ダヴィンチの遺した言葉に、「人生を全速力で駆け抜けた人の生涯は充実しているが、短く凝縮して感じられるものである」という意味の記述があるが、12日に80歳で逝去した演出家の蜷川幸雄氏の疾走する人生は、まさにこの言葉が相応しいであろう。…私も「近松心中物語」をはじめとして数本の作品を観た事があるが、いずれも完成度が高く、氏の作劇法の常に在る、暗く咲くロマネスクの花冠の滴に、過剰なまでのバロックの光が鋭く照射したそれは、まさしく豪奢絢爛の美、虚構の砂上楼閣に立ち上がった大伽藍と形容するに足るものがある。いつからか、歌舞伎の〈かぶく〉という美意識の本質は、才能不在の歌舞伎の場を離れて蜷川氏唯一人の掌中へと移り、色彩の惑乱と、練られた科白の連射によって観客を絶対美の薄い皮膜へと引き込んで、遂にはカタルシスの恍惚と放心へと拉致していくその手腕の強かさは、妖しいまでに魔術的であり、おそらく不世出のものとして、更には伝説として長く語り継がれていく事であろう。
…その蜷川氏を、二回ほどであるがお見かけした事があった。一度目は確か国立劇場であったと思うが、三島由紀夫の『近代能楽集』の幕が引けた後のロビーでの歓談の場で、そして二度目は、私がロンドンに四ヶ月ばかり滞在している時に、シャーロックホームズ記念館を観た帰りの、チャリングクロス駅近くのカフェであった。…公演の打ち合わせの時であったかと思われるが、氏の感性の過剰が放つシャープで鋭いオーラには独特なものがあった事を、私は強い印象と共に覚えている。…かくして人生は、このように通り過ぎていく。 ……人は例外なく誰もが確実に死ぬ。この自明の理を想えば、私の表現者としての生の残余もあと僅かなものであるかもしれないが、…やり残した事のないように、私もまた疾走する「生き急ぎ」を、最後の瞬間の時まで、生きたいものである。