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『速度について今日は語ろうの巻』

菅という、うつむいて喋る人の覇気の無い顔を観ていたら、少しく想う事が湧いて来た。「先の総理に難題を丸投げされて巧みに去られ、この爺さん、さぞや大変だろうな…」「船頭多くして船山に登るか!」……「では他に、この国で差し迫ったコロナ禍の難題を迅速に乗り切れる人材は具体的に誰がいるのか?……答は…否!」「この後ろ向きで歩く亀のような、スピ―ドの無さは何なのか?」「小心とさえ映る論理性を欠いたこの喋りは何なのか?」……そして想う。歴代の総理の姿とは、つまりは私達自身の姿に他ならず、農耕民族特有の、曖昧さ、明確な主張を顕にしない喋り方、不徹底、明晰さの欠如、……それらを映したあからさまな姿なのだと。……こう書くとコロナ禍でピリピリされている何人かの読者は、或いは反発されるかもしれないが、近視眼でなく、この国の歴史を通史的、俯瞰的に視てみると、それがよくわかる筈である。猛烈な速度で従来の通念を断ち切り、革新的な事を断行出来た人材は、私の知る限り……二人しかいない。……それは中世の織田信長と、近世では江藤新平に指を折るだけである。剃刀と云われた大久保利通でさえ、江藤の頭の切れ味から見るとやや鈍い。この信長と江藤に共通するのは、珍しく、ほとんど奇跡的に西洋人に近いと言っていい合理主義的な資質であり、何より思考の在り方が論理的であった。

 

 

全てを西洋の方が良いとは言っていないが、やはり彼らはその意識の成熟度において、大人としての論理性を多くの人達が持っている。……わかりやすい例を挙げると、街頭でのインタビュ―の際、決まって彼、或いは彼女達は自分の言葉を持っており、安易に与しない独自の意見を語り、そこにエスプリさえ効かせたエレガントかつ粋な言葉を付け加えて、最後に自信に溢れた笑みを返す。そして、その返答の返しが早く、他者に通じる鍛えられた論理性を持っている。……これに比べて曖昧さを尊しとするわけでもあるまいが、日本でのインタビュ―の返しはどうか。…成人式の帰りらしい女子は語る「私的にはぁ、なんて言うか、そんなんありっかな、なんてちょっぴり思ったりしてぇ……」「あれぇ、質問何だったっけ?」……新橋の街頭で男性は語る「会社でみんな言ってるんですけど、今回の緊急事態宣言、あれちょっと遅すぎるんじゃないすかぁ、」そこへ訊いてもいないのに幾分酔った感じの別な男性が横から割って入り「テレワ―クになったら、あれよ、ずっと家にいるから、カミサンとしょっちゅう喧嘩だよ。どうしてくれるの、え?」……………………………………………………。

 

 

……しかし、信長も江藤新平もやり過ぎた。その迅速さ、その徹底ぶりが周囲から孤立化し、信長は本能寺で炎と化し、江藤は佐賀の乱で処刑、晒し首になって無惨な死を遂げた。西洋的な合理主義や、断行のやりすぎは、この国では自身の孤立化を産み、遂には馴染まず、悲惨なまでに浮いてしまうのである。……私達(いや私は別だ)が政治家に対し苛立つのは、何処かで期待しているのだと想う。歴史を通して視ると、期待が如何に虚しく、非常時に人材が出る筈もないという事を痛感し、今は確かな身の回りの防御を固める方が大事かと思う。マスク、手洗い、いろいろ皆がやっているが、そこの完全な徹底はしかし無理である。変種化したコロナウィルスは昨年の1.6倍の感染力で私達の身近に迫っているが、敵は想像を越えて、かなり強かで容赦がない。年末からの一気の感染増大は、変種化した感染力と比例しており、イギリスなどのロックダウンした国と同じ曲線を描いている点から考えると、未だ全く先が読めない。……私は先日、パルスオキシメ―ター(肺炎の早期発見と脈拍数を測定するのに有効)を購入し、加湿器も新たに備えた。しかし、心掛けても感染してしまったら、もはや運命として、かつてコロリで逝った広重や、スペイン風邪で逝ったクリムトやエゴン・シ―レに続くだけ、是非も無しである。……表現者として、自分の可能性の引き出しを全て開けてから死ぬ事、これは私が30代に自分に課した事である。……版画、オブジェ、コラ―ジュ、写真、美術評論の執筆……他いろいろとやって来たが、最後に未だ残っているのが、私の詩人としての可能性の開示である。その私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』が、先日印刷が終わり、今は製本の段階にあり、今月中に完成する予定である。……今回は、コロナ禍の話から転じて、表現者の創る、或いは描く速度について書く予定であった。ちなみに佐伯祐三が、20号のキャンバスで1枚の作品を仕上げるのに要する時間は僅かの40分であり、晩年のクレ―は1日に3~5点(しかも、いずれの作品も完成度が高い!!)仕上げている。いずれも脅威的であるが、私の場合は、閃いて瞬間的にそのインスピレ―ションを組み伏す時間はだいたい4秒くらいである。……その創造の原点と、閃きの速度についての舞台裏を書くつもりであったが、もはや紙数が尽きてしまったようである。……これについては、またいつか書く事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

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『2021年―最初に想った事』

……何事も無いかのように、いつものように地球がゴロリと回り、当たり前のように2021年の年が明けた。日本海側は大雪だというのに、ここ横浜の空は風は強いが、しかし抜けるような青空である。……この、事も無しのような蒼い空を見ていると何かに似ているなと思い、すぐに気がついた。映画『男はつらいよ』シリ―ズのラスト場面に決まって出てくる青空を連想したのである。もしあのラストが、どんよりとした曇り空だったら、あの映画は全て台無しになる。大団円の為には、あの嘘のような青空と、畳み込むような音楽がいいのである。…………さて、元旦に相応しく、陽を浴びようと思って近くにある古刹・妙蓮寺の広い境内を歩いていると、たくさんの御神籤(おみくじ)が紐に結んであるのが目に入った。コロナ禍が影響しているらしく、いつもよりたくさん結んであるように思われる。そのたくさんのおみくじを見ていると、面白い言葉が目に入った。「医師をえらべ」、そう書いてあった。……おぉ確かにそうである。どの医師に出逢うか、或いは選ぶかで、生と死がアミダくじのように分かれ道に立っている。いざというときに悔いが残らない為、普段からの情報収集的なシミュレ―ションは大事な事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あれは確か、昨年の1月末頃であったか、イギリスのクル―ズ船『ダイヤモンド・プリンセス号』からコロナの患者が出た時は、未だ対岸の火事の様相であった。それがジワジワと感染が国内に拡がり、第1波、2波、そして年末から現在の第3波の加速的な感染爆発を見ていると、まるでコロナウィルスに不気味な殺意、さらには冴えた戦略的な意思が息づいているかのように見える時がある。……そして、その波状的な容赦のない攻撃性の様を想うと、以前に読んだ『戦艦大和ノ最期』(著者・吉田満)で書かれていた、米側がとった実に周到な戦略に重なるものを私は覚えた。

 

大和の世界最大という巨砲46センチ砲を誇る日本海軍は、アメリカの攻撃網の中にすっぽりと最早入っているというのに、大艦巨砲主義に依りながら進んで行った。時代は既に軍艦の大鑑主義から戦闘機による航空優位主義へと移っていたという自明の分析もなく。……そこに雲間から先ず現れたのが、米の戦闘機100機による攻撃であった。しかし、間もなくして敵機は去り、静けさが訪れる。これがいわゆる第一波。大和の乗組員達はまだ戦気があった。だが、対軍艦用の自慢の46センチ砲は全く役に立たず、戦闘機に対する対空射撃の威力は乏しかった。……直ぐに次は電撃機131機が雲間からどす黒い塊となって襲来、大和の左舷のみを集中的に破壊する作戦をとった。これが第2波。…………そして、一時間くらいの時が経ち、次に雲間から飛来したのは、予想を遥かに超える、合わせて386機(戦闘機180、電撃機131、爆撃機75)の襲来であった。……もはや容赦のない殺戮というよりも、それは屠殺に近い惨状であったという。かくして乗組員3332人のうち生存者は僅かに276人。……この時間差的に襲来する波状攻撃の様が、私にはコロナウィルスの様相とダブって見えるのである。

 

……そして、政府と東京都、さらには他の知事達との対立の様、つまりは同じ方向を共に視ていない統一感の無い様を想うと、かつてそうであった、海軍と陸軍との対立的構図がそこに重なり、ひいては白骨街道と云われ、戦死26.000人、戦病死30.000人以上の死者を出した、この国の無策の様を表す代名詞、インパ―ル作戦を思い浮かべるのである。……情けないまでにバラバラ、これではとうてい勝てる筈が無い。……以前に友人の一人が私に、「このコロナ禍は敵の姿が見えない、第三次世界大戦のようなものですよ」と語った事があった。私はその時はピンと来なかったが、或いはそれくらいの自覚と気構えで暫くはいた方が良いのかと、ふと思う。……しかし、こちらが出来るのは残念ながら攻めではなく、防備の徹底しかないのが現状である。

 

……ちなみにマスクと云えば、1枚を付けるという事を誰もが概念的、横並び的に連想し、ほとんどの人が1枚しか付けていない。マスク即ち1枚…という発想は、風邪やインフルエンザへの、あくまでも予防的な対処法である。しかし、コロナウィルスの大きさはそれより遥かに微小である。……よって私は、どうしても出掛ける用事のある場合、最近はマスクを2枚付けて出掛けている。……防御力の自主的な増強である。思っている程に息はそれほど苦しくはなく1枚の時と大差は無い。……昔は「袖振り合うも多生の縁」という、豊かな言葉があった。それが今や「袖振り合うも多少のウィルス」になってしまった。しかしシャレている場合ではない。人心が疑心暗鬼となり、孤立化する世の中になってしまった。……しばらくは、名実共に寒い冬が続きそうである。 (次回に続く)

 

 

 

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『さらば、2020年!!』

……年末の某日、急に故郷の名産である越前がに(雄)やセイコガニ(雌)が食べたくなり、築地の場外市場に行った。市場内にある水産専門の斎藤商店は越前蟹を商う唯一の店。行ってみて驚いた。例年より倍以上の高騰で、しかも身が薄く痩せている。今年は大漁の筈なので、高騰の理由を主の斎藤さんに訊くと、コロナ禍の影響で帰省出来ない人が多いので、地元から発送する需要がかなり多いのが原因という。ならば蟹は1月中旬頃に出直すとして、手ぶらで帰るのも寂しいので、老舗の「松露」で九条ネギ入りの玉子焼き(秘伝のダシがよく、玉子焼きはこの店が一番美味しいと思う)を買い、鮭の専門、昭和食品で超辛口紅鮭を買う。昔ながらの製法で塩漬けして半年以上冷蔵したこの塩鮭は、焼いていると塩が吹いて来て白くなる絶品で、塩分の過剰摂取はもちろん体に悪い。しかし体に悪いというのは、何故か美味さに繋がっているから始末が悪い。……大晦日まではまだ日があるのに、市場の人出は既に多い。雑踏を縫うように歩きながらふと思う。……この人達は知っているのであろうか?昔、この築地場外市場が全て築地本願寺の地所であり、人々で賑わうこの場所が全て墓場と寺であった…という事を。

 

 

日本画家の鏑木清方の代表作に『一葉女史の墓』という名作がある。私と同じく樋口一葉を慕う鏑木清方が、一葉亡き後、この築地本願寺の墓地(つまり今の築地場外市場の場所)を訪れ、一葉の墓を写して画いた名作である。……清方の絵の着想の元となったのが、やはり樋口一葉を慕う泉鏡花が書いた『一葉の墓』という随筆で、当時(明治30年代)のこの築地本願寺辺りが実に淋しい場所であった事が伝わってくる哀惜に充ちた名文である。(ちなみに墓地は関東大震災で壊滅的に被災した為に、この墓地に在った樋口一葉の墓は「明大前」の築地本願寺和田掘廟所に、また琳派の酒井抱一や赤穂義士の間新六の墓は、築地本願寺の境内内にひっそりと移されている。)……当時と今の違い、築地場外市場が墓地であった事を示す地図を掲載するのでご覧頂きたい。〈昔日と変わっていないのは通りを渡った先にある割烹・新喜楽〈芥川・直木賞の選考会場で知られる〉だけである。

 

 

 

 

 

 

 

 

年末の某日、……来年1月20日頃に刊行予定の私の初めての詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の原稿が全て完成したので、神田神保町にある文芸・美術図書出版社・沖積舎の社主、沖山隆久さんと細かい打ち合わせをする。沖山さんは私の初めての版画集、初めての写真集を次々と企画出版された方で、今回の初めての詩集が三つ目の企画になる。つまり、私の版画、写真、詩における表現者としての生き方において、導きを作って頂いた恩人なのである。詩は今までも折りに触れて発表して来たが、「詩集」となると、また別なものがあるのである。

 

……神保町での打ち合わせを終えて、次に向かったのは、竹橋にある東京国立近代美術館であった。美術課長をされている大谷省吾さんにお会いして、今日は近代日本美術史にまつわる幾つかの疑問についての自説を語り、そして大谷さんの分析を伺うのである。……先月の高島屋の個展に大谷さんが来られた際に、私は北脇昇について書かれた実に詳細に考察された大谷さんのテクストを頂き、個展の時に読み耽っていた。知の考察は鋭く深ければ深いほど、ミステリアスな妙味の深度も更に増していく。先に東京国立近代美術館で開催された『北脇昇展・一粒の種に宇宙を視る』は、近代日本美術史、特にシュルレアリスム絵画の日本における受容と展開を研究対象とされている大谷さんの企画によるものであるが、私はこの展覧会を観て、北脇昇について今まで語られていたのが、北脇昇とシュルレアリスムとの関係のみで、それが北脇においては一つの角度からでしかなかった事を知り、北脇への解釈がこの展覧会で一変したのであった。つまり、私達が既知として知っていると思っている近代美術史を含めた様々な事が、実は多面体の一面でしか無かった事を痛感したのである。〈……以前に、慧眼で知られるドイツ文学者の種村季弘さんは私に「皆は1960年代以降の事ばかり騒いでいるが、本当に面白いのは、むしろその前夜、暗い黎明期の胚種の頃だという事を誰も気づいていない」という、実にものの見方のヒントとなる発想法を伝えてくれた事があった。……私が発想の源に比較文化的な視点を置くようになったのは、実にこの種村さんと芳賀徹(比較文学者)さんからの影響が大きい。〉

 

……いろいろと話を伺っていて、大谷さんの最大の関心事が画家の靉光である事を知り、私は大いに共振した。私もまた同じだからである。……靉光……近代日本美術史上、最も鋭く、幅の広い表現力を持ち、最も捕らえ難い画家と云えるこの画家の頂点にして、近代日本の呪縛的な絵画、謎めいたブラックホ―ル的な作品『眼のある風景』は、シュルレアリスムの影響からも逸脱して聳える一つの巨大な謎かけの「門」である。……この絵の眼球に息づく、僅か二刷毛で描かれた緑の描写に幾度、溜め息をつき、唸って来た事であろうか。その靉光、高村光太郎、松本竣介、佐伯、ロダン…等について話し、時間はあっという間に経ってしまった。…帰り際に大谷さんから、コロナ禍で開催が叶わなかった展覧会の図録『無辜の絵画―靉光、竣介と戦時期の画家』(国書刊行会)を頂いた。近代という謎を多分に孕んだ靉光への、私なりの推理が、あらためて始まったようである。

 

 

 

 

 

〈部分〉

 

 

 

……竹橋の美術館からアトリエに戻ると、郵便受けに手紙と小包が届いていた。開けると、手紙は詩人の野村喜和夫さんからで、野村さんの詩集『薄明のサウダ―ジ』が第38回現代詩人賞(日本現代詩人会主催)を受賞された事を伝えてくれる内容であった。野村さんは詩に関わる賞のほとんど全てを受賞している人で、詩の可能性を広める為にジャンルを越境して果敢に挑んでいる姿勢が私の最も共感するところである。私とはランボ―を主題とした詩画集『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』(思潮社)の共著があるが、いずれまた何か新たな閃きが湧いた時に、野村さんと組んでみたいという考えを抱いている。この国のほとんどの詩人達は、ささやかな得手の領域(巣箱)で甘んじているが、野村さんは全くそういった閉じた所が無く、むしろ次の予測が全く読めない人なので、それがいつも私における、楽しみの一つなのである。……小包を開けると、美学の谷川渥さんから届いた『文豪たちの西洋美術―夏目漱石から松本清張まで』と題する新刊書であった。先月の高島屋での個展の最終日に谷川さんが来られた時に「近々、新刊書が出るので送りますよ」と言われていたので、楽しみにしていた本なのである。……日本近代文学の文豪達は、どんな作品(西洋の美術作品)に触発されて来たか!?を切り口とした、今までになかった斬新な角度からの鋭い記述が満載である。……文豪と西洋の画家との組合せ。妥当もあれば意外な結び付きもあり、既存の解釈がぐらついてくる知的快楽に充ちている。コロナ禍で籠る事が多い昨今であるが、そういう時に、ぜひ気軽に読まれる事をお薦めしたい本である。

 

 

……さて、コロナ禍に終始した2020年もいよいよ後僅かである。来年はいよいよ正念場。世界はウィルスに押し切られるのか!?、……それともワクチンが想像以上に効いて、土俵際の見事なうっちゃりで、収束へと向かわせられるのか!?……不気味な気配を孕んだまま、今し地球がゆっくりと回っている。……読者の方々の平安と無事を祈りつつ、今年最後のブログを終わります。

 

 

 

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『今、世界はあたかも泥の舟と化して……』

ずいぶん間が開いた久しぶりのブログ掲載になってしまった。あまり途切れるのが長いと「遂に北川もコロナでは……!?」と思われた方も或いは……。しかし、どっこい、私はまだ元気に生きています。とは言え、今後さすがに2ヶ月近くブログの更新がなかったら、まぁその時は私が昇天したと思って下さって間違いないでしょう。……しばらく更新が無かったのは、来年早々に刊行される予定の詩集の為に、詩の原稿を専らに書いていたからである。毎年12月は、さすがに来年の新しい作品展開に向けての、頭の切り替え、充電に使われるのであるが、今年の年末は詩作に耽る日々。いささか生き急ぎの感があるかもしれない。版画、オブジェ、コラ―ジュ、写真、評論……と螺旋状に切り開いてやって来たが、私がまだ集中して開けていない自分の可能性の引き出しは、純粋の言葉だけによる「詩」の領域、……そして1冊の詩集の刊行なのである。今までは小だしに書いて、写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』(沖積舎刊)の掲載した各々の写真の横に、写真作品と併せて載せる為に、90点の詩を3日間(つまり1日に30点の速度で詩を書き上げていく!)で書き上げたり、作品集『危うさの角度』(求龍堂刊)の中に入れる詩を書いては来たが、まとまった1冊全てが詩文で構成された詩集というのは初めての挑戦なので、また別な力が入るというものである。2年前に詩の分野の賞―歴程特別賞なるものは頂いたが、この受賞理由は、私の今までの全業績に対して……というものだったので、今回の詩集刊行への挑戦は、とにかく別物なのである。その詩作に没頭している間にふと世間を見やると、世界はコロナウィルスの凄まじい感染によって、まるで泥の舟、……あり得ない、しかし沈まないという予見の裏付けが無い様相を呈している。……18世紀中葉からイギリスで起きた産業革命は、加速的かつ致命的に自然を破壊して、今や人心までも荒んだものに変え、地球は断末魔の様相を呈しているが、地球サイド、豊かだった自然界、動物界から見れば、地球にとっての破壊的なウィルスは、私たち人類に他ならない。……聞いた話であるが、もし人類が絶滅しても地球にとって全く損失はないが、仮に蜜蜂が全て死滅したなら、地球の生態系がかなり壊滅的に狂う……という話は、なんとも暗示的である。今年の春に、人々が行動を控えた時、例えばヴェネツィアの濁ったアドリアの海が透明度をいや増して、魚が元気に泳ぐ姿を見たが、何やら近未来的な人類消滅後の地球の清んだ光景を透かし視るような思いであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

……さて今回は、私の友人の一人である久留一郎君について書こうと思う。久留君はデザインの分野ではかなり知られた実績のある人であるが、その美的な感性を、彼がかつて住んでいた神保町の部屋で、私はありありと目撃した事があった。古い面影を漂わせた神保町の街の佇まいはそれだけで惹かれるものがあるが、その街の闇に溶け込むようにして、ある黄昏時に彼の部屋を訪れた事があった。……下町の何処にでもありそうな小暗い印刷工場(だったか?)の中に入り、暗い階段を彼に導かれるままに上がって行くと、突然目の前に広がっていたのは、完全なる美意識の映し、喩えるならば、そこだけがパリの一室、例えばリラダン男爵の舘の一室ではないかと見紛うような眩惑の気配をその部屋は漂わせていた。洗練された調度品といい、積まれた書籍の内容といい、何かの魔法にかかったような気持ちであった。そのダンディズムの薫り漂う部屋に私のオブジェ作品『ヴェネツィア滞在時におけるアルブレヒト・デュ―ラ―に関する五つの謎』(作品画像は、拙著『危うさの角度』に掲載)が掛かっていて、実に調和していたのを思い出す。……しかし、3・11の激しい地震の揺れをもろに受けて部屋は倒壊し、その部屋の耽美に充ちた印象の記憶は、残念ながら私の記憶の中に今も消えない鮮やかな眩惑性を帯びて、ひっそりと息づいている。(後で聴くと、彼は私の作品を抱えてその部屋から避難したようである。)閑話休題、今、私はリラダン男爵の名前を挙げたが、その夢幻の世界と近似値的に近いポーの世界を彼は幼年の時から熱愛している一人である。……そしてコロナ禍の今、彼は一念発起してネットによる画像配信によるポーの世界への頌(オマ―ジュ)の開示を立ち上げた。……それに関して私も協力する事となり、ゲストクリエイタ―としてコラ―ジュ『モ―リアックの視えない鳥籠』という作品を提供した。その私の作品の中には一見してポーらしきものは無い。しかし、作家にして名書評家でもあった故・倉本四郎氏(『鬼の宇宙誌』『妖怪の肖像』などの名著多数)は、私の作品を評して、私を「ポーの末裔」と呼んだ事があり、私を面白がらせた。今では伝説的な画商として語られる故・佐谷和彦さんも私を同じように評した事があり、偶然とはいえ面白い。その倉本さんは一言にして本質を語る卓見の人であった。…………これは私見であるが、オマ―ジュにポーの肖像を画く事はむしろ容易(たやす)いし、ある意味、それは既存のポーのイメ―ジに寄り掛かった借景であり、安直であると私は視る。……ポーの世界とは、その表裏に於いて繋がり、或いは地下で通底し密接しておれば良いので、私は彼にそのような作品を提供した。彼の今回の試みにはフランス文学者にして、日本におけるシュルレアリスム研究の第一人者、巌谷國士氏も久留一郎君の為に長文を書いている。今回のコロナ禍の中にあって久留君は最も精力的にポーに挑んでいるが、その姿はなかなかに考えさせられるものがある。一つの試みとして私はこの挑戦の行く末に密かな興味を持っているのである。……ご興味のある方は、ぜひ彼のサイトを開かれて、ご覧になる事をお薦めする次第である。

 

 

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『記憶の謎―迷宮の無限回廊』

3週間に渡って日本橋高島屋本店・美術画廊Xで開催された個展『直線で描かれたブレヒトの犬』が終わり、今は初めての詩集の刊行が企画されている為に、詩を書き下ろしている日々である。思い返せば、個展時は毎日会場に行き、新作の〈今〉の姿を静かに考えたり、様々な人との嬉しい再会があり、また新たな人達との出逢いがあって、実に手応えのある展覧会であったと思う。……ともあれ、ご来場いただいた皆様に心よりお礼申しあげます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……個展会場にいると様々な人が来られるので、これが実に面白い。Mさんはその中でも異風の人であったかと思う。画廊Xの受付の人に「彼(私の事)、大学が一緒なんですよ」と言う声が耳に入って来たので振り向くと、そのMさんが私の前にやって来てマスクを外し「私の事を覚えていますか?」と問うので、私は「申しわけないですが、全く覚えていません。でも貴方だってそうでしょ?」と言った。するとMさんは「いや、北川さんの事は強烈に覚えていますよ!…だってあなたは入学式の時に学生服を着て来たので、最初からかなり存在感が強かった!」と言う。私が学生服を?……全く覚えてない話であるが、言われてみるとそんな事もあったような気も少しする。私の忘れていた自分の記憶の一部を、私でない他人が所有しているという事は、ちょっと風が吹くような感覚である。(……私が学生服姿で大学の入学式に現れた?)……まぁ、これをわかりやすく例えれば、実践女子大の着飾った華やかな入学式に、1人だけ鶴見の女子高のセ―ラ―服姿で荒んだ顔の娘が現れたようなものか。……そんな事あったかなぁと思う自分と、いやこれは、Mさんが懐いている私のイメ―ジが独走して紡いだ錯覚ではないかと思う、もう一人の自分がいる。……過去の一つの事象に対して立ち上がる、異なる断定と懐疑、また別な角度からの予想外の解釈が現れて、そこに短編のミステリ―が誕生する。一つの事象に対して複数の証言者が全く違った物語を展開する。……それを膨らますと、何だか芥川龍之介の『薮の中』、またそれを題材にした黒澤明の『羅生門』のようである。

 

写真家のエドワ―ド・マイブリッジが3台のカメラを使って撮影した、一人の女性が椅子から立ち上がった数秒間の動作を正面、右側、やや背後の三方から同時に撮した写真があるが、視点の違いから、同じ瞬間なのにかくも違って見えるから面白い。記憶もそうである。人が懐かしいと思って記憶している或る場面とは、つまりは一つの角度からの光に充ちた光景に過ぎず、違った角度から見れば、それは何と闇に包まれた別相なものである事か。ことほど左様に記憶とは覚束無い、つまりは脳の不完全な営みが産んだ幻影のようなものなのである。……先ほどの入学式の記憶をもっと解体すると、そもそも私は本当に美大に行ったのか?……もっと言えば、そう思っている実の自分は、未だ幼年期に故郷の神社の木陰で涼しい風をうけながら惰眠をむさぼっている、少し永い夢見の少年のままでいるのではないだろうか?……荘子が詠んだ『胡蝶の夢』、更には王陽明の詩にある「四十余年、瞬夢の中。/而今、醒眼、始めて朦朧。…………」或いは更に現実を離れて、唯心論の方へと、想いは傾いても行くのである。

 

 

 

 

……さて、今まで書いて来た事「記憶とは何か?……その不確実性が生むミステリアスな謎の無限回廊」を映画化した名作がある。アラン・レネ監督、脚本アラン・ロブグリエによる『去年マリエンバ―トで』が、それである。…私が、美術をやるか、或いは映像、文芸評論、……それとも舞台美術の何れに進むか!?その進路に迷っていた頃に観て自分の資質を知り、先ずは、銅版画の持つモノクロ―ムの冷たく硬質な、更に言えば強度な正面性を孕んだ表現分野に没入して行く事を促してくれた、決定的な出逢いとなった作品なのである。……この映画に軸となる一本の定まった筋は無い。文法的に言えば、文章が成り立つ為の規則―統語法(シンタックス)が外されている為に、それを観た観客は謎かけを提示されたままに、冷たい幾何学的な硬い余韻のままに映画館を去る事になるが、しかし想像する事の妙が次第に立ち上がって来て痛烈に忘れ難い印象を、私達の内に決定的に刻み込んでくる。……アラン・ロブグリエは映画化に先立ち四本の脚本を作り、それをバラバラにした後で繋ぎ合わせるという実験的な手法を用いた。「①現在、②Xの回想〈Xにとっての主観的事実〉、③Aの回想〈Aにとっての主観的事実〉、④過去〈客観的事実➡Mの視点〉の四本である。……ちなみにこの映画を、シュルレアリスムに深く関わった詩人の瀧口修造は「私における映画の最高傑作」と高く評している。画像を一点掲載するので、そこからこの映画の気配を感じ取ってもらえれば何よりである。

 

 

 

 

この映画『去年マリエンバ―トで』に、ダンスの勅使川原三郎氏が果敢に挑戦するという報が入って来た事は、最近に無い鮮烈な驚きであった。かつて観たあの難物に、最近ますますその才を発揮している佐東利穗子さんと共にデュオで挑む!!……氏の公演は三十年前から観始め、およそ七年前からは殆ど欠かさず集中的に観ており、このブログでも機会をみては度々書いて来たが、今回の公演はまた別な昂りもあり、今から公演が待たれて仕方がない。題して「去年『去年マリエンバ―ドで』より」。「……二十世紀は二人の怪物を産んだ。ジャン・ジュネニジンスキ―である」と書いたのは鋭い予見の人でもあった三島由紀夫である。私はそのニジンスキ―の伝説的なバレエの舞台に立ち会えなかった事を後悔し、長い間、嘆息をついていたのであるが、勅使川原氏のダンスを知ってからは、その嘆きも何時しか消えた。……送られて来た今回の公演の案内状には、「記憶ほど怪しいものはない。交わらない視線上の女と男」という一行と共に、以下のような一文が記されていた。「……私にとって記憶とは、頭脳で操作する遠近法ではなく、不確かに記録した身体内に置き去りにされた消えつづける煙のようなものを物質化する遊戯のようです。遊戯としての記憶と希薄な身体とが時間をさかのぼりさまよい途方にくれる。螺旋状に女は蒸発しつづけ男は常に決して勝てないゲ―ムをつづける。…………勅使川原三郎」

 

会場・シアタ―X(東京・両国)
会期: 2020年12月12日(土)・13日(日)・14日(月)・15日(火)

詳しいお問合せ : KARAS(カラス)  TEL03―5858―8189

 

〈チケットの取扱〉

チケットぴあ・イ―プラス

シアタ―X 〈電話予約・03―5624―1181〉

 

 

 

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『個展の前の静けさ』

……今月の28日から、日本橋高島屋本館の6階・美術画廊Xで始まる個展を前にして、ふと今年の年頭の時を振り返ってみた。想えば、最寄りの寺で戯れに久しぶりに引いた御神籤は「大吉」であった。その時に小吉の人もいたであろうし、凶の人もいたであろう。しかし、皆が揃って今年は大禍も大禍、「大凶」であった。そう想うと御神籤などは、グリコのオマケのようなものかと思う。

 

……話は先月に遡るが、原宿にある太田記念美術館で開催していた『月岡芳年―血と妖艶』展を観に行った。幕末から明治前半に活躍し、やがて狂いを呈した月岡芳年という鬼才に30代の頃にはまり、彼の作品(代表作である「英名二十八衆句」のシリ―ズ)を求めて、神保町の浮世絵専門店に度々出入りした事があった。しかし芳年の他の作品は何点かはすぐに見つかるが、一番人気の高い、我が国の残酷絵の最高峰「英名二十八衆句」だけはなかなか見つからず、果てはロンドンに住んでいた時も、この芳年を求めて歩き回った事がある。意外に映るかもしれないが、この芳年は特にイギリスにおいて人気が高く、愛好家が多いと聞いていたからである。さて、この芳年、……私の前にも「英名二十八衆句」のシリ―ズを求めて熱狂的に探し回っていた先達の人達がいた。芥川龍之介江戸川乱歩三島由紀夫、……そして澁澤龍彦といった、如何にも相応しい面々である。何故この芳年に、それも揃って「英名二十八衆句」に絞って惹かれるのには訳がある。このシリ―ズが持つ過剰さの中に、ロマネスクやバロック、そして物語が成立する為に必要なイメ―ジの突き上げを揺さぶってくる強度なオブセッションといったものが多分にあり、私達をして激しく想像力を煽ってくるからである。要するに、芸術に必要な〈強度〉を濃密に孕んでいるのである。…三島由紀夫は『デカダンス美術』と題する中で「大蘇(月岡)芳年の飽くなき血の嗜欲は、有名な英名二十八衆句」の血みどろ絵において絶頂に達する」と絶讚し、江戸川乱歩は「芳年の無残絵は、優れたものほど、その人物の姿態はあり得べからざる姿態である。写実ではない。写実ではないからレアルである。ほんとうの恐怖が、そして美がある」と記している。…………長年をかけた苦労の末に、私は二点の作品『福岡貢』と『直助権兵衛』を入手した時は嬉しかった。『直助権兵衛』は骨董市で(破格に安い掘り出し物として)見つけだし、『福岡貢』は、私が芳年を探している事を知った知り合いの画商の人からタダで譲り受けたものである。ちなみに、北鎌倉にある澁澤龍彦氏のお宅に伺った時には『稲田久蔵新助』という、いかにも氏に相応しい選択眼で収集した作品が書斎に掛けてあり、思わず「なるほど!」と得心したものである。……その「英名二十八衆句」と晩年の秀作「月百姿」、「風俗三十二相」、そして、後の縛り絵の大家・伊藤晴雨に影響を与えた代表作「奥州安達がはらひとつ家の図」といった、素晴らしいセレクション眼による展示が行われていると知っては、無理をおしてでも行かない理由は無い。会場は熱心な芳年のファンでかなりの入りであった。…今日のぼんやりとした貧血性気味の美術界からは絶えて久しい「血」「妖艶」「闇」が満載の、久しぶりに高まりを覚える充実感のある展覧会であった。

 

 

 

 

 

 

……さて、コロナ禍に話を移そう。実はずっと以前から疑問に思っている事があった。それは、何故新型コロナやインフルエンザ、かつてのコレラや凄まじいまでに猛威をふるったスペイン風邪といった、これ等のウィルスは、時が経つと自然に消滅するのか?といった素朴な疑問である。単純に言えば、ねずみ算式に拡がって行くこのウィルス、その行く手に待つのは人類皆の死滅の筈である。昔は今のようにワクチンなど全く無かった時代に、しかしコレラはやがて消滅し、スペイン風邪はおよそ8000万人以上の死者を出したが、三年の月日が経つと自然に消滅して大人しくなった。何故なのか?……「抗体が皆に出来るからだよ」としたり顔で言う人もいるが、納得するにはやはり疑問が残る。……先日その事を知り合いの美容師のA君と話した事があった。ちなみにA君の口癖は「……ほんと、そうですよね!」が実に多いので、話に発展性は期待出来ない。結局二人で出した結論は「ウィルスの方が、しゃかりきに暴れている事に飽きてしまうのかね」という、秋風がヒューと寒々しく吹くような結論であった。とまれ、今年の1年は異様に短い1年であったような気がする。皆が総じて悪い夢―まるでSFの中のあり得ない世界に入りこんでしまったような非現実的な感覚の中を生きているような感じがするのは、私だけだろうか。

 

 

 

 

 

 

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『夏の行方―成田尚哉さんに』

このブログでは、私の親しい人達が実名で度々登場するが、映画の企画、制作、プロデュ―サ―をされている成田尚哉さんは、最も登場回数の多い内のお一人である。つまり、それだけ意識の内側に深く関わっているのだと思う。私のアトリエにも度々来られ、また成田さんの吉祥寺や現在の平井のご自宅にも伺って愉しい時間を過ごした。

 

ブログでは、昨年11月21日付けの『一葉に恋して/本郷編』に成田さんが登場する。……私はこの日の午前に成田さんと本郷三丁目駅で待ち合わせて、明治の面影が遺る菊坂下にある樋口一葉の旧宅跡や、その周辺を共に歩き、老舗の鰻屋『鮒兼』で鰻重と肝焼き、そしてビ―ルを飲み、私は成田さんに熱く、ひたすら熱く語った。樋口一葉の映画化の話をである。成田さんは、鮒兼の鰻重がたいそう気に入り、味に感動しながら話が進んでいった。「……例えば、女性の謎を追い求めた最期の絵師・あの上村一夫が最終的に辿り着いたのが樋口一葉です。成田さん、ここ大事です、樋口奈津(一葉の本名)には、追うと逃げ水のように消え去る不可解な謎があまりにも多い。天才にして、捕らえ難い実に面白い人物です。……」と語った。いつもそうであるが、この日も成田さんは終始聞く側に徹していた。ただ頭の中ではプロの映画の企画者としての感性が俊敏に動いている。そして、成田さんの語りから、気持ちが映画化の企画へと傾いている事が手応えとして伝わって来た。昨年の7月にアトリエに来られた際に、既に一葉の件は振ってあり資料も手渡してあったので、この日は、その続きなのであった。「確かに一葉は映画化しても面白いですね!」成田さんがそう言うので、私はなおも喋った。喋り続けた。……まさか今、目の前にいるこの親しき人が、半年後の9月に、もはや永遠に会う事が出来ない黄泉へと旅立ってしまう運命にある事など全く知らずに………………。

 

今年の2月、版画家、藤牧義夫が24才の若さで、版画家小野忠重の家に行った時点で忽然と消えてしまった謎を追って、私は追跡していたのであるが、ある日、その消えたといわれる向島小梅の現場に行く際に成田さんも誘おうと思って、「2月10日の正午に吾妻橋の中央の欄干で待ち合わせしませんか?」とメールを送信した事があったが、成田さんから来たメールには「最近、足がきついので、もし宜しかったら平井の拙宅は如何でしょうか?」という内容であった。……そして私は平井へと赴いた。奥様の可子さんもおられ、手作りのご馳走を美味しく頂きながら話が弾んだ。成田さんは、今秋開催予定の個展に向けて、制作の場になっている部屋の一角に進行中の作品が溢れていた。映画の企画の本業と共に成田さんはオブジェやコラ―ジュの制作も永くされており、その表現の深みは年毎に増して、完全に第一線級のプロの完成度を持つようになって来ている。昨年に開催した個展で、私は成田さんの作品が気に入り、購入させてもらい、次なる展開を本当に愉しみにしていた。…しかし、個展の開催は叶わず、成田さんは肝臓癌の転移により、この夏の終わりに旅立ってしまった。その日にお会いしたのが、結局は今生での最期となってしまったわけである。…そして私には、ひたすらの寂しさと共に多くの悔いが残る事となってしまった。

 

 

 

……成田尚哉さんとの出逢いは、20年以上前に遡る。渋谷の東急セミナ―から話があり、オブジェの講座を暫くやっていた事があった。ある日の講座で、私のアトリエに近い大倉山にある、大倉山精神文化研究所(現・大倉山記念館)なる建物で、私が23才の頃に目撃した、全裸の少年がその建物から飛び出して来た話や、その不穏な気配、謎の多い「精神文化研究所」なる物の来歴などについて話をした事があった。受講生の多くは、オブジェの技法でなく、そのような話ばかりする私に呆れていたようであるが、一人だけ、その話に興味深く食い込んで来てくれた人が、成田尚哉さんであった。そればかりか、成田さんは実に興味深い話をしてくれた。私はそこ(大倉山精神文化研究所)に行き、映画のロケをした事がありますよ、と切り出してくれたのである。メイクの女性が勘が実に鋭い人で、その現場に着くなり、成田さんに「ここはヤバイですよ、かなり危ない気が充ちていますよ!」と真顔で語ったという。果たしてその通りで、撮影の連日に事故がおき、あまりにも危険過ぎるので予定を早めに変更して撮影を切り上げたという。……成田さんがプロデュ―サ―を勤めた映画『1999年の夏休み』(原作・萩尾望都)がそれであり、当時は水原里絵の芸名だった、深津絵里が主演しスクリ―ンデビュ―して話題となった作品である。私は成田さんとは、初めてお会いしたその日に感性が合い、以来親しき友としての交流が始まった。

 

成田さんは慶應大学の美学美術史を専攻し、当時全盛を極めていた日活に入って、数百本以上のロマンポルノの企画を担当(わけても全ての石井隆原作のシナリオを企画)。日活から移籍後、2003年以降は自身の映像プロダクション『アルチンボルド』を立ち上げ、『ひぐらしのなく頃に』『海を感じる時』『花芯』……などの名作を連発していった。……私が(そして成田さん自身にとっても)残念だったのは、芥川賞受賞作の松浦寿輝『花腐し』の映画化を企画して、既に脚本までも完成しながら実現しなかった事である。この企画の話はかなり早い段階から伺っていて、幾つか私なりの考えも話した事があった。……実現していれば映画史に残る可能性があっただけに残念である。

 

……私が成田さん宅を訪れた2ヶ月後の6月、突然、成田さんから電話が入り、肝臓癌で余命が半年である事を告げられた。……私は自身が思っている人生の意味を語り、そして、その生において最も幸運な事は、自分を活かす生き甲斐のある仕事を見出だす事が出来、自らの可能性の引き出しをあまねく全開し、達成出来たか否かではないかと思う……という話をし、成田さん、貴方は全的に達成した人だと思う、と私は話した。……そして、映画の企画だけでなく、コラ―ジュなどの美術表現においても、成田さんの表現の域は、かなりの高みに在るという私見、確信を話した。……そして、私は死とは終わりに非ず、新たなる生の始まりであり、転生があると確信しており、私は今生の生が終る直前に、明治26年の9月6日の朝未だ来の浅草、花川戸に魂を翔ばし、まだ名作『たけくらべ』を書く直前の極貧の樋口一葉の横をかすめて、浅草十二階(凌雲閣)の螺旋階段を昇って上昇し、その高みに自分の魂を本気で翔ばすつもりですよ!と話した。普通の人なら私の考えを唯の夢想と片付けてしまうが、私に度々起きる様々な不思議な現象のある事を知っている成田さんは「……北川さんは陰陽師ですからね」と優しく言ってくれた。……それが今生で交わした成田さんとの最期の会話になってしまった。

 

まことに成田さんが作り出す作品はその初期から、完成度が高く、イメ―ジに艶があり、エスプリがあり、強度な毒と妖しさがあり、つまり、表現世界に既に確かなる芯があった。だから、渋谷の画廊から始まり、銀座、下北沢の画廊も結び付けて成田さんにご紹介し、画廊企画での個展開催に微力ながら尽力出来た事は、今思えば本当に良かったと思う。成田さんの表現力は瞬く間にその密度を増して、昨年の個展での作品の素晴らしさは私を感動へと導き、また驚かせた。4月に平井のご自宅の制作現場で見た新作への意欲は、美術作品の制作が成田さんの生き甲斐の強い手応えとなっている事を映していたと今にして思う。9月16日、斎場には映画の関係者を始め沢山の方が来られ、成田さんとの別れを惜しんでいた。……その中に在って、私は今、この時の成田さんの魂の行方について考えていた。願わくば、何らかの形で幽かな信号を送って欲しかったのである。

 

 

 

 

 

 

人間の死には2つの段階があると思っている。或る人が逝去したとしよう。しかし、その人の事を覚えている人がいる限り、その人は亡くなってはいない。そして、その人を知る最期の人が遂に亡くなった時、その人の生が終わり、初めてその死は完結するのである。しかし、魂の行方はまた別である。……これは私の持論であるが、永六輔さんが全く同じ事を言っていたのは興味深い。……私は携帯電話に記してある知人が故人となっても、その電話番号を消さないでいる。何かの弾みで、かかってくるような気もあり、またこちらからかけてみたいという気持ちも、あるのである。成田尚哉さん、またいつか再び逢いましょう。……そして昔、話をした……「成田さんが作り出す映画も、また私が作る作品も、詰まりは同じ〈夢の結晶〉、光を当てれば忽ちに消え去る泡沫のような淡い夢かもしれない」という、あの話の続きをしましょう。

 

 

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『ダリオ館再び―in Venezia』

脚本家で小説家の向田邦子さんには苦手なものがあった。……魚の目である。『父の詫び状』所収の「魚の目は泪」と題したエッセイの中で、芭蕉の名句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」について書き、実は魚の目玉が恐くて、「目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛」で、魚屋へ行くと見まいと思っても、つい目が魚の目にいってしまう、と書いている。食通の向田さんにしては意外な話で印象深い。……魚の目に関しては、私にも遠い、或る思い出がある。たぶん4~5才の頃であったかと思うが、母親に連れられて魚屋に行った時の事。母親と魚屋の主人との長話が続くので、私は退屈であった。退屈な気分の先にずらりと並んだ沢山の魚が目に入った。……私はその魚の乾いた虚ろな目の様が面白く、悪戯心が湧き、つい指先が延びてしまった。魚の目玉の縁に指先を突き刺しひっくり返すと、訳のわからないねばねばした〈裏側〉が出てくる。それが面白く、一匹、また一匹、また一匹……とかなりの数の魚が、私の好奇心の犠牲になっていった。「あ~!!」と叫んだのは、あれは母親であったか、魚屋の主人であったか?……とまれ時既に遅しで、店頭にはもはや売り物にならない、無惨にも目玉がひっくり返った魚がたくさん並ぶ事となった。母親が始末をどうつけたのかは忘れたが、ひたすら謝っていた姿だけは覚えている。……たぶんその後の店先には、沢山の切り身が並んだ事と思われる。……この頃から次第に好奇心の強い性格が芽生え出し、以来、怖いもの、不可解なものに異常に執着するように私はなっていった。

 

 

……ひと頃は、『反魂香(はんごんこう)』なる物に興味を持った事があった。中国の故事に由来するが、焚くと死者の魂を呼び戻し、その姿を煙の中に出すと言われるお香の事である。おりょうが、亡き夫の坂本龍馬について語った回想録の本の題名も『反魂香』であったと記憶する。自由業なので時間があり、制作以外の時は、自分の好奇心の赴く方へと日々さすらっている人生である。だから反魂香に興味を持った時は、機会を見ては都内の香を扱っている店に入り、その香について問うたものである。しかし全くといっていい程、反魂香なる物について知る人は誰もいなかった。やはり伝説にすぎなかったのかと諦めていた頃、……昨年の冬に鹿児島のギャラリ―・レトロフトで個展をした時の事であった。まるで泉鏡花の怪奇譚の中にでも登場しそうな妙齢の謎めいた女性が入って来られた事があった。その気配から、一目見て只者ではないと思った。話を伺うと香道を生業とされているとの事。「遂に来た!」と直感した私は『反魂香』についてさっそくに切り出すと、その人の細い眉がぴくりと動き、鋭い眼で私を見返し、「確かにその香は存在しますが、あまり深入りはされない方が御身の為ですよ……」と静かに言った。面白いではないか!!……存在するなら、そして、その結果、何処かに連れ去られたとしても、私はいつでも本望である。しかし、その女性は、何故かその後の話を切り換えて別な話になり、その後に来客が来られたので、未消化のままに話は終わった。……老山白檀、沈香、龍脳、甘松……等を秘伝の調合でブレンドするらしい。

 

 

……さて、本題のダリオ館である。ヴェネツィアにある15世紀後半に建てられたこの館は、歴代の主や家族が自殺、又は非業な死を遂げるという、妖かしの館である。単なる伝説ではなく、この館に関わった者が実際に既に20人以上が亡くなっており、私が初めてヴェネツィアに滞在していた1991年時は生きていた、この館の主で起業家のラウル・ガルディニという人は、1993年の夏に銃で自殺を遂げている。以来、この館は無人の館となっていた由。私がこの館の不気味な存在を知ったのは、3回目にこの地を訪れた時であった。……ダ・ヴィンチの事を書く為に取材でロ―マから北上してフィレンツェに入った後に、ヴェネツィア在住の建築家に会う為に訪れた時であった。たまたま乗ったゴンドラのゴンドリエ―レ(ゴンドラの漕ぎ手)から、対岸にある、その一目見て不気味な建物―ダリオ館についての謎めいた話を詳しく教えてもらったのである。映画監督のウッディ・アレンがダリオ館に強い興味を抱き、真剣に購入を考えているという。ゴンドリエ―レは私達を見つめ、「彼は間違いなく死ぬだろう!」……そう言った。(この後、ウッディアレンは購入を断念したという話が入って来た。彼の友人達が真剣にその危険を諭したのだという)。……数年して私は写真の撮影の為に再びヴェネツィアを訪れた。その時は、この館に次々に起きる不吉な死の真相を確かめる為、私は本気でこのダリオ館に塀を越えて侵入するつもりであった。闇の帳が下りた頃、ダリオ館に行くと、意外にも中から灯りが漏れていた。見るとタイプライターで知られるオリベッティ社の銘が見えたので、残念ながら断念した。同じ並びにあるベギ―・グッゲンハイム美術館など、この運河沿いにある館の平均価格は250億はするという。まあ、私が貴族の末裔だったら絶対に購入するのだが……と、真相究明の挑戦はしばしお預けとなった。

 

永井荷風たち耽美派が影響を受けた詩人のアンリ・ドレニエは、かつてこの館に滞在した折りに「深夜に人の小さな呟きが聴こえた」と記している。またこの館には異様に巨大な鏡があるという。また、この館が建つ前は、そこはヴェネツィアの墓地であったという、……その辺りは切れ切れではあるが調べてある。

 

…………先日、何気なくふと、このダリオ館のその後が気になり、タブレットを開くと、信じがたい情報が飛び込んで来た。なんと、アメリカの起業家が800万ユ―ロ(たった12億8000万円!)で購入したというではないか。相場の10分の1の価格である。……しまった!と思った。遅かった!と思った。……そして、何とかならなかったのか!!と自分を責めた。そして、ふと我に帰った。……現実を見ろ!!と。しかし、私の好奇心は潰えてはいない。またヴェネツィアは行くであろう。しかし、その時には……という、真相究明の強い思いが、今もなお、私の心中で騒いでいるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『人間―この未知なるもの』

……いよいよ明後日から9月である。しかしまだ暑い、暑すぎる。あまりの暑さで蝉も鳴かない。……さて、その明後日の9月1日と云えば、大正12年に起きた関東大震災があった日である。最近読んだサイデンステッカ―の『東京・下町山の手』に続き、田山花袋の『東京震災記』で関東大震災の実態の様を興味深く読んだ。51の章に分かれて、正にこの世の生き地獄と化した関東大震災の惨状を、生々しく活写した貴重な記録である。一瞬の運や判断の分かれ目で生死が左右される事が、実際に作者の花袋が歩き視たその描写からリアルに見て取れる。……圧死や焼死から幸い免れた人達もみな、その日の、灰塵と化した東京に沈む落日の不気味な様を見て「もはや、この世の終わりかと思った」という。関東大震災、そして連日の空襲……。それから比べたら、今回のコロナ禍などまだまだ比較にならない!という感がある。過去の大災害や毎日が死と向き合った戦禍を生き抜いた先人達の事を知ると、今のコロナ禍の程度が複眼的かつ俯瞰的に見えて来てメンタルにたいそう良い。……サイデンステッカ―、吉村昭の『関東大震災』、そして、田山花袋の『東京震災記』。興味のある方には、ぜひ読まれる事をお薦めしたい、この現状を達観へと導いてくれる著書である。

 

 

 

 

 

 

 

 

……今回、お薦めしたい本がもう1冊ある。今月、三笠書房から刊行された『人間 この未知なるもの』という本である。著者はアレキシス・カレル氏。フランスの高名な外科医で、1921年にノ―ベル生理学・医学賞を受賞した人物。18カ国で訳され、既に数百万部が読まれている名著の改訂新版である。ちなみに、この本の表紙に使われている装画は、私のオブジェ作品『ハンベルグの器楽的肖像』。……タイトルとピタリと合っていて、作品が持っている幅のあるイメ―ジの何かと通低して、編集者の読みの正確さが見て取れる。

 

 

私の作品は度々、本を飾る表紙の装画に使われており、既に50冊は越えたかもしれない。須賀敦子、久世光彦、池田満寿夫、岡田温司、etc……また海外のミステリ―、詩集・歌集等々であるが、あまりこのブログで、詳しく紹介した事はない。しかし、今回この本をお薦めしようと思ったのは、著者のアレキシス氏が、極めて理性的かつ高い知性の視点から、自然科学を超えた超常的な現象にも、肯定的な記述をしているからである。少し引用してみよう。

 

「……しかし、奇妙なことのようだが、透視力は全く科学と関係がないというわけではない。大発見は知能だけの産物ではないことは明らかだ。天才は観察力と理解力があるばかりでなく、直感力とか創造的な想像力のような資質をも備えている。この直感力によって、他の人々が気づかない現象と現象の関係を見抜いて、無意識のうちに物事の関係性を感じとるのである。偉大な人物はすべて直感力に恵まれている。…(略)…直感によって発見への道をたどるのだ。こういった現象は、インスピレ―ションと呼ばれてきた。……」

 

「科学的、美的、宗教的なインスピレ―ション、そしてテレパシ―の双方に同時に関連しているように思える。テレパシ―は死にそうな時や、大きな危機に直面した時に起こる事がある。死に瀕している人や事故の犠牲者が、肉親や友人のところに現れるのだが、それは姿だけで、たいてい話をしない。しかし、時に口を開いて自分の死を告げることもある。透視はまた、遠く離れたところにいる人や風景を感じとり、細かく正確に描写することができる。テレパシ―にはいろいろなかたちがあって、透視は出来なくとも、一生に一度か二度はテレパシ―を体験したことのある人は稀ではない。……」

 

「身体を超えたものを対象とする新しい科学に属するこれらの事実は、あるがままに受け入れなくてはならない。それは現実に存在しているものなのである。そこには、人間のほとんど知られていない面、ある種の人間だけに見られる神秘的な鋭さが現れているのであろう。」……………………著者のアレキシス氏に限らず、かつてノ―ベル賞を受賞した科学者や物理学者で、このような霊性を孕んだ超常現象に挑んだ研究者は実に多くいて、知られているだけでも40人近くいる。驚くべき数である。ずいぶん以前のブログでも、私はその事実を取り上げ、いわゆる霊的現象に挑んだノ―ベル賞受賞者達の事を書いた海外の著書がある事を紹介した事があった。彼ら、物理学や科学の頂点を極めた研究者が、その叡知を駆使して終に辿り着くのが、先日にも書いたアインシュタインが着眼した「時空間の歪み」をも含めた、霊的という言葉でしか表しようのない、この不可思議な現象学の髄なのである。

 

 

……振り返れば、私はこのブログの記述を始めて10年以上の年月が経っている。想えば、早いものである。……その中で私は自分の身に起きた、不思議としかいいようのない、実際に起きた予知や透視の体験をずいぶん書いてきた。私をよく知る人は、私を評して「美術家というよりは寧ろ陰陽師」と言っている。そして私は、人生に一度か二度ではなく、あまりに頻繁に起きる、この自分に備わった予知や透視能力を通じて、この「北川健次」なる者を、昨今はもはや〈客体〉として眺めているようにさえもなっている。

 

 

……①俳優の高島忠夫夫妻の長男(生後5ヶ月)が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された時、私は東京から遠く離れた北陸の福井にいて、未だ12才であったが、私は朝のニュ―スで第一発見者で涙ながらに語る家政婦を見て驚愕した。……僅か5時間ばかり前の深夜に、夢の中に、浴室で女がもの凄い形相で幼児を絞殺、溺死させている映像が、それまでの他の夢の膜を破るように突然映し出され、まるでカメラがランダムに撮っているように、時に浴室の天井が揺れ乱れて映り、また女の側から視た幼児の姿、また、次は幼児から視た、自分を必死で絞めてくる女の形相がバラバラに映り、夢は突然消えたのであるが、その時に見て、まだありありと覚えている女の顔が、5時間ばかり後のニュ―スに、第一発見者として映っていたのであった。……それが、頻繁に起こる不可思議な予知的体験のプロロ―グであったと今は思う。

 

②先日、TVの「クイズ王選手権」なる番組を観ていた時の事、問題を告げる女子アナの声が流れ、「次に書かれた文章(英語)は、はたして何について書いた文でしょうか?それが示す単語(英語)を答えなさい。」と話し始めた。そしてまだ問題の文章が出される一瞬前に、私の脳裏に下りて来たのは「knock」という言葉であった。別にその問題に食いついていたわけでなく、ただknockという言葉が自然にするっと下りて来たのである。その後で、灘高だったか学生が答えたのが「knock」であり、正解であった。……何万語とある単語の中から、何故その言葉が私の頭に下りて来たのかはわからないが、そのような事があまりに度々あり、その幾つかは以前のブログでも書いて来たので、読まれた方もおありかと思う。

 

③拙著に『「モナリザ」ミステリ―』という題名の、ダ・ヴィンチについ書いた長編がある。その最終章で私は彼の生地、ヴィンチ村について書かねばならなかったのであるが、そこに行く時間が旅程でどうしても取れず、やむなく泊まっていたフィレンツェの宿で執筆する事になった。……私は頭を切り換えスイッチを入れて、その村―ヴィンチ村を透視した。……すると次第に村の入り口や、風景の情景がありありと視えて来て、先ずは柳の木の描写から始まった。……そして2時間後に文章を書き終えて脱稿した。後日に本が新潮社から出版された時、ヴィンチ村を訪れた事があるという知人の読者数人から同じ感想を言われた。「いゃあ、あのヴィンチ村、懐かしかったですよ。あの白い柳、全くその通りで、村の中も全く同じで、久しぶりに、行った時の事を想い出しましたよ」と。……前述したアレキシス氏の著書を読むと、この直感力は美的なものに使われる場合があると書かれているが、確かに私の場合、この直感力はオブジェの制作時に全開されているように思える。以前に池田満寿夫さんは私を評して「異常な集中力」と語った事があるが、それは当たっていると思う。とにかくアトリエの中では、作品が次々に浮かび、短歌や俳句の言葉を紡ぐように、神経がふるに稼働して、作品を作るのではなく、〈ポエジ―を孕んだイメ―ジ〉は向こうから瞬時にやって来るのである。……クレ―は「表現者とは、未知の闇の中から、ポエジ―を掴み出し可視化する事の出来る者の謂である」という至言を書いているが、その実感はある。……付記すれば、近代の芸術家の中でこのような能力を持っていた人物は、ジャン・コクト―マックス・エルンストにその例を視る事が出来るかと思う。

 

 

昨今の表現の世界は、インスピレ―ションの閃きを想わせる作品を殆ど見かけなくなったが、何か美の本質から外れて、軌道無しの衰退の一途を辿っているような傾向が特にある。一言で云えば、幼稚な衰弱への一途、その感があるのである。

 

 

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『全生庵で幽霊画を観ながら考えた事』

私が親しくさせて頂いている富蔵さん(本名・田代冨夫さん)は、金属や硝子に関する技術に長けた超技巧の持ち主で、時にロマンティシズム漂う不思議なオブジェも作られる。最近作は写真家アジェが撮したパリの古い街角の建物を真鍮で立体化して再現し、その精密さと着想の妙に私は驚いた。

 

……先日、その富蔵さんと日暮里で待ち合わせ、共に谷中にある全生庵という古刹で展示開催中の幽霊画を観にいった。その日も蝉時雨の鳴く暑い午後であった。……全生庵は幕末の剣客・山岡鉄舟を開基とする臨済宗国泰寺派の寺で、幽霊噺を得意とした初代三遊亭円朝が生涯収集した100点以上の幽霊画を所蔵しており、夏の一時期に限って、円山応挙、河鍋暁斎、伊藤晴雨……などの作品を展示して一般に公開しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……私は以前にも何回か来ているが、富蔵さんは意外にも、この寺は初めてだと言われ熱心に観ておられる。その富蔵さんを見て、今日一緒に来て良かったと私は思った。……今回、私が幽霊画の中で一番気に入っているのが展示されてなくて残念だったが、それは責め絵の画家で知られる伊藤晴雨の作品で、静まった草むらの中に朽ちた鎌が落ちていて、その錆びた刃先に女性の細い髪の毛が数本、妖しく絡まっている作品である。幽霊画は直喩よりも、むしろ気配などの暗示の方がはるかに怖い。……私はそう想うのである。…………そして私はふと思い出していた。今から30年ばかり前に実際に体験した、あの時の事を。…………

 

私の大学の先輩で石井健二さん(現・徳島大学名誉教授)という人がいる。当時は東京芸大美術学部の写真センタ―で、石井さんが助手をしている時であった。その頃、私は独自で日本ではまだ未知の銅版画写真製版技法であった「カ―ボンティッシュ」に一人で取り組んでいた。取り寄せた海外の技法書を訳しながら頑張っていたのであるが、真空密着の装置がないとこれ以上は出来ないという壁に突き当たっていた。窮したあげく石井先輩に電話をすると、その技法に興味を覚えた石井さんは「じゃ、芸大の写真センタ―にいるからおいでよ」と言われ、私は行き、それから二人の研究、試作の日々が始まった。さすが国立、私が必要としていた設備が揃っていて素晴らしい。……最初に行った日の夕方、奇妙な事に気がついた。学生達が帰って行く時、私達に「さようなら」ではなく「……お気をつけて」と言うのである。石井さんに訳を聴くと「まっ、いずれわかるよ。」と言って言葉を濁す。センタ―内をよく見ると、至る所にかなりの数で「お札」が貼ってある。石井さんは学究肌の人で、暗室に度々籠ってあまり出て来ない。その内、私は自分がする作業に熱中し、それは気にならなくなっていた。……何日目かの夜、試作が深夜に及び、徹夜をする事になった。試作はしかし、二時頃に終わったので、石井さんは研究室の寝床に行き、私は広い作業場の床に寝袋を借りて休み、……やがて眠りに落ちていった。

 

寝袋を被ったまま寝ているので真っ暗であるが、……先ほどから私の周りを歩くカツッ、カツッ、とした靴音の響きで目が醒めた。その靴音は今の時代の靴音の響きではなく、例えば軍人の履く、靴底に鋲を打ったあの革の硬い靴音の響きを直に想わせた。……誰だ!?先輩か?と不審に思い、手を内側のチャックのつまみに持っていき一気に開き、辺りを見回した。……しかし、広い室内(真っ暗な)に人影はなく、しんと静まりかえったままである。さすがに異変を感じた私は、石井さんの部屋を開け、寝ている石井さんを揺さぶって起こした。……「その靴音なら、知ってるよ。徹夜の時は毎晩だから、それより、まだ夜中だから北川もまた寝た方がいいよ!」。……しかし、寝れる筈もなく、私は先ほどの部屋に戻って灯りをつけ、朝まで目を光らせて何者かの再びの出現を待った。……朝になり、石井さんに話すと、面白い逸話(来歴)を話してくれた。それに拠ると、昔、このセンタ―付近は彰義隊と官軍との乱戦の場所であり、多くの死者が出た場所だという。「しかし、私が聴いたのはあきらかに軍人の靴音でしたよ」と言うと「戦争の終わり頃に、この芸大は確か陸軍の師団の宿舎であり、何人かが集団自決した場所だから、そっちの方が出たのかも知れないね。北川が聴いたその靴音は、僕も何回も聴いてるよ」と石井さん。……その日の昼前にセンタ―長のSさんが来られたので、昨夜の体験を話すと、Sさんはここの暗室で最近不気味な体験をしたと言う。古美術研究で奈良の仏像を撮影した学生達が暗室で現像をしていた。すると、その暗室から突然何人もの叫び声がしたので、Sさんが注意をしに入ると、学生達が恐怖に怯えながら、現像中のプリントを指差した。それを見て、Sさんは愕然とした。現像液の中に沈んでいるそのプリントには、確かに奈良の寺で撮した仏像が映っていた。しかし、その仏像と二重重ねになって人の顔が映っていた。その人物は最近亡くなったSさんの知人で、学長選に落ち、地方に赴任したその先で亡くなった人なのであった。

 

……そして2日後に、更なるもう一つの異変が起きた。その日は撮影の日であり、私は石井さんと一緒に広いスタジオの中で撮影の準備をしていた。石井さんはカメラの準備をし、私は被写体の花瓶を置くテ―ブルの床の位置を示す為、座り込んでチョ―クでその位置に印を付けていた。「頭、頭、気をつけて!」石井さんが言ったのか誰か?は知らないが、何処からか聞こえたその声に「大丈夫ですよ……」生半可な返事をした瞬間、頭に猛烈な激痛を覚え、私は倒れこんでしまった。……天井に吊ってあった撮影用の重い黒布を巻いた鉄の重いパイプが、正に私の頭上めがけて落下して来たのである。頭の後ろ側に当たったのでまだ良かったが、真上だったら即死だった可能性もある、それほどの重い鉄のパイプであった。……石井さんが慌てて私を抱き起こしたが、既に頭からは血が噴き出しており、側の洗面所で見ると顔までが真っ赤な鮮血に染まっていた。しかし私は馬鹿だった。何故か野生の熊に自分を重ね、そう言えば手負いの熊も病院に行って治したという話は聞かないし、治療費も無いし、病院に行かずとも、傷口はやがて塞ぐと思っていたのである。その日からどれくらいが経ったのか。アトリエで電話中に突然体がひんやりとし始め、急に悪寒が全身を襲った。私はさすがにまずいと思いタクシ―に乗って病院に駆けつけた。……医者は私の頭を見て、「馬鹿者!!なぜこうなるまで放っていたんだ!もうちょっと来るのが遅かったら腐敗した菌が脳に入り、お前さん死んでいたぞ!!!」と烈火の如く怒られ、緊急手術で、私の頭は包帯が何重にも巻かれ、あの『耳を切った自画像』のゴッホの絵のようになってしまった。……その後、芸大を出た人達に訊くと、みな一様に「あの写真センタ―だけは、度々、足音や人影、または怪奇としか云えない現象が頻繁に起こり、誰も近づかない有名な場所ですよ」と話してくれた。

 

上野戦争、更には敗戦時の集団自決……。しかしそれは遠い昔の悲劇だというのに、何故、彼らは私達の「今」と交差して、この三次元に現れるのであろうか。私の周りを苛立つように歩いた、あの靴音の主には、果たして私の存在が見えていたのか否か。時間は観念だけで、実際には存在しないという説もある。例えばここにA4大の紙が在るとして、その左端にA、右端にBという文字を書くと、そのAB間の距離は約30cm。この左右の距離を終戦時(1945年)と現在(2020年)の時間距離(つまり今昔)と考えると、その間75年。しかし、中心に折り目を付けて折ると、左右の間に距離は無くなり、AとBはピタリと重なって来る。……この左右を折るという一つのモメントのアクションが、アインシュタインが提唱した「時空間には捻れがある」という意味と重なって来るのでもあろうか。……さてその後、私には、1988年の春の花見時に京都の先斗町で遭遇した、いわゆる生霊体験と言うのがあり、これはなかなか無い体験であるが、もはや1回のブログの紙面が尽きたので、これはまたの機会に書くとしよう。

 

 

…………………… そんな昔の事をぼんやりと思いだしながら、富蔵さんと一緒に全生庵を後にして、根津の方角を目指して蛇道に行き、以前のブログで書いた太平洋美術会研究所の、最初に在った五軒長屋という場所を探した。……中村彜、松本竣介、長沼(高村)智恵子達、各々の時代を生きた、嘗ての日本美術史に意味あるその場所は、なかなか見つからなかったが、富蔵さんの粘りある情熱によって助けられ、遂に現場跡に辿り着けたのであった。その後、私は富蔵さんにかき氷をご馳走になった。……私は、これから日暮里に戻られるという富蔵さんと別れて、暑さで逃げ水さえ立つ弥生坂を上がり、東大の構内を抜けて本郷三丁目駅を目指して、なおも歩いた。そこに私を待つデザイナ―のK氏がいて、私に相談があるらしい。相談に乗るのは構わないが、その日の私は暑さでほとんど思考停止の状態であった。……コロナ禍に加えて今度は熱中症、更には地震や台風が私達を待っている。令和になってから何故か加速的に断末魔的な様相に世界がなっている。正に「地獄とは、この世の事と見つけたり」の感である。今日観た幽霊画は、そんな中での叙情的な懐かしい、一幅の涼にさえ、私には思われたのであった。

 

 

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