目に関しては、私にも遠い、或る思い出がある。たぶん4~5才の頃であったかと思うが、母親に連れられて魚屋に行った時の事。母親と魚屋の主人との長話が続くので、私は退屈であった。退屈な気分の先にずらりと並んだ沢山の魚が目に入った。……私はその魚の乾いた虚ろな目の様が面白く、悪戯心が湧き、つい指先が延びてしまった。魚の目玉の縁に指先を突き刺しひっくり返すと、訳のわからないねばねばした〈裏側〉が出てくる。それが面白く、一匹、また一匹、また一匹……とかなりの数の魚が、私の好奇心の犠牲になっていった。「あ~!!」と叫んだのは、あれは母親であったか、魚屋の主人であったか?……とまれ時既に遅しで、店頭にはもはや売り物にならない、無惨にも目玉がひっくり返った魚がたくさん並ぶ事となった。母親が始末をどうつけたのかは忘れたが、ひたすら謝っていた姿だけは覚えている。……たぶんその後の店先には、沢山の切り身が並んだ事と思われる。……この頃から次第に好奇心の強い性格が芽生え出し、以来、怖いもの、不可解なものに異常に執着するように私はなっていった。

 

 

……ひと頃は、『反魂香(はんごんこう)』なる物に興味を持った事があった。中国の故事に由来するが、焚くと死者の魂を呼び戻し、その姿を煙の中に出すと言われるお香の事である。おりょうが、亡き夫の坂本龍馬について語った回想録の本の題名も『反魂香』であったと記憶する。自由業なので時間があり、制作以外の時は、自分の好奇心の赴く方へと日々さすらっている人生である。だから反魂香に興味を持った時は、機会を見ては都内の香を扱っている店に入り、その香について問うたものである。しかし全くといっていい程、反魂香なる物について知る人は誰もいなかった。やはり伝説にすぎなかったのかと諦めていた頃、……昨年の冬に鹿児島のギャラリ―・レトロフトで個展をした時の事であった。まるで泉鏡花の怪奇譚の中にでも登場しそうな妙齢の謎めいた女性が入って来られた事があった。その気配から、一目見て只者ではないと思った。話を伺うと香道を生業とされているとの事。「遂に来た!」と直感した私は『反魂香』についてさっそくに切り出すと、その人の細い眉がぴくりと動き、鋭い眼で私を見返し、「確かにその香は存在しますが、あまり深入りはされない方が御身の為ですよ……」と静かに言った。面白いではないか!!……存在するなら、そして、その結果、何処かに連れ去られたとしても、私はいつでも本望である。しかし、その女性は、何故かその後の話を切り換えて別な話になり、その後に来客が来られたので、未消化のままに話は終わった。……老山白檀、沈香、龍脳、甘松……等を秘伝の調合でブレンドするらしい。

 

 

……さて、本題のダリオ館である。ヴェネツィアにある15世紀後半に建てられたこの館は、歴代の主や家族が自殺、又は非業な死を遂げるという、妖かしの館である。単なる伝説ではなく、この館に関わった者が実際に既に20人以上が亡くなっており、私が初めてヴェネツィアに滞在していた1991年時は生きていた、この館の主で起業家のラウル・ガルディニという人は、1993年の夏に銃で自殺を遂げている。以来、この館は無人の館となっていた由。私がこの館の不気味な存在を知ったのは、3回目にこの地を訪れた時であった。……ダ・ヴィンチの事を書く為に取材でロ―マから北上してフィレンツェに入った後に、ヴェネツィア在住の建築家に会う為に訪れた時であった。たまたま乗ったゴンドラのゴンドリエ―レ(ゴンドラの漕ぎ手)から、対岸にある、その一目見て不気味な建物―ダリオ館についての謎めいた話を詳しく教えてもらったのである。映画監督のウッディ・アレンがダリオ館に強い興味を抱き、真剣に購入を考えているという。ゴンドリエ―レは私達を見つめ、「彼は間違いなく死ぬだろう!」……そう言った。(この後、ウッディアレンは購入を断念したという話が入って来た。彼の友人達が真剣にその危険を諭したのだという)。……数年して私は写真の撮影の為に再びヴェネツィアを訪れた。その時は、この館に次々に起きる不吉な死の真相を確かめる為、私は本気でこのダリオ館に塀を越えて侵入するつもりであった。闇の帳が下りた頃、ダリオ館に行くと、意外にも中から灯りが漏れていた。見るとタイプライターで知られるオリベッティ社の銘が見えたので、残念ながら断念した。同じ並びにあるベギ―・グッゲンハイム美術館など、この運河沿いにある館の平均価格は250億はするという。まあ、私が貴族の末裔だったら絶対に購入するのだが……と、真相究明の挑戦はしばしお預けとなった。

 

永井荷風たち耽美派が影響を受けた詩人のアンリ・ドレニエは、かつてこの館に滞在した折りに「深夜に人の小さな呟きが聴こえた」と記している。またこの館には異様に巨大な鏡があるという。また、この館が建つ前は、そこはヴェネツィアの墓地であったという、……その辺りは切れ切れではあるが調べてある。

 

…………先日、何気なくふと、このダリオ館のその後が気になり、タブレットを開くと、信じがたい情報が飛び込んで来た。なんと、アメリカの起業家が800万ユ―ロ(たった12億8000万円!)で購入したというではないか。相場の10分の1の価格である。……しまった!と思った。遅かった!と思った。……そして、何とかならなかったのか!!と自分を責めた。そして、ふと我に帰った。……現実を見ろ!!と。しかし、私の好奇心は潰えてはいない。またヴェネツィアは行くであろう。しかし、その時には……という、真相究明の強い思いが、今もなお、私の心中で騒いでいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『人間―この未知なるもの』

……いよいよ明後日から9月である。しかしまだ暑い、暑すぎる。あまりの暑さで蝉も鳴かない。……さて、その明後日の9月1日と云えば、大正12年に起きた関東大震災があった日である。最近読んだサイデンステッカ―の『東京・下町山の手』に続き、田山花袋の『東京震災記』で関東大震災の実態の様を興味深く読んだ。51の章に分かれて、正にこの世の生き地獄と化した関東大震災の惨状を、生々しく活写した貴重な記録である。一瞬の運や判断の分かれ目で生死が左右される事が、実際に作者の花袋が歩き視たその描写からリアルに見て取れる。……圧死や焼死から幸い免れた人達もみな、その日の、灰塵と化した東京に沈む落日の不気味な様を見て「もはや、この世の終わりかと思った」という。関東大震災、そして連日の空襲……。それから比べたら、今回のコロナ禍などまだまだ比較にならない!という感がある。過去の大災害や毎日が死と向き合った戦禍を生き抜いた先人達の事を知ると、今のコロナ禍の程度が複眼的かつ俯瞰的に見えて来てメンタルにたいそう良い。……サイデンステッカ―、吉村昭の『関東大震災』、そして、田山花袋の『東京震災記』。興味のある方には、ぜひ読まれる事をお薦めしたい、この現状を達観へと導いてくれる著書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

……今回、お薦めしたい本がもう1冊ある。今月、三笠書房から刊行された『人間 この未知なるもの』という本である。著者はアレキシス・カレル氏。フランスの高名な外科医で、1921年にノ―ベル生理学・医学賞を受賞した人物。18カ国で訳され、既に数百万部が読まれている名著の改訂新版である。ちなみに、この本の表紙に使われている装画は、私のオブジェ作品『ハンベルグの器楽的肖像』。……タイトルとピタリと合っていて、作品が持っている幅のあるイメ―ジの何かと通低して、編集者の読みの正確さが見て取れる。

 

 

私の作品は度々、本を飾る表紙の装画に使われており、既に50冊は越えたかもしれない。須賀敦子、久世光彦、池田満寿夫、岡田温司、etc……また海外のミステリ―、詩集・歌集等々であるが、あまりこのブログで、詳しく紹介した事はない。しかし、今回この本をお薦めしようと思ったのは、著者のアレキシス氏が、極めて理性的かつ高い知性の視点から、自然科学を超えた超常的な現象にも、肯定的な記述をしているからである。少し引用してみよう。

 

「……しかし、奇妙なことのようだが、透視力は全く科学と関係がないというわけではない。大発見は知能だけの産物ではないことは明らかだ。天才は観察力と理解力があるばかりでなく、直感力とか創造的な想像力のような資質をも備えている。この直感力によって、他の人々が気づかない現象と現象の関係を見抜いて、無意識のうちに物事の関係性を感じとるのである。偉大な人物はすべて直感力に恵まれている。…(略)…直感によって発見への道をたどるのだ。こういった現象は、インスピレ―ションと呼ばれてきた。……」

 

「科学的、美的、宗教的なインスピレ―ション、そしてテレパシ―の双方に同時に関連しているように思える。テレパシ―は死にそうな時や、大きな危機に直面した時に起こる事がある。死に瀕している人や事故の犠牲者が、肉親や友人のところに現れるのだが、それは姿だけで、たいてい話をしない。しかし、時に口を開いて自分の死を告げることもある。透視はまた、遠く離れたところにいる人や風景を感じとり、細かく正確に描写することができる。テレパシ―にはいろいろなかたちがあって、透視は出来なくとも、一生に一度か二度はテレパシ―を体験したことのある人は稀ではない。……」

 

「身体を超えたものを対象とする新しい科学に属するこれらの事実は、あるがままに受け入れなくてはならない。それは現実に存在しているものなのである。そこには、人間のほとんど知られていない面、ある種の人間だけに見られる神秘的な鋭さが現れているのであろう。」……………………著者のアレキシス氏に限らず、かつてノ―ベル賞を受賞した科学者や物理学者で、このような霊性を孕んだ超常現象に挑んだ研究者は実に多くいて、知られているだけでも40人近くいる。驚くべき数である。ずいぶん以前のブログでも、私はその事実を取り上げ、いわゆる霊的現象に挑んだノ―ベル賞受賞者達の事を書いた海外の著書がある事を紹介した事があった。彼ら、物理学や科学の頂点を極めた研究者が、その叡知を駆使して終に辿り着くのが、先日にも書いたアインシュタインが着眼した「時空間の歪み」をも含めた、霊的という言葉でしか表しようのない、この不可思議な現象学の髄なのである。

 

 

……振り返れば、私はこのブログの記述を始めて10年以上の年月が経っている。想えば、早いものである。……その中で私は自分の身に起きた、不思議としかいいようのない、実際に起きた予知や透視の体験をずいぶん書いてきた。私をよく知る人は、私を評して「美術家というよりは寧ろ陰陽師」と言っている。そして私は、人生に一度か二度ではなく、あまりに頻繁に起きる、この自分に備わった予知や透視能力を通じて、この「北川健次」なる者を、昨今はもはや〈客体〉として眺めているようにさえもなっている。

 

 

……①俳優の高島忠夫夫妻の長男(生後5ヶ月)が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された時、私は東京から遠く離れた北陸の福井にいて、未だ12才であったが、私は朝のニュ―スで第一発見者で涙ながらに語る家政婦を見て驚愕した。……僅か5時間ばかり前の深夜に、夢の中に、浴室で女がもの凄い形相で幼児を絞殺、溺死させている映像が、それまでの他の夢の膜を破るように突然映し出され、まるでカメラがランダムに撮っているように、時に浴室の天井が揺れ乱れて映り、また女の側から視た幼児の姿、また、次は幼児から視た、自分を必死で絞めてくる女の形相がバラバラに映り、夢は突然消えたのであるが、その時に見て、まだありありと覚えている女の顔が、5時間ばかり後のニュ―スに、第一発見者として映っていたのであった。……それが、頻繁に起こる不可思議な予知的体験のプロロ―グであったと今は思う。

 

②先日、TVの「クイズ王選手権」なる番組を観ていた時の事、問題を告げる女子アナの声が流れ、「次に書かれた文章(英語)は、はたして何について書いた文でしょうか?それが示す単語(英語)を答えなさい。」と話し始めた。そしてまだ問題の文章が出される一瞬前に、私の脳裏に下りて来たのは「knock」という言葉であった。別にその問題に食いついていたわけでなく、ただknockという言葉が自然にするっと下りて来たのである。その後で、灘高だったか学生が答えたのが「knock」であり、正解であった。……何万語とある単語の中から、何故その言葉が私の頭に下りて来たのかはわからないが、そのような事があまりに度々あり、その幾つかは以前のブログでも書いて来たので、読まれた方もおありかと思う。

 

③拙著に『「モナリザ」ミステリ―』という題名の、ダ・ヴィンチについ書いた長編がある。その最終章で私は彼の生地、ヴィンチ村について書かねばならなかったのであるが、そこに行く時間が旅程でどうしても取れず、やむなく泊まっていたフィレンツェの宿で執筆する事になった。……私は頭を切り換えスイッチを入れて、その村―ヴィンチ村を透視した。……すると次第に村の入り口や、風景の情景がありありと視えて来て、先ずは柳の木の描写から始まった。……そして2時間後に文章を書き終えて脱稿した。後日に本が新潮社から出版された時、ヴィンチ村を訪れた事があるという知人の読者数人から同じ感想を言われた。「いゃあ、あのヴィンチ村、懐かしかったですよ。あの白い柳、全くその通りで、村の中も全く同じで、久しぶりに、行った時の事を想い出しましたよ」と。……前述したアレキシス氏の著書を読むと、この直感力は美的なものに使われる場合があると書かれているが、確かに私の場合、この直感力はオブジェの制作時に全開されているように思える。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語った事があるが、それは当たっていると思う。とにかくアトリエの中では、作品が次々に浮かび、短歌や俳句の言葉を紡ぐように、神経がふるに稼働して、作品を作るのではなく、〈ポエジ―を孕んだイメ―ジ〉は向こうから瞬時にやって来るのである。……クレ―は「表現者とは、未知の闇の中から、ポエジ―を掴み出し可視化する事の出来る者の謂である」という至言を書いているが、その実感はある。……付記すれば、近代の芸術家の中でこのような能力を持っていた人物は、ジャン・コクト―マックス・エルンストにその例を視る事が出来るかと思う。

 

 

昨今の表現の世界は、インスピレ―ションの閃きを想わせる作品を殆ど見かけなくなったが、何か美の本質から外れて、軌道無しの衰退の一途を辿っているような傾向が特にある。一言で云えば、幼稚な衰弱への一途、その感があるのである。

 

 

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『全生庵で幽霊画を観ながら考えた事』

私が親しくさせて頂いている富蔵さん(本名・田代冨夫さん)は、金属や硝子に関する技術に長けた超技巧の持ち主で、時にロマンティシズム漂う不思議なオブジェも作られる。最近作は写真家アジェが撮したパリの古い街角の建物を真鍮で立体化して再現し、その精密さと着想の妙に私は驚いた。

 

……先日、その富蔵さんと日暮里で待ち合わせ、共に谷中にある全生庵という古刹で展示開催中の幽霊画を観にいった。その日も蝉時雨の鳴く暑い午後であった。……全生庵は幕末の剣客・山岡鉄舟を開基とする臨済宗国泰寺派の寺で、幽霊噺を得意とした初代三遊亭円朝が生涯収集した100点以上の幽霊画を所蔵しており、夏の一時期に限って、円山応挙、河鍋暁斎、伊藤晴雨……などの作品を展示して一般に公開しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……私は以前にも何回か来ているが、富蔵さんは意外にも、この寺は初めてだと言われ熱心に観ておられる。その富蔵さんを見て、今日一緒に来て良かったと私は思った。……今回、私が幽霊画の中で一番気に入っているのが展示されてなくて残念だったが、それは責め絵の画家で知られる伊藤晴雨の作品で、静まった草むらの中に朽ちた鎌が落ちていて、その錆びた刃先に女性の細い髪の毛が数本、妖しく絡まっている作品である。幽霊画は直喩よりも、むしろ気配などの暗示の方がはるかに怖い。……私はそう想うのである。…………そして私はふと思い出していた。今から30年ばかり前に実際に体験した、あの時の事を。…………

 

私の大学の先輩で石井健二さん(現・徳島大学名誉教授)という人がいる。当時は東京芸大美術学部の写真センタ―で、石井さんが助手をしている時であった。その頃、私は独自で日本ではまだ未知の銅版画写真製版技法であった「カ―ボンティッシュ」に一人で取り組んでいた。取り寄せた海外の技法書を訳しながら頑張っていたのであるが、真空密着の装置がないとこれ以上は出来ないという壁に突き当たっていた。窮したあげく石井先輩に電話をすると、その技法に興味を覚えた石井さんは「じゃ、芸大の写真センタ―にいるからおいでよ」と言われ、私は行き、それから二人の研究、試作の日々が始まった。さすが国立、私が必要としていた設備が揃っていて素晴らしい。……最初に行った日の夕方、奇妙な事に気がついた。学生達が帰って行く時、私達に「さようなら」ではなく「……お気をつけて」と言うのである。石井さんに訳を聴くと「まっ、いずれわかるよ。」と言って言葉を濁す。センタ―内をよく見ると、至る所にかなりの数で「お札」が貼ってある。石井さんは学究肌の人で、暗室に度々籠ってあまり出て来ない。その内、私は自分がする作業に熱中し、それは気にならなくなっていた。……何日目かの夜、試作が深夜に及び、徹夜をする事になった。試作はしかし、二時頃に終わったので、石井さんは研究室の寝床に行き、私は広い作業場の床に寝袋を借りて休み、……やがて眠りに落ちていった。

 

寝袋を被ったまま寝ているので真っ暗であるが、……先ほどから私の周りを歩くカツッ、カツッ、とした靴音の響きで目が醒めた。その靴音は今の時代の靴音の響きではなく、例えば軍人の履く、靴底に鋲を打ったあの革の硬い靴音の響きを直に想わせた。……誰だ!?先輩か?と不審に思い、手を内側のチャックのつまみに持っていき一気に開き、辺りを見回した。……しかし、広い室内(真っ暗な)に人影はなく、しんと静まりかえったままである。さすがに異変を感じた私は、石井さんの部屋を開け、寝ている石井さんを揺さぶって起こした。……「その靴音なら、知ってるよ。徹夜の時は毎晩だから、それより、まだ夜中だから北川もまた寝た方がいいよ!」。……しかし、寝れる筈もなく、私は先ほどの部屋に戻って灯りをつけ、朝まで目を光らせて何者かの再びの出現を待った。……朝になり、石井さんに話すと、面白い逸話(来歴)を話してくれた。それに拠ると、昔、このセンタ―付近は彰義隊と官軍との乱戦の場所であり、多くの死者が出た場所だという。「しかし、私が聴いたのはあきらかに軍人の靴音でしたよ」と言うと「戦争の終わり頃に、この芸大は確か陸軍の師団の宿舎であり、何人かが集団自決した場所だから、そっちの方が出たのかも知れないね。北川が聴いたその靴音は、僕も何回も聴いてるよ」と石井さん。……その日の昼前にセンタ―長のSさんが来られたので、昨夜の体験を話すと、Sさんはここの暗室で最近不気味な体験をしたと言う。古美術研究で奈良の仏像を撮影した学生達が暗室で現像をしていた。すると、その暗室から突然何人もの叫び声がしたので、Sさんが注意をしに入ると、学生達が恐怖に怯えながら、現像中のプリントを指差した。それを見て、Sさんは愕然とした。現像液の中に沈んでいるそのプリントには、確かに奈良の寺で撮した仏像が映っていた。しかし、その仏像と二重重ねになって人の顔が映っていた。その人物は最近亡くなったSさんの知人で、学長選に落ち、地方に赴任したその先で亡くなった人なのであった。

 

……そして2日後に、更なるもう一つの異変が起きた。その日は撮影の日であり、私は石井さんと一緒に広いスタジオの中で撮影の準備をしていた。石井さんはカメラの準備をし、私は被写体の花瓶を置くテ―ブルの床の位置を示す為、座り込んでチョ―クでその位置に印を付けていた。「頭、頭、気をつけて!」石井さんが言ったのか誰か?は知らないが、何処からか聞こえたその声に「大丈夫ですよ……」生半可な返事をした瞬間、頭に猛烈な激痛を覚え、私は倒れこんでしまった。……天井に吊ってあった撮影用の重い黒布を巻いた鉄の重いパイプが、正に私の頭上めがけて落下して来たのである。頭の後ろ側に当たったのでまだ良かったが、真上だったら即死だった可能性もある、それほどの重い鉄のパイプであった。……石井さんが慌てて私を抱き起こしたが、既に頭からは血が噴き出しており、側の洗面所で見ると顔までが真っ赤な鮮血に染まっていた。しかし私は馬鹿だった。何故か野生の熊に自分を重ね、そう言えば手負いの熊も病院に行って治したという話は聞かないし、治療費も無いし、病院に行かずとも、傷口はやがて塞ぐと思っていたのである。その日からどれくらいが経ったのか。アトリエで電話中に突然体がひんやりとし始め、急に悪寒が全身を襲った。私はさすがにまずいと思いタクシ―に乗って病院に駆けつけた。……医者は私の頭を見て、「馬鹿者!!なぜこうなるまで放っていたんだ!もうちょっと来るのが遅かったら腐敗した菌が脳に入り、お前さん死んでいたぞ!!!」と烈火の如く怒られ、緊急手術で、私の頭は包帯が何重にも巻かれ、あの『耳を切った自画像』のゴッホの絵のようになってしまった。……その後、芸大を出た人達に訊くと、みな一様に「あの写真センタ―だけは、度々、足音や人影、または怪奇としか云えない現象が頻繁に起こり、誰も近づかない有名な場所ですよ」と話してくれた。

 

上野戦争、更には敗戦時の集団自決……。しかしそれは遠い昔の悲劇だというのに、何故、彼らは私達の「今」と交差して、この三次元に現れるのであろうか。私の周りを苛立つように歩いた、あの靴音の主には、果たして私の存在が見えていたのか否か。時間は観念だけで、実際には存在しないという説もある。例えばここにA4大の紙が在るとして、その左端にA、右端にBという文字を書くと、そのAB間の距離は約30cm。この左右の距離を終戦時(1945年)と現在(2020年)の時間距離(つまり今昔)と考えると、その間75年。しかし、中心に折り目を付けて折ると、左右の間に距離は無くなり、AとBはピタリと重なって来る。……この左右を折るという一つのモメントのアクションが、アインシュタインが提唱した「時空間には捻れがある」という意味と重なって来るのでもあろうか。……さてその後、私には、1988年の春の花見時に京都の先斗町で遭遇した、いわゆる生霊体験と言うのがあり、これはなかなか無い体験であるが、もはや1回のブログの紙面が尽きたので、これはまたの機会に書くとしよう。

 

 

…………………… そんな昔の事をぼんやりと思いだしながら、富蔵さんと一緒に全生庵を後にして、根津の方角を目指して蛇道に行き、以前のブログで書いた太平洋美術会研究所の、最初に在った五軒長屋という場所を探した。……中村彜、松本竣介、長沼(高村)智恵子達、各々の時代を生きた、嘗ての日本美術史に意味あるその場所は、なかなか見つからなかったが、富蔵さんの粘りある情熱によって助けられ、遂に現場跡に辿り着けたのであった。その後、私は富蔵さんにかき氷をご馳走になった。……私は、これから日暮里に戻られるという富蔵さんと別れて、暑さで逃げ水さえ立つ弥生坂を上がり、東大の構内を抜けて本郷三丁目駅を目指して、なおも歩いた。そこに私を待つデザイナ―のK氏がいて、私に相談があるらしい。相談に乗るのは構わないが、その日の私は暑さでほとんど思考停止の状態であった。……コロナ禍に加えて今度は熱中症、更には地震や台風が私達を待っている。令和になってから何故か加速的に断末魔的な様相に世界がなっている。正に「地獄とは、この世の事と見つけたり」の感である。今日観た幽霊画は、そんな中での叙情的な懐かしい、一幅の涼にさえ、私には思われたのであった。

 

 

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『二つのコレクション展開催中』

現在、私の作品を含むコレクション展が、福島と東京で開催中である。1つは福島県立美術館で開催されている『もうひとつの日本美術史―近現代版画の名作2020』展(8月30日まで)。明治から平成にかけての版画の名作約300点を網羅した大規模な展示であるが、版画を文脈として、近現代日本美術史を編み直そうという試みの由。作品は複数の美術館のコレクションから成っている。……山本鼎、青木繁、岸田劉生、竹久夢二、田中恭吉、恩地孝四郎、長谷川潔、川瀬巴水、…そして、1月からブログでも連載した藤牧義夫、……谷中安規、棟方志功、浜口陽三、駒井哲郎、池田満寿夫、加納光於、……そして私ども現代に至る、正に俯瞰的な内容である。私の版画は『午後』が展示されている。この作品は22才の学生時に制作した作品で、制作時の事が思い出されて懐かしい。三島由紀夫の短編小説『真夏の死』の冒頭のエピグラフにあったボ―ドレ―ルの『人工楽園』の一節、「夏の豪華な真盛の間には、われらはより深く死に動かされる」という文章に触発され、ならば、自分なりの絶対の静寂の時間―停止した永遠の午後を立ち上げてみようと挑んだ作である。この作品は、現代日本美術展でブリヂストン美術館賞を受賞し、幾つかの美術館が収蔵しているが、今回は、和歌山県立近代美術館が収蔵している『午後』が展示されている。送られて来た図録を見ると、版画史に於ける自分の立ち位置が客観的に見れて面白い。本展は福島の後は、9月19日から11月23日まで、和歌山県立近代美術館で巡回展が開催される予定。

 

 

 

東京でのコレクション展は、千代田区麹町にある戸嶋靖昌記念館で2021年1月16日まで開催中の執行草舟コレクションによる『青き沙漠へ―新たなる出帆展』である。この館の館長でもある執行さんの膨大なコレクションは主に安田靫彦戸嶋靖昌の二軸から成っている観があるが、多方に渡るコレクションの全容は私も未だ掴みきれていない。……この展覧会では、私の版画『study of skin Rimbaud』と『バジリカの走る雨』以外に、執行さん所有の数多あるオブジェ収蔵作品の中から、本展の主題に合わせて選ばれた5点とコラ―ジュが展示されていて、他の作家の作品と共に、静謐な空間の中で、美しい調和を見せている。執行さんは、若冠10代の半ばにして三島由紀夫と出会い、その才を認められ、三島の死まで深い交流を交わした早熟の人であり、その直感力の鋭さは他に類が無い。私の個展時には、一陣の風のように突然現れて、忽ちの内に共振する作品を選別してコレクションしていかれるのであるが、「蒐集もまた創造行為である」という言葉を体現するかのように、私の作品を選別していく時の早さは実に速く、その時は会場内が張り詰めた緊張感に包まれる。その鋭さの感、春雷の如しである。川崎にある執行さんの事業の製造・研究部門の(株)日本菌学研究所には私のオブジェ作品が多数、常設展示されているが、本展と同じく事前の予約で見学可能。……詳しくは戸嶋靖昌記念館までお問い合わせ下さい。

 

 

 

 

 

 

 

戸嶋靖昌記念館

東京都千代田区麹町1丁目10番 バイオテックビル内

日・祝休み、平日11.00―18.00開館・ 要電話予約 TEL03―3511―8162(直)

 

 

 

……先日、人々が熱中症でバタバタと倒れていった猛暑の真昼時に、10代の時から強い影響を受けた二人の画家、佐伯祐三中村彜のアトリエを見に目白の下落合に行った。佐伯の突出した才については最早言わずもがなであるが、同じく結核で夭折した中村彜の恐ろしき天才性についてはあまり気づいた人は少ないか、或いは皆無かと思う。彼は、その初期にレンブラント、次にモネ、ルノワ―ル、セザンヌ……と、その画風の影響を直に受けて様々に変貌しているのであるが、その恐るべき点は、彼らの画風の影響をもろに受けながらも、彼らに近づきその模倣の域に淫するのではなく、忽ちの内に中村彜自身の内にそのエッセンスを取り込み、消化して完成度の高い中村の作品にしてしまっている点にあり、その消化力の見事さは日本の近代美術史上に殆ど類が無いと言っていいだろう。これに比べればシュルレアリズムの影響を受けたと意味付けされている福沢一郎、北脇昇達の未消化の様はあまりに表象のみに止まり、問題の多くを残している。……中村彜は、前前回のブログで書いた、私が或いは入っていたかもしれない太平洋洋画研究所で学んだ事もあり、アトリエ内にその頃に撮った写真も展示されていて面白かった。佐伯と中村のアトリエは近く、この下落合には当時多くの画家が住んでいて交流があったが、その点は忘却と化して既に久しい。佐伯、中村共に夭折はしたが、しかし作品は遺っている。私は久しぶりに佐伯、中村に近づいた事で、10代のひたすら描く事に集中して、その原初的な悦びの中にいた自分を思い出していた。……そして暫くいた後に横浜のアトリエに戻っていったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『谷中幻視行―part②』

蝉のかまびすしい鳴き声に、ようやく梅雨があけたかという感がある。しかし、七月の長雨にはもはや私達の知っている、あの梅雨の風情などはもはや無く、唯の異常な狂い雨である。テレビに映される最上川の凄まじい氾濫や、押し迫る濁流に退路を断たれて孤立する数軒の家の画像などを見ると、江戸期に詠まれた俳聖達の名作の句も、今読むと、緊迫した実況中継の一場面に見えて来るから恐ろしい。……「五月雨を/集めてはやし/最上川」(芭蕉) 「さみだれや/大河を前に/家二軒」(蕪村)。……蕪村にはまだある。 「春雨の/中を流るる/大河かな」  「さみだれや/名もなき川の/おそろしき」

 

……さて、前回の続きで墓地である。墓地はいい。生者と死者の魂の交感の場であり、やがて訪れる死への覚悟といったものが柔らかく固まってくる。……そして今日は前回の続きで、谷中の墓地に足を運んだ。この墓地は著名人の墓も多く、毒婦とよばれた高橋お伝、徳川慶喜、朝倉文夫、円地文子、鏑木清方、森繁久彌、立川談志、横山大観、長谷川一夫、渋沢栄一、色川武大…………と、きりがない。私の知っている人もこの墓地に四年前から眠っている。彫刻家朝倉文夫の次女で、舞台美術家の朝倉摂さんを姉に持つ、彫刻家の朝倉響子さんである。響子さんは、私が24才で開催した初めての個展に、関根伸夫さん達と共に来られ、その場で波長が合い、以来長いお付き合いをさせて頂いた年長の友であったが、今は朝倉文夫が夫妻で眠る大きな墓に姉の摂さんと一緒に眠っている。その一家を撮した趣のある写真があるので掲載しておこう。左が摂さん、真ん中が朝倉文夫、そして右が響子さんである。

 

 

 

 

……谷中の墓地は実に広い。私はずっと気になっていた、一警察官の過去に纏わる或る事を確認したい事があったので、高橋お伝の墓の側にある派出所を先ずは目指して行った。しかし、中に警察官がいなかったので、その前に、この墓地に眠っているという「島田一郎」という人物の墓を探したが、これがなかなかにわからない。墓の番号は事前に調べてわかっていたが、区域が甲乙丙各々に分かれている為に、これがなかなか見つからない。先ほど挙げた著名人と違い特殊な人物なので、もはやお手上げか……と思ったその時に、目の前に、墓の案内人とおぼしき年配の男性が、まるで待っていたかのように、すっと現れた。「おじさん、島田一郎の墓は知ってますか?」と問うと「あぁ、知ってるよ。じゃ案内するからついて来るかい?」と、私の先を歩き出した。……私が言う島田一郎とは、明治11年5月14日に大久保利通を紀尾井坂近くで暗殺した刺客六人の内の主犯で、西郷隆盛の心酔者である。……「俺もここで、墓を訪ねてくるいろんな人をずいぶん案内したが、島田一郎を訊いて来たのは、あんたが初めてだよ」と言い、「島田一郎は確か鳥取の藩士だったかな?……」と間違った事を言うので「いえ、彼は加賀藩士です」……と私。まだ墓は先らしく、「おたく、あれかい?……訳ありの人かい?」といささか伝法な口調で訊くので「いえいえ、ごく普通の一般人です!」と私。……目指す墓は、横山大観の墓の裏側の葉陰に、他の5人の実行犯と共にひっそりとあった。案内の人に礼を言って、私は暫し、ずらりと並ぶその六基の墓を見回し、紀尾井坂の変当時の光景を想像した。……以前に宮内庁内で、大久保利通が災難時に乗っていた実際の馬車が展示された時があったので見に行った事がある。島田達の暗殺計画は実に巧みで、先ず馬の脚を切り、次に馬車の馭者を刺殺してから、六人で大久保利通に斬りかかった。大久保の最期の言葉は「無礼者!!」であったという。……大久保が敷いたあまりに急速な欧化路線でなく、西郷が考えていた農本主義で、もしこの国が歩んでいたならば、全く別な、少なくとも精神的にはかなり豊かな日本があったかと私は思っているが、如何であろうか!?ともあれ、西郷と大久保という、この二人の巨人の相討ちによって、この国の歩みは歪みを呈していった事は間違いない。

 

 

 

 

 

 

 

……次に派出所前に戻ると、やはり中に警察官はいなかった。……仕方がない。まぁ、詳しく訊くのはまたの後日として、私は広い墓地をひたすらに眺めた。………………話は変わって、今から30年ばかり前に鎌倉の海岸近くで交わされた、或る二人の人物たちの会話に話が移っていく。一人は絵画の修復の名人Tと、今一人は画家のKである。KがTの作業場を夕刻に訪れると、未だ弟子達が残っていた。先生!……とTはKの事をよぶ。Kはそう言われるのはあまり好きではなかったが弟子達への立場を知っているので、そう呼ばせていた。……弟子が帰っていくや、TはKの目を見詰め、一転して「Kちゃん!!」と親しく呼んだ。二人は古くからの友人だったのである。Tは他に誰もいないのにKに向かってひそひそ声で「Kちゃん、いい物を見せてあげる!」と言うや、二階から2冊のアルバムらしき物を抱えて持って来て、おもむろに開いた。「どうせ家族の成長記録だろう」……Kがそう思って見ると、それは全頁が、墓地の至る所で展開する、昔の男女カップルの隠し撮りの写真、写真……であった。「どうしてこれが!?」と問うと、Tはその訳を話し始めた。…………ある日、Tが銀座を歩いていると前方からヤクザらしき男が歩いて来た。Tはその男に古い見覚えがあって、「まずい!」と思った。Tは中学時代に番長で、眼前から来るそのヤクザの男は、今と違い病弱ないじめられっ子であった。男もまたTの事を覚えていて、「ようTじゃないかぁ、久しぶりだなぁ」と言い「昔はずいぶん世話になったから、今度、御礼を送るよ!」と言って、住所を訊いて来たので、Tはそのままに教えた。……別れた後から「しまった」と後悔した。いわゆる御礼参りという仕返しを内実怖れたのであった。……しかしそれはただの杞憂で、後日送られて来たのは2冊のアルバムであった。「それがこれ!!」と言い、話すTは嬉しそうにKの顔を見た。そして、アルバムと一緒に入っていたヤクザの男が記した、アルバム入手前の或る男(つまり、その写真の撮影者)について書いてあった手紙の内容を詳しくKに話した。……話に拠ると、その撮影者は、谷中の墓地を巡察して不審者を取り締まる警察官であったが、その警察官自身があろう事か、カップルの秘事を隠し撮りする人物であった由。つまり絶対に捕まらない構図なのである。派出所を移って出世の話が来ても、その警察官は「いやぁ、私はここで……いいですからぁ」と言い、出世の話も拒んで、平の一警察官として生涯を終えたらしく、その退官記念に自身の生きた証し(?)として、写真を焼き増しして何冊かのアルバムにして遺したのだという。……「それが、これ!!!」と言い、回りに誰もいないのにKの耳許に近付いて小声で「Kちゃんにあげるから、気に入ったのがあったら5枚だけ選んで!!」と言ったので、Kもまた折角の話と思い、厳選してアルバムから5枚だけ選んだ。……この少年同士の悪巧みのような会話、ちなみに言えば、この話に登場するKとは、私の事である。……かくして私のアトリエの中にその写真5枚が今もあるのである。

 

 

 

 

 

 

……北原白秋に「墓地」という詩がある。「墓地は嗟嘆(なげき)の、愛の園、また、思ひ出の樫の森。/墓地は現(うつつ)の露の原、また幽世(かくりょ)の苔の土。/ 墓地は童の草の庭、また、あひびきの青葉垣。/墓地はそよ風しめじめと、また、透き明る日のこぼれ。」

 

……「また、あひびきの青葉垣」の垣根越しに、この警察官は生涯、シャッタ―を切りまくった訳である。……では、この詩に登場する墓地とは何処なのか!?……実は北原白秋は前述した、谷中墓地間近にある朝倉文夫の家(現在の朝倉彫塑館)の隣に家があり、その朝倉文夫の家の向かい隣に幸田露伴が住んでいた。……つまり、この詩に登場する墓地は谷中墓地の事であり、撮された男女の服装から察して時代的、時系列的に見ると、この警察官と北原白秋はほぼ同時期に、この谷中墓地で同じ空気を吸っていた観があるのである。……そしていつしか、もちろん名も知らぬ、この警察官の一生に私は強い興味を懐いている。……「窃視症」なる者は、勿論この男に限らずたくさんいて、それは文学にも深い陰を落としている。……川端康成、永井荷風、江戸川乱歩、寺山修司……。特に荷風の場合はそれが高じて、自分で男女の待ち合いの建物を作り、また川端康成の場合は、更に高じて、視線のエロティシズムは『みずうみ』などの作品に見る、危ういネクロフィリアにまで達している事は周知の通りである。また海外ではデュシャンやコ―ネルにもその例はあり、詳しくは拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)を読んで頂けると有り難い。……とまれ、私はまた折りを見て谷中墓地に行き、派出所で警察官に幾つか問う事があるので、このコロナ禍の中ではあるが、出掛けてみようと思っている次第なのである。

 

 

 

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『谷中幻視行―part①』

……二月頃から、アトリエに籠ってオブジェの制作の日々が続いている。しかし、発想の転換や充電も兼ねて、時折は行きたい所に出かけてもいる。ここ連日続いていた長雨がその日は止んだので、これ幸いとばかりに日暮里から下車して谷中への散策をする事にした。……日暮里は、「日暮しの里」という言葉が語源である。その名が示すように夕焼けが美しく、震災前までは、この高台からはかつては素晴らしい眺望が見えたらしい。蛍が出て、この地から根岸にかけては多くの文人墨客が住んでいた。

 

さて、日暮里駅を出て御殿坂を上がるその途中に、すぐに本行寺(別名・月見寺)という大寺がある。小林一茶も句を詠んだこの古刹には、先ずは目指す永井尚志(若年寄)の墓がある。幕臣中随一の切れ者であり、大政奉還の上奏文を書いた人物である。しかし、とてつもなく広い墓地なので、その場所がわからない。……「御免下さい」と言って寺内に入り、奥から出て来たご住職に問うと、塀沿いの最奥がその墓であるという。「永井尚志の子孫に、永井荷風と三島由紀夫がいますね」と言うと「そうです。この三人は繋がっています」との返事。「何故、永井の墓がこの寺にあるのですか?」と問うと、「この寺の開祖が初代江戸城を築いた太田道灌で、永井はその子孫になります」との答え。……と言う事は三島由紀夫、永井荷風の先祖が太田道灌に結び付く訳で、これは知られざる「ファミリーヒストリ―」として勉強になった。ちなみに言えば,藤原鎌足にそのルーツが辿り着く。……ご住職は、私の質問に響くものがあったのか、帰り際に茶菓子を「持っていきなさい」と言って手渡してくれた。……令和の今と隔絶して江戸・明治の時間が止まったままのような深い趣のある古刹である。

 

 

 

……その隣の寺が経王寺。幕末の上野戦争で彰義隊の分屯所があった場所であり、その史実を映すように、入口の山門には官軍が撃った弾痕がいくつか生々しく残ったままである。穴に指を入れると、中指が丁度すっぽりと入ったので、それから官軍が撃った弾の大きさが見えてくる。

 

さて、その隣が延命院。樹齢六百年という椎の木を見ながら本堂の方に進むと、目立たない右陰にひっそりと建つ古い墓が一つある。墓の主は「行硯院日潤聖人」。享和の初め頃に、江戸城の奥女中や商家の内義、その数およそ60人以上……を惑わし、祈祷と称してかなり淫らな色事に耽ったという悪僧、いわゆる延命院事件の主役、住職日潤の墓である。やがて寺社奉行の捜査が入って露見、後に死罪となっている。この事件は後に河竹黙阿弥の『日月星享和政談』で芝居にもなった由。……前回のブログに書いた怪僧ラスプ―チンや道鏡、また以前のブログで書いた鎌倉尼寺の尼ばかりを狙った怪僧と言い、困ったものであるが、まぁ話としては面白い。その墓をじっと見た後で写真を撮る。……「夕焼けだんだん」を下って、谷中銀座の蕎麦屋で、谷中の名物と言えば谷中生姜なので、生姜、海老の天麩羅が入った蕎麦を食べ、最も気になっていた次の場所へと向かった。

 

 

 

延命院と経王寺の間の路を石塀に沿って歩く。長谷川利行、いずみたく、橋本関雪……達が住んだ路を、その先、諏訪神社の方に私が目指す「太平洋美術研究所」があった筈なので、その跡地を目指して進むと、幻覚なのか、……「太平洋美術研究所」の看板がありありと見えて来たのには驚いた。……実は、この「太平洋美術研究所」、美大に入りたくても貯えがない家庭に育ったので、美大を諦めて、ここに入ろうかと真剣に考えていたのが16才の高校生の頃であった。あの頃は中村彜や佐伯祐三にのめり込んでいた時期である。…………しかし、この太平洋美術研究所は明治の初期は、黒田清輝の白馬会と洋画界を二分する存在であり、初期の学生に坂本繁二郎、朝倉文夫、川端龍子、後に中村彜、中村悌二郎、……長沼智恵子(後の高村智恵子)などが学んだ研究所であり、私の狙いはそれほど間違ってはいなかった。ただ、あまりに時代の読みを間違っていた。……なにしろ、東京の国立という地名を知らず、夏期講習会のチラシを見て、国立(くにたち)美術研究所を、「こくりつ」の研究所と思っていた、そんな具合なのであった。もうとっくに無いと思っていた建物が、まるで私を待っていたかのように、幻のように眼前に在るのを見て、私は感動してしまった。……もし親が美大行きを許可しなかったら、私は上京して谷中近辺に下宿をして、ここに来た可能性が多分にあったのである。玄関のチラシを見ると、「高村智恵子が描いたデッサンが二点発見さる!!」と書いてあり、私はしげしげと見入った。……そして、扉を開けて中に入ると、奥から絵描きらしい人が出てきたので、「実は、昔、ここに入りたかったのですよ!」と言うと、「今からでも入れますよ!」と親切に言ってくれて、「二階が雰囲気があるので、良かったらご覧になりませんか?」と言って二階に通された。扉を開けて驚いた。松本竣介も時おり来て描いていたという、戦前の面影を残したままの画室がそこにあったのである。

 

後で帰ってからじっくり森まゆみさんの本を読むと、果たしてその画室の事が書かれている文章を見つけた。……「古びた灰色の建物の中を、ギシギシいう木の階段を上り、そうっとドアを開けると、薄暗い画室で何人かがキャンバスに向かっていた。O.ヘンリ―の『枯葉』を思わせる、油彩の臭いが漂う独特の雰囲気がある場所である。」と書いてあった。……帰りに、もう1度、その絵描きらしい人が「良かったら、是非!……いつでもお待ちしていますので!」と言って、案内の要綱を詳しく書いたチラシを渡してくれた。……歩きながら私は考えた。……もしここに入っていたら、後の私の人生は果たしてどうなっていたであろうか。……ほんのちょっとのモメントや偶然で、人の一生なんて大きく変わってしまう。……だから人生は面白いのだと。

 

さて、私が次に向かったのは、今日の本命の谷中墓地である。……私は以前から、この墓地の中を自転車に乗って、時に風のように飄々と。また時に、周りの誰も知らないもう1つの全く別な顔をして鋭い目付きで人生を送っていた、一警察官の足取りを追っていた。それを今日は詰めに来たのである。……その為に、私は墓地の中に在る派出所にも行かなければならないのであった。

 

…………次回part②に続く。

 

 

 

 

 

 

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『ラスプ―チンの忘れ物』

……先日、谷崎の『細雪』や、川端の『雪国』などの翻訳で知られるサイデンステッカ―の著書『東京下町山の手』を読んでいたら面白い事を知った。幕末の1858年頃から感染が広まったコレラ(通称コロリ)は、当時、長崎港に停泊していたイギリスの船から広まった由。今年2月に新型コロナウィルスの感染者を多数乗せて、さ迷える幽霊船のように横浜港に長期停泊していたクル―ズ船と同じパタ―ンであり、やはりイギリスの船であった。まさに歴史は繰り返すを地で行く話である。……さて、その幕末のコロリの流行であるが、当時「試衛館」という剣術道場を経営していた道場主の近藤勇はハタと困ってしまった。コロリの為に入門者が途絶えてしまい経営が行き詰まってしまったのである。周りは次々と感染者が出て、死者が絶えないのであるが、不思議な事に、この道場の食客としてごろごろしていた、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助……達、天然理心流の凄腕の連中(後に新撰組の原型となる)は全く感染する気配もなく、ただ、この後、どうやって食べていくか?……だけを憂いていた。あくの強い連中には、コロリ菌の方から避けていたような節がある。そして彼らは、徳川家茂の上洛警護をする幕府の「浪士組」募集に応募し、活路を求めて京都へと向かった。……やがて、京都でこの連中から暗殺される運命にあった、あくの強さと強烈なキャラを兼ね備えていた芹沢鴨(水戸藩浪士・後に新撰組初代筆頭局長)もまた活路を求めて運命の転げ坂を辿って、地獄へ引き寄せられるように京都へと向かった。……その後の顛末は読者諸兄のご存じの通りである。

 

…私は覚えている。……あれは私が18の暑い夏であった。美大に入った私は、ふと西陣織の職人にでもなろうかと思って大学の夏休み時に京都へと向かった。……しかし、駅に着いて私が直ぐに向かったのは何故か西陣ではなく、壬生であった。この地に残る新撰組発祥の地、彼らの宿舎(屯所)が今もそのままに遺る八木源之丞邸を見に行ったのである。その当時は今のような新撰組ブ―ムは未だ無く、訪れる人もさほど無く、また屋敷は非公開の為に門が閉まったままであった。……歴史好きな私は熱い感動のままに大きな屋敷の周りをぐるぐる廻っていた。……すると、門が突然開き、中から八木家の子孫とおぼしき初老の方が出てくるところに偶然遭遇した。一瞬閃くものがあり、「……私はまだ学生ですが、大学で幕末の歴史を頑張って研究しています!」と言った。(もちろん、美大に幕末史の講座などはない)……すると温厚そうなその方は「もしよろしおしたら中に入りませんか?」と気軽に言ってくれて、私を八木邸の中へと導いてくれた。〈私は肝心な時に、こういう人との導きのような出会いが実に多い〉……100年以上もずっと非公開の為ゆえか、広くて薄暗い屋敷の中は幕末の頃の空気がそのままに残っているような張りつめたリアルな気配に充ちていた。……「そこの火鉢、土方はんや沖田はん達が、寒い冬の日に囲んでいたそのまんまや言うてました」……幾部屋かを巡って離れに行くと「ここで、この文机に芹沢はんが躓いたとこを斬られたんですわ」。「この鴨居にも、こんな深う刀傷が付いてますやろ」……私は「…確か、お梅(芹沢の愛妾)も一緒でしたね」と言うと、ご当主の八木さんは手応えを覚えて熱が入ったらしく「可哀想にお梅さんは、たぶん沖田はんや思いますけど首をはねられましてな、昔はこの天井にそのお梅さんの血が噴き上げて、えろうぎょうさんかかってしもうて、まぁその後もずっとそんままでしたが、来た嫁がえろう気持ち悪がって、仕方おへんから弁柄(べんがら)で塗ってしもたんどす」。……「一緒にいた芹沢の仲間の平山(五郎・通称めっかちの平山)はんは斬られましたが、まぁ運が良かった言うんでしょうなぁ、野口、平間いう人は真夜中に芸妓と一緒にここから走って、畑の向こうに消えていったと聞いてます」。……私は深夜に畑の向こうに必死で逃げていく野口健司(のちに切腹)、平間重助、そして災難に巻き込まれた芸妓の必死な姿がリアルに透かし見えるようであった。…………さて芹沢鴨、この京都で暴れまくった性豪列伝に載るような男の名を聞くと、私はそのあくの強さから、したたかな免疫力のごときものを持ったタフな男の名をそれ以前の歴史の中に想い浮かべるのである。……奈良時代の女性の天皇「孝謙天皇」。その孝謙天皇が病に臥せっていた時に加持祈祷を行って接近し、その寵愛を受け、ついには「法王」の座にまで出世した男である。道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った「日本三悪人」として平将門・足利尊氏と同列に並ぶが、いわゆる性豪列伝を代表する人物として今にその名を残している。

 

……しかし、道鏡の上を行く人物がロシアにいた。……ご存じ、帝政ロシア末期の祈祷僧……ラスプ―チンである。ラスプ―チンの生涯は前述した道鏡に似ている。ニコライ2世の皇后アレクサンドラと血友病の皇太子の治療と称して宮廷に入り込み、アレクサンドラの寵愛(愛人説が高い)を受けて、ロマノフ朝を影で操る怪僧となり帝政は乱れ、後に二月革命が起きて第二次ロシア革命へと至るのである。……退廃するロマノフ朝の皇族三人がラスプ―チンの暗殺を謀り、私邸に招き入れ、青酸カリ入りのケ―キを食べさせ、毒入りのワインも飲ませたがラスプ―チンが平然としているので、次にピストルで何発も撃ち込んだ。……ようやくぐったりとなったラスプ―チンを、近くの運河(氷が張って冷たい)に投げ入れた。やがて死体が上がって来て検死をして、再び驚いた。……なんと、ラスプ―チンの死因は意外にも溺死であった。…という事は、数発の銃弾を被弾してもまだ彼は死んでおらず、運河の冷たい水底でようやく溺れ死んだというわけである。……毒でも死なず、被弾しても死なない驚異的な抗体の持ち主ラスプ―チン。今のコロナ渦の時代に生きていたら、どのような姿がそこにあるのであろうか!?……突出した強力な抗体を持った人間の遺伝子を大量に殖やして新型コロナウィルスに対抗するという研究が進んでいると聞くが、もしラスプ―チンが今いれば、この化け物のような驚異的な生命力はかなり世界に貢献する事、大だと思うが如何であろうか。……今回は、現在サンクトペテルブルグの博物館に保管され一般にも公開されているラスプ―チンの性器のご紹介を持って、このコロナ渦関連のブログを終わろうと思う。……ちなみに女性たちが楽しそうに見学しているのが気にかかるが、もう1つ、ちなみにラスプ―チンの娘マリ―が父親の遺物のそれを返すよう博物館側に求めているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『狂い梅雨―身辺雑記篇』

1……最近は夜の10時頃に床に就くせいか、朝の目覚めがずいぶん早くなり一日がたいそう長い。習慣になっている朝のBBCワ―ルドニュ―スを観ていたら「あぁ、これはもう遂に!!」と思わせるひんやりとしたニュ―スが飛び込んで来た。……シベリアが温暖化の為に気温が異常に高くなり遂に38.0Cを記録したという。かなり異常な事である。ために永久凍土が溶け始め、厚い氷の中に封印されていた、あのかつて猛威をふるったスペイン風邪のウィルスが目覚めて再びの活動が活発化する危惧を呈しているという不気味な報道。……何の事はない、新型コロナウィルスを軍隊に例えたら、終には組みやすい唯の一個師団程度にすぎないと思っていたら、それは唯の尖兵に過ぎず、その後に陸海空の強力な編成部隊が私達へのとどめの陣を成しているようなものか。もはや是非も無しである。……昨今、活動が俄に目立ち始めた巨大地震の予兆、サイクロン並の暴風雨、そして変種を繰り返すウィルスの執拗な終わり無き襲来。…………その中の地震に関してであるが、最近面白い事を知った。作家の森まゆみさんの著書『谷中スケッチブック』に拠ると、東京の谷中だけが、関東大震災の際に倒壊した家が全く無く、また高台にある為に火災の延焼もなく、唯一の被災無しの場所であったという。確かに谷中は寺が多く、寛永寺の歴代将軍の墓を始めとして墓地が多い。察するに巨大な岩盤が地下に在り、江戸時代から人々は谷中の安全性を見抜いていたのであろう。あぁ谷中!……独身の知人が一人谷中に住んでいるが、その顔が余裕しゃくしゃくに見えて来て仕方がない。

 

2. 新型コロナウィルスの恐怖が浸透し始めて来た3月のこのブログで、私は731部隊との関連について書いたが、それから日を追った4月に週刊文春(文春オンライン)が731部隊について言及し、多数の感染者(クラスタ―)が出た上野台東区にある永寿総合病院の創立者・倉内喜久雄院長がかつての731部隊の所属部員である事が書かれており、「731のDNA」が繋がっている事の不気味な因果因縁を想った。ちょっとした近現代版の怪談話のようであり、小泉八雲よりは岡本綺堂あたりが筆をとりそうな話である。……4月中旬頃に上野に出たついでに、かつて少女時代の一時期をこの地で過ごした樋口一葉の旧家跡を訪ねて台東区車坂辺りを歩いていたら、彼方に件の永寿総合病院の大きな建物が見えて来たので、反射的に踵を返すように戻った事がある。……その数日後に濱町にあるギャラリ―に予定があったので伺った時に、画廊主のHさんから、初老の或る人物を紹介された。Hさんは私のブログを読んでおられたらしく引き合わせてくれたのであるが、何とその紹介された人は、父親が731部隊の生き残りの隊員であり、表に出ていない終戦に至る迄の秘められた話の幾つかを生々しく伺う事が出来たのであった。そして想った。……歴史は途切れる事なく繋がっているのだと。

 

 

 

 

3.……コロナ禍が騒がれ始めた2月初旬の頃、私が真っ先に思った事は「皆が突撃するように、新型コロナウィルスのどしゃ降りの雨下を掻い潜って先ずは〈抗体〉を作れば良いではないか!弱き者は仕方がない、兎に角それが終息の為の最短の良策だ!」と思い、周りの友人達に話すと、「あなたの発想は無茶苦茶だ!!」と反対された。しかし、その後で私と同じ発想をした人物がいる事を知った。ご存じ、イギリスの首相―ボリス・ジョンソン氏である。彼の意見は議会で当然反対され、そしてその後に提唱者の本人自身が感染し、一時はかなり重態化した時は、迂闊な我が身をそこに重ね見る思いであった。……古くからの友人で、舞踏家の土方巽の食客でもあった濱口行雄君(輪島市在住)に、電話でその話をしたら思いっきり笑われて彼はこう言った。「それは、あなたの発想が農耕民族でなく、遊牧民の発想だからですよ」と。……さすがに反省し、そして思った。「では、どうして亡くなる人と、コロナウィルスに気づかずに治ってしまう人の極端な二分化が今回は起きるのか?と。基礎疾患がある人が亡くなる率が高いが、基礎疾患の無い人でも急変して亡くなる場合があるという。やはり免疫力の違いなのか……。免疫力の強さと、ではアクの強い人間との間に関連はあるのか否か?……その辺りについて、次回のブログでは、幕末のアクの強い男の代名詞的な存在として先ず浮かぶ、壬生浪士(後の新撰組)の初代筆頭局長芹沢鴨(せりざわかも)について考えてみたいと思っている、梅雨時の少し湿った私なのである。

 

 

 

 

 

 

 

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『永遠の気晴らし―勅使川原三郎・遊戯の精神』

「……生と死はそっくり瓜二つであり、いまにも触れ合い同化しそうでいて、平行線のように交わることなくすれ違い続ける。最終的には、いつかはこの世は滅び、自分はあの世に行くだろう。百閒にとっては、それまでの遅延として営まれるのがこの生なのである。」……内田百閒の名作『冥途』について、わが種村季弘氏が評した言葉である。この遅延という倦怠的な言葉に沿った先には、例えば「遊びをせんとや生まれけん」(梁塵秘抄)のように、人はつまりは遊びを、戯れをするように生まれてきたのではないだろうか、その証拠に、子供の遊ぶ声を聞くと、自ら体が動いてしまうではないか。……という想いとなり、それを継ぐかのように、明治を生きた高等遊民達の気ままなデカダンス、つまりは唯美主義的な自在な生きざまが、このコロナウィルス騒動で萎縮し閉塞している時には、いっそう生の一つの意味ある生き方として羨ましく、かつ生き生きと見えてくるから面白い。

 

……さて、このような重苦しい日常の濁りを払拭するかのように、度々このブログでも登場の機会がある、ダンスの勅使川原三郎氏の『永遠の気晴らし』と題した公演が昨日から(6月20日まで)、荻窪の会場、氏の創作発表の拠点であるカラス・アパラタス(TEL.03―6276―9136)で始まった。『永遠の気晴らし』……今までの公演のかなり練られたタイトルと異なり、一見意外とあっさりしたタイトルに映るが、こういうタイトルの時にこそ、むしろ氏の才気は爆発し、美は御しがたい絢爛を呈する事を私は知っている。果たして、序はシュ―マンの緩やかな曲から始まり、次にハ―ドな現代の激しいテンポのサウンドへと転調し、更に展開する幾様にも異なる音のマチエ―ルと対峙して、変幻自在に異なる身体の妖しいまでの動きを呈し、遂には観客の五官を鷲掴みにして美の酩酊へと誘い、最後は鮮やかな幕切れの闇となって終幕した。デュオとして踊った佐東利穂子さんも凄みある動きを次々に見せて、この傑出した才人の無限の引き出しの多さをあらためて想わせた。正に二人による真剣勝負の美とポエジ―の屹立の競演である。

 

……ダンスにおいては、始まりも無ければ終わりも無い……というのが氏のダンスメソッドであるが、しかし毎回の演出における確かなフォルムの立ち上がりと完成度の高さは他に類が無いと言っていいだろう。分野を越えて昨今の表現者達の作品を見ると、この最も重要なフォルム化への強い意志がまるで無く、故に作品としての存在感を獲得していない。フォルムの獲得こそ、芸術の必須な骨格なのであり、全てだと言ってもいいものである。ではそのフォルムとは何か!についてはまた後日に詳しく書く機会もあるかと思うが、ともかく私はそれを美の規範として作品に向かっている。私が公演の度に時間を見つけて、荻窪のこのアパラタスの会場に足を運ぶのは、氏のダンス表現にそれを多分に視る事が叶うからである。フォルムの無い作品は、決まったように艶が無い。私が強く求めるのは、この艶というものである。……今回のコロナウィルス騒動で、私達の多くが、自分の人生の一回性というものをヒヤリと強く自覚した筈である。しかし、私達はやがて死ぬ。間違いなく死ぬ。……ならば冒頭に立ち返るが、美という、生命の根源に迫り、揺さぶり、私達の生を鼓舞してくれる表現に出来るだけ接して、その一回性の生に豊かな彩りを添えたいものである。……ダンスの分野を越境して既に久しい、このアパラタスでの公演。まだ氏のダンスをご覧になってない方にはぜひお薦めしたい、ポエジ―と直で触れ合える公演、それが今回の『永遠の気晴らし』である。

 

 

……さて、私は10月28日から11月16日の3週間に渡って開催される、日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの個展に向けて制作を粛々と続行中である。既に50点近くが完成しているが、アトリエに入るとその度に感覚が張り詰めて来て、私の生の最も充実した空間で「今」を生きている。ほとんど籠った日々なので、今回の公演で外出したのは本当に久しぶりである。『永遠の気晴らし』……私は久しぶりに強い「気」をもらい、またアトリエに戻って来たのであった。

 

 

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