作成者別アーカイブ: kitagawa

『わが制作の日々』

……先日、日本橋高島屋本店の美術画廊に行き、10月20日から 11月8日まで開催される私の個展『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』の案内状の2回目の校正を行った。美術部の福田朋秋さん、求龍堂の深谷路子さん、そして私の3人で意見を出し合って、作品画像の配置や、誤植の有無、色やサイズの修正などが行われ、修正案を深谷さんが会社に持ち帰って仮刷りが行われ、また集まって、というふうに校正はこれからも数回続き、決定稿が決まって、ようやく本番の印刷に入るのである。

 

……私は、個展とは期間限定の一種の解体劇であり、案内状を発送した瞬間から幻の劇場、つまり個展は始まっているという考えを持っている。案内状は、個展内容を要約した顔であり、序章のようなものである。だから高島屋美術部の案内状に対するこだわりと合致し、また福田さんや求龍堂の編集者である深谷さんがそれに熱心に関わって、共同で「個展」が次第に形となってくるのである。……私は今回の案内状に、シェイクスピアボ―ドレ―ル各々の一文を引用し、そしてオブジェに関する短い私見を載せた。

 

個展のタイトルである『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』が決まったのは、第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が完成してすぐの2月初旬頃であった。……いつもそうであるが、タイトルは苦労して考える事はなく、いつも一瞬で啓示が降りてくるようにして出来上がる。比喩的に云えば、この時の閃きを受け取る感覚は、あたかも神の私生児のごとくである。…………ただし閃きにいたる伏線はあった。ガラス透視考、フラグメント(断片、断章……)、ガラスの肌理のエロティスムへの錬金術的な変容、ロマネスク…… といった次のオブジェへのステップなる物をあれこれ混在してアマルガム的に考えていた後に、ある時(それはいつもと同じく寝覚めの瞬間に)、それが『迷宮譚―幻のブロメ通り14番地・Paris』というはっきりとしたタイトルとなって出来上がっているのである。おそらくは意識下では切磋琢磨して、もう一人の私が頑張って捻り続いていたのかもしれない。

 

(……そうか、次はこれだったのか!)と想う自分がいる。すると、次第に焦点が定まったイメ―ジの狩猟場である、パリに実在する〈ブロメ通り〉を幻の劇場として、その通りを迷宮と化し、およそ70点前後のイメ―ジの装置、つまりオブジェを放射的に立ち上げるべく、実際の制作行為へと入っていくのである。想像する事の遠心力を全開し、自分がパリに滞在していた時の実際の体験、更には俯瞰したパリの記憶、私小説的な現実、そこに幼年期の記憶、パサ―ジュの暗がりをブロメ通りに繋げて立ち上げる様々な幻想詩の言語と視覚による異なった叙述……。かくしてピカソが語った「芸術とは、幼年期の秘密の部分に属するものの謂である」や澁澤龍彦の「ノスタルジアとは芸術の源泉ではないだろうか」といった、芸術の本質を見抜けた慧眼者の言葉を追い風に受けて、アトリエの中での制作行為に沈潜していくのである。

 

 

……九月になり、アトリエにはたくさんの数の新作のオブジェが並び、最後の仕上げの段に入っている。……今回の案内状にも書いたが「オブジェとは、限りなく正面性を孕んだ謎の総称である」という私独自の考えが形となって、いよいよその出番を待っているのである。作者は二人いる。……私は作品を立ち上げたが、もう一人の作者は、作品を観て自在にイメ―ジを立ち上げ、終なき対話を交わしていく観者の人達である。……とまれ私は作品に『Montparnasse―郷愁の玩具』『三聖頌―ヴィ―ナスの夜に』『ジョコンダ夫人が登場する前に』『フォンテ―ヌブロ―の青の衣裳』……といったタイトルを付け、最後の詰めの仕上げに入っている。……タイトルは重要である。表現とは本質的には抽象的な存在であるが、クレ―がそうであるようにタイトルを介在として観る人は、未視を既視の感覚に換え、内なる感性にポエジ―の息の吹き込みを行為する。そして遠い記憶の原郷に遊び、観者はみな詩情を紡ぐ人となるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『今どきの寓話―美術番外編』

……亡くなった母から生前に度々聞かされた話であるが、私は産まれた時から体が弱く、2才の時に百日咳が悪化して、もはや死は間近に迫っていたらしい。運よく注射した薬が幸いして一命だけはとりとめたが、発達が遅く特に言葉の覚えが悪く、脳に障害があるのでは……と心配したらしい。……その私が3才の時に初めて口にしたのが、日本語ではなく、スペイン語の「バイヤ・コン・ディオス」という言葉であった。

 

この言葉は、ラジオ全盛時であった当時、海外から入って来た曲のタイトルで、日本人では江利チエミが歌っていた。彼女が日本語で朗々と歌いながら途中から転調するように急に流れてくる、この耳馴れない初めて聴く言葉『バイヤ・コン・ディオス』という意味不明の異国の響きに、私は何故か惹かれて興奮したらしく、繰返しこの言葉だけを喋り続けていたらしい。……まぁそこまでは良かったのだが、何を思ったのか、私は早朝に起きて玄関を開け、まだ朝霧に煙る近所の家々に向かって、この言葉を狂ったように大声で絶叫するのが習慣、つまり毎朝の日課になってしまった。当然、近所迷惑になるので母から叱られ、それでも止めないので、何度も母の怒りの鉄拳が頭に飛んできた。……私はこの時に殴られたその痛みだけは、今もありありと覚えている。

 

……先日、吉行淳之介氏と開高健氏の対談集『街に顔があった頃』を何気なく読んでいたら猥談の中で突然この言葉『バイヤ・コン・ディオス』が話題として出て来たので驚いた。そして意味を知って、また驚いた。バイヤコンディオスとは「神と共に行け」という意味なのであった。つまり私は近所の人達に向かって大声で「神と共に行け!!」と絶叫していたわけである。

 

スペイン人のピカソが初めて話した言葉は、確か「lapiz」(鉛筆)であったと記憶する。20世紀を代表する画家へと変貌したピカソのその後を想えば、ピカソが初めて話したその言葉(lapiz)の訳は「我に絵を描く鉛筆を与えよ!」といった意味にでもなろうか?……ならば「バイヤ・コン・ディオス」と云った私は、或いは道を間違っていたのではあるまいか。「神と共に行け!」と世の民に絶叫していた私は、例えば聖職者―伝道師といった道が、ひょっとして相応しかったのではあるまいか。つまり今の自分とはまるで真逆の道が、そこには開かれていたわけである。………… まっ、〈呪われた聖職者〉という言葉もあるので、なったとしたら、むしろそれか。

 

先日、ちょうど台風が日本列島を通り過ぎた頃に、数人の知人から時を同じくして連絡が入った。「ネットを観て下さい、面白いですよ、南瓜(カボチャ)が流されて行きますよ!!」と云う。で、観ると、確かに荒海の中を巨大なカボチャがプカプカと流されていく光景が画面に映った。……おや、これは草間彌生女史のカボチャではないか!?……確かにそうであった。それが波に揺蕩うように沖へ沖へ…と流されていくのである。どこの島か忘れたが、確かこのカボチャは島の岸壁の先端に設置されていたのではなかったか!?……画面の説明では、いつもは嵐の度に、島の職員が安全な場所に移していたという。……しかし、今回の台風がいつにも増して激しい事は事前から気象予報でわかっていた筈だから、察するに面倒くさかったのではあるまいか。

 

 

 

 

 

 

……ふと思い出したのだが、このカボチャの作品については以前に私なりの私見というものがあった。先に登場したピカソに「作品は制作時に於いて七分で止めろ」という言葉がある。作者と観者の関係において、観者の想像力を作動させる為には、作品(表現物)は造り過ぎてはいけないと諭しているのである。……さすがの名言であるが、そのピカソの言に倣えば、このカボチャは確かに造り過ぎていると、私は思ったものであった。「ハイッお仕舞い!」で、観者は唯、眺めるだけなのである。

 

 

 

……話は変わるが、このカボチャの配色は黄色と黒。この配色は強く見せたい動物、例えば虎や雀蜂の配色と符合する。……私は強い!という事は、つまりは母性性の顕れでもあるのか。と、そこまで想うと、急に私の連想は、このカボチャが岸壁で、いつまでも還らぬ息子を待ち続けている戦後に数多いた母親像が重なり、二葉百合子が唄う『岸壁の母』を連想した。「母は来ました今日も来た。この岸壁に今日も来た。届かぬ願いと知りながら、もしやもしや……」のその母親である。その母が還らぬ息子を待ち続ける事に疲れはて、遂に自ら海中に飛び込んだ、……その悲惨な姿を私はカボチャが流されていく画面を観ながら連想したのであった。連絡して来た人達は揃って、桃太郎の話の冒頭にあるドンブラコの桃を連想したという。確かに私も最初はそう見えた。しかし連想は紡がれて、二葉百合子へと至ったのであった。そして改めて思う。『岸壁の母』は、あの時代を映した確かに名曲であると。

 

 

……さて、以前に私が何かの写真でこのカボチャの作品を見た時に、この造りすぎた感のある作品を、如何にすればもっと詰めた作品になるか!?……そう考えた時があったが、ようやく、流されていくカボチャの画面を観て気がついた。……そう、この画像こそが真の作品なのだと思い至ったのであった。カボチャは濁った波に揉みくちゃにされながら、何かにあらがうように流されていく。……詩人の荒川洋治風に書けば、「流されていく私」や「流される私」といった不本意な私ではなく、些かの矛盾を孕んだ「流されていくぞ、私は」、とでもなろうか。……「アクシデントは果たして美の恩寵たりえるのか」といった命題は、私個人の創作における問題であるが、時として自分以外の他者、或いは偶然の悪戯によって、詰めが決まらなかった作品に信じがたい暴力的ともいえる恩寵が訪れる時があるのである。私は、この中が空洞のカボチャの作品を観て、ロダンならば沈む!ブランク―シならば沈む、美はその自らの尊厳の重みによって沈む!……とも思い、ロダンの最高傑作『バルザック』が水底に沈みゆく美しい姿を夢想した。

 

閑話休題。……それはそれとして、ずいぶん昔の話を私はふと思い出した。……それは私が未だ19才の美大の学生の頃に、銀座の或る画廊で開催されていた草間彌生展を観に行った時の話である。画廊の中にまだ若い頃の草間彌生女史がいて、一人の小さな老人と熱心に話をしていた。その小さな老人は、しかし犯しがたい不思議なオ―ラを放っていて、瞬間に私は、シュルレアリスムの日本における唯一の体現者―瀧口修造氏だとわかった(余談だが、その二年後にお会いする、この国の最高の詩人―西脇順三郎氏など、私は様々な場面で時代を造った先達諸氏に遭遇する妙な「気運」を持っている)。瀧口修造氏の言葉は実に小さい為によく聞きとれない。草間女史も、真剣な表情で食い入るように聞いていた。……………………あの日からずいぶんの時が流れた。瀧口修造氏はその8年後に亡くなられ、その死を境にして何か大事なものが崩れ出し、……更にずいぶんな時が流れ、美術の分野は今、周知のように全ての表現分野の中で、最も堕落したものに成り果てた。

 

 

……その美術の分野の堕落を誰よりも早々と予見したのは、マルセル・デュシャンであった。その彼がずっと取り組んでいたのが、大きなガラスの作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』―通称『大ガラス』である。しかしデュシャンは、この作品を作り終えはしたが、全く不満であった。「何か」が決定的に足りないのを、明晰なデュシャンは直感し、長い間、この作品は放置されていた。しかし、美神の仕業としか思えない事が偶然に起きて、この作品は20世紀美術における呪縛的ともいえる名作に一気に昇華した。

 

ある日、この作品を運搬していた運転手の荒い運転によって、作品全面に亀裂が入ってしまったのである。さすがにデュシャンも最初は落胆したが、この聡明な男は、この偶然生じた亀裂によって、つまり人智を越えたアクシデントの力学によって、何かが決定的に足りないと思っていたのが、奇跡的なまでに解決した事を彼は理解したのである。……それから数年間、彼は作品の亀裂を固定する作業に没頭し、この作品は20世紀美術を代表する、云わばイコンとなった。

 

 

 

 

 

……私が先に述べた「アクシデントは果たして美の恩寵たりえるのか」といった私の個人的な命題は、念頭にこの作品があってこそ生まれたのであった。……流れていくカボチャは、やはりこの命題とは違うものであるが、しかし重ねて言おう。この流れていくカボチャの映像は、あたかも今時の寓話として相応しい。出来れば、この映像を作品として残すだけの、表現に関わる者としてのエスプリの高みを期待したいものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『さりながら、死ぬのはいつも他人なり』

①……8月17日、午後2時すぎ、小雨。……アトリエで制作していると、蝉の鳴き声が近くに聞こえ、遠くを、悪い夢を運んでいくように救急車のサイレンの音がかしましい。最近、この音をよく耳にするようになった。何かがじわじわと迫って来ている感じである。

 

……昨日は、感染の事態が悪化して画材店なども一斉に休業になるといけないので、万が一の先を考えて横浜駅近くにある店に画材を買いに行った。イメ―ジの閃きは尽きなくても、絵具が無いとさすがに手足がもがれたようなものなので、やむ無くの久しぶりの外出である。しかし、駅の通路は相変わらずの人、人、人で、「緊急事態宣言が追加されました」というアナウンスが流れても誰も全く耳に入っていない様子。有効な唯一の手段のロックダウンも、この国はやる気無し。しかし、先日、現場で奮戦している医師がテレビで「全く打つ手無しのままこの状況が続けば、これからは間違いなく地獄の様相を呈して来る事は必至!策が必要なのに、何も具体的にやらないならば、もはやこの先は人災です」と言っていた言葉が、当然すぎてリアルに気にかかる。……20世紀美術をピカソと共に牽引した男、マルセル・デュシャンの墓碑銘にある言葉「さりながら、死ぬのはいつも他人なり」ではないが、おそらく自分だけは、コロナで死ぬ事はないであろうと、誰もが漠然と思っている節がある。そして相変わらず人の出が絶えない、この光景。駅の構内を、仲良く笑いながら平時と変わらないように行く人々の姿。ひょっとして、ここは異界か?

 

……感染が危ないので早く用事を済ませて帰ろうと思いながらも、歩きながら、……ではどうすれば人流が減るか、と考えてふと、以下のような考えが浮かんだ。(私は度々このように唐突に妄想する癖がある)…………頻繁にテレビで映される重症の患者の姿や医療現場の光景。戦場と変わらない、もはやそこは凄まじい現場。そこに聴こえる患者の苦しそうな咳き、かすれた声で切れ切れに語る、この変異株の想像を絶する猛威の告白……等々を実際に幾つも録音して、政府が断行してBGMのように、駅の構内、電車の中、エレベ―タ―など、人々が行き交ういたる所で執拗に流し続けるのである。けっして役者が演じた嘘の声ではなく、実録の生々しい音に限り、そこに医療現場の切迫感の状況を伝える音も加え、毎日の死者の数も日々更新して流すのである。……そして繰り返される、肺の瀕死の様が伝わってくるような乾いた、あの咳きの音。…………如何であろう、イマジン、……想像して頂きたい、その様を。行く先々どこでも聴こえて来る、今、この私達にとって一番聴きたくないリアルな音を日常空間に流すというアイデア。突飛なようであるが、もはや策はこれしか無いのではあるまいか。……ふざけているのではない。真顔で閃いたこの戦略を前にすれば、外出すれば必ず背後から追ってくるような、つまり視角ではなく、聴覚を通して心の深部にコロナの恐怖が個人個人に伝わって来て、人はむやみに外出する気も失せて、結果としてのロックダウンに似た効果に繋がるのではあるまいか。……政府の「どうかお願いします。外出は控えて下さい。」ではなく、外出が即ち嫌悪に繋がるような策が案外有効なのでは……あるまいか。ジャン・コクト―は『音楽には気をつけろ!』と云ったが、云わんとする事は、聴覚は視角よりも人の心の深部まで一瞬で入り込み、琴線を激しく揺らすという意味である。だから音はゲリラ的に危ういものがある。………………と、ここまで書いて、結局は私個人の妄想に過ぎない事にふと気づき、ブログの書き込みも、……指が止まる。……とまれ、このまま結局は、この国は流れに任せてさ迷う、沈みかかった泥の舟よろしく、「緊急事態宣言」「まん防」しか言葉を知らない無策のままに、無明長夜―けっして明ける事のない長い夜を延々と耐え忍んで行くのであろうか。(下の②に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②追記・ファイザ―のワクチン接種を完了して日が経つが、別に痛みも発熱も全く無い。ただ倦怠感だけはあるが、これは子供の時からのもので、人生に対してずっとある。……抗体が出来ない人は、接種完了者の4パ―セント近くいるというが、多分それか。

 

……閑話休題。さて、以下は気紛れに書いた短い小話のようなもの。ブラッドベリの短編を読むように気軽にお読み頂けると有り難い。

 

 

 

 

 

 

「……西暦2225年(今から204年後)に、ニュージーランドのアビル・タスマン国立公園の近く(場所の詳細は不明)の遺跡から、偶然その場所で遊んでいた二人の少年(パトリック・マクグ―ハン少年とアンジェロ・マスカット少年)によって、約200年前の歴史録の断片が見つかった。タイトルは『ゲノム戦記・第七章』とある。僅かな記述のみの切れ切れの断片には、次のような記述があった。〈2020年頃に中国の武漢から発症したコロナウィルスは、イギリス株、デルタ株等と変異を繰り返しながら猛威を奮っていた。しかし当時の人々は安易に考え、そのデルタ株をもって収束に向かうと楽観視していた。しかし、それは実は初期の序章に過ぎず、ウィルスはその後も何度も変異を繰り返しては強力さをいや増し、容赦なく波状攻撃的に人々を襲い、もはやワクチンすら既に効力は無くなっていた。特に何の策も打たなかった日本とブラジルの民が先ず死に絶えた。(ここから紙の破損が目立ち、しばらく判読不明の箇所多し。)…………と来て、その後、欧州や中近東、ロシア、中国、アメリカ……の順に多くの民がその被害者となり、その多くの民が流民となった。(ここから更に3頁ほど紛失あり。)

 

……そこで、流民となり、死骸の山と化したロンドンからの脱出に成功したキャサリン・ベ―カ―(ロンドン北西部・フィンチリ―コ―ト在住)は馭者に助けられ、ウェ―ルズのポ―トメイリオンから舟で海路をとり、マルセイユからカルカソンヌを経て、更に南下。一路、ニュージーランドを目指した。今では語り草となっている話であるが、信じがたい事に、ニュージーランドだけはコロナウィルスでの被害を免れた唯一の国であった。勿論最初は感染者が出たが、その度に徹底したロックダウン政策を施行し、一人の感染者が出てもロックダウンを行うという賢明な政策のお陰で、奇跡的にこの国だけが国民を被害から守り、他国からの流民の多くを迎え入れた。……ロンドンから脱出に成功したキャサリン・ベ―カ―(つまり、私の曾祖母)は、その後の余生をこの国で平和に過ごした。……しかし、私の母の代になって、〉………………………… 以下は、記述した断片が完全に紛失している為に、話の断片はここで突然終わっている。

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , | コメントは受け付けていません。

「世界崩壊の予感の中で『羅生門』を観る」

……「オリンピックがすんで、虚脱状態に陥った人はずいぶん多い。考えてみれば、日本が世界の近代史へ乗り出してからほぼ百年、たびたびの提灯行列はあり、いわゆる国民的興奮は、戦争に際して何度か味わったわけだが、こんなにひたすら平和な、しかも思いきり贅沢に金をかけたお祭りが、二週間もつづいたことはかつてなかった。しかもそれは「安全な戦争」「血の流れない戦争」「きれいな戦争」の要素を持っていて、みんなが安心して「戦争」をたのしみ、「日本の勝利」をたのしむことができた。………… 」

 

この文章は、1964年(昭和39年)に、三島由紀夫が書いた「秋冬随筆」という中の一節である。56年前のこと故に些か隔世の感はあるが、興味深いのは、三島が文意の底に、オリンピックを一種の代理戦争と冷やかに視ている点である。

 

……国民の多くが、同じ日本人というだけで、初めて見る見知らぬ選手に拍手を送り、興奮し、それこそ金メダルでも取ったならば、国民に祝いの配当金が配られるわけでもないのに、昔からのわが知り合い、わが身内のように感激し、日頃の鬱屈を晴らしたかのように情緒を解放し、快感を覚えるこの奇妙な感情の束の間の出処は、何処からやって来るのであろうか?……同じ日本人であるという、詰まりは何らかに自分が帰属している、或いは帰属していたいという事の確認や安心感を、そこに動物的な本能として原初的に覚えるのであろうか。……もっとも、この感情の覚えは日本人だけでなく世界共通の感覚であるが故に、三島がオリンピックの本質に、戦争の代替としての根深い闇を視てとったのは正しいと思う。

 

 

……さて、このオリンピックの期間中に、わかっていた事であるが、コロナ株の感染は、世界の中でも日本が目立って爆発的に拡がり、医療現場は崩壊し、もはや打つ手無しの、ロックダウン(都市封鎖)しか策は無い状況にまで差し迫って来た。しかし、日本はそれを成し得ない。法令が無いからでなく、詰まりは政治に哲学が無いからである。つくづく不気味な国に生まれたものだと思う。……そして、ここにきてイギリス政府の緊急時科学助言グル―プ(SAGE)が、サ―ズやマ―ズの致死率に匹敵する、或いはそれ以上に強度でかつて無い、感染者の3人に1人は死亡するという、新たな変異株の出現を予告したことは、ひんやりとする感がある。……AI最優先による人類の劣化や個性を欠いた均質化、、自然環境の潰滅的な破壊による異常気象の猛威etcに加えて、波状攻撃的に執拗に襲来する変異ウィルスの恐怖。……もはや世界は、地獄の釜の蓋開きのような様相を呈して来て、人の心の危うさ、脆さが浮き彫りになり、私達は自分の存在の意味があらわに試される時代に否応なく直面している。……正に時代は、芥川龍之介の処女作『羅生門』の主題と重なるものがある。

 

 

 

 

8月7日、池袋の東京芸術劇場で公演されている、勅使川原三郎版『羅生門』を観た。折りからの天気は雷雨の不穏を孕んで期待が弥が上にも増して来る。出演は勅使川原三郎佐東利穂子、そしてアレクサンドル・リアブコ(ハンブルク・バレエ団)、宮田まゆみ(笙演奏)他の諸氏である。今年に入って先ずは第一詩集の執筆と刊行、そして三つの個展開催に追われ、なかなか新作公演を拝見出来ずにいたが、6月に拝見した両国のシアタ―Xでの『読書―本を読む女』に続いての公演であり、実に愉しみに私はこの日を待っていた。

 

『羅生門』は、芥川の文芸作品であるが、それを言葉でなく身体表現によって切り開くものなので、芥川の『羅生門』の筋の再現をそこに、(黒澤明の『羅生門』の映像のように)観ようとしてはいけない。視覚に増して聴覚の変幻、合わせての空間芸術ならではのレトリックがそこに機能して来るのである。勅使川原氏本人からも6月にその構想の一部を少し伺っていたが、あえて途中の筋を省くらしく、なるほど、それによって、芥川を離れて一気に3次元空間で、そのスケ―ルは饒舌に膨らみ、勅使川原三郎氏のものと化すのであろう。……筋の真ん中をあえて抜く事で、暗示は通底してより観客に深く届き、その空間は象徴性を帯びて、よりスケ―ルの大きなものへと転じて来る。独自な作劇の術と自信の成せる技である。言わずもがなであるが、そこに勅使川原氏の観客の感性への信頼があり、作品は、観客も巻き込んで、そこにリアルに生々しく立ち上がる、……それが本当の意味での作品なのである。

 

 

話を少し転じて、先に書いたレトリックについて、もう少し書こうと思う。……レトリックとは「巧みな表現をする技法。また、修辞学、凝った文体、……」を意味し、主として文芸の側に属するものと考えられがちである。……以前のブログで、物理学者で随筆家、俳人の寺田寅彦が師の夏目漱石に「俳句とは、詰まるところ何ですか?」と訊いた時に漱石は「レトリックを煎じ詰めたもの」と鮮やかに断じ返した事を書いた。この場合、答えにレトリックを引いたのは、漱石が最も心酔していた与謝蕪村の俳句が頭に在った事は疑い無い。芭蕉となると、総じての俳句の意味あいは少し異なってくるからである。確かに蕪村のイメ―ジの引き出しの絢爛を想うと「レトリック」の一語に極まるのであり、私が以前に書いた『美の侵犯―蕪村X西洋美術』(求龍堂刊行)の執筆の動機もそこに在る。

 

しかし、レトリックは文芸の側の言葉だけに在らず、先ほど書いたように、視覚、聴覚、また嗅覚、触覚……のレトリックもまたあり得るのである。……その例として例えば『ドラクロアの日記』(私が持っているのは求龍堂が昭和四年に刊行した版)で、ドラクロアが絵画表現に際して、このレトリックなる言葉を用いているのである。「……レトリックは到るところにある。其は繪をも書物をも傷つける。……これに反し前者の最も美しきアンスピラシオンを、レトリックそのものが腐敗させる點にある。……」とある。〈ちなみに仏語のアンスピラシオンはインスピレ―ション(啓示・霊感)の事である。〉ドラクロアの時代はレトリックの意味は少し狭く、啓示・霊感と対立する危険性を孕んでいるものとして捉えられているが、今日のレトリックは、人の創造性を刺激し、心を鼓舞させる様子を表わし、ほとんどの場合、芸術表現に於ける良い意味として今は使われる。やはり時代の変遷で概念の幅も動く、その一例であろうか。

 

 

……話は再び勅使川原氏の表現に戻ると、私がおよそ8年前から殆ど毎月のように発表される新作初演に立ち会える幸運に浴しているが、毎回観たいというその熱情の源は、私が表現者として、最も関心のあるのがこのレトリックという才気を帯びた術なのであり、視覚、聴覚……において最も優れたレトリシャンとして、氏を視ているからなのであろう。……そして、今回の公演も、私はただひたすらにその虚構空間が綾なす美のスケ―ルの壮大な拡がりに酔い、玄妙な闇に遊び、その闇の深部に蠢く不気味なまでの不条理の相を垣間視たのであった。そして、その闇の中に幽かに射し込む浄土のような光の下に、世阿弥の劇性の高みをも想わせるような完成度をも覚えたのであった。

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , | コメントは受け付けていません。

『狂える夏の調べ』

①「夏日烈々」という言葉が正に相応しい猛暑の中、最近の私は本郷の坂道をよく歩いている。谷中と共にここ本郷一帯は、風情、情緒…といったものが、東京の地で最後に残っている場所である。そして、一葉、啄木、宮沢賢治…が、その天才を燃焼させるがごとく、あまりにも短い生を駆け抜けた舞台でもある。

 

その本郷にある画廊「ア―トギャラリ―884」で、今月の31日まで「北川健次展―鏡面のロマネスク」が開催中である。この画廊での個展は三回目になるが、昨年の秋・12月に予定されていたのがコロナ禍で延期され、満を持しての7月10日からの開催となったもの。コロナ禍とはいえ、私の個展は何故かいつもぶれずに強く、今まで未発表だった珍しい作品も展示してある事もあり、連日観に来られる方が多く、好評の中、会期はいよいよ最終章へと入った。画廊の中は心地好い冷気が充ち、たいそう居心地が良いのか、来られた方はのんびりと時を過ごされている。……ご興味のある方の為に、場所や日時を以下に記しておこう。

 

 

 

『ア―トギャラリ―884』

○東京都文京区本郷3―4―3 ヒルズ884 お茶の水ビル1F

○TEL/FAX .03―5615―8843

11時~18時 月曜休み

(最終日は16時まで)

 

JRお茶の水駅・丸の内線お茶の水駅・千代田線新お茶の水駅下車

➡順天堂医院本館➡サッカ―通り手前角寄り。(駅から徒歩7分くらい)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②日活のロマンポルノ全盛期にその異才を発揮し、その後に『櫻の園』『遠雷』『海を感じる時』『ヌ―ドの夜』……など、数々のヒット作を企画・製作し、この国の映画史にその名を刻んだ成田尚哉氏が、享年69才で昨年の9月11日に逝去してから早くも一年が経とうとしている。……本当に早いものである。その成田氏は度々このブログでも登場したが、三年前の晩秋に、私は彼に樋口一葉の裏日誌(いわゆる、文藝とミステリ―の融合)のような、妖しくも奇想に充ちた映画を作ってもらおうと思い立ち、彼を誘って本郷菊坂を中心にロケハンのように二人で歩き、老舗の鰻屋『鮒兼』で、…明治26年、霧の中の浅草十二階の暗い内部の描写から始まる場面構想を熱く語ったものである。……あぁ、あの時、二人でこの道を、あの階段を歩いたなぁ……と想いだしながら、先日も西片町、真砂町、菊坂、初音町……を歩いた。

 

……その成田尚哉氏の一周忌に合わせた追悼展の企画が現在進行中である。……彼は映画の分野でその異才を存分に発揮しながらも表現欲は留まる事を知らず、その才能をオブジェやコラ―ジュにも加速的に発揮し、私は彼の表現者としての深度が年々深まっていくのを間近で目撃していたのであった。その集中の様は凄まじく、後から思うと、自分の生の時間が残り少ないという事を、どこかで予感していたようにも思われる。

 

……追悼展の事は昨年の秋に企画が早々と決まり、彼が作品を発表していた下北沢の画廊『スマ―トシップ』の三王康成氏と私、そして奥様の成田可子さんとの打ち合わせが、平井のご自宅で五月と先日の二回、行われた。……私は六月末に個展案内状に載せるテクスト文を書き上げ、三王氏がデザイン構成他を担当し、順調に仕上げの段階に入った。成田尚哉氏の追悼展は今年の9月10日から18日までであるが、会期が近づいたら、またこのブログで詳しくご紹介する予定である。

 

 

③……異常な長雨の梅雨がようやく去ったと思ったら、入れ替わるように、明らかに昨年の夏を越える感の異常な猛暑の夏の到来である。……そして、強力な感染力を持つデルタ株がいよいよその凄みを増すという8月に向かい、最悪のタイミングで、拝金主義にまみれたオリンピックが蓋を開けようとしている。BBCなどの主要な海外メディアは揃って「今回の東京オリンピックは史上最悪のオリンピックになる!」と至極当然の論調である。……先日、イギリスのジョンソン首相は「コロナウィルスとの共生の道を選ぶ」という指針を示し、その流れが今、注視されている。この共生への道は、最初はその早急さ故につまずくと思われるが、やがて定着していくであろう。…….. さて、私はこのジョンソン首相がけっこう好きである。世界に感染が拡がり始めた当初に、私の考えと同じく、ウィルスのどしゃ降りの中に突っ込んで潜り抜ける姿勢(農耕ではなく遊牧、騎馬民族的な、この期に及んで是非も無し、強い者のみが抗体を獲て残ろうぞ!という中央突破的な考え)を提案し国民の顰蹙をかい、結果、本人もコロナに感染し、一時は生死の境をさ迷った。……しかし、いつも何かに追われているように必死な、さすがにシェ―クスピアの国を想わせる演劇的表情過多のこの人は、度々様々な着想を提案し、けっこう闘っているのが伝わって来て、何処かの国のボ~っとした覇気の無い、眼力の無い人物の無策、詭弁、信念の無さに比べると遥かに良い。いや面白い!!。

 

……彼が提案した「ウィルスとの共生」という考えは、完全な収束を願うよりも一番理に叶っている。地球が誕生したのは今から46億年前。ウィルスは30億年前に出現。人類は未だ20万年の歴史しかない。地球全史を1年に圧縮すれば、ウィルスは5月に生まれ、人類が生まれたのは大晦日の夜の11時頃にすぎないという。つまり圧倒的にウィルスの方が大先輩なのである。しかもウィルスは不気味なまでに賢く、人類の進化にも寄与している部分が大であるという。スペイン風邪の猛威は何億という人間を死に至らしめたが、何故か自然収束して、その姿を消した(正確には隠した!……それはシベリアの凍土の下に姿を隠し、また出現の時期を計っているという説もある)。そのウィルスは人類がいないと自分達も繁殖しないので、自らの意志があるかのように、人類をギリギリまで追い詰めて、最後は生かしておいて、後日の変異した我が身の温存をそこに計るのである。……この辺り、新宿の盛り場で、ボコボコに相手を殴ったチンピラが「今日はこれくらいにしてやるから感謝しろよ!!」と、毒のある捨て台詞を言いながら厳つく去っていく姿と少しだぶる。

 

……とまれ「お・も・て・な・し」が、正しくは「コロナで貴方をお・も・て・な・し」となった今日。選手村は予想された事だが陽性者の巣窟と化し、デルタ株はねずみ講のように拡がり、今年の8月は正に『八月の狂詩曲』ならぬ『八月の狂死曲』となるであろう。…………今年の夏は至るところで、死影のような今まで見たことがない陽炎が立つように思われる。

 

 

 

 

 

カテゴリー: Event & News, Words | タグ: | コメントは受け付けていません。

『坂の上の歪んだ風景―熱海・代々木篇』

①熱海篇……司馬遼太郎の小説に『坂の上の雲』という、とてもロマンチケルな題名の作品がある。…確かに坂道は私達の詩情を煽って、たいそう穏やかで、春昼の浪漫的な夢想を誘う何かがある。しかし一方、永井荷風の『日和下駄』では、坂道を評して「坂は即ち地上に生じた波瀾である」と断ずるように書いていて穏やかではない。……確かに、坂はそういう一面も持っていて、時に坂は不穏に見える事がある。ましてや傾斜がきつい急坂は、いつか起きる凶事の予感を秘めて不気味でさえある。……その感の極まりが、先日の熱海の伊豆山中から崩れ落ちた土石流の惨事である。しかしこの惨事は、不法に大量の廃棄物を隠すために意図して盛り土を積み上げた悪質業者と、行政の指導の怠慢を突かれたくない県や市の責任転嫁に必死な様との、まさしく泥仕合で、つまりは集合的な人災の感は免れない。

 

……あれはもう何年前であったか?私はこの惨事となる現場を歩いた事があった。……頼朝関連の場所として、この崩落現場の上にある伊豆山神社に興味があり、後の現場となる盛り土があった道を通って神社に行き、正に崩れ落ちた坂道のあの場所を下って熱海駅に戻ったのであるが、傾斜がきつい坂道に奈落へと落ちるようにして点在する民家を見て、よくこういう場所に住んでいるな……と思ったのを記憶している。……あれは、熱海の海光町に住んでいた池田満寿夫さんが亡くなって、暫く経ってからの事であったかと記憶する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

②代々木篇……5月初旬に東京国立近代美術館で開催中であった『あやしい絵展』を観に行った。幕末から昭和初期までの病める側面をデロリと映した、妖美、退廃、エロティシズム…を一同に集めた展示でたいそう面白かった。熱心に観入っている観客をぬって、上の階に行くと『幻視するレンズ』展が開催中。やはり川田喜久治さんの『ラストコスモロジ―』連作の写真は圧巻であった。わけても、以前に川田さんから直接プレゼントして頂き、我がアトリエの壁にも掛けてある代表作『太陽黒点とヘリコプタ―』は実に怪奇にして玄妙なモノクロ―ムの結晶である。

 

次に常設の、靉光『眼のある風景』を観にいくも残念ながら展示されておらず、次なる岸田劉生の切通しの坂を描いた『道路と土手と塀(切通之写生)』(大正4年作)を観にいく。……実に不穏でミステリアスな坂道の描写で、紛れもなく近代絵画の秀作であるが、面白い符合があり、前述した永井荷風が、「坂は即ち平地に生じた波瀾である」と評したのと同じ年(大正4年)に、劉生は、それを強調したかのような視点でこの不穏な坂道を描いている点が面白い。

 

場所は道路開発中で切り崩されている最中の当時の代々木。……以前にこの現場を月刊誌『東京人』からの執筆依頼があって観に行く必要があり、劉生に詳しい、当時の京都国立近代美術館長の富山秀男氏に電話して場所を伺い訪れた事があったが、この坂はこの傾斜のままに現存する。

 

 

 

 

 

 

さて、この劉生の作品、暫く見ていると、画面下の道路を横断する黒い影(実際は電柱の影)が、何やら電柱に装うった怪しい人の気配のようにも見えて来ないだろうか?……この坂道の絵が不穏な気配を私達に直に伝えて来るのは、間違いなくこの黒い影の効果なのであるが、この絵をさらに怪しくしている点(劉生が意図的に仕掛けた)が、実はもう1つある。……それは画面上部左側の、塀と坂道の交わる消失点が微妙にずれており、更には先日の盛り土の惨事ではないが、不気味に不自然な僅かな盛り上がりがあり、その崩れそうな気配(気)が、この絵画を名作足らしめているのである。

 

 

 

 

 

 

……画面内に意図的に仕掛けられた異なる2つの遠近法、そして不穏な黒い影(シルエット)。この劉生の絵に最も近い近似値を他に探すと、たちまち私達はジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画『通りの神秘と憂愁』(1914年作)へと辿り着く。…… (1914年、……期せずして、岸田劉生のあの坂道の不穏な絵と、正に同年時に、このキリコの絵は描かれたのである)。一つの画面に異なる複数の遠近法を仕掛ける事、また影(シルエット)による不協和音とでも言いたい不安な気配の屹立。……それは、近代に芽生えたモダニズム(近代主義)の精神や意識が産んだ具体的な一様態でもあるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

……さて、ここに唐突にレオナルド・ダ・ヴィンチの名前が登場する。そして2004年に刊行した拙著『「モナ・リザ」ミステリ―』(新潮社)からの引用が登場する。

 

「……私は、今までの定説を否定するように「モナ・リザ」だからこそ必ず何か記しているに違いないという眼差しで、彼の遺した手稿の中に、それを追った。そして、遂に気になる一文に眼が止まった。それは昭和十八年に刊行された、今では古色を帯びた『レオナルド・ダ・ヴィンチの繪画論(翻訳書)』の中に在った。―109章の〈自然遠近法と人工的遠近法の混用について〉と題する中でレオナルドは、自然遠近法と人工的遠近法を一つの画面の中に混淆した場合、その絵は、〈描かれている対象が全部奇怪なものに見えてくる〉と記しているのである。これは音楽用語における「不協和音」と一致する。そのまま流せば素通りしてしまう、この記述。しかし私はこの一文に注視して、そこに「モナ・リザ」の絵を当て嵌めてみた。すると驚くべき事が透かし視えてきたのであった。

 

「モナ・リザ」の絵を今一度、見てみよう。手を組んだ女人像は私たちの視点と水平に描かれている。では、その視点のままに背景に目を移せばどうであろうか。…あきらかに背景は、上部から眼下を見下ろした俯瞰の光景として描かれている。つまり「モナ・リザ」には二つの異なる視点が、それと知れずたくみに混淆されているのである。レオナルドは記す。「自然遠近法と人工的遠近法を一つの画面の中に混淆した場合、その絵は、描かれている対象が全部奇怪なものに見えてくる」と。私たちが「モナ・リザ」を見て先ず最初に覚える印象は、美しさではなく、むしろ奇怪とでも云うべき不気味さである。しかし、それは私たちが共通して抱く主観というよりも、レオナルドの記述のとおりに解せば、それは前もって画家自身が意図したものという事になる。訳者はそれを「奇怪」と訳しているが、原書の言葉には如何なる解釈の幅があるのであろうか。残念ながら原書は入手不可の為、訳者を信じる他はないが、訳の幅はそれ程には無いのではあるまいか。ともあれ、私たちが「モナ・リザ」に対して抱く奇怪なる印象、それはあらかじめ画家がこの絵を描く際に秘めた一つの主題としてあった事は確かな事と思われる。果たして画家は「奇怪さ」を帯びさせることで、この絵に如何なるメッセ―ジを宿らせようとしたのであろうか。……」

 

拙著の記述はこの後も延々と続くのであるが、とまれ、ここで大事な事は、劉生はダ・ヴィンチからもかなりな事を学び、それを自己流に消化して自らの方法論の深部に取り込んでいるという事である。……モダニズム云々という、歴史を分断した直線的な切り方でなく、その深部に貫通する、美を美たらしめる為の思索の水流は、各々の時代の時世粧という変容を経ながらも、その本質の瑞々しさは変わらずに「今」を流れ続けているのである。

 

いや、次のように言い直すべきかも知れない。……すなわち、人類最大の知的怪物であるレオナルド・ダ・ビンチの透徹した認識の視座から視れば、近代はおろか現代までも、またその先までも、あらゆる物が彼の掌中に既にして、呪縛的なまでに包括されているのである、と。

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , | コメントは受け付けていません。

『銀座・永井画廊での展覧会が終了』

先日の7月3日、永井画廊での展覧会『北川健次展―彼らは各々に、何をそこに視たのか』が、連日盛況の内に無事終了した。このコロナ禍で来場される方の入りがさすがに気になっていたが、始まってみると、連日たくさんの方が観に来られて、本当に有り難がった。棟方志功さん、駒井哲郎さん、池田満寿夫さんの三人の版画史の先達と、自選した私の代表作とのぶつかり合いという展覧会の切り口の妙、そして、永井画廊と画廊主の永井龍之介さんの知名度の高さ、また、現代の版画の状況への懐疑と問題提示、などが展覧会の開催意義と重なり、多くの目利きの方を刺激する展覧会となった。

 

 

 

 

会期中に来られた棟方志功さんのお孫さんの石井頼子さんからは、棟方志功さんについて詳しく書かれた著書『棟方志功の眼』がアトリエに届き、私は面白く、また懐かしく読み耽った。そして実に鋭くこの鬼才の本質に触れられていて、棟方志功解釈に於いて多くの得るところがあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また最終日には、駒井哲郎さんのご長男の駒井亜里さんが、画廊に来られて実に45年ぶりの嬉しい再会が叶った。私が美大の学生時、亜里さんには一度だけ駒井さんのお宅でお会いした事がある。痩せて貧乏学生だった私に、駒井さんから、奥様が作られたカツ丼をご馳走して頂き、そのテ―ブルに亜里さんもおられて私達は一緒に食べたのであった。金もなく毎日ろくな物を食っていなかったので、本当にその時のカツ丼の美味しかった事が懐かしく思い出される。(……駒井さんは、懐が深く実に優しく、そして厳しかった。……確かその日の私は、かなり過激な事を駒井さんに喋りまくり、食ってかかったというのに……)

 

画廊で、私と永井さんは、亜里さんから、駒井さんの制作時の貴重な逸話を伺い、その作品に秘めた駒井さんの意図が見えて来て興味深いものがあった。……私は亜里さんに、全く誰も気にかけていない駒井さんの作品で、孤高の民俗学者にして国文学者であった、折口信夫(釋迢空)を描いた肖像(一点だけのモノタイプ作品)の行方について伺った。……以前に『文芸読本』の折口信夫特集の表紙を飾っていた作品で、駒井さんの中では異質な作品であるが、駒井さんの精神の闇が如実に出ている逸品である。しかし、駒井哲郎展では全く展示された事のない作品で、私はずっとこの作品の事が気になっていたのである。亜里さんは、たぶん自宅に在る筈と言われ、探して頂けるという事なので、私はそのオリジナル作品をぜひ拝見したく、その日が今から待ち遠しい。ちなみに、この折口信夫特集の執筆者は、西脇順三郎、小林秀雄、柳田国男と揃っており、三島由紀夫の小説『三熊野詣』の老いた国文学者のモデルであり、何とも奇怪でグロテスクな感さえある三島の鋭い描写であるが、駒井さんが描いた折口信夫のそれとピタリと重なるものがあり、実は駒井芸術における重要な作品のひとつと私はかねがね睨んでいたのであるが、例えば学芸員達には、全くその作品の事が頭から抜け落ちているらしい。

 

 

 

 

最終日に、池田満寿夫さんのパ―トナ―であったヴァイオリニストの佐藤陽子さんも来られる予定であったが、線状降水帯の激しい豪雨で熱海の山頂から凄まじい量の土石流が流れ落ちて来て、新幹線が運行停止の可能性が出て来た為に上京が不可能になり、久しぶりの再会(山の上ホテルでの澁澤龍彦さんの三十回忌以来)は叶わなかった。

 

 

 

 

 

 

私が池田満寿夫さんと出会った時、池田さんは芥川賞を受賞する前の最も多忙にして、最も感性が鋭い時であった。駒井さん、棟方さんは私にぶれない表現者としての矜持と自信を与えてくれたが、実質的にプロの作家への道を作って頂いたのは、その後の学生時に出会った、まことにこの池田さんの導きが大きかった。……棟方志功さんと同じくヴェネツィアビエンナ―レ展の版画部門国際大賞を受賞したこの人は、版画に留まらず、作家、陶芸、彫刻、映画監督、写真家……と実に多才であったが、この国の実に偏狭な価値観は、その実の芯を視ずに、表面的な器用さと誤解し、それが池田さんにとってはかなり抵抗感があったと思われる。今、私は版画に終止符を打ち、オブジェ、美術に関する著作執筆、写真、詩と様々に自由に展開し、存分に手応えを覚えているが、僅か40年前のこの国の狭い偏見は、当時この人に対して不当なものがあった。またその華やかさに対して、世の人々が抱いた羨望や嫉妬もそこに動いていた感は確かにあった。……今、時代的に見て、淘汰か否かの渦中にあるが、池田さんの優れた作品に対して、眼力のある人が数人出て来たならば、この人の正しい評価は間違いなく確かなものになっていくという確信が私にはある。ただ、この人の多才な才能の幅に渡ってあまねく語れる論者、識者が未だいないだけの話である。専門だけに留まらず、分野を越境して語れる側の人材があまりにいないだけの話なのである。池田満寿夫再考、再評価が実に待たれるのである。

 

……今回の展覧会場―永井画廊で、池田満寿夫さんと棟方志功さんの作品が隣どうしに並んだのであるが、おそらくこの組み合わせは今までに無かった、永井龍之介さんの着眼力と創意性の確かさから出たものである。比較文化論的に言えば、強度で意外な物がぶつかり合う事で、今まで見えなかった新たな意味がそこに鮮やかに立ち上がる。……棟方志功さんの作品も動くし、また池田満寿夫さんの作品も動いて、今までに無かった新たな妙味がそこに立ち上がるのである。……初日前日、私が展示の為に画廊に来た時、既に全作品が床に並べて立て掛けてあったが、私は一目観て、永井さんの構成のセンスに唸った。そして、そこに今までに無かった新たな可能性の揺らぎをも直感したのであった。

 

会期中に永井さんに「日本美術史の名作の中で、永井さんがこれ一点は何かと問われたら、何と答えますか?」と伺ったら、即座に長谷川等伯の『松林図屏風』という答えが返って来た。私ならば今は宗達の『舞楽図屏風』であるが、……問題はその思考の速度である。芭蕉の「考えるは常住の事、席に及びて間髪を入れず」ではないが、私は時々この質問を相手にする事がある。その返しの速度と何を返して来るか!?を知りたいのである。会期中、度々私と永井さんは、古今東西の美術史を越境した様々な話をして実に愉しい時間を過ごせたのであった。こういう体験は最近実に珍しい事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Event & News, Words | コメントは受け付けていません。

『7月3日まで永井画廊にて個展開催中・Part②』

……前々回のブログ『洗濯女のいる池―ブルタ―ニュ最終篇』をアップした後で、けっこう沢山の方から、(洗濯女の事をもっと知りたい!)、(パサ―ジュのゴ―ギャンさんのその後の事を知りたい!)……といったメールを頂いたので、今回は先ずはそれから書いてみよう。

洗濯女の事は『ブルタ―ニュ・死の伝承』(アナト―ル・ル・ブラ―ス著)という著書に和訳で詳しく書かれているので、ご興味のある方はぜひ御一読をお薦めします。洗濯女の内の一人の女性の名前はジャンヌ、池の名はメルボワ池。「夜の洗濯女」「夜の鴨」…という異名を持っている。とまれ、幾つかの画像を掲載しよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……ゴ―ギャンさんの友人の女流小説家が忽然とその池のある場所で姿を消した。はたして事件か事故か?それとも真相は他に……。ブルタ―ニュの風景を描いたルドンの初期の油彩画が持つ不気味な不穏さに、私はかねがね引かれていたが、このコロナ禍が去った後には、パリから足を延ばしてぜひとも行ってみたい場所である。

 

……さて、その後のゴ―ギャンさんであるが、『翼の王国』に私が長文の紀行文、パサ―ジュ・ヴェロ・ドダでの8時間に渡るインタビュ―を基にした『鏡の行列』を執筆した後で、編集部からパリのゴ―ギャンさんにもその冊子が送られた。暫くしてから、私のアトリエにゴ―ギャンさんから手紙が届いた(よく私の所に無事に届いたなぁと感心する程に、読みにくい、癖のある繊細な文字である。今もその手紙は私の大切な宝物である)。数年してパリに行った折り、パサ―ジュのゴ―ギャンさんを突然訪ねたら歓迎され、暫し語り合った。私が撮影で、これからモンパルナスのブ―ルデルのアトリエ(美術館)に行くのだと言うと、ゴ―ギャンさんは(あすこはパリで一番好きな場所だから私も一緒に行く)という。しかし、電話が入り、来客が来る事になったので、その時は別れた。そして、その後も交流が続いたが、四年前に撮影で訪れた時は、すれ違いでパサ―ジュの13番のその古書店は閉まっていた。それからのコロナ禍により、パリに行く事が出来なくなってしまった。ゴ―ギャンさんの事が時おり思い出され、私は気になっていた。

 

…………そんな折、先日、書店で鹿島茂氏の新刊『パリのパサ―ジュ・過ぎ去った夢の痕跡』(中公文庫)を目にした。(鹿島茂氏とは以前にお会いして、当時、神保町にあった、膨大な書籍に埋もれた氏の書斎を訪れた事がある。)……パリの右岸には現在、パサ―ジュが19存在するが、ヴェロ・ドダはその第1章に詳しく書かれていた。そして、その章の最後の数行に目がいった。それを引用してみよう。

 

「……1965年にパリ市立歴史建造物リストの追加目録に(ヴェロ・ドダは)加えられ、破壊される危機は去ったが、それでも、ギャルリ・ヴィヴィエンヌやギャルリ・コルベ―ルのように完全に修復され、別の建造物になってしまう可能性もある。見学するならいまのうちである。/げんに、このパサ―ジュの売り物だったアンチックド―ル店「ロベ―ル・カピア」は廃業して、いまは現代ア―トの歩廊に代わっている。ところで「ロベ―ル・カピア」の斜め前の十三番地にある古書店「ゴ―ガン」の主人ゴ―ガン氏はロベ―ル・カピア氏と非常に親しい友人で、カピア氏が健在だったころは、いつも彼の店に入り浸って、自分の店を留守にしていた。私もこの頃には、何度か氏の姿をカピア氏の店で見かけたものである。/ところが、まことに不思議なことに、カピア氏が廃業して以来、ゴ―ガン氏は忽然と姿を消した。いつ行っても、店内に灯りは点っているのだが、ドアには鍵が掛けられたままで、だれもいる気配がない。店主は、移転したカピア氏のところにしゃべりに出掛けているのか?いや、そもそも実在しているのだろうか?ミステリ―のネタにでもなりそうな話である。」と書かれていた。

 

 

 

 

 

 

思い返せば、私が無人のパサ―ジュ・ヴェロ・ドダに早朝訪れ、版画集『反対称/鏡/蝶番/夢の通路ヴェロ・ドダを通り抜ける試み』の構想を立ち上げたのは、正しくこの「ロベル・カピア」のショ―ウィンドウの前であり、二年後に不思議な導きとしか言えない力で、その斜め後ろのゴ―ギャンさんの店のショ―ウィンドウで、作品全作を展示する事が叶った。……そして今、ゴ―ギャンさんの姿が忽然とパサ―ジュから消えたのである。時の流れを少し戻せば、私が最初にパサ―ジュに立ち入った時の、あの不思議な暗がり、そしてゴ―ギャンさんとの語らいの日々、あの時間が……まるで夢見の幻のようである。……はたして、もう一度行くと言っていたブルタ―ニュの池に行ったのか!?それとも、時間迷宮のあのヴェロ・ドダの鏡の隊列のはざまから夜のヴェネツィアへと旅をしているのか? ……ともあれ、ゴ―ギャンさんの名刺にあるパサ―ジュの住所を、ここに記しておこう。

13 passage VERO―DODAT 75001 PARIS BERNARD GAUGAIN

 

……さて、話を現在に戻せば、7月3日まで、銀座の永井画廊で、私、棟方志功さん、駒井哲郎さん、池田満寿夫さんの代表作を展示した展覧会『―彼らは各々に、何をそこに視たのか―』を開催中である。池田満寿夫さんからの序文(私の最初の個展の際に書かれた)、私への書簡、処女作、そして、パサ―ジュ・ヴェロ・ドダで構想を得て作り上げた作品も含めて展示開催中である。版画にしか出来ない表現とは何か!?を鋭く問うたこの展覧会。……ぜひのご高覧を宜しくお願いします。

 

 

 

 

 

カテゴリー: Event & News, Words | コメントは受け付けていません。

『銀座・永井画廊にて展覧会開催中・Part①』

6月10日から7月3日まで、東京銀座の永井画廊 (銀座8―6―25 河北新報ビル5F)で『……彼らは各々に、何をそこに視たのか。』と題して、私と駒井哲郎さん、棟方志功さん、池田満寿夫さんの四人の代表作による展覧会を開催中である。企画を立ち上げたのは永井画廊の社主、永井龍之介さん。永井さんといえばテレビの人気番組『開運!なんでも鑑定団』で、番組立ち上げから20年以上、美術作品の鑑定をされていた方として広く知られているが、『知識ゼロからの名画入門』(幻冬舎)などの著者としても知られている。以前から番組を観ていて、永井さんは日本美術史だけでなく古今の西洋美術史にも造詣が深く、その発言に確かな裏付けがあるのを知り、永井さんには興味を抱いていたが、まさか後日に展覧会開催のオファ―が突然来るとは思ってもいなかったので、誠に人生は面白い。最近つくづく思うのであるが、人生とは不思議な縁によって引き合い紡がれた物語りであり、それは偶然でなく、後に思い返せば、必然性の強い力がそこに不思議な作用をしているように思われる。運命とは、そういう事を云うのであろう。

 

……今回の展覧会は、永井さんが、その不思議な作用に焦点を絞り、棟方志功・駒井哲郎・池田満寿夫という三人の、現代の版画史を築き牽引して来た人達が、当時まだ20才くらいの私が作った銅版画作品に出会い、各々が称賛を送ったという事から切り返して、彼ら(棟方・駒井・池田)は、当時まだ美大の学生であった私の作品の画中に、果たして各々に何をそこに視たのか!!という切り口から立ち上げたのが、今回の展覧会のテ―マなのである。…… 会場には、池田さんが私の最初の個展(24才時)の為に書かれた序文の原稿や、ニュ―ヨ―クから届いた手紙など、今までの展覧会では展示した事のない珍しい物も展示してあり、来られた方の興味を引いている。

 

 

 

 

永井画廊で開催中のこの展覧会は、その切り口の斬新さもあって、美術館の学芸員や作家、また文藝の関係者までも含めて、毎日たくさんの人が画廊に来られている。昨日は、以前からお会いしたかった、棟方志功さんの孫である石井頼子さんが来られて、4時間ばかりの愉しく、また興味が尽きないお話をする事が出来た。(今回の展覧会は永井さんが直接、棟方志功さん、駒井哲郎さん、池田満寿夫さんの各々のご遺族からこの展覧会の主旨への賛同を得て、ご遺族がお持ちの貴重な作品を展示しているのである。だから保存の状態が実にいい。)

 

……石井さんは、棟方さんが逝去される日まで、棟方さんの傍で直接に接して来られた方なので、棟方さんの制作法、また生きる姿勢、知られざる逸話などを詳しく伺う事が出来て、実に有意義な時間であった。……また私が棟方さんと出会った時の経緯、審査会場に私の作品が運ばれて来た瞬間、棟方さんは審査員席から立ち上がり、私の作品『Diary1』に駆け寄って額の上から撫でまわし、賞賛の言葉を呪文のように無心に呟きながら、実に30分以上もその状態が続いた為に、審査が停まってしまった話、また授賞式の挨拶の場で、棟方さんから私の名前が何回も連呼された時に、20才を過ぎたばかりの私の身体に入り込んだ強烈な自信の話など、懐かしくも尽きない話が出来て、私は嬉しかった。

 

……それにしても、授賞式の帰りに一緒にエレベ―タ―に乗り合わせた時に、「棟方志功」という、不世出の、強度な作品の作り手が、満面に笑みを浮かべながら私の顔面すれすれに接近して来た時の、その顔から放たれた顔圧、眼力のあの異様な凄さは今も忘れ難い。…………棟方さんとお会いしたすぐ後に、東宝砧の撮影所で、今度は勝新太郎と出会ったのであるが(この場合は、棟方さんの時と違い、私の悪戯によって最大の被害者となった勝新から、やはり顔が接するギリギリまで怒り心頭に発したその顔が、あの眼力が、まさに怒髪天を衝く勢いで迫って来たのであるが、) この両者には何か共通した印象を私は今も抱いている。強烈な自己放棄の裸形さと、相反する強度な自己愛が産んだ我執への集中が矛盾して捻れうねりあい、放射されるそのアニマ、オ―ラといったものは、他に類が無いものである。そして、今想うのは、唯ひたすらの懐かしさである。駒井哲郎さん、池田満寿夫さんにも各々に忘れ難い思い出があるが、しかし、この版画史から突出した三人の先達に出会い、励まされ、プロの表現者へと導かれたという事実は、私における全くぶれない矜持となっている。

 

……閑話休題、永井画廊にいる時は、奥にある控え室で私は度々休んでいるのであるが、この控え室には実に興味深い作品が掛けてある。梅原龍三郎氏の絶筆となった、描き始めた直後のままに遺った大作が掛けてあるのである。私は、梅原氏の逝去により未完成になった、その薄塗りの、まさに彼が影響を強く受けたルノア―ルの筆触を想わせる画面を観ていて、ふと、詩を書いている最初時の、無垢な言葉の立ち上げに似ていると思った。言葉がアクロバティックに、積算的に、また連弾的にくねりながら、時に逡巡し、時にレトリックの羽を得て詩は漸く完成へと至るのであるが、梅原龍三郎氏の未完に終わったその大作を眺めながら、私は「この描きかけの作品を観て、最も強い興味を抱くのは、やはり小林秀雄であろう、」……そう思った。

 

……展覧会は7月3日迄である。棟方志功さんに続いて、駒井哲郎さんのご遺族、また池田満寿夫さんのご遺族が、この展覧会を観に画廊に来られる予定になっている。タイミングが合えば、私にとっては実に久しぶりの再会になるが、ぜひお会い出来ればと思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カテゴリー: Event & News | タグ: , , , | コメントは受け付けていません。

『洗濯女のいる池 ― ブルタ―ニュ最終篇』

…… ナントのパサ―ジュ『ポムレ―小路』からパリに戻ったのは初日の夕刻であった。パリ在住の通訳で、コ―ディネ―タ―のK女史が予約してくれていたホテルは、マドレ―ヌ寺院の真後ろである(画像掲載―寺院後部の白い建物)。ショパンの葬式のあった寺院。…最上階の私の部屋から眼下に見るその姿は、灰白色の堅い遺跡、更には巨大な鳥籠を想わせた。

 

翌日は、カメラマンと編集者は、撮影用の重いカメラや機材を携えて早朝から街中の撮影に行き、私は一人セ―ヌを渡って、かつて拠点として住んでいたサルジェルマン・デ・プレ地区を抜けてリュクサンブ―ル公園に行き、木陰にあるテ―ブルにノ―トとペンを置いて椅子に座り、これから一仕事をしなければならない。…… 明日の夕刻から始まるベルナ―ル・ゴ―ギャン氏へのインタビュ―の内容(主にパサ―ジュに関して、ボ―ドレ―ルベンヤミンの事、そして、ゴ―ギャン氏のパサ―ジュに寄せる想いや視点の在処は何なのか……)などを書いていくのである。15年前にお会いした微かな記憶では、実に機知に富んだ、しかし一筋縄ではいかない精神の襞を持った人物であったと記憶する。故に質問もまた練りに練った言葉を必要とする。それ故に、樹間を抜けてくる微風を受けながら、木陰で過ごすこの時間は、実に愉しいものであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

………… 約束の3日目の夕刻になり、いよいよゴ―ギャン氏との対面(正確には再会)の時が来た。パサ―ジュ『VERO―DODAT』の中に入ると「13」番のプレ―トがある古書店が見えた。店内に目をやると、15年前の鋭さは消えて、穏やかな顔立ちの中に少年の好奇とイノセントな深みを持ったゴ―ギャン氏が笑顔を浮かべながら現れた。K女史の流暢な通訳のお陰ですぐに私達は打ち解け、私は、持参した版画集『反対称/鏡/蝶番―夢の通路VERO―DODATを通り抜ける試み』をタトウから開いて全作品を氏に見せた。すると氏は忽ち強い興味を示し、機知と深みに富んだ見事な感想を直ぐに返して来た。「君の作品からは、ジャン・コクト―の軽みを装った鋭い毒や、写真家のアウグスト・ザンダ―の、時間が停止したような不思議なオブジェ性が伝わってくるよ」「君が二年前にこのパサ―ジュで作品の構想を立ち上げたという話は、既に私達の共通の友人のI氏から聞いているよ。実に面白い。正に、その視点こそが、このパサ―ジュのエスプリそのものだよ」「君の版画集のタイトルに鏡という言葉が入っているが、どうしてその言葉が閃いたのかすごく興味がある。なぜなら、このパサ―ジュの空間はまるで鏡の行列のようであり、ヴェネツィアの夜へと漕ぎ出してゆく詩想を運ぶ黒い舟(ゴンドラ)を想わせるのだから」「正に君も直感したように、このパサ―ジュの主役は、実はこの両側に並べられた巨大な鏡なんだよ。水銀の毒から放たれた妖しい人物達が鏡面から出入りして、この空間の中で謎めいた舞踏を演じているのだよ」…… 二年前の早い午前に、私がこの無人の薄暗いパサ―ジュで一人夢想したその先からまるで語ってくるかのように、ゴ―ギャン氏は次々と詩的なイメ―ジを繰り出してくる。ひと先ずの話が終わり、次に記念写真を撮る事になり、私とゴ―ギャン氏は並んでカメラの前に立った。私は、「写真を現像したら、きっと、見た事がない全く知らない少年が二人写っていますよ!」と言うと、ゴ―ギャン氏は私の発想が気にいり、私の肩を強く叩いて満面の笑みを浮かべた。氏はこのような諧謔がどうやら好きらしい。(…… とまれこの瞬間から以後私達は友人となり、その後、交流を深めていく事になる。)

 

……さて、いよいよ二年前に夢想した、「この空間に私の作品を展示してみたい」―その夢のような願望が不思議な時間の回路を巡って、また不思議な人と人との縁を経て、夢から現実へと結晶化することになる、その時がやって来た。…… そして、不思議な事がそこで起こった。…… 店内に並べてあるたくさんの古書を片付けて、空いたその棚のスペ―スを見ると、まるで始めからそれは用意されていたかのように、ピタリと作品全てが、見事に収まったのであった。これにはゴ―ギャン氏も驚き、そのまま、ゴ―ギャン氏は、それがこのパサ―ジュの日常であるかのようにポ―ズして、カメラにその光景は収まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハンス・ベルメ―ル作品の世界的なコレクタ―として知られるゴ―ギャン氏はディレッタントにして慧眼の人である。私の作品が展示されるや、正面の写真ギャラリーの店主をはじめ、沢山の通行人が集まって来た。……ゴ―ギャン氏は特にランボ―の肖像を作品化した版画が気にいり、私にこの版画集とオブジェを全て購入したいと切り出して来た。……私は「この版画集は既に日本で完売して絶版の為にお売りする事は出来ないが、……しかし貴方にプレゼントする事なら出来ますよ、もちろん喜んで!オブジェも!」と言うと、ゴ―ギャン氏は店内に入り、返礼として、貴重なパサ―ジュの歩みを記した写真集をプレゼントしてくれた。(後日譚であるが、この時に氏が特に気に入ってくれたランボ―の作品は、5年後にフランスのシャルルヴィルのランボ―ミュ―ジアムで、そしてその二年後に、パリ市立歴史図書館で開催された展覧会に招待出品され、ピカソ、ジャコメッティ、エルンスト、クレ―達のランボ―を描いた作品と共に展示される事になり、夢の奇跡は暫く続く事になる。)

 

 

…… さて、いよいよ依頼された取材のインタビュ―が始まった。パサ―ジュの入口に近いレストランで、私、通訳のK女史、そしてゴ―ギャン氏による長い夜の始まりである。開口一番、私は「さてゴ―ギャンさん、私達は2日間、貴方にお会いするのを待ちましたが、その間に貴方はブルタ―ニュに突然行かれてしまった。私の直感ですが、どうもその事が気になって仕方がない。… ゴ―ギャンさんは好奇心の強い人とお見受けします。もし宜しければ、このインタビュ―のはじめに、ブルタ―ニュでの事をお話し頂けると嬉しいのですが……」と語った。するとゴ―ギャンさんは、わが意を得たかのように身を乗り出し、ひそひそ声になって、実に興味深い事を話し始めた。その話とはこうである。…… ブルタ―ニュに行ったのはゴ―ギャン氏と、もう一人の旧くからの友人であった。その友人から突然連絡が入ったのであるが、話に拠ると、二人の友人で、最近フランスの文学賞を受賞した気鋭の才能ある女流小説家がいて、「ブルタ―ニュにある伝説の池―通称〈洗濯女のいる池〉に取材に行くと言って出掛け、その後、忽然と消息を絶ってしまったので、二人して、そのブルタ―ニュの〈洗濯女のいる池〉に行って来たが、結局、その友人の小説家の足取りは、その池の前でプツリと途切れてしまった」のだと言う。

 

話は続く。その池は実在する妖しい池で、昔から何人もの旅人がその池の前で姿を消し、今ではブルタ―ニュの暗い名所になっているのだと言う。池の前に立ち、向かいの池の岸に二人の洗濯女が見えたら、もう逃げられないのだと言う。その洗濯女達はこう呟くのだと言う。「…… ほら見て、また旅人が来たわよ。でもあの人、可愛そうだわ。だってまもなく、私達が今洗っているこのシ―ツにくるまれるのよ。…… 」

 

 

……………………………… 洗濯女と言えば、私が想い浮かべる一枚の絵がある。明治の画家、浅井忠がフランスのグレ―の池を描いた『グレ―の洗濯場』(画像掲載)である。しかし、ゴ―ギャン氏が見て来たブルタ―ニュの池の姿は、浅井忠の絵と違いもっとひんやりとしていて、水もまた一年中冷たいに違いない。……好奇心の強い私は、そう言えば、グリム童話集の中に確か『池にすむ水の精』と題した、実に不気味な話があったのを思いだし、その話をゴ―ギャンさんに話した。「…… 狩人は、自分が例の危ない池の近くにいたことに気がつかず、鹿の臓腑をぬいてから、池へ、血だらけの手を洗いに行ったのです。ところが、水の中へ手を突っ込むが早いか、水の精が、すうっと、まっすぐに出てきて、あはははと笑いながら、ぐしょ濡れの両腕で狩人を抱きかかえ、水の中へ引き入れましたが、そのはやいこと、わかれた波は、あっというまに、狩人の頭の上で合わさってしまいました。………… 」話はこの後で更に不気味さを増していく。…… とまれ、ブルタ―ニュの池に消えた友人の行方を捜す為にゴ―ギャンさんは今一度、その洗濯女のいる池に行くのだと言う。…… かくして、話はブルタ―ニュ、パサ―ジュを絡めて延々と続いた。依頼された『翼の王国』の原稿は10枚書いたが、そのラストは次の文で終わっている。「豪奢な黒の余韻―時間迷宮。夕刻から始まった私たちの会話は果てしなく続き、遂に深夜にまで及んでしまった。夢の通路のように、ヴェロ・ドダの長い夜がそこにゆっくりと流れていた。」

 

 

 

 

 

翌朝、通訳のK女史がたくさんの資料を抱えて、私の部屋に入って来た。見ると、何とたくさんのブルタ―ニュ関連の資料であり、その中に『洗濯女のいる池』の写真も載っていた。インタビュ―が終わり、帰りのタクシ―の中で私がやたらと『洗濯女のいる池に行ってみたい!』と話していたので、K女史は短時間でその資料を集めてきてくれたのである。「この男、本気だな!!」…… たぶん、そう思ったに違いない。帰国して更に調べたら、『ブルタ―ニュ幻想民話集』という、ブルタ―ニュに伝わる「怪奇民話97話」がある事を知った。何故かブルタ―ニュ地方には幽霊の話や、死者の蘇り(黄泉がえり)といった話が集中的に多い。この地の寒くて荒涼とした土地が持つ特異な地霊の成せる業なのであろうか。……この点、柳田国男の『遠野物語』(岩手県遠野地方に集中的に伝わる不思議な話を集めた説話集)と通じるものがある。しかし、『遠野物語』に登場する現場は今は平穏だが、ブルタ―ニュ地方では今も不思議な話や、不気味な事件が継続的に続いている点が、やはり違う。……このコロナが収束したら、先ず行きたいのは、すなわちヴェネツィアと、このブルタ―ニュの『洗濯女のいる池』である。妖しい娘たちの笑い声が響く中、まっさらなシ―ツにくるまれながら水の底へと消えていくのも、また一興か。

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , | コメントは受け付けていません。