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『……あたかも陰陽師!?』

富山のぎゃらり―図南での個展が先月の29日に無事に終了した。初日の14日に富山に行き、翌日の夕方に東京へと戻ったのであるが、富山駅で新幹線に乗る前に私は「個展が終了する29日迄は、富山にコロナ感染者が絶体に出ないように!!」と強い念を発して、帰途についた。その後、富山は持ちこたえているかのように感染者が出る事なく、私が念じた29日まで持ちこたえた。「富山に感染者が出るとしたら30日ですよ!」……私は、ぎゃらり―図南の川端秀明さんはじめ、予め何人かにそう予言していた。……果たして翌日の30日に、耐え忍んでいた何かが崩れるように富山に感染者が出始め、今もその数が増えている。 …………2月にも似たような事があった。版画家の重野克明君は、年下の版画家の中で唯一私が評価している異才の人である。その重野君から四人展のご案内状を頂いた。掲載されていた重野君の作品は、驢馬(ろば)を描いたモノクロ―ムの淡彩素描で、何とも面白く気になった。かつてアンダルシアのグラナダの坂道で見た、哀愁を含んだ驢馬の姿が思い出されて懐かしい。……画廊に行くと四人の作品がたくさん展示してあったが、ただ重野君の作品だけが独自性が感じられ、わけても、その驢馬の作品はますます私の気を引いた。重野君の作品は人気があるので、ファンが多く売約のシ―ルが各々に貼られていた。しかし、不思議な事に驢馬にはまだ売約の印が無い。案内状に載せただけに作者にとっても自信作の筈である。私は観ていて「この驢馬の作品は私の所に来る運命にあるな!」と直感した。私は思ったら動くのが速い!……さっそく重野君に電話を入れて作品の交換トレ―ドを申し出ると、重野君は「もし最終日まで残っていたら是非!」と喜んで言ってくれた。電話を切った直後に、私は静かに、しかしかなり強い念を発した。……重野君いわく、やはりあの驢馬の作品が一番人気があり評価が高いとの由。私もそう思う。今まで拝見して来た重野君の作品の中でも特に出色の作品である事は間違いがない。……そして長い会期が終わった後に、私は重野君に電話を入れた。やはりあの作品は、会期を通して最も人気があるのに、不思議と購入者が現れず残ってしまったという事で、重野君にとっても今までにない経験であるらしい。……かくして驢馬の作品だけが残り、近々に私のアトリエにその作品がやって来る事になった。直感はやはり現実の形になったのである。……念ずれば確実に叶う!……こういう事は、今までも実にたくさんあり、枚挙にいとまがない。……昨年末にブログでも書いたが、芥川龍之介の上海の紀行文を読んでいて、今は消えてしまった魔都上海に想いを馳せていたら、1週間後にNHKのTVで、その芥川龍之介の紀行文を下敷きにした番組が放送され、私は妖しい魔都上海の映像をたっぷりと愉しんだ。……また、2月~3月にかけてブログの連載で版画家・藤牧義夫の謎の失踪事件の事を熱く書いたら、これもすぐに『新・美の巨人たち』で藤牧義夫の特集が放映された。……時空間を自在に交感して私が飛ぶ。或いは向こうからそれは突然やって来る。

 

 

 

 

…………思い返せば、私が12才の時に、突然夢の中で、女性が浴室の風呂の中で幼児を絞殺している凄まじくもリアルな映像が30秒ばかり映った事があった。……何とも残酷な嫌な夢だったな……と生々しい記憶のままに床から出て、その日の朝の七時のニュ―スを見て、私は驚いた。……何とTVの画面でハンカチを手に第一発見者として泣いているその女性こそ、つい数時間前の夢の中に出て来た女性であり、中学生であった私は、心底凍りついたのを今もありありと覚えている。その女性は家政婦であり、名前を出せば誰もが知っている某芸能人夫妻の留守中の未明に起きた、浴室での幼児殺人事件として、当時かなり話題になった戦慄的な事件であるが、時系列に辿ってみると、事件は世田谷上野毛で起きたのであるが、何故か遠方の福井にいた私の脳の中に、実況中継のように映し出されてしまったのである。……犯人の家政婦側から見た、幼児の苦しみ溺れ死ぬ姿、次に映ったのは、意識が消えていきつつあるその幼児の眼から見えた、家政婦の鬼畜と化した凄まじい形相、かと思えば、カメラがメチャクチャに撮したかのような、浴室の天井や壁のタイルのフラッシュに映し出される映像。……家政婦は第一発見者として、「当日夜に窓の外を不審な男が歩いているのを見た」「長男が激しく泣いているのを聞いた」などと最初は証言していたが、幾つもの矛盾点を追及されて同日の午後に自白した由。……何故、私の脳がそれを受像してしまったのかは不明であるが、それ以来、違う場所で起きている事をリアルタイムに察知したり、また予知的な事や、想っている事が現実化するといった事は数知れず起きており、長きに渡って続けているこのブログでも、その事は度々書いて来た。昔はそれを不思議に思っていた時期もあったが、今は「あぁ、また起きたな」という、もはや日常の当たり前の感覚になっている。……この直感力が一番向いているのは制作の時である。……以前に、美術家の加納光於さんは「あなたが、そういう能力を持っている事は、最初に出会った時から気付いていました」と語り、坂崎乙郎さんや池田満寿夫さんは、私の異常な集中力や神経の鋭さを危ぶんだ。…………話を移せば、例えばジャンコクト―やマックス・エルンスト、ダリにもこういった予知や透視の力があったという。有名な話では、ミレ―の『晩鐘』の絵を見たダリが、「この絵の手押し車の布の中には、死んだ子供が描かれている」と突然語りだし、興味を持ったル―ヴル美術館がエックス線で調べたところ、果たしてダリが透視した通り、晩鐘に祈りを捧げる農夫妻の姿を描いただけと解釈されていた、その夫妻の脇に描かれた小さな手押し車の布の描写の下から、塗り隠された幼児の死体が現れたのであった。その絵が描かれた直後に、絵を見た友人が「不吉過ぎるので死体は消した方がいい」という忠告を受けたミレーが、それを隠す為に描き足した布を透かして、ダリの眼には、見える筈のない幼児の姿が見えてしまったのであるが、これに関して書かれた翻訳書があるので、ご興味のある方はぜひ読まれたし!!。

 

 

……今回はコロナウィルスから発して、例の731部隊について書く予定であったが、筆が滑ってしまったらしい。ともあれ、今朝のニュ―スでは、マスクの効能が実証された事を香港大学から発表された事と、免疫力の強化には黒ニンニクをお薦めする事を書いて、今回はおしまいとしよう。……次回も引き続き、乞うご期待。

 

 

 

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『もう1つの智恵子抄』

 

 

前々回に連載したブログを書く際に、私は向島に4回ばかり取材をしているが、その延長先にある玉ノ井(私娼街)の現在を見るべく足を延ばして訪れてみた事があった。ご存じ永井荷風の名作『墨東綺潭』の舞台になった所である。現在は、その時代の面影は気配としてしか残っていないが、迷宮のように狭く入り込んだその残夢の中に入りながら荷風の後ろ姿を追っていくと、そこに混じって玉の井を訪れた何人かの作家や芸術家の姿も透かし見えて来て面白い。その人物達の名前をあげると以下の通り。……徳田秋声、檀一雄、太宰治、高村光太郎、武田麟太郎、サトウハチロ―、尾崎士郎、高見順……と賑やかである。……これらの名前を見て、一瞬(!?)と意外さを感じる人物は、おそらく高村光太郎ではないだろうか。あの、運命的な愛と別れを切実と詠んだ智恵子抄の作者と玉の井は、いかにも似つかわしくないように思われる。……しかし光太郎は来た。それも頻繁に、詩までも残して。詩の題は、そのものズバリ『けもの』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

けもののをんなよ/限りのない渇望に落ちふけるをんなよ/盲人のしつこさを以てのしかかるをんなよ/海蛇のやうにきたならしく/ぬかるみのようにいまはしいをんなよ/けれど、かなしや/お前をまたも見にゆくのは/さばかりお前がけものなるゆえ/いまはしいゆえ/  「けもの」

 

……この淫蕩な感覚は、留学先のパリで覚えたデカダンス故と光太郎は云うが、果たして……。

 

そんなにもあなたはレモンを待っていた/かなしく白くあかるい死の床で/わたしの手からとった一つのレモンを/あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ/トパァズいろの香気が立つ/その数滴の天のものなるレモンの汁は/ぱっとあなたの意識を正常にした/あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ/わたしの手を握るあなたの力の健康さよ/あなたの咽喉に嵐はあるが/かういふ命の瀬戸ぎはに/智恵子はもとの智恵子となり/生涯の愛を一瞬にかたむけた/それからひと時/昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして/あなたの機関はそれなり止まった/写真の前に挿した桜の花かげに/すずしく光るレモンを今日も置かう/  「レモン哀歌・智恵子抄より」

 

 

……以前から気になっている事があった。それは智恵子が狂いへと至る原因である。資料や文献を読むとみな判で押したように、その原因が実家の破産と貧困がそれであると云う。そして、光太郎の淫蕩な生活ぶりが智恵子との出逢いでピタリと止んだと、これもまた判で押したように書いてある。しかしある時、智恵子が狂った大きな原因は光太郎のあいも変わらぬ女性遍歴にあるという話を聞いた事があった。また、光太郎の意のままに智恵子は型に嵌められていき、智恵子は自らが「人形」と化す事でそれに応えた観があるという興味深い話を先日、伺った。……女性の権利獲得を主張した「青鞜」の中心人物、平塚らいてうとの関わりも深かった高村智恵子と、もう一人の異なる智恵子の間に亀裂へと至る相克がここにある。……そうしてみると、「智恵子抄」は愛の刻印と喪失の絶唱から、悔恨、懺悔の唄へと一変して変貌を見せてくる。……光太郎の晩年は岩手の山口村に独居して、蛔虫と極寒の過酷な生活に入るが、「掘立小屋を作って住んだのは、自分が悪いことをしたから水牢に入るような気持ちであった」と告白している事をそこに重ねれば、私の疑問も解けてくる。……人はイメ―ジで一面的に他人を括りがちであるが、なかなかに複雑な屈折がそこに在り、本人ですら自らを御せないものがある。高村光太郎とは、その代表のような人物であるかと思われる。

 

福永武彦の『高村さんのこと』というエッセーに「……高村さんが彫刻家を以て任じておられるのは明らかだった。ロダンのことが話に出るたびに、日本の芸術家は伝統がないために、三十年は遅れている……と言はれた。」とある。また壺井繁治は「彼(光太郎)の魂を、パリは近代的な魂に入れかえてくれたのである。彼がロダンに傾倒し、ロダンを通じて彫刻の真髄を悟ったというのもパリであり、……」という一文があるように、高村光太郎はロダンに心酔し、会う為に父親の高村光雲が旅費を出し、パリへと留学させている。……しかし光太郎は、ロダンに会うのを目的としながら、何故かロダンに会っていないのが気にかかる。……光太郎はしかし詩の中で「やがてロダンは静かに言った、カリエエルさん、あそこにいる娘さんのうなじはまるでマリアのやうですね」と。……また後庭のロダンをしのんで作った詩句として「悪魔に盗まれさうなこの幸福を/明日の朝まで何処に埋めて置こう。」……といった言葉の刻みがあるなど、まるでロダンに会ったかのやうで紛らわしい。ロダンに会ったのは、その時にパリに留学していた、夭折した友人の彫刻家・荻原守衛だけである。……光太郎はロダンの後ろにあるルネサンス、ゴシック、近代の法則を洪水のように一気に受容する事で、自分の背後にあった日本の彫刻の伝統が一度に瓦解する恐れを抱いて臆したのであろうか?……ともあれ、ブロンズにおいては光太郎以後もこの国に傑作が登場する事は遂に無く、光太郎に於いての傑作は木彫の小品「蝉」「蓮根」「白文鳥」「鯰」「桃」であり、ブロンズの「手」はロダンに遠く及ばず、ロダン以後の正統は残念ながらブランク―シに指を折る。……高村光太郎がもしロダンに会っていたなら、以後のこの国の分野に面白い可能性もあったかと思われるが、光太郎という分水嶺、或いは胚種は、成果をあげる事なく奇妙な立ち位置のまま、囚われたイメ―ジのままの一面性を背負っているのである。

 

……さて、玉ノ井を一巡した後、私は文人達が愛でた向島の百花園、白髭神社を経て、玉ノ井から私娼街が移った「鳩の街」(120軒以上の娼家があった)を訪れた。ここの一廓はまだ建物にその名残があるが、開発の為に正に壊されて消えていく直前に私は出くわした。……何と、私の目の前に在るその貴重な時代の証言とも云える建物のタイルが職人達によって運ばれていく現場に遭遇したのである。……以前のブログで浅草十二階の煉瓦(画像掲載)を入手した時は現場工事の親方に「すいません、文化財の仕事に関わっている者ですが!」と言って、十二階の遺構の前に立ち、大きな煉瓦の塊を二つ入手したが、今回は、「すいませんが、昭和史の建築を研究している者ですが!」というと、解体工事の、一見こわもての監督はあっさり「あぁ、いいよ持っていっても」と言ってくれたので、永井荷風『春情鳩の街』や吉行淳之介『原色の街』の舞台となった私娼館のタイルの貴重な塊をまたしても入手出来たのであった。言ってみるものである。……浅草十二階の煉瓦は、江戸川乱歩ファンや十二階の建築愛好家にとって垂涎の遺物であるが、早晩、この私娼館のタイルは昭和史を語る遺物として価値が上がるのは必至かと思われる。……かくして、美術家にして時空探偵でもある私のアトリエに、またしても不思議な「物」が加わったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『高村光太郎の、……その前に』

前回のブログの反響はかなり大きく、たくさんの読者の方から「面白かった!!……もっと続きが読みたい!」といった内容のメールが続々と届いて嬉しかった。自分でも久しぶりに書いた連載であったが、まぁあれで、あの実録に基づいたミステリ―は書き尽くしたかなという感がある。書けばもっと続くのであるが、そうしていては切りがない。何しろ書きたい話が他にもたくさんあるのである。……想えば、このブログも10年以上書き続けて来たが、幾つか思い出すブログとしては、……砧の撮影所でふとした成り行きで出会い、最後には私を役者志望の貧乏学生と勘違いして延々と役者の心得を熱く説教してくれた名優・勝新太郎との数奇な出会いを書いた『勝新太郎登場』、また、未亡人下宿で聴いた森進一の歌「襟裳岬」から始まり、次第に新古今和歌集の藤原定家へと話が移っていった『未亡人下宿で学んだ事』の2話に続く渾身の作であったかと思う。……さて今回は、予告では『もう1つの智恵子抄』であったが、不気味なコロナウィルスについて、先にちょっと書こうと思う。

 

 

 

……先日、体が少し鈍って来たのでジムに行こうと思ったが、ふと「密閉してあるジムこそ危ないな!」と、頭のセンサ―が作動したので行くのを止めた。するとさっそく翌日の午後に「千葉のジムからコロナウィルスの患者が連鎖発症」の報道がありホッとした。世はあげてコロナウィルスで、もはや世界がパニックである。今までにない不気味な猛威を見せているというが、はたしてそうか!?…………調べてみるとかなり上手の先輩がいた。1918年から1919年にかけて世界的に流行したご存知の「スペイン風邪」がそれである。なんと感染者5憶人、死者5000万~1憶という桁違いの猛威であり、当時は第一次世界大戦の最中であったが、徴兵できる成人男性が減った為に、世界大戦の終結が早まったというから凄まじい。日本だけでも死者は39万人、アメリカで50万人以上が亡くなっている。このスペイン風邪は約1年間の長期に渡り世界的に猛威を振るったというから、今回のコロナウィルスの終息もまだまだ先が読めないのが現状である。……このスペイン風邪で、画家のエゴン・シ―レやクリムト、またアポリネ―ル、日本では劇作家の島村抱月、画家の村山塊多などが亡くなっている。(ちなみに、私が好きな松井須磨子は島村抱月の後を追って自殺)。………………

スペイン風邪以前の日本の話では、1858年(安政5年)に流行ったコレラ(短期間でアッという間に逝くので別名コロリと言われた)も凄まじく、江戸だけでも死者が10万人(一説によると23万人ともいう)を越え、浮世絵師の歌川広重はこれで亡くなっている。その後にもコレラは度々流行ったのであるが、歴史の逸話としては、もし文久2年(1862年)に第3期のコレラが流行らなかったら、かの「新撰組」は生まれなかった可能性が高いという説がある。……江戸の試衛館(天然理心流の剣術道場で道場主は近藤勇、他に食客で土方歳三・沖田総司・永倉新八・斎籐一・藤堂平助……たち猛者がいた)が、流行りのコレラで入門者が激減し、今回と似た黒字倒産の危機に瀕していた。そこに同じ食客の山南敬助が、幕府の官費による浪士組設立の話を持って来た。江戸で浪士を募り、彼らを使って不穏な京都の治安を守るのが目的という。……この案を幕閣に仕掛けたのは庄内藩の志士・清河八郎。しかし清河は稀代の仕掛人、……実は幕府の官費で集めた浪士をもって幕府を倒す浪士隊を作るというのが、その考えの底にあった。浪士は300名ばかり集まり京都に行くのであるが、近藤勇達はこの話に応じて道場を閉鎖し、第2の転職人生を託す事になる。文久2年のコレラの流行が無ければ、近藤達は江戸と多摩の道場暮らしで平凡に人生を終えた可能性が高いから人生は面白い。彼等に元々の政治的な思想などは無く、まぁ時代の流れに後ろからやむなく押されたにすぎない。……清河八郎のような山師は私は好きであるが、少しやり過ぎた感がある。……京都に着くや、壬生の宿舎で本来の目論見を演説でぶちまけたのであるが、同席した幕府の役人や浪士の殆どがパニックのまま解散して江戸に戻る。そして近藤勇たち試衛館の連中と、何故か芹沢鴨の一派だけが京に残り、会津藩から資金を得て、京の治安を守る新撰組が俄に少人数から誕生した次第。……一方の清河は江戸に戻るが、佐々木只三郎(後の龍馬暗殺の実行犯)によって、赤羽橋近くの路上で白昼に暗殺されてしまう。……(ふと気がつくと、私はコロナの話から幕末の逸話に話が移ってしまっているので、軌道を戻そう。)……つまり、コロナウィルスはスペイン風邪に比べると規模は全く小さいのに、世はあげて人類死滅のごとき騒ぎであるが、この原因は、ネットやSNSの普及、そして世界経済の連鎖性により、明らかに世界が狭くなっている事、また同じ情報の反復受信や、様々な意見の洪水で、脳がそのCapacityを越えて、情報パニックともいうべき一種の集団ヒステリーが連鎖的に起きているのは明らかである。……全く知らないという事もある意味恐いものがあるが、映像を通して見えすぎてしまう……というのも、実体の原寸を越えて投影された暗すぎる巨大な幻想を生んでしまう。……とまれ、もしこのブログが前置きなく突然発信が途絶えた時は、私が不運にもコロナウィルスに罹ってしまったと思って頂けると有り難い。……無事な場合、次のブログは『もう1つの智恵子抄』、更には『阿部定異聞』etcなどと続く予定です。……引き続き乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男④』 – 完結編

………さて、ここに一枚の地図がある。藤牧義夫が消える運命の日となった、昭和10年9月2日の藤牧の足取りを時系列順に追って記した地図である。画面最左(D)の自分の下宿を出発した藤牧は、画面最右(A)に住む姉の太田みさおの家に行き、俄に降り始めた雨の中を画面左下(C)に住む、もう一人の姉、中村ていの家に向かうと言って、みさおの家を出た。そしてAからCの途上にある小野忠重の家(B)に立ち寄ったところで、藤牧義夫の姿は完全に消滅してしまい、以後その姿を見た者は誰もいない。……その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。……小野が語っている藤牧の姿、「飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という言葉からは真逆の、藤牧義夫の壮健な姿が、この距離の数字から見えてくる。

 

 

 

 

……小野の言葉は更に続く。「……しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。それまで身辺にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれの図版の裏にも彼の鉛筆画の残る、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロ美術特集号などをぶちまけた。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。……(中略)……捜査願いも空しかったという言葉で、仏壇を見ると、位牌には、彼の法号と命日が、私の家から消えたその日をのこしていた。」

 

……小野は、藤牧がいかに自分を信頼していたかを強調したかったのであろうが、この文で大きな墓穴を掘っている。藤牧義夫は尊敬していた父親の影響で、宮沢賢治や高山樗牛、創作版画の先達だった山本鼎らも会員であった国柱会(満州事変の指揮をとった石原莞爾を擁する)―つまりは右傾化した思想の持ち主であったが故に、小野が(藤牧が最後に置いて行ったと)語ったような、云わば左翼青年が読むような表現派やダダの本を読む筈がない。逆にこれは後に判明するのであるが、小野は、自分が一時はプロレタリア運動に挺身した過去を持つと語り、偽装した経歴を積もらせていくのであるが、彼自身の自宅の本棚にあったのを安直に書き並べた事は想像に難くない。〈小野は藤牧義夫の下宿を訪れるような親しい仲で無かった事が、ここから透かし見えて来よう。〉……小野が語る、自分はかつての左翼の闘士であったという経歴の嘘を見破ったのは、自身が一時は左翼の闘士であった実際の過去を持つ州之内徹氏である。小野証言に疑いの眼を深めていった州之内氏は推論する。「どちらが正しいか。(中略)いずれにしても、どちらの記述も彼(藤牧義夫)のノイローゼを強調しているのは、その後に来る彼の失踪(自殺)の理由をそこに求めようとするからではあるまいか」。……小野は記す。「…………それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている」と。

 

 

……言葉には、言霊(言葉に内在する霊力)というものが必ず宿る。これは不思議な、しかし確かな事である。言霊という言葉は和歌などの調べを想わせる美しい響きがあるが、一方で〈内なる邪〉も宿す。今一度、小野の文を読むと、そこから伝わって来るのは、失った友への哀悼の情では決して無く、ギラリと光る、それこそ濁った情念のようなものがある。……仮に親友が隅田川に投身したとするならば、友が迷うことなく成仏する事を願い、水底に沈む友のイメ―ジに清冽なものを覆って黄泉へと送るのが、当然の心情ではあるまいか。間違っても、「どす黒い水底」、「藤牧の骨」と云った死者を汚すような言葉は使わない。………………とまれ、藤牧義夫の姿はその夜をもって消失し、また下宿からは、彼の版画の貴重な版木がことごとく一夜にして消えた。……藤牧義夫の版画の明らかな贋作が、あたかも秘かに生産工場が在るかのようにして続々と出てくるのは、藤牧義夫の姿が消えてからおよそ40年後の事である。」

 

 

 

近代版画の歴史から次第に藤牧義夫は忘れ去られていったが、その作品が持つ表現力の素晴らしさに最初に注目したのは、画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏(当時まだ20代後半)であった。前述したが大谷氏はまだ日本で注目されていなかったヨ―ゼフ・ボイスの個展を開催し、また青木繁の素描展を開催するなど、慧眼にして行動の人である。藤牧義夫版画の素晴らしさを何とか世に知らせたいという大谷氏の真摯な情熱に対し、当時、藤牧義夫に関する唯一の窓口であり、あまつさえ藤牧の師匠とさえ、いつの間にか呼ばれるようになっていた小野が「個展を開催するならば」として渡した数多の藤牧版画は、そのことごとくが贋作(それも明らかに失くなった筈の実際の藤牧義夫の版木に加筆彫り込みをしたという異常さ)であった。それが一括購入した先の東京国立近代美術館からの指摘で判明する事となり、以来、大谷氏は10年以上の歳月を要して『藤牧義夫眞偽』(学藝書院刊行)と題する、真作と贋作の違いを完璧に精査した文献を出版し、この国の主たる美術館に収蔵されている。……その慧眼の大谷芳久氏と州之内徹氏が時に強力な連携を組み、事件の真相に迫っていく白熱する過程は、前述した駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(講談社刊行)に詳しい。そして、私のこのブログの詳細な記述も、駒村氏、大谷芳久氏、州之内徹氏の著書、更には大谷氏からの直接の聞き取りに依り書かれている。

 

……このブログで連載の形を取るのは、以前に書いたジャコメッティの件以来であろうか。そして長きに渡った藤牧義夫に関するこの連載もようやく終わろうとしている。しかし、ここに至って私は自問する。……かくも情熱を持って(しかも、向島、浅草の各々の現場跡に何度も取材し)書かしめているのは、果たして何であるのかと。駒村氏の実にスリリングな著書を読み、その詳細を知った事の驚き。或は、この事件の謎を人生の最後に取り組み、かなり追い詰めながらも不慮の急死により、その執筆が途絶えてしまった州之内徹氏の無念への想い……。そして藤牧義夫の更なる評価を希求し、逆に不実なものを徹底して断じようとする大谷芳久氏の真摯な情熱。……その全てから発して、このブログは書かれたのであるが、……私自身が40年以上前の美大の学生の時に、実際に小野忠重に会っていたという事実が、やはり大きいかと思う。

 

…………あれは確か22才の頃であったか。……その部屋には、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎氏と私、……そして小野忠重と他に何人かがいた。私は自作の銅版画を卓上に並べ、駒井氏との貴重な話に熱中し、傍の小野には申し訳ないが全く無関心であった。それを敏感に察したのか、小野は次第に肩を震わせ始め、苛立っているのがあからさまに伝わって来た。……どういう経緯でそう言ったのかわからないが、突然私の口から「浅草に叔母がいる」という言葉が口に出た。……正にその瞬間であった。「俺ぁ、お前の作品が嫌いだな!!!」と小野は私に鋭い怒声を浴びせたのであった。卓上に並べた私の作品は、駒井哲郎棟方志功土方定一、そして坂崎乙郎……といった美術の分野を代表する先達たちから既に高い評価を受けていた作品であり、22才の若僧に過ぎないとはいえ、私にも強い自信と当然の自負があった。小野の怒声に私もまた怒りを持って鋭い声で返し、その場に異常な緊張が走った。正に殴り合いの寸前であった。見ると、無頼できこえた駒井氏でさえも驚きの顔を呈していたのを今もって覚えている。〈……その時に私は見てしまったのである。〉―もし駒井氏や余人が傍にいなかったならば、間違いなく私に飛び掛かって来たに相違ない、あの男の自分でも御し難いような内なる獣性を帯びた、その瞳孔の奥に光るもう一つの異様な〈気〉を。〈浅草に……叔母がいる〉……私は何かに促されるようにして、どうしてその言葉を発してしまったのであろうか、今もってそれはわからない。しかし、その言葉を発した瞬間に小野が速攻で切れた事は間違いのない事である。そして、この〈浅草〉〈叔母〉という2つの言葉は、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか』に何度か出てくる言葉でもあったが、小野が私に示したあからさまな敵意の真因が何に依るものであるのかは、今もってそれはわからない。……ただ、年月を経ても私の記憶の内に、あの小野が瞬間に見せた敵意を孕んだ私への、刺すような眼孔の鈍い光だけはありありと今も覚えている。……人は、一体どうなればあのような〈眼〉が出来るのであろうか。

 

……その謎を解くべく、今回のブログは綴られて来たように今は思う。……後の版画の歴史に鮮やかな一頁を間違いなく残したに違いない藤牧義夫。その彼が24才の若さでその生を終える瞬間に、脳裡に去来したものは果たして何であったのか。……そして、いや、だからこそ私は結論として今想う事がある。州之内徹氏が死の直前に綴った最後の文章「……失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。」と書いて、小野忠重が引っ張ろうとしている「隅田川に自死して消えた」という方向への強い懐疑を示したが、この一点だけが州之内氏と私の推理が異なる点である。……私は断言するが、藤牧義夫は、間違いなくこの隅田川の水底に沈んでいると。そして、その現場は、藤牧義夫が故郷の館林に帰る度に乗っていた東武伊勢崎線が隅田川を通過して、北十間川と接する水門の真下近く、……前回のブログで永井荷風と交差した不気味な黒い影、『断腸亭日乗異聞』に登場したその暗い男が向かった隅田川河畔の向島寄りの水底に藤牧義夫は眠っていると私は想う。

 

 

最後に後日譚を記そう。……藤牧義夫の墓は館林の故郷に在るが、当然ながらその墓の中に藤牧の遺骨は無い。……一方、小野忠重は今、何処にいるのであるか。……小野は小梅の自宅が空襲で焼かれた後に杉並の方に移ったと聴くが詳しくは知らない。……では今は何処に!?小野は1990年の10月に81才で亡くなっている。そして、その墓は浅草の慶養寺という寺に在る。私はその寺を訪れた事があった。今でこそスポ―ツセンタ―の巨大な建物によって隅田川の景観は全く見えないが、かつてはその寺からは、そして墓地からは隅田川の流れが見えた事と想われる。……その寺の在る場所は対岸に向島が、そして、丁度右斜め45度の対岸には、今し書いた東武伊勢崎線の鉄橋と、その下の水門とその水の面が見えるのである。樋口一葉、幸田露伴、永井荷風たち文人が……鮮やかな美文で綴ってきた隅田川の景観は、今は無い。ただ、隅田川の流れだけが今も、とうとうと流れているのである。(終)

 

 

追記.……私が関心を持つと少し遅れてメディアが、その主題を取り上げるという現象は度々このブログでも書いて来た。近い例では前述したジャコメッティの話がそうである。私はブログで、今迄のジャコメッティのイメ―ジを取り除き、娼婦に翻弄される、およそ今迄のストイックな巨匠の姿を覆して書いた。するとその半年後に『ジャコメッティ最後の肖像』という映画がジャコメッティ財団の監修で日本でも上映されたが、それは私のブログを台本にしたかのように、私が記した正にそのままのジャコメッティの姿の提示であり、矢内原伊作で築かれたイメ―ジはあっけなく覆った。創造の舞台裏、それを私は直観的に視てしまうらしい。……そして今回の藤牧義夫に関しても同じような現象が起きた。駒村氏の著書に登場する藤牧義夫研究家の和田みどりさんから先日連絡が入り、今月の29日(土曜)の『美の巨人たち』(テレビ東京・夜10時~)で藤牧義夫を取り上げるという。〈大谷芳久氏が出演される由である。〉何というリアルタイムであろうか。……この番組のプロデュ―サ―が、ある程度掘り下げて、藤牧義夫の実像とその作品の独自性を観せてくれるのを今は祈るのみである。なお、次回のブログは『もう一つの智恵子抄』を書く予定。知られざる高村光太郎と智恵子の実像が鮮やかに、そしてショッキングに立ち上がります。……乞うご期待。

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男③』

②からの続き。………………すみだ郷土文化資料館で、昭和10年頃に「本所小梅1―7」であった場所の現在の住所を問うと、「向島1丁目―30」がその番地である事がわかった。地図を見ると約800mくらい先か。とすれば徒歩だと10分くらいの距離である。………そして私は目指すその場所へと辿り着いた。小野忠重の家(すなわち藤牧義夫がこの世から姿を消した最後の地点)の区域は、空襲で様相を変えてしまっているが、当時の面影は何となく伝わってくる。そしてかつてのその現場に私はピンポイントで立った。見ると、先の高みにはスカイツリーが寒々とした姿で立っている。少し行けば隅田川と交わる北十間川、振り向けば隅田川が意外に近い。 ……私は今までこのブログで、藤牧義夫が「失踪した」或は「消えた」という能動態で表して来たが、その語法は藤牧義夫の姿が消えた後で語り始めた小野忠重の発言に依っている。しかし、ロジェ・カイヨワの言を引くまでもなく、世界の本質は対称的な関係で成り立っている。ならば自らの意思によって「消えた」だけでなく、受動態の、「消された」という考えも当然湧き上がって来よう。そうでなければ、推理は在ってはならない片手落ちになってしまう。 ……ここに藤牧義夫をモデルにした野口富士男著の『相生橋煙雨』という小説が登場する。野口は小野が繰り返し書いてきた「晩年(まだ24才)の藤牧義夫は、前後の事情から考えて貧窮による栄養の絶対量の極限にちかい不足と胸部疾患でひどい健康状態だったはず」・「……藤牧は終日川岸を去らなかった。わずか寝るだけに帰る浅草の裏街の部屋に入るとパッタリ倒れる。飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それいらい、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という、どうしても自殺―隅田川からの投身に持って行きたい言葉を真に受けたのか、野口は妄想を膨らませて、9月2日の夜、小野の自宅に立ち寄った藤牧義夫を、実は小野が見た幽霊のように書き、文意の繋がりのかなり不明な奇妙な小説を書いている。(しかし、実際の藤牧義夫を撮った写真が駒村吉重氏の小説の最後に載っているが、姿が見えなくなる半年前に撮られたその姿は、藤牧が小柄ながらも服装はきちんと整い、その顔は気概に満ちて健康そのものである)。私はあきれながらも、その小説に出てきた幽霊の登場を面白いと思った。これからは、このブログから小野はしばらく退場してもらい、……これからは、幽霊……すなわち、夜半に揺れる何者かの黒い影をここに登場させて、狂言回しのように書いていこう。

 

 

 

 

……私が今いるこの舞台、すなわち向島にはかつて、文人の幸田露伴が永い間住んでいた。その露伴が書いた「墨堤」という一篇に「……裏道づたひいづくへとも無く行くに、いけがきのさま、折戸のかかりもいやしげならず、また物々しくもあらぬ一構の奥に物の音のしたる。……」という、確かそのような文章があったのを私は何故かふと思い出した。その「……一構の奥に物の音のしたる」という文が、何故か、ここ(現場)にいてふと浮かんだのである。……奥に物の音のしたる。その連想が膨らんで、何者かの暗い影が奥戸からぞぞと現れ出で、何事かをするその影が揺らめいて見えた。……突然「リアカ―か!?」という唐突な閃きが、野口富士男が書いた幽霊に倣って俄に浮かんだ。……すると、あろう事か、妄想が現実を凌駕して、ここ向島1丁目―30のかつての藤牧義夫が消失した、正にその現場の私の眼前に、一台のリアカ―が立て掛けてあるのが目に映ったのであった。(注・画像掲載)

 

 

 

 

……幸田露伴から転じて、ここから永井荷風の登場となる。……私はふと、藤牧義夫がこの世から突然その姿を消失した昭和10年9月2日の夕刻に(駒村吉重氏の小説はその時、気象は雨)、では永井荷風は、どうしていたのかがふと気になり、彼の日記『断腸亭日乗』にその日付を追った。……あった。……荷風は著す。「昭和10(1935)年九月初二。雨降りては止む。『すみだ川』改刻本の序を草す。晩間雨の晴れ間を窺ひ銀座に行き竹葉亭に食し、茶店きゆぅぺるに小憩してかへる。」と。……そうか、正にその時、荷風は銀座にいたのか!。なかなかリアルである。……しかし、ご存知のように日記に全てが書かれているわけではない。樋口一葉は行間にもう一つの、いわゆる裏日誌の秘めた記述があり、荷風はその余白に(後の世に知られたくない)秘めた行動がある。……名作『墨東綺譚』には次のような、気になる文がある。「……柳橋の妓にして、向島小梅の里に囲われていた女の古い手紙を見た。」……小梅!……正に私がいるその現場がそれである。荷風の記述はさらに続いて、その女が荷風に会いたいという、女から届いた手紙(……少々お目もじの上申上たき事御ざ候間、何とぞ御都合なし下されて、あなた様のよろしき折御立より下されたく幾重にも御待ち申上候。一日も早く起越しのほど、……)が彼の人生に於ける正直な開示として記してある。『墨東綺譚』が書き始られたのは昭和11年9月21日からなので、実際の物語りはそれ以前、つまり、藤牧義夫がこの世から突然姿を消失した昭和10年9月2日の頃と重なってくる。……ならば『断腸亭日乗』のその日の書かれなかった部分に、荷風が銀座を出ようとして、降りだして来た雨の湿りの内に恋情が湧き上がり、女(仮にその名をお元としよう)の待つ本所小梅に円タクで向かったとしたら……という連想を、あったかもしれない可能性の内にここに書いてみよう。「……銀座より円タクを拾いて、枕橋にて下りる。雨、その降りを少し増し北十間川の流れ早し。余お元の待つ本所小梅へと向かう。ふと視る、小梅の方より重いリアカ―を引きし男の在るを。この雨の内に何を何処へ運ばんや。男、余の横を俯きて過ぐ。その気配、覆われた荷の歪な様、いかにも奇妙なり。そは何者ぞ。余は興味ありを以て幅をとりその後を少し尾う。男、暗き隅田の川岸へと消える。余お元の待つ小梅へと向かう。雨、夜半にいりても遂にその止む事を知らず。」……紡いだ荷風の幻はそこで消え、私は向島1丁目30の場から北十間川に沿って枕橋に至り、見番通りを渡って隅田公園に入った。その先はもう隅田川である。……すると、公園の中に一枚のプレ―トが立っているのが目に入った。近づいて見ると昔日の写真とその説明が書いてあった。……それを見て私は唖然とした。そのプレ―トの写真は、私が荷風に成り替わって書いた『断腸亭日乗異聞』のままに、リアカ―を引いて正に隅田川へと向かう一人の男の後ろ姿の写真が、そこに写っていたのである。しかも写真の年代の説明文を読むと〈昭和10年頃に撮影〉と記されていた。正に藤牧義夫が突然この世から消失した、その当時の写真なのであった。……写真に撮された電信柱に書かれた(花柳病専門病院)の白い文字が、時代を物語っている。

……④の完結編へと続く。

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男②』

……画廊主であり、小説家、美術エッセイストでもあった州之内徹(1913―1987)という人に強い関心を懐いたのは、私が最も霊妙な作品と高く評価している松本竣介の『ニコライ堂』を、この人も評価し、一時コレクションしていたという事を知ってからであった。だから、骨董市で州之内氏を特集している『芸術新潮』を見つけて買い求め、彼の人生とその意味深い足跡を読んだ時に、彼が最期に執念とも云える情熱を持って追っていたのが、版画家・藤牧義夫の24才での突然の失踪と、その失踪の鍵を唯一人握っている版画家・小野忠重にまつわる、いわゆる美術界最大のミステリ―と云われる事件であるのを知った時、おぉ、州之内氏も追っていたのか!!……という驚きがあった。そして、彼が或る言葉を残しているのを知った時、私はこの謎の失踪事件に対してのあらためての追求の意欲が湧いて来たのであった。州之内徹氏が語るその言葉を、ミステリ―作家駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』から引用しよう。 「……なごやかに語らいながらも州之内は、かつての宣撫官の肩書を彷彿とさせる、ふてきな言葉をふともらす。〈嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ〉と。小野証言を指していた。」……これは、このノンフィクションミステリ―小説に於ける最も凄みあるドスの効いた場面で、事実、恐るべき眼識を持った州之内氏の睨んだとおりの方向へと真相は不気味なまでに傾いていく。そして州之内氏は連載『気まぐれ美術館』の、まさしく急死する直前の最後の文章を暗示的に次のように締め括っている。〈失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説 (注.小野忠重の説)もあるが、私は信じたくない〉と。

 

 

 

 

……………………版画家・藤牧義夫の名を知る人は、美術界の中でも、或いは少ないかもしれない。近代版画史の中に燦然と輝く一枚だけ存在する版画『赤陽』(東京国立近代美術館蔵)と数点の木版画、そして『隅田川両岸画巻』と題する、総延長60メ―トルの長さの全四巻から成る隅田川両岸を、墨一色、筆一本で正確無比に描き終えた後、僅か24才の若さで、昭和10年・9月2日の雨降る夜に忽然とその消息を絶ってしまったからである。遺作『赤陽』の深い抒情性、光に対しての澄明なる清んだ感性、そして版の可能性を極めん為の果敢にして実験的な精神。もし生きていれば近代版画史に新たな美の水脈を間違いなく切り開いたであろう、その優れた才能は惜しまれて余りあるものがある。……9月2日の夕刻、浅草神吉町の藤牧の下宿を出て、向島にある姉の太田みさをの家に行き、今一人の姉の中村ていが住む浅草小島町に向かう途中、向島小梅にあった小野忠重の家に立ち寄ったところで、藤牧義夫は永遠にその姿を消してしまう。(……けっきょくみさをは、雨音を耳にとめながら、湿った暗がりに溶けてゆく、弟の背を見おくることになる。みさをが、弟・藤牧義夫の姿を見たのはこれが最後となった。……)『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』より。……一方の小野忠重であるが、小野は創作版画という新しい動き、運動に於ける、理想に燃えながらもいまだ作家とはいえないアマチュア集団に於けるリ―ダ―的な存在であった。隅田川の左岸、本所小梅の小野の自宅に版画を志す青年達が集まってくる。小野より2才年下の藤牧義夫もそこに時おり姿を見せていたという。その若者達は突出した才能を見せる藤牧義夫の作品に興味や羨望を示すが、藤牧はその誰とも距離を置き、独自な表現を模索する日々が続く。……そして若冠23才にして作り上げた完成度の高い名作『赤陽』の後に、長大な画巻による線描の独自な展開を見せ始めた直後の突然の謎めいた失踪となり、以後、藤牧義夫の名前は版画史の表舞台から消えていく。藤牧が失踪した後、小野は版画家・近代の版画史に詳しい研究家として重宝され、俗にいうところの版画界の大御所的な存在となっていき、国から勲章ももらい、順風満帆な歩みを見せることとなる。……しかし、その順風が急に凪ぎとなり、また冷たい風となり、そこに、慧眼な複数の人物達が懐き始めた疑念、徹底的な推理分析、更には矛盾点を徹底的に突いた緻密な研究書が出るに及んで、小野が記して来た版画史の記述の、いま改めての見直しへと時代は少しずつ軌道を修正しつつある。……今、私のアトリエには、芸術新潮の記事『版画家Xの過剰なる献身』、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』、更には、日本の美術館が未だこの国に紹介する遥か前に、作品集を見て、直観でその才能を見抜き、日本での最初の個展、ドイツの現代美術家のヨ―ゼフ・ボイスの展覧会を開いた、画廊「かんらん舎」の画廊主・大谷芳久氏が記した、徹底して積み上げた小野忠重の矛盾点(その膨大な数)と、あろう事か、藤牧義夫の失踪後、少しずつ小野が藤牧義夫の作品として出して来た明かに稚拙な贋作を藤牧義夫の真作と比較分析し、(10年以上の年月を要して)書き上げた研究書『藤牧義夫 眞偽』(学藝書院刊行)、そして州之内徹氏の名著『気まぐれ美術館』の著作……他がある。合わせると膨大な量であり、そこには全て人物達の名前が実名で書かれている。このメッセ―ジの私の記述は、それらの文献の総体に導かれたものである。……私はその全ての文献を読み、一つの結論へと推理が終わりつつあるのであるが、それを確かめるべく、藤牧義夫が消えた地点、すなわち小野忠重の家がかつて在ったというその場所(本所小梅1―7)へと向かったのであった。……州之内徹氏の二つの言葉、「嘘でかためた話は長い間には、ボロが出て来ますよ」という言葉と、「失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない」という言葉が、幻聴のように私の耳に響いてくる。……私は浅草駅から出て、先ずは言問橋を渡り、最初に目指す、すみだ郷土文化資料館へと歩を進めた。隅田川河畔の公園に「小梅」という名前は残っているが、肝心の「本所小梅」という地名は今は無い。地名番地が変わった後の今の現場を、先ずは調べるのである。……その日は快晴ながらも、隅田川河畔には時おり冷たい風がふく、不思議に生ぬるく、不思議に荒れた妙な日であった。

…………③・完結編へ続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男①』

正月に数年ぶりに引いた御神籤は大吉であった。……その勢いもあってか、オブジェの制作の速度が凄まじく早い。まるで何かに取り憑かれたように一心に集中して制作が進んでいる。暗い室内から数多の鳥が飛び立つように、イメ―ジが次々に浮かんで止まらないのである。しかし、その間にも時折の外出があり、気分転換と充電になっている。今回のブログの入り口は、先ずはそこから。

 

 

1月17日

長年改装中だったブリヂストン美術館が名称を変更して「ア―ティゾン美術館」になり新装オ―プンしたという招待状が届いたので、その内覧会に行く。私の好きな青木繁や佐伯祐三、松本俊介……そして、海外ではピカソやルオ―など多数の秀作をコレクションしているこの美術館は、未だ美大の学生だった時に懐かしい思い出がある。……第11回現代日本美術展に応募した私の版画三点(「午後」「Friday」「Man.Walking」)が全てブリヂストン美術館賞を受賞し、この館のコレクションに入ったのである。審査委員長の土方定一氏が即決で私の作品を美術館賞に決め、「では、うちの美術館に!」と、その場に審査員でいた当時のブリヂストン美術館館長だった嘉門安雄氏が名乗り出て収蔵に決まったという審査の経緯を、後に、この美術館の館長室で嘉門さん自身から伺った。(想えば、その場に美術評論家の河北倫明氏が同席していて静かに私達の話を聴いていたのをふと思い出す。この時の私の服装はと云えば、確かボロボロのアロハシャツにモジャモジャの長髪、そして高下駄であった。学生だったから致し方がないが、絶望的に貧乏だったのである。)……そして、その時の展覧会を観た美術評論家の中原祐介氏が私の作品を気に入り、氏が作家選定のコミッショナ―をしていた第10回東京国際版画ビエンナ―レ展(会場・東京国立近代美術館)の日本側の招待作家に選出され、海外からの審査員も交えた審査会で国際大賞の賞候補へとなっていく、その契機となったのが、この美術館なのである。ちなみに、館長の嘉門安雄氏とはその後に、文化庁の在外研修員として留学試験に応募した際に、その最終選考の席に審査委員長として再び顔を会わせる事になる。(その横に同じく審査員として、詩人の岡田隆彦氏が同席していたのを、ふと思い出す。)

 

 

新装なった館内の展示作品をざっと観て、美術館が用意した軽食を食べていると、突然「北川さん……でしょうか?」と声をかけて来た人がいた。NHKの番組制作会社のT氏であった。話をしていると、T氏が早稲田大学の学生時に坂崎乙郎氏のゼミにいて影響を受けた事を話し出したので、私も話に熱が入った。坂崎氏は私も縁あって学生時にお会いした事があり、私の初期の版画を高く評価して頂いた懐かしくも貴重な思い出がある。……「坂崎さん、あの人は実にいいですね!私は大学や講演で話す時は必ず坂崎さんの名前を出し、美術評論を読むなら、先ずは三島由紀夫、それから澁澤龍彦坂崎乙郎、更には種村季弘瀧口修造……などを必ず読むように!と言っています。坂崎さんの評論では特に『エゴン・シ―レ(二重の自画像)』が良いですね。あの著書は翻訳して海外でも読まれるべきかなり質の高い本ですよ!」と。………………しかし、今日の内覧会はさすがに株主招待者が多いらしく、美術の関係者(特に作家)が実に少ない。友人の美学の谷川渥氏や美術評論家の中村隆夫氏がいないかと見るが、どうやら今日はお休みのようである。帰りに、美術評論家の高階秀爾氏と蕪村の話を少しして館を出る。

 

 

 

 

1月18日

荻窪のカラス・アパラタスでの勅使川原三郎氏・佐東利穂子さんによるバッハへの『音楽の捧げもの』と題する公演を観る。常に新境地を開いて歩む、その果敢な実験の精神が、この天才をしてまた深く、かつ純度の高い表現世界を開示した。公演が終わるや、満席で埋まった会場内に感動の拍手が鳴り止まない。……この人に於いては、メソッドの芯の中さえも官能性に充ちた危ういバイブレ―ションが揺れ続いている。……帰り際に私は勅使川原氏に、ジャン・ジュネの名前を出し、併せて短い感想を少し話した。またいずれ、じっくりと話をする事にして帰途につく。……次回の公演は早くも2月3日から11日まで、新作の『オフィ―リア』が始まる。常に実験、そして完成度の高い表現世界の切り開きが、このカラス・アパラタスの地下の舞台で繰り広げられているのであるが、それは実に驚異的な事なのである。

 

 

1月20日

骨董市でふと見つけた『芸術新潮』(1994年の11月号)の「州之内徹・絵のある一生」の特集号が目にとまったので購入した。開いて見ると、州之内氏が愛し、私も好きな隅田川の写真が何枚か載っていた。……小林秀雄が「当代一の評論」と称賛した、型破りな美術評論家・州之内徹。また先述した土方定一氏や白州正子さんもその眼識を高く評価した州之内徹。その彼が記した、長年にわたって書いた名著『気まぐれ美術館』の最後に、彼が追っていたのが、この国の美術界最大のミステリ―と云われる、版画家・藤牧義夫の突然の失踪の謎と、その鍵を握るもう一人の版画家・小野忠重の事であったのを知った時、私の中に新たなる推理の熱い火が俄然灯ったのであった。そして、直ぐにその事件の事を詳細に記したノンフィクション小説『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(駒村吉重著・講談社刊行)を読み、私なりの推理と分析が始まった。そして、その本の中には低奏音のように逆巻いて流れる隅田川の濁流が在るのであった。本の中に登場する実際の人物(事件の鍵を握る小野までも含めて)の多くと私は実際に面識があるだけに、この本はいっそうのリアルな不気味さがあった。そして、私はかつて話しを交わした、ドイツ文学者にして鋭い慧眼の人、種村季弘氏との会話を思い出したのであった。

 

……1990年の7月のある日、私は半年間暮らしていたパリを出てイギリスへと向かった。夏というには余りにも暗いド―バ―海峡を渡り、揺れの激しい三等列車でロンドンに入った時は激しい雨であった。そして、テムズ河の陸橋を渡る時に、私は眼下を、豪雨で激しく逆巻く眼下を見た。テムズ河の濁流を見た時に、私は1888年の晩秋にジョン・ドルイットという名の青年が、このテムズ河で自殺を遂げ、その水死体が濁流の中で見つかった、という話を思い出していた。……ジョン・ドルイット、……澁澤龍彦がその著書の中で、彼こそが切り裂きジャックの真犯人であると断定した、その男なのであった。本を読んだ時に、澁澤氏はなぜ犯人を断定しえたのか、その根拠を知りたくなり、直ぐに私は鎌倉に住む澁澤龍彦夫人の龍子さんに電話をした。……龍子さんの答えは「自分が結婚する前の著書なので、澁澤のその根拠まではさすがにわからない」という話であった。……とまれ、眼下に見るテムズ河は、正にミステリ―の舞台に相応しく、その時の私の脳裏に隅田川と重なるものが、何故かふと浮かんだのであった。

 

「…………と、いうわけなのですよ。私には、そのテムズ河と隅田川が何故か重なって仕方がないのです。この点、如何でしょうか?」と目の前の人物に語った。……目の前にいる人物、種村季弘氏は、先ほどから腕を組み、じっと私の話を聞いている。そして、その眼をゆっくり開けると、次のように語った。「……確かに言われてみると、テムズ河と隅田川は妙に似ているなぁ。……つまりあれだな、犯人が片方の街で深夜に殺人を犯した後で河畔に立ち、飛び込んで何とか泳ぎ渡れる、川幅が似た妙に暗い不穏さが、確かにこの二つの川は孕んでいるなぁ。」……種村氏は、そう語り、私達の話題は永井荷風と隅田川の関係の方へと移っていったのであった。種村氏もまた浅草を愛し、深夜まで浅草の六区で酒を飲み、暗い隅田川に想いを重ねる人であったので、こういう話を聞いてもらう相手として、これ以上に手応えのある人は、もういない。……さて、次回は『墨堤奇譚―隅田川の濁流の中に消えた男』の②を連載で記す予定。話は不気味さの渦中へと展開。……乞うご期待。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『顔、そして眼……楢崎龍(おりょう)の場合』

……電車に乗っていると、ほとんどの人はスマホに没頭しているが、私は座席の前に並んで座っている人達の顔に関心がいって仕方がない。顔という小さな面積(キャンバス)の中に、先祖代々の様々な人達の遺伝子や物語が凝縮して、今、目の前の人達の「顔」として宿命のように現れている。そう想うと、「人は皆、遠い先祖たちの過去までも背負って生きている」と映って、想像力が湧いて来て仕方がないのである。……昔、コナン・ドイルが『名探偵シャ―ロック・ホ―ムズ』の執筆を着想した際にモデルにした人物がいるが、その人は医者でありながら、趣味は、人の顔相や着ている服装、そして靴の痛み具合や磨り減り方を見て、観察している相手の職業や家庭環境……等を推理する事であったという。そして、このホ―ムズのモデルとなった医者の分析はことごとく当たっていたという。私はこの逸話を聞いて、暫くそれに没頭した事があるが、とにかく、そういうわけで私は他人の顔に関心がいって仕方がないのである。……そして、その顔が他の何に似ているかと考え、痒い所に手が届いた達成感のようにピタリと当てはまらないと、自分でもまだまだイメ―ジを連結させる修行が足りないと、反省する事しきりなのである。人に似ている物が、別な人とは限らない。例えば、正面から見た新幹線であったり、海藻が絡み付いた地引き網であったりと、その対象はあまねく広範囲なのである。……そういうわけで、顔と云えば、インパクトに於いて他の追随を許さない人物、つまり前回に続いてカルロス・ゴ―ンがここに登場する事になる。……この男、「レバノンにいま必要なのは先ずは教育現場の豊かな拡張だと思う。だから僭越かも知れないが、私は私財を叩いて学校を建てる事に協力を惜しまない。この国に尽くしたい。……」とでも云えば、レバノンでもいだかれている拝金主義の亡者のイメ―ジから、流れは少しは変わるかも知れないが、作業員に変装して失笑をかった辺りから、やることすべてに焼きが回ったようで、つまりは精彩がなく窮していくばかりである。とまれ、日産・ルノ―、そして造反、……そんな事は全く関心はなく、私は年明けから、このあまりに特徴的な顔をしたゴ―ンが他の「何」に似ているかという事に取りつかれ、その事ばかり考えていた。……タブレットで検索すると「Mr.ビ―ン」に似ているという意見が圧倒的に多い。たぶん、みんなの関心もゴ―ンの顔にあるのであろう。……しかし、Mrビ―ンの売りは、小心、屈折、無口、僻みであって、ひたすらな強気、頑固、巧みな饒舌、背景を大きく見せる剛腕で生きて来たゴ―ンとは真逆で、言われる程には似ていない。……私は更に考えて漸く、痒い所に手が届く物に到達した。それが、……何と、……「達磨(だるま)落とし」である。太い眉、不機嫌に相手を睨み付ける強い眼力、逆Vの字の固く閉じた口。…………さてさて、皆さんにはどのように映ったであろうか!?

 

 

 

 

話は変わって、話題は顔から眼に移る。……昨年の夏に千葉を襲った猛雨の時に、本来ならば災害本部を立てて陣頭指揮をすべき筈の県知事の森田健作が、あろう事か一番大事な時に公用車を私的に使い自宅へ向かった!というW失態で糾弾されたのは記憶に新しいかと思う。しかし、その直後の会見がいささか不味かった。……私だったら早々と頭を丸め、修行僧の袈裟姿に服装を変えて会見の場に臨み、横に「どんなに注意して歩いても、目先の石にだってつまずく事はある。だって、人間だもの。 相田みつお」と、黒々と墨書きした大きな色紙を掲げて(もちろん、相田みつおに、そんな言葉は無いと思うが……)、先ず最初に深々と頭を下げ、「この失態を猛省し、知事である以前に、先ずは一人の人間として精神の修行を積み重ね、これをバネにしてこの国の県知事史上、最高に優れた知事と言われるように己をひたすら磨き、千葉県の人々の為に粉骨砕身しますので、皆さんも、この未熟者を叱咤すると共に、何卒寛大な眼差しを持って見守って頂きたいのであります!」と先手で話し、「……何もそこまでやらなくとも……」と、矛先をはぐらかせば良いものを、詭弁を弄して逃げ切ろうとする反発の姿勢を見せたから、2か3で済むのを、8か9に飛び火させて、世論の過剰反応な情緒が一斉に噛みついたのであった。……その公用車の私的使用に関しても、舛添都知事の時もあったし、極論すればかなりの数の政治家、知事、その他諸々がまぁ日常的にやっていることは想像に難くないのである。…………テレビで、その森田健作が汗を拭きながら弁明する姿を見ていて私が思ったのは、ちょっと世間の人の憤りとは違ったものかと思う。「……しかしこの森田健作、ずいぶん眼が小さく、細くなったなぁ……」という驚きであった。ためしにタブレットで昔の俳優をやっていた頃の森田健作を見ると、果たして、人はかくも眼が小さくなるのかと、ため息が出る程の今の変わり様である。私は思った。〈人は例外なく歳を取ると、眼が小さくなってしまう〉と。森田健作以外に身近の周りを思い出しても、そこに例外は無い。……かく言う私も、20代の頃は30m先から北川さんの大きな眼、長い睫毛が気になって仕方がない……と方々に指摘され、瞳孔の綺麗な光が太陽に反射して眩しすぎる!……とつい昨日のように言われたのを今、思い出した。……そして、私は思ったのであった。「やはり間違いない!……あの女は、楢崎龍ではなく別人である!!」と。…………本名、楢崎(ならさき〉龍、通称、おりょう坂本龍馬の妻として知られる、あまりにも有名な女性である。

 

 

私のアトリエのある横浜・東横線の妙蓮寺駅から3つめの「反町駅」という駅で下車して暫く行くと、高台の上に「田中家」という幕末からの老舗料亭が今も在る。広重の東海道五十三次の「神奈川台之景」にも、その「田中家」は描かれている。1867年に京都の近江屋で坂本龍馬が暗殺された後、明治の世になり、龍馬の妻のおりょう(1841~1906)は、勝海舟の口利きで、この田中家で働いていた事があった。そこで撮した当時の写真が残っているが、その顔は、おりょう晩年の時に撮した顔と目鼻立ちにおいて似ており、何より眼が大きいのが特徴的であり、同一人物と見て間違いはない。……晩年のおりょうの眼は、なかなかいないくらいに眼が大きいのが特徴的なのである。……その2枚の写真と比べると、度々、龍馬関係の番組などで知られる、若き日のおりょう(と云われている)の写真の顔は、瓜実顔で眼が細い典型的な京美人の顔である。……若い頃に撮ったおりょうの顔が、晩年の顔と違いすぎるので、疑問視する声は以前からかなりあり、同写真を収蔵している高知県立坂本龍馬記念館が警視庁科学警察研究所に鑑定を依頼した事があった。顔の輪郭や目などの位置や形を分析した結果、目や口の形などに相違はあるが、同一人と示唆することが科学的に妥当な判断と、断定は控えながらも一応はゆるい結論が出た。……「目や口の形などに違いはあるが」という大事な箇所を、警視庁科学警察研究所は何らこだわりなく素通りしているが、私が引っ掛かるのは、若い頃より晩年の方の眼が、写真では大きいという不自然な事実である。これが、若い頃に眼が大きく、晩年になって小さくなっていたのなら、「目や口の形などに違いはあるが(つまり、すぼんだ)」は難なく納得するが、そこの大事な所を鑑定者は飛ばしてしまったのではないかと、気にかかる。……また、その若き日に撮られたおりょうと同一人物が芸者として写っている写真も別に存在していて、誰もが納得するような結論はまだ藪の中である。……私は『「モナリザ」・ミステリ―』という著書を以前に書いたので、読まれてご存知の方もお在りかと思うが、そこまでやるのか!と言われるくらいに、問題点が浮かんだら物証的な裏付けを求めて、例えば、京大の発達心理学の教授に会いに行って、私の視点に対し、その分野のプロが見て整合性はあるのか……というふうに客観性を交えた複眼で徹底的に詰めて書く人間であるが、それ故に、この警視庁科学警察研究所の鑑定結果報告に、消化不良の得心の無さをどうしても覚えてしまうのである。……まぁ、良しとして事なかれの妥協点をこの国は平気で出して、人々も曖昧の内に了解してしまう流れが国民性としてあるが、これが西洋だと、その曖昧さは許されない。……数年前の話になるが、ダリの娘だと称する女が現れた時に、フィゲラスのダリ美術館の地下に埋葬されているダリの死骸を掘り出して、血液鑑定、遺伝子鑑定を徹底精査して、その女の虚偽を立証した例などは記憶に新しい。……とまれ、人は例外なく歳を取ると眼が小さくなる。……ここに書いたおりょうのように、小さく細かった眼が重力や目蓋の重みに反して、不自然なまでに晩年になってありありと開いた……というのは絶対に有り得ないが、余談を記せば、若い頃から眼が大きく、晩年になっても、その眼の大きさを保った……というのは、考えてみると、女優の京マチ子(1924~2019)くらいであろう。未だ新人の内に文豪・谷崎潤一郎にその才能を絶賛され、谷崎の予言通りに、国際映画祭を次々に制し、グランプリ女優と呼ばれた伝説の女優の、それは内に秘めた矜持の成せる業なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

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『年の始めに……永井荷風と陽水』

新年明けましておめでとうございます。今年初のメッセ―ジをお送りします。…………12月後半は不覚にもA型のインフルエンザを患い、熱が下がったと思ったら次は悪性の風邪。医者からはひたすら安静に、と言われていたので寝床での読書三昧の日々が続いた。……読んでいたのは芥川龍之介『支那游記』、谷崎潤一郎『上海交遊記』、そして永井荷風『断腸亭日乗』……他である。以前のブログでも書いたが、私は自分が関心を持つと、何故か少し遅れてメディアがそれを話題にする事が度々あるが、年末のテレビで、読んでいたその芥川の『支那游記』を原作とした『ストレンジャ―~上海の芥川龍之介』の放送があった時は、あまりにタイムリ―すぎて面白かった。1920年代の魔都・上海をリアルに映像化した画像が出てきて、まるで私の為にこの番組を組んでくれたかのように愉しめたのである。……そして年が明けた2020年。除夜の鐘のゴ~ンという音の響きがまだ記憶に残っている時に、生き物の方のゴ―ンが狭いトランクの中に潜んで、日本を脱出した。シュミレ―ションを何回も重ねた後の脱出劇だというが、もし仮に検査係が「カミソリ」のような切れ者で、トランクに疑問を抱いて脱出直前で開いていたならば、……と、その姿を想像すると笑いが止まらない。一か八かの博打のようで、この事件、江戸時代の大奥の女が、惚れた歌舞伎役者に逢いにいく為に、籠に潜んで抜け出た江戸城からの脱出劇と発想は同じで、今も昔と変わらない。

 

 

 

 

……さて、正月の2日、先ずはアトリエの片付け、清掃からと思って作業を進めていると、卒然と神経に直に伝わってくる生々しい感覚を覚えた。自分でも意外だったのであるが、創作の衝動が急に立ち上がって来たのである。(この空間にそれらはいつからかおり、私に捕まるのを息を潜めて待っているかのようである。)……作る!というよりも何物かの強い力によって導かれ、引っ張られるように、次々に構想が浮かび、一気に様々な短編小説を綴るように作業台の上に10点近い生なオブジェ(勿論、最終的な完成形は後日になる)が、夕方、暗くなる頃には一堂に並んだのである。……それらを視ると、また新たな展開が来訪したかのように、かつて無かった世界が、そこに拡がっている。二年前に求龍堂から刊行された作品集『危うさの角度』で自作を振り返り確認出来た事であるが、制作に於ける攻める方法論が、より「客体」である事を志向するかのように、年々ありありと変わって来ているのである。……今、私の眼前にある10点近い新たな形は、彼方からやって来たように有機的な気配を未だ帯びており、私はその「名付けえぬ物」たちの生誕に立ち会う最初の観者のように、それらの新作を眺め観ているのである。

 

 

……『クレーの日記』や『ドラクロアの日記』は、美術の分野における画家の正直にして貴重な内面の記録であるが、文学の分野における日記の有り様は、各々の作家の複雑な資質を映して、正直あり、自白あり、隠し事あり……となかなかに一様では掴めない(という手強さがある)。三島由紀夫、山田風太郎、石川啄木、樋口一葉、正岡子規、武田百合子……等々。しかし、群を抜いた面白さという点では、やはり永井荷風の『断腸亭日乗』に指を折るかと思われる。世相の移りと荷風自身の内面との距離感が面白く、そこに時代特有な抒情やエロティシズムが絡んで、夕暮れの切ない陰影を孕んでいて面白い。……その『断腸亭日乗』を年末から年明けにわたって読んだのであるが、実は30年ぶりの再読になる。12月の鹿児島での個展の合間に訪れた文学館に再現されている向田邦子さんの書斎の蔵書の中に『断腸亭日乗』があるのを見つけ、「やはりツボを押さえているな」と思い、鹿児島の古書店で見つけて久しぶりに読み始めたのである。……再読してもやはり面白い。「秋の空薄く曇りて見るもの夢の如し。午後百合子訪ひ来りしかば、相携へて風月堂に往き晩餐をなし、堀割づたひに明石町の海岸を歩む。佃島の夜景銅版画の趣あり。石垣の上にハンケチを敷き手を把り肩を接して語る。……」といった抒情や男女の風情ある交わりがあるかと思えば、転じて、「去年大晦日の『毎夕新聞』に市ヶ谷富久町刑務所構内にて明治三十年来死刑に処せられし罪囚の姓名出でたり。左に抄録す。明治三十年より昭和十年まで四十年間に御仕置になりしもの六百余人なりといふ。 野口男三郎(詩人野口寧斎女婿臀肉斬取り犯人)・幸徳秋水(約九字抹消)・石井藤吉(大森砂風呂お孝殺し)・大米竜雲(鎌倉辺尼寺の尼を多く強姦せし悪僧)・ピス健(強盗)…………」と、物騒ながら何故か気を引く記述が続く。かと思えば、「十一月五日。百合子来る。風月堂にて晩餐をなし、有楽座に立寄り相携へて家に帰らむとする時を街上号外売の奔走するを見る。道路の談話を聞くに、原首相東京駅にて刺客のために害せられしといふ。余政治に興味なきを以て一大臣の生死は牛馬の死を見るに異ならず、何らの感動をも催さず。人を殺すものは悪人なり。殺さるるものは不用意なり。百合子と炉辺にキュイラッソオ一盞を傾けて寝に就く。」……といった、政治、世相に対岸の火事のごとき無関心の距離をとって、個人主義に徹し、それよりも身近にいる女性の存在の方に関心の揺れる重きを置く。…………と、この辺りで、そう云えば、この記述に似た冷めた眼差しの距離があったな……と思い、辿っていくと、井上陽水の初期の代表曲『傘がない』に行き着いた。「都会では自殺する若者が増えている/今朝来た新聞の片隅に書いていた/だけども問題は今日の雨 傘がない/行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ……」。……これが出た1972年当時は、若者の自殺が増え、川端康成のガス自殺があったりと不穏な世相であったが、その世相への冷めた視線と、個人に重きを置く切り口が斬新ということで、この曲は時代を映す名曲となったが、辿っていくと永井荷風にその先を見るわけであるが、井上陽水が荷風のこの日記を読んで閃いたのか、はたまた時代は廻る……といった時世粧の事に過ぎないのかは、勿論知るよしもない事である。とまれ、この永井荷風の『断腸亭日乗』、ご興味のある方にはぜひお薦めしたい、不思議な引力のある、読み応えありの書物です。

 

 

 

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「さらば2019年」

鹿児島の個展から戻ると何かと忙しい日々が待っていた。……しかし充電は必要と思い、今月の14日は三島由紀夫の代表作『サド侯爵夫人』(演出・鈴木忠志)を観に吉祥寺シアタ―を訪れた。この観劇に誘って頂いたのは日本語教育研究所の理事をされている春原憲一郎さんである。春原さんと初めてお会いしてから、もう何年が経つであろうか。……はじめは確か森岡書店での私の個展か、伴田良輔氏(作家・写真家)との二人展の時だったかと思うが、初めてお会いして直ぐに私は春原さんに対して、「旧知の懐かしい人にようやく出逢えた!」というなんとも熱い不思議な印象を抱き、以来その感覚は変わらずに、豊かなお付き合いは今も続いている。その春原さんは、演出家の鈴木忠志氏の作品をまだ20代の頃から観続けておられ、満を持しての今回の三島由紀夫『サド侯爵夫人』にお誘い頂いたのである。……三島由紀夫の才能の真骨頂は戯曲に尽きるのはもはや自明であるが、その中でも頂点を極めた『サド侯爵夫人』の台詞が持つ「言外の言」の心理描写とその鋭さは圧巻であり、あらためて、戯曲は目で読むものではなく、目と耳(聴覚)で生々しく体感するものである事を実感する。

 

 

 

 

……私たち表現者と、その作品というものが持つ宿命、すなわち淘汰について考えていた。すると私的な感想かもしれないが、私には20世紀の前半を牽引したピカソにもはやかつてのような鮮度や驚きを覚える事はなく、マチス、ダリ、エルンスト……、あのデュシャンさえも、時の経過と共にその澱に包まれ始めているような、そういう印象をふと抱いたのであった。まぁ、言い換えればそれが古典に入っていくという意味なのかもしれないが、否、しかし、という閃きが跳ねるように立って来た。いつまでもその作品群が褪せないばかりか、逆に今日に対して、鮮やかな深いポエジ―を放射している画家が一人だけいる事に気づいたのである。……それがポ―ル・クレーなのであった。クレーの作品は何回観ても、また画集を開いても、そこには初見の驚きと眼の至福感、そして懐かしい既視感があり、そしてそこには、他の画家には比べようもない馥郁たるポエジ―が私達をして、記憶の原初へと誘っていくのである。その秘密に迫るべく彼が遺した書簡集『クレーの手紙』を読んでいると、ある日、公演の開催を告げる1通の案内状がアトリエに届いた。両国シアタ―X公演 勅使川原三郎『忘れっぽい天使 ポ―ル・クレーの手』である。クレーが最晩年に到達した主題は「天使」であったが、その時、クレーの手は筋肉が硬直化して自由な線が描けないという状態にあった。またそこに追い打ちをかけるナチスの迫害。しかしクレーはそれを才能と意志の力を持って凌駕し、「線」というものが持ちうる最高な表現の高みへと飛翔し、奇跡的な達成をなし得たのであった。……勅使川原氏は、クレーの線が持つ生命力に背反をも含む二言論的なベクトルの妙を覚え、自らのダンスメソッドをそこに重ね見たものと思われる。私はさっそく勅使川原氏が主宰しているKARASの橋本さんに連絡して、指定の予約日を早々と入れていた。……それが三島由紀夫『サド侯爵夫人』を観た翌日、15日の公演の最終日であった。会場のシアタ―Xはかつての吉良邸の在った場所、しかもその日は吉良邸襲撃の悲願達成の翌日。会場内に入ると客席は満員、しかも熱心な若い世代の男女が目立つ。私の席は嬉しくも最前列のど真ん中である。……私は拝見していて、クレーの晩年に入り込んだというよりは、クレーを自らの方へ、勅使川原氏は逆に引き込んでいるな、という印象を強く持った。そこに勅使川原氏とクレ―との妙味ある合一を、重ね見た想いがしたのであった。…………美術史の近代の中で例を見れば、ゴヤは聴覚を失う事で、あの暗黒の「妄」が地獄の釜が開くように開示し、マチスは晩年に手の自由がきかなくなってから「切り絵」による更なる開眼を果たし、そしてクレーにも、あの平明にして、その実は悪魔的な両義性を孕んだ、逡巡と強い意志の力が瞬間で揉み合い、一気に迷路の中を疾走していく、あの独自な線への到達がある。…………。さてもアクシデントは時として、不思議としか言い様のない恩寵をもたらすのであろうか。

 

 

 

 

「亡妻よ聴け観世音寺の除夜の鐘」「時計みな合わせて除夜の鐘を待つ」「近づいてはるかなりけり除夜の鐘」………… ちなみに「除夜の鐘」を詠んだ俳句をタブレットで調べてみたら、予想を越えて数千以上の句が出て来て驚いた。いにしえより、この除夜の鐘を聴きながら、今年逝った近しき人を偲び、遠い昔日の両親や先祖を想い、来る年に切なくも小さな夢を託して来たのであろう。……とまれ、風の流れによる鐘の響きの違いで、私達の心情も揺れながら、生の哀しみや尊さをしみじみと除夜の鐘のあの響きは教えてくれるのである。……中国の宋の時代を起源とし、鎌倉時代の禅寺から始まったという、この深淵な除夜の鐘に対して、昨今俄に〈騒音〉と言い始めた近隣の住人が寺を相手に、除夜の鐘を止めるように裁判を起こし、裁判所は「防音装置を付けるように」と判決を下したものの、費用をどちらが負担するかということで、問題は白紙に戻っているという。馬鹿馬鹿しい限りである。また、実質は僅かな数に過ぎない「除夜の鐘を止めろ!」という連中の抗議をマスコミがまた馬鹿馬鹿しくも取り上げるから世間は拡がっていく社会現象のように錯覚し、つまらない広がりを見せている。……私に言わせれば、この裁判長はかなり頭が悪いと思えて仕方がない。防音装置などという馬鹿な出費を労さずとも、100円ショップで売っている「耳栓」を、その神経過敏な、風情、情緒、伝統の奥深さを解せない連中に渡し、そんなに耐えられないならば(しかし、何ゆえ今、突然言い出したのか!?)、鐘が鳴り終わるまでの、たった二時間くらい耳栓を突っ込んで布団を被って寝ていろ!!と判決を下す方が具体的に理にかなっていよう。……私は以前にスペインのバルセロナに留学した際に、恐らく深夜も騒音が凄いだろうと読んで、日本から「耳栓」を持って行ったのであるが、この読みがピタリと当たり、バルセロナの、日本人だけを留まらせるホテルで、私だけが安眠快適に毎晩過ごし、他の泊まり客から羨ましがられたのを今、懐かしく思い出している。……その、「除夜の鐘を廃止しろ!」と訴えた連中とピタリと重なる俳句があるので、ここに書こう。

 

「おろかなる犬吠えてをり除夜の鐘」 山口青邨

 

 

……ことほど左様に、昨今の日本は、自我の確立が未熟なままに「個人情報」云々という張りぼてがヨロヨロと横行した辺りから、妙にギスギスした窮屈な国へと更に劣化の道をひた走っているように思われる。……今年の9月に列島を襲った猛烈な台風(もはやハリケ―ン)が残した爪痕の深さが癒えぬまま、おそらく来年は更なる凄みを増した台風や、或いはいよいよの地震が、この国を容赦なく砕き始める、そんな事態が待ち受けているように思われる。この事は実は誰もが感じている事ではあるが、そのような時に始まるオリンピックは、もはや幕末の「ええじゃないか」と同じ不気味な狂態の再来である。……ともあれ、かく言う私の言葉が杞憂に終わる事を今は乞い願うのみである。大晦日の夜は私が住んでいる横浜は、除夜の鐘と共に横浜港に停泊中の船が年越しの前後に一斉に汽笛を鳴らして誠に情緒深いものがあり、年越しのそれは、またとない楽しみなのである。…………1年間のご愛読に感謝しつつ、今年のメッセ―ジはひとまず今回で終わります。……年明けの2020年1月に、またお会いしましょう。どうぞ、よいお年をお迎え下さい。

 

 

 

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