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『Morisotに恋して』

……突然であるが「模写」というものはいい。頭ではなくて、手と眼を通した色彩や線のなぞりからは、模写の対象であるその画家の、描画の際に移行していく意識や逡巡さえも伝わってきて、実に豊かなエッセンスの吸収や、作品への理解が出来て、実作者にしか見えない様々なものが身に付いてくるのである。筆法は文体にも似て、作者の密なるものがそこから透かし見えてくるのである。……高校生の頃は、よくこの模写をした。日本では佐伯祐三、西洋絵画では主にモネ、ドガ、そしてセザンヌあたりを熱心に模写したものである。しかし、マネはやがて卒業して、むしろ前代のマネやタ―ナ―に私の関心は移っていった。特にマネはどうしても解けない知恵の輪のように平明でありながら、その実は不可解な謎に充ちている。その謎の最大なるものは、マネはモネ達の新しいイズム、つまりは印象派の価値を最大に認めて支援しながらも、何故マネは、近代のその先へと進まず、足踏みするように自らを前代の中に押し込んでしまったかという謎である。

 

マネ(1832~1883)のその意識の深部に迫るべく、同時代を生きた、例えばボ―ドレ―ル(1821~1867)と比較して検証がなされる事が多いが、視点が社会学の域を出ていない為に、検証はきまって尻切れ蜻蛉に終わっている事が多い。……しかし、社会学ではなくて比較文化論的に絞って考えると意外に見えてくるものがある。つまり、西洋の謎を東洋の地―日本に移してみると、似たケ―スに辿り着くのである。その対象とは、マネとほぼ同時代を生きた明治の時代の人、夏目漱石(1867~1916)や森鴎外(1862~1922)と、モネ(1840~1926)とはやや遅れるが大正時代の人、芥川龍之介(1892~1927)や志賀直哉(1883~1971)を比較してみると面白い事が見えてくる。その検証の切り口として、乃木将軍の殉死(明治45年―1912年)の例を考えてみるとわかりやすい。乃木将軍の死に際し明治の人はこぞってショックを覚え、、漱石は『こころ』を、そして鴎外は『興津弥五右衛門の遺書』を書いているのに対し、芥川は乃木将軍の死に突き放した違和感を覚え、志賀は日記に「下女かなにかが無考えに何かした時と同じような感じがした」と素っ気ない。つまりは成長と共に形づいてくる個人の意識よりも、いつ生まれたかという時代の衣装、さらには意匠に、先ずもって決定的に我々の感受性は括られているという事が、このケ―スから見えてくるのである。マネがモネの才能や次代のモ―ドに理解を示したのと同じく、漱石は芥川の新時代の才能や更なる文学空間の拡がりを理解して芥川を文壇へと導いたが、自身の理念は生涯、明治の人であり続けたのと重なって来よう。私事になるが、私が美大の学生時に最初に出会って意識した表現者としては、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎がいた。影響力のある人だけに、学生達は教祖を慕う信者のように、駒井の世界こそが銅版画の範であるかのごとく染まっていったが、二十歳の私はかなり醒めていた。駒井の感性のリアリティ―をいたずらに模倣する事に危険を覚え、何よりも、自分の表現空間の有り様を未知の方に見て、自分のリアリティは駒井哲郎とは違う、まだ先の地平に待っていると確信していたのである。……そして結果は正しかったと私は今、断言出来るのである。……これは表現者の場合だけでなく、普遍的に、人は誰もが、その生まれた次代軸の座標によって、感性を揺らしながら宿命的に生きていくのである。

 

……さて話をマネに戻すと、最近私はマネが描いた不気味な「ベルトモリゾ」の肖像が存在する事を知って驚いた。近代絵画の中で最も美しく描かれた一人に、マネの弟子であった画家のベルトモリゾがいる。美形のモリゾをマネはよほど気に入っていたらしく、およそ10点ちかいベルトモリゾの肖像が残っている。……美しかりしベルトモリゾ。しかし、もう一点のグロテスクな婦人像もまたベルトモリゾである事は、最近まで知られていなかった。……モリゾと親交があったルノア―ルでさえ「ヴェ―ルを被ったとても醜い婦人像」と記して気付いていない。またベルトモリゾ自身が「私は醜いというか、奇妙な姿をしています。詮索好きな人たちの間では妖婦と呼ばれているようです」と、姉に宛てた手紙に書き送っているが、確かにこのグロテスクな肖像は、ゾラの小説『ナナ』の娼婦像の悲惨を越えて、私がかつてロンドンで追い求めた『エレファントマン』の骨格標本(ロンドン病院所蔵)に似て、あくまでも怪異である。しかし、この二点は共に同年の作というから、そこから否応なしに画家とモデルとの私小説的なドラマが見えて来よう。さらには日記の秘められた叙述のようなものが……。ちなみにベルトモリゾは、マネの弟のウジェ―ヌと1874年に結婚しているが、この二点が共に描かれたのはその2年前である。……ピカソの主題は常に私小説的であり日記のようなものであったと云われるが、ピカソに限らず、表現者の創造のアニマとヴェクトル、そして表現の衝動はみな、日常の実人生の中から立ち上がってくる。日常性から形而上への性急なる昇華。その現場に立ち入れないところに、或いは評論の限界なるものも、あるように思われるのである。

 

 

 

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『突然、喉が……』 

先日、スパンア―トギャラリ―のオ―ナ―の種村品麻さんと話をしていたら、実に嬉しい逸話を話してくれた。品麻さんのお父上はドイツ文学者の種村季弘さんであるが、この人の眼力は三島由紀夫も絶賛したくらい、物の本質を見極める名人である。種村さんは、美術家から依頼されて個展の序文も書かれるので、その御礼や交遊の記念にと、美術家たちは自作をプレゼントするので、種村さんのコレクションの数たるや実に多い。この点は双璧と評された澁澤龍彦さんと似ている。北鎌倉の澁澤さん宅に今に残るコレクションもやはり多くの寄贈から成り立っているのである。……その種村品麻さんいわく、「親父が自分で購入したのは、北川さんとハンス・ベルメ―ルの作品だけですよ」と。……確かに拙作の『フランツ・カフカ高等学校初学年時代』は、種村さんを特集した日曜美術館でも特別に愛蔵されている感じで映像に流れた事があったが、それよりも、私が高く評価しているベルメ―ルと対である点が実に嬉しく、私は素朴に喜んだ。そして私の作品について執筆する構想を抱いておられたが、果たせず亡くなられた事の具体的な詳細を私は品麻さんからお聞きした。確かにこれほど自信の裏付けとなる心強いものはない。……しかし、喜びのすぐ後で予期せぬ悲劇が私を襲った。突然声がかすれて来て、遂には言葉が出なくなってしまったのである。品麻さんも私の急な変調を心配されたが、また出直しますよとかすれ声で云って、私は画廊を出たのであった。……度々私を襲うこの奇妙な病気、しかし遂に咽頭癌の症状が出たかと私は焦ったのである。

 

過去に確か4回はあったと思われる、この奇病。さっそくクリニックで診てもらったところ、急性咽頭炎と診断された。全治2週間は要するとの事である。タブレットで調べてみると、美輪明宏さんも患い舞台をキャンセルした由。……歌は歌わないが、喋るのが存在の証しのようによく喋る私にとって、喋れないというのは1種の死刑宣告にも似た酷がある。更にタブレットで調べてみると恐ろしい事が記してあった。この病気が悪化した場合、最悪は喉から肺に至る気道が炎症によって塞がれる為に呼吸不全で死に至るとの由。……2週間経っても快復しないので、内科から耳鼻咽喉科のクリニックに変えてみたら、ようやく改善の兆しが見えてきた。……私はそこの看護婦さんから面白い事を聞いた。声がかすれている為にどうしてもヒソヒソ声で喋るようにしてしまうが、却って声帯の筋肉を弱くしてしまい、治った後もずっと小声になってしまうので、どうしても伝えたい時には、普通の喋りで簡潔に!と教わったのである。私がそれを聞いてすぐに連想したのは、瀧口修造さんの事であった。今では、その存在は伝説と化しているが、その瀧口さんが、全く聞き取れない感じで小声で喋るのは有名な話で、先日読んだ立花隆著『武満徹・音楽創造への旅』の文中で武満さんも言及しており、かなり聴き逃した貴重な話があった由である。その小声の原因は、奥さんが小声で喋るので、それに瀧口さんが合わせている内に小声になってしまったのである。その瀧口さんの小声での囁きは、あたかも聖なる話の秘技的な伝達であるかのように今日では神話化されているが、事実は声帯の筋肉の衰弱にあったとは面白い話かと私は思う。……今では神話化して伝わっている、その瀧口修造さんが小声で話される現場に偶然遭遇した事がある。……私がまだ美大の学生であった時、銀座の西村画廊で開催中の草間彌生展に行った時に、会場に瀧口さんが座っておられて、その横に草間彌生が座って、小声で話す瀧口さんの言葉を聴き逃すまいとする真剣な姿があった。自分の存在を全く主張しない事によって逆にブラックホ―ルのような強度な存在感を放っている、その老人の姿を最初に見て、ただ者ではない事は察したが、近寄って、その老人が瀧口修造さんである事を知って私もまた緊張したのを今もありありと覚えている。瀧口さん亡き後、その周囲にいた美術家のほとんどが俗世の欲に自身を落としてしまったが、それを思うにつれ、ますます瀧口さんの存在だけがより美しく、より孤高化していく観を覚えるのは私だけではないであろう。……閑話休題、長かったこの病気も日に日に快復してきているので、オブジェの制作もまもなく加速していく事であろう。暫く休んだ分、いま猛烈な創作への意欲が湧いているのである。

 

追記:   先月、ギャラリ―・サンカイビでの個展の時に、私はコレクタ―の土手秀人さんから実に貴重で興味深い贈り物を頂いた。……生前に瀧口さんが愛蔵されていた古い皿である。瀧口さんが亡くなられた後に、瀧口さんのコレクションの整理に関わった骨董商から土手さんへと渡り、そして縁あって私のアトリエに漂着したという次第である。青い絵具で一気に描かれたとおぼしき植物の線が部分的に滲んで妙味があるが、日本の器とは絞りきれない情趣があって面白い。推測するに、その器を諒とした感性を想えば、小林秀雄、永井龍男、堀辰雄、中原中也達と関わりのあった「山繭」の時代に入手した器かと思われる。…………また、画廊の視点から現代の美術の分野を牽引し、今では伝説的な画廊となった佐谷画廊の佐谷和彦さんは長年『オマ―ジュ瀧口修造』展を企画して、タピエス、デュシャン、そして、武満徹さんや駒井哲郎さん達が関わった実験工房と瀧口さんとの関連を軸に展覧会を毎年開催して来られたが、そのオマ―ジュ瀧口修造展の最後の作家として考えていたのが私の個展であった。私は佐谷さんからその企画構想がある事を打ち明けられた時は、荷が重いです、と語ったが、佐谷さんがやって来られた展覧会の唯一無二なレベルの高さを思えば、私は佐谷さんが抱かれた私への評価を素直に受け取って、以後の表現活動に鞭打つ覚悟である。

 

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『on Kawara(河原温)の作り方』

先月、池田満寿夫美術館で講演をした翌日に、私は長野駅から電車で上田駅に行き、私の作品のコレクタ―であり旧知の友人でもある真田町に住むK氏宅を訪れた。K氏ご夫妻は、500坪の土地と古民家付きの物件を3年前に田園風景の広い真ん中に入手して以来、自給自足・晴耕雨読の実に羨ましい人生の時間を過ごされている。庭園では数多くの野菜や果実を、また近くの川ではヤマメや鮎を釣ったりという、……都会の喧騒からみると、この土地では実にゆったりとした時間が流れていると想った。築100年は経つという古民家をモダンに改装したという趣のある家内に入って、すぐに私は驚かされる光景に出会った。……小暗い壁面に、グレーに彩色したキャンバスに、制作した日付をレタリングした「日付け絵画」で知られる河原温の作品が二点、さりげなく掛かっているのである。これは大変な購入金額になるであろう。……そして机上には、以前に川村美術館や原美術館の個展で見た事のあるトゥオンブリ(Cy Twombly)の、組み立てた細木に石膏地で白く彩色したオブジェが1点静かに置いてあり、……そして、もう一方の壁面には、私のオブジェらしき作品が掛かっているのである。しかし、一見して私は理解した。……自分で言うのもなんであるが、構成力、空間の間の取り方、詩情……つまりは総じての緊張感が全く伝わって来ないこのオブジェは、私の表現世界にK氏自身が入り込みたいという一心の強い想いで作った、一種のコピ―なのであった。私はその動機の純なるを知って笑いだしてしまったのであるが、……しかし、トゥオンブリは実に上手く出来ていて私は感心してしまった。トゥオンブリの個展会場に悪戯でそっと紛れ込ませても、おそらく観客も学芸員もそれと気付かないであろう、……それほどにこの作品は、トゥオンブリのエッセンスを掴んでいる。……そういえば氏は知る人ぞ知る、大のトゥオンブリのファンであり、その関連書籍を数多く持っている。果たしてK氏はトゥオンブリ研究の1つの試みとしてオブジェを作られた由。しかし私は言った。「君とトゥオンブリの決定的な違い、……それは君の方が綺麗に上手く造り過ぎている事だよ」と。……さて、もう一方の河原温、しかし、ここに両者(作者とK氏)の差は全くなく、完全にオリジナルに見えてくるから不気味である。……私は以前から河原温の「日付け絵画」を、関係画廊や美術館の学芸員が、沈黙に徹した河原温になり代わって、代弁者のごとくその意味性を熱く語る程には評価していない。ただ、その概念なり、ミニマルなり、……まぁそんな事はどっちでもよいのであるが、その概念なり、ミニマルなり……を意味付けるに足る、あの日付け日記の画面に配されたグレーの彩度の有り様の上手さだけは、意匠として、また修辞的な点から見て、秘かに、なるほど確かに役者だな!……と思っていた。スペインのベラスケスやゴヤの「黒」に影響を受けながらも、あの独自でエレガントな独自の黒に達した、マネのあの「黒」は、実に24色もの色彩を絶妙にブレンドして作られている事を知る人は少ないであろう。それを知る私としては、河原温について知りたい関心事は、唯その一点であった。……お茶を頂きながら、私はその事をK氏に話した。

 

 

河原温のコピ―の出来映えのあまりの上手さに疑問を発する私の問いに、K氏は次第に含み笑いをしながら「……実は1冊のネタ本があるのですよ!」と言いながら席を立ち、書庫の中から1冊の薄い冊子を取り出してきて見せてくれた。私はそれを開いて呆気に囚われてしまった。……かつて60年代~70年代中期までを席巻した「概念芸術」なるものは、例えば神社の構造的仕掛けと似ているところがあるように思われる。奥の聖なる神威気に意味を持たせる為に、その拝殿に到る迄の、鳥居からの静静と続く長い距離と玉砂利の感触と音、そして鬱蒼とした杉の木立は必須アイテムなのと同じく、作者と観者には既にして共有化された約束事、共有感覚、集合無意識的なと云っていい課せられた意味付け……といったものがいつからかある。そしてそこに疑問を挟む事は村に棲む者同士の無言の掟のように排されている。概念が、ただ概念だけがそこでは必死で震えながらつま先立ちで立っている。……故にその傾向の作品の作り手達は、作品の横にいて意味付けに饒舌になるか、或いは河原温のようにストイックなまでに沈黙に徹するかの二者択一の選択をとる事となる。しかし、この〈沈黙〉は明らかにデュシャンの姿勢を借景としている事は明白であるが……。そして教祖の沈黙故に信者は代わって多弁になる。……しかし、私が手にした薄い冊子には、「それを言っちゃお仕舞いよ!」とばかりに、私が知りたかった日付け絵画のセピア色の下地の塗りから、次なる色の重ね、そして下地の透かしと相乗して映える仕上げのグレーの塗りの生々しい行為を写した連続写真。そして最後の日付けのレタリングの様。まるで夏休みの工作本のように、さあ、君にも明日から出来る「河原温の作り方」といった内容が写真満載で載っている本を私は手にしてしまったのである。プロセスを撮した写真の存在は聞いていたが、出版となると、そこに具体的な別なる意味が加わって来よう。……歌舞伎役者が舞台裏まであからさまに見せては中心の何かが割れる。概念とは、巨大な時間や世界までも孕んでいるようであるが、その実は「表こそ全ての、つまりは一種の知的遊戯」のようなものかと思われる。……その表象の意味付けは、行為の生々しさを隠す事によってかろうじて成り立っているのであるが、この本は禁裏を破るようにして今ここに在る。奥付けを見ると河原温がまだ存命中の時の出版とは如何にも不可解。出版したのは作者の身内らしき女性の名前……。想像力の動きすぎる私が先ず考えたのは、余人の計り知れない何事かあっての本人もまさかの出版という推理……。この着想を笑うなかれ、かつてダリと近親相姦の仲であったとされる妹が、ガラに走った兄への復讐に書いた暴露本の主題は「如何に兄(ダリ)が普通の人間であったか!」という内容。謎めいた自己演出に必死のダリが最も嫌がる弱点の角度を妹は知っていたのである。……故に私の推理は先ずは俗からはじまり、次に至ったのは河原温自身によるパンドラの函明け、……つまり40年以上コツコツと作り続けた日付け絵画からの脱出宣言、自己放棄によるカタルシスの獲得ではなかったか……という推理である。数年前に私は河原温と親しかったというニュ―ヨ―ク在住の女性の画家とたまたま会って話をした折りに、河原温の本音は、絵を思いっきり描きたかったという事を本人はいつも云っていたと言うが、あくまでも他者からの伝聞なので、さぁ本当かどうかはわからない。もし本音であったとしても、契約画廊はそれを望まず、ストイックな生き様と、スタイルが変わらないという牢獄のような徹底を持って作者のアピ―ルを続けるであろう。……この点、たとえそのスタイルが評判が良くても、賽子の目のように表現が次々と変わり続けたピカソとは対照的である。ピカソが資本主義にひれ伏すのではなく、経済も含めた世界がピカソに平伏したのである。

 

……K氏宅から見る田畑の拡がりは果てしなく続き、蛙の声が響いてきて懐かしい。晴耕雨読は誰もが懐く理想郷であるが、氏はその生活を獲得し、自然を愛でるように美の世界もまた変わらぬ強い関心を懐いている。帰りにK氏はトゥオンブリの画集をお土産にくれたばかりか、真田町のこの土地から出土したという、銃弾を製造する鉄製のやっとこのような道具をプレゼントしてくれた。江戸期には武器の無断の製造は禁じられていた為に、これは錆び具合から見て、真田一族の時代の物かと想われる。その錆びた感触からは明らかな、遠い時代の時間の澱が紡いだ確かな物語りの豊かさが伝わって来て、概念という実のないものとは明らかに違う、確かな手触りの生ある豊かさが、ありありと伝わって来るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

◀展覧会のお知らせ▶

独自な切り口で知られるスパンア―トギャラリ―の企画で、6月25日まで六本木にある六本木ストライプスペ―スで、『永遠の幻想・美の幻影』と題した展覧会が開催されていますのでご覧頂けると有り難いです。出品作家は私の他に、金子國義・合田佐和子・野中ユリ・今道子・Hヤンセン・ベルメ―ル……etc

 

〈六本木ストライプスペ―ス〉

東京都港区六本木5―10―33・ストライプハウスビル 1F・B1

TEL:03―3405―8108

地下鉄大江戸線・日比谷線「六本木」駅3番出口。

アマンドを右に曲がり、芋洗い坂下る。徒歩4分。

 

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『今、アトリエにて想う事』 

写真の個展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』(ギャラリ―サンカイビ)が、先日の30日に盛況のうちに終了した。遠方からもたくさんの方々が画廊に来られ、交わし合う話しの中からも私は自分の新たな試みに確かな手応えを覚える事の出来た収穫の多い個展であった。……オブジェ、コラ―ジュ、詩、執筆、そして写真、更には、どのように化けていくのか未知数の中のサムシングの絶え間ない発芽への注視……。この六輪を各々に廻しながら、私の表現活動はなおも続いて行くのである。…………私が今回の写真展で強くその「眼」を意識したのは、写真家の川田喜久治さんであった。今日の写真家の多くが、迷走、失速、衰弱、そしてとって付けたような浅薄な観念の意味付けに傾く中で、唯一人、光が孕む魔的な闇の正体を追って悠然たる独歩の道に分け入っている、写真術師たる川田さんの眼は、私はやはり意識する。しかし、この緊張には心地よいものがあり、会場で川田さんが拙作の写真をご覧になっている間、私は無性に嬉しくて仕方がなかったのであった。前回のブログで登場した駒井哲郎さん、棟方志功さん、そして私をプロの道へと引き上げてくれた池田満寿夫さん達に、20才を過ぎたばかりの頃に拙作を観てもらっている時に覚えた手応えに通ずるものを、私は川田喜久治さんにも覚えるのである。つまり私は、本物の稀人たる表現者にしか興味がないのであろう。川田さんが以前に私の写真について書かれたテクスト「ひかりの謎」(私の写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』所収)は、読み返す度に発見があり、私を確かな方向へと導いてくれる本質的な示唆に充ちている。その確かな眼差しは、私が最初に版画家として出発する24才時に、池田満寿夫さんが書かれたテクストと通じるものがある。川田さん、池田さん等の実作者が見抜いた視点の核を突く鋭さに比べると、つくづく評論家なるものの書いた文章が、「眼力」ではなく、机上の頭で書かれた、つまりは現場知らずが書いた概念の印象、唯の感想の羅列でしかない事が、ありありと見えてくる。…………先日、会場で話された川田さんの言葉は、私の思考と直感の隙間を突いてくる刺激ある示唆に充ちていた。私には写真による自分にしか出来ない表現が放射状にある事が、ますます確信をもって見えてきたのである。

 

個展が終わり、いよいよ制作に集中を切り換える直前という正に好機に、私は実に刺激的な舞台を観た。勅使川原三郎氏と佐東利穂子さんによるダンス公演『ABSOLUTE ZERO―絶対零度』(世田谷パブリックシアタ―)である。私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の中のマックス・エルンストの章で、勅使川原氏について言及し、彼を「天才」、そして「美の稀人」と断じたが、この断言の確信は今もって揺るがない。20年前の初演の時も私は観たが、時を経て、この作品は変容し、更なる思索と試みの先鋭な衣裳を帯びて、身体表現のとてつもない可能性を放射する作品となり、私たちに突然の「問い」さえも突きつけてくる深さに充ちていた。……唐突であるが、この勅使川原三郎という人物に一番近似的な人物は、もしかすると、先述したマックス・エルンストかもしれないと想う時がある。……作品が実験性と完成度の高さを併せ持つ事はなかなかに至難であるが、それを両者は、自らの掌中で賽子の目を鮮やかに転がすようにやってのけ、しかもそこに謎めいたポエジ―をも顕在化して見せるのである。やはり氏は本質的に優れた詩人なのだと私は想う。……今回のダンス公演での圧巻は、勅使川原氏が、激しい動きから一転して完全なる停止へと移り、そのままそれを持続した事であった。……人々はダンスとは時に激しく、時に緩やかに動くものであると思い込んでいる。しかし、氏の停止する身体から、停止し続ける事への移行によって、それまでの激しい動きによって積算的に積み上がった「動」のベクトルは、一瞬にしてさ迷える「気」、彷徨引力となって中空をさ迷い、観客は、完全に停止の状態、つまりは絶対零度の予期せぬ空間から次なる移行への転移を、緊張をもって待つのであり、そこに観客各々の中に、不可思議なるもうひとつのダンス性(妙な言い方であるが……)が立ち上がりもするのである。……勅使川原氏のこの突然の停止する身体表現から、ジョン・ケ―ジの試みを連想する人がいるかと想うが、それは全くもって似て否なるるものがあり、勅使川原氏のそれは、具体的に時空間を孕んで、観客各々のイマジネ―ションが持つ豊穣を揺さぶって、遥かに創造的である。また氏の両義的な試みに、確実に刺してくるナイフの鋭さと、また氏とは異なる身体表現のマチエ―ルを持って、その舞台に形而上的な危うさと艶を呈してくる佐東利穂子さんのダンスは見事なものであり、間違いのない本物の才能を私はそこに見るのである。共演よりも競演、そして美の毒杯を立ち上げる共犯ともいえる危うさを帯びて、彼らは私たちをして強度なる本物の美の領域へと、拉致していくのである。……最後に付記するが、勅使川原氏がソロで見せた停止する身体は、その肉体の厚みをも消して、恐ろしいまでに平板と化し、私はそこにマチスが晩年に辿り着いた「切り絵」による身体表現の境地―極をさえも透かし見たのであった。

 

……さて、6月である。深緑の……と言いたいところであるが、雨季の予感を孕んで空気がすでに重い。…………昨年秋の日本橋高島屋の個展から続いて、名古屋、鹿児島、福井、東京、そして先日の新作写真の個展(東京)と、6ヶ月間で6回の個展をして、その間に引っ越しもあったりと、自分でもよく動いたものだと想う。新しく作ったオブジェは全て完売となり、それを必要とするコレクタ―の人達によって、各々のオブジェは、「観る人の想像力を煽る装置」として機能して様々なイメ―ジを紡いでいく事になるのであろう。そう、作者は二人いるのである。想えば、ようやく新しいアトリエでの制作が、これから始まるのである。アトリエの玄関のガラスの大きな扉に、白い文字で名前を入れて、ようやく形がととのった感がある。……表からは、制作中の私の姿が丸見えの全面ガラスのアトリエである。……間もなく雨季になり、外にそぼ降る雨を見ながらの抒情的な制作の日々が待っているのである。

 

 

 

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『人生の不思議』

……人生とは偶然の重なりの連続であるが、それでもあの日の出来事がなかったら、或いは今の自分はなかったと思われる「時」があるものである。それが私の場合、池上線の池上駅であり、今もその駅を通過する時に、その改札口を出て、運命の「時」に向かって歩いていく私の後ろ姿を思い出す時がある。……その時の私は23歳、美大の大学院の2年の時であった。そして、その手には版画を入れたカルトンが携えられていた。私が向かって行こうとしている先には南天子画廊が主宰している版画工房があり、その中では、ニュヨ―クから帰国中の池田満寿夫氏が新作の版画集の制作に取り組んでいる最中であった。

 

……話は、それより3年前に遡る。大学2年の春に、私は偶然に友人宅で不思議な作品(それは印刷物であったが)に出会い、その表現の斬新さとポエジ―の深さに瞬間で魅了されてしまったのであった。友人に訊くと、その作品は銅版画であり、作者は池田満寿夫であるという。勿論その高名な名前は知っていたが、私はなによりその作品(『スフィンクス 森の中』)に、自分の感性と繋がる何かを直感し、銅版画をやってみようと瞬間で決意した日であった。……それから僅かに3年後、『プリントア―ト』という版画の季刊誌の編集長をされていた魚津章夫さんから深夜に1本の電話が入った。「北川さん、池田満寿夫さんに会ってみる気はありませんか!?」。……美大、芸大の版画科の学生四人と、ニュ―ヨ―クから帰国中の池田満寿夫氏との座談会を魚津さんは企画して、そこに私を選んでくれたのである。……そして、その座談会(新宿中村屋)の終わった後で、新宿から渋谷方面に帰るのは私と池田氏だけであったのは、今思い返しても不思議であるが、私は渋谷までの数分間の間に「池田さん、一度私の作品を見ていただけますか?」と切り出したのであった。「勿論いいよ、では近々に僕から電話するから!」と言って、私たちはお互いの住所と電話番号を書きあい、私は渋谷で下車したのであった。そして数日後の深夜に池田氏から突然の電話が入り、私は指定された池上線の池上駅に降り立ったのであった。

 

……駅から工房に向かう途中、緊張の中にも、しかし私には秘めた自信というものがあった。カルトンの中には、銅版画の詩人と云われる駒井哲郎氏から高く評価されていた処女作からの作品と、棟方志功氏が絶賛してくれた版画『Diary』などが入っており、当時の美術界を牽引していた鎌倉近代美術館館長の土方定一氏からは、美術館がバックアップして、南天子画廊での個展開催が約束されていたからである。私は詩人アルチュ―ル・ランボ―に自らを重ね、パリにいる詩人ヴェルレ―ヌに書いた手紙の1節「ヴェルレ―ヌさん、私をちょっと貴方のいる所まで引っ張ってくれませんかね」という生意気な一文があった事などを思い出しながら、不安と不遜の入り雑じった気持ちを抱きつつ、池上本門寺の方角を歩き……やがて工房に着き、ベルを押した。……満面笑顔の池田満寿夫氏が現れ、挨拶もそこそこに私はカルトンを開けて、大きな作業机の上に10点ばかりの版画を並べた。それを観る池田氏の表情が一瞬にして鋭いものになり、長い沈黙の後に「君はもう既に完成している。すぐに個展をやるべきだ!……序文は僕が書くから!!」と熱く語ってくれたのであった。私は駒井氏、棟方氏から評価を得た事、そして土方定一氏が個展を既に決めてくれている事を話した。すると池田氏は「いや、最初は番町画廊の方がいいと思う。」と強引に決めたのであった。私は土方氏には申し訳ないと思ったが、自分の運命を池田氏の直感に賭けた。そして数日後に池田氏は多忙なスケジュ―ルを縫って番町画廊に行き、社長の青木宏氏に私の個展開催の企画を話したばかりか、私と画廊とのプロとしての専属契約の手続きも全て完了してくれたのであった。私は学生でありながら、その日からプロの作家としての人生が始まったのである。……偶然はまだあった。……私の運命を変えた池田満寿夫氏の作品『スフィンクス 森の中』は、私が個展をする事になった番町画廊で発表された作品なのであった。そしてその出会いを知った池田氏は、その版画を私にプレゼントしてくれたのであった。私は夢見の中の気分のままに家路へと着き、…………時は流れ、今の私がここにいる。……導きのような作品との出会い、新宿中村屋での座談会、そして電車の中で切り出した、私の言葉……。あの時がなかったら、その後どのようになっていたかと時々想い浮かべる時がある。誠に人生とは不思議なアミダくじのようなものであるかと思うのである。

 

―池田満寿夫氏が急逝されてから早くも20年近い時が経つ。その作品のほとんど全作が池田氏の出身地である長野の池田満寿夫美術館に収蔵展示されている。池田満寿夫という極めて優れた多面体の突出した才能を様々な切り口から分析し、魅力的な企画展として長年展開しているのは、学芸員の中尾美穂さんである。中尾さんのその切り口の鮮やかさとセンスの良さに私は注目しているのであるが、各々の美術館の存在感と存在意義は学芸員の力量をそのままに映すという視点から見ても、独自な個性豊かな展示を、この美術館は継続しているのである。……その池田満寿夫美術館で、先日私は『天才の創造の舞台裏』と題して講演をおこなってきた。予定されていた以上の多くの方が来られ、私は、私の考えている池田満寿夫という人の多面体の魅力について語り、天才と定義したその意味について語った。……天才の定義、それはその分野の概念を大きく切り開いた才能のみに冠せられる一つの批評分析言語なのだと私は思うのである。……池田満寿夫。……この懐かしくも不思議な不世出の才能について語っている間、私は珍しくも高揚してくるものを覚えていた。講演を機に私は久しぶりにまとめて氏の作品の多くに接したのであるが、今も鮮やかな現在形として映る作品が数多くあるのを観て、時代の淘汰を潜り抜けて息づく氏の表現世界の確たる「今」を改めて確認出来たことに、高揚を覚えたのであった。……長野の広大な自然に囲まれた中に建つ池田満寿夫美術館。ぜひご覧になる事をお薦めしたい、確かな存在感を放つ美術館である。

 

……さて、日本橋浜町のギャラリ―・サンカイビで開催中の写真展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』(30日まで)も、いよいよ会期が残り1週間となった。……池田満寿夫氏は版画、小説、詩、陶芸、美術評論、映画などに挑んでその多彩な才能を示した生涯であったが、やはり写真にも挑戦している。他に版画に挑みつつ写真にも挑んだ人を探せば、版画のパイオニアと評されている恩地孝四郎氏の存在が浮かんでくる。恩地氏はやはり詩も書いている。……その意味では、版画から始まり、オブジェ、コラ―ジュ、詩、美術評論、そして写真に挑戦している私は、何らかの影響をこの二人の先達から受けているといえるのかもしれない。しかし僅かにこの3人だけであって、あまりに他の表現者達(特に日本に於て)は大人しい。自分の可能性の扉を次々と果敢に拓いて行こうとする姿勢が見当たらない。そこには守りの姿が見えてくる。……というよりも、表現者としての焦点の意識、特異性が、恩地、池田、そして私が掴まんとしているのは、つまりは〈ポエジ―の形象化〉にあるのだと私は思う。直感と論理的整合性、言い換えれば、語りえぬものと語りえるものとのあわいに息づく何物かを照射して、そこからイメ―ジの核たるポエジ―の正体に迫りたいのである。……今回の写真展では色彩の不思議に加えて、写真の被写体の対象が様々である事に来場者は驚かれているようである。写真を撮る行為は、外界の客体を通しての自己表現であるという特異性が、私には常に手強く、またそれ故に尽きない妙がある。……ともあれ、私が挑んで止まない写真への挑戦の様を、ご覧頂ければ有り難いのである。

 

《ギャラリ―サンカイビ》

東京都中央区日本橋浜町2―22―5 TEL: 03―5649―3710

営業時間11時~18時 (日曜休廊)

〈交通のご案内〉

都営新宿線浜町駅A2出口「徒歩3分」

半蔵門線水天宮駅7番出口「徒歩6分」

日比谷線人形町駅A1出口「徒歩6分」

都営浅草線人形町駅A3出口「徒歩7分」

 

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『……夢みるように』 

戦後の貧困の時代がようやく終わり、高度成長へと景況が移り始めた頃(昭和30年前後)に、時代を映すように二冊の芸能娯楽雑誌が刊行された。雑誌の名前は対照的に『明星』と『平凡』。この少し後に遅れて『近代映画』が続いた。……いずれも嘘で固めたスタアの幻想バブルのオンパレ―ドで、読者も騙される事に酔いながら、しかし時代は今よりも遥かに元気であった。そのどの雑誌かは忘れたが、ある日、或る号の紙面の隅に小さな広告が載った。広告の内容は、全国におられる男女のご縁の薄い方を相互に紹介して縁結びをします……という、今でいうカップリングパ―ティの、先駆けのようなものであった。その怪しげな会社の名前は「北川通信社」、住所は福井の私の家の住所である。私は3人兄弟の末っ子であるが、一番上の兄が楽して金儲けをしようと考えて仕掛けたものであった。……当時、中学二年の頃であった私は、どうせ失敗するとよんでいたのであるが、あにはからんや、この事業(?)はヒットして、連日我が家に全国の悩める男女から手紙(手数料の入った現金書留が主)が舞い込み、兄の部屋は手紙の山となり、学校から帰った私は、便箋に綿々と綴られた男女の悩みを読むのが、その頃の日課になっていた。……まさしく、あにはからんや➡兄図らんやである。この事業(?)は、しかしやがて尻すぼみに終わっていったが、その後の兄は、フ―テンの寅さんのようにパッと消えてはパッと現れる風来坊のようになっていったが、私はその頃は絵画と文芸にのめり込んでいたので、自分の世界に入り込み、兄の存在は次第に薄くなり遠くなっていった。

 

……………その兄が今年の2月に亡くなった。死因は水死。近所の銭湯の露天風呂が気に入っていたらしく、そこに備え付けてあった檜風呂の中で亡くなっていたという。この銭湯の名前が『極楽湯』というのだから、ブラックと言おうか、落語的と言おうか……弟の身としては何とも言えないものがある。しかし、この世とかの世とは実は地続きであり、間違いなく人は死ぬ。どうせなら、何年も苦しんで結局は死ぬよりも、パッと死にたいと答える人が多く、それを想えばなかなかに羨ましい死に方であったかと、今は思えるようになっている。聞いた話であるが、同じように銭湯の中に眠るように沈んでいった人が、発見が早かったので助けられたのであるが、お湯の中で意識が無くなっていく時に、実に気持ちが良くて、悦楽恍惚の夢みるような感覚であったという。……以前のこのメッセージ欄で、私が高校時代にやはり水死しかけた事があった事を書いたが、この人の感想と同じく、至上の恍惚感に包まれて意識が遠くなっていったのを覚えている。……おそらく脳内モルヒネ(多幸感をもたらすというエンドルフィン)とよばれる成分が、この瀕死の際に出てきたのであろうと思われる。……この浴槽での水死、記憶にあるのは、昨年の秋に亡くなった俳優の平幹二朗が、そして上原謙(加山雄三の父)も浴槽の中で亡くなっているが、実はこの浴室での水死は、交通事故死と同じくらいに多いのである。……今回のメッセージの最後は「皆さん、くれぐれも気をつけましょうね」という、いつにない感じのエピローグになってしまったが、まぁ、そういう事なのであります。……次回のメッセージは、間近(5月10日~30日)に迫った写真の個展(東京日本橋浜町のギャラリ―サンカイビにて開催)について、パリやベルギ―での撮影時の話も含めて詳しく書く予定です。乞うご期待。

 

 

 

 

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『無機質なる表象―加納光於展を観る』  

 

東京・京橋に在るギャルリ―東京ユマニテで28日まで開催中の加納光於展『〈稲妻捕り〉Elements 1978』のオ―プニングに行く。画家の谷川晃一さん、名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、深夜叢書の齊藤慎爾さん、CCGA現代グラフイックア―トセンタ―の木戸英行さん、SHUMOKUギャラリ―の居松篤彦さん、詩人の天童大人さん、など見知った方々に再会する。……加納さんの作品は1978年に制作された旧作であるが、保存が良かった為に作品の状態がすこぶる良好である。……密蝋と顔料を揮発性の高い溶剤でゲル状に溶いて硬い紙の上に流し、固い筆の穂先で何物かを捕らえんとする、有機的な叙情性を排した……これは試みなのか!?

私は加納さんの作品について想う時、かつてフィレンツェのマ―ブル紙の工房で見た職人の熟練した手技の様を思い出す。熟練が絡めとるのは、未知の何物かではなく、そのスリリングな工程の先に在るのは、詰まりは練達が産んだ既知である。……またその穂先のストロ―クの身体性に併せ見るのはジャクソン・ポロックのドロッピングであるが、ポロックは1点を仕上げるのに要する時間は長大であり、その時間の澱の内に宿るのは、濃密なる叙情であり、更に云えばポエジ―である。しかし、加納さんの作品に共通して見るのは、有機的な叙情性を排した、これは一種の意匠に近いものがあると云えるのではあるまいか!? しかし、ここにおける〈意匠〉とは加納芸術の否定ではなく、あくまでも直喩である。―戦後の前衛美術界の礎を築き、今では伝説として語られる南画廊主の志水楠男さんは、デビュ―間もない頃の加納さんの作品を評して「……これは美術作品として、その範疇で括って語れるものではないのではないか!?」と語ったというが、私が志水さんのその言葉を知った時に、志水楠男という稀人の、本質を見抜く眼力の凄みと共に、加納さんの特質とその作品の特異な在りように気付いたのであった。……意匠、さらに云えば、「玄妙なる手技の練達によって捕らえられた、一瞬の色彩の現象学の宿り」と云えば足りるか。…………

私は以前に大英博物館の素描研究室で特別にダヴィンチとミケランジェロの膨大な数の素描を直で手にとって見せてもらった事があるが、ヴァチカン・システィ―ナ礼拝堂の天井画の壮大なヴィジョン―つまり、ミケランジェロの脳裡に「天地創造」の神的な構想が湧いた、まさにそのファ―ストヴァ―ジョンの、コンテの僅かな走りの内に、しかし美術史上、もっとも壮大なスケ―ルを孕んだ素描を見た事があるが、これこそ正に神的な稲妻捕りと想える戦慄があったのを生々しく今も覚えている。まぁそれはさておき、……では、この稲妻捕りと銘打った作品1点に要する時間は、加納さんの場合はどれくらいを要したのであろうか!?……私は試しに横にいた学芸員と、版画家に訊いてみた。1人は2時間くらいと言い、もう1人は半日はかかると思うと言った。しかし、私は僅かに〈10秒〉前後でそれは完了すると見た。個展会場の奥にいた加納さんに直接問うてみると、はたして10秒前後との答が返って来た。併せて展示されていた瀧口修造さんの文章の中に「稲妻、で可能ノ一瞬ヲ垣間見セル。」という謎めいた一文があるが、これは「加納の一瞬の穂先の走りで稲妻を垣間見せる」と倒置的に解せば、その文意は容易に見えて来よう。

 

……会場に、以前のブログでも登場した、我が親友の濱口行雄君が到着したので、詩人の天童大人さんに、濱口君を土方巽のかつての弟子として紹介した。天童さんはピレネーの山頂で啓示を受けたという、謎の朗唱詩人である。道鏡やラスプ―チンを想わせるインパクトがあって面白い。……天童さんは濱口君と私に「自分は雨を降らせる事は出来ないが、降っている雨を止ませる事は出来る!!」と強い語気で言い放った。美術家は仮の姿で本来は陰陽師である私の瞳孔が、ふと光る。まぁ、雨を降らせる事は出来ないが……と云うのは天童さんの謙遜であるかと思うが、……そうこうしている内に、美術界の俗物の版画家や、その他の権威好き、観念大好きの者たちがぞろぞろと入って来たので、それを潮時と見た私と濱口行雄君は会場を去り、二人しての意味ある対話をするために、次の語りの場へと向かった。……これから、私が評価する鋭い批評眼を持った濱口君と、三時間以上の面白い対話が展開されるのである。

 

加納さんの個展の翌日は、5月10日から30日まで開催予定の私の写真展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐあの七月の光のように』の案内状の作成、打ち合わせの為に会場となるギャラリ―サンカイビ(日本橋浜町)で、オ―ナ―の平田さんとスタッフの高嶋さんと一緒に、最後の詰めの話をする。この展覧会に寄せる画廊側の意気込みは強く、案内状のパタ―ンだけで20種類以上も作成し、その最終選択をするのである。…………ようやくそれが決まった後で、私が次に向かったのは、初台にある新国立劇場であった。今日の午後はこの会場で、長年観たかった美輪明宏主演、三島由紀夫作の『近代能楽集』より、「葵上」と「卒塔婆小町」を観るのである。『近代能楽集』、……私の表現者としての始まりは、この『近代能楽集』であったと云っても過言ではない。18歳の私は、三島由紀夫作のこの戯曲を読んで、この戯曲を劇場化した時に最高に耽美的で完璧な舞台美術をやれるのは自分しかいない!!と思い込み、三島が主宰している浪漫劇場方、三島由紀夫様宛てで、その想いを綴った熱い手紙を出した事があった。……根拠が無くても自分を最高の美意識の貴種と思うのが、若者の特権であるが、私もまたその例に漏れなかったのであろう。……そして、その手紙を投函した数日後に三島は自決し、私に大きな落胆をもたらした。人生初めての挫折である。自分の美意識を伝えるに足る唯一の人が亡くなった事で、前途は暗澹となってしまったのである。……それは私が銅版画に可能性を見出だす1年前の事であった。……新国立劇場のその舞台美術は美輪明宏の考えで、ダリの絵の主要なモチ―フである柔らかな時計や、その他で構成されていたが、自分ならば……と想う私がまだそこにいた。『近代能楽集』を観るのはこれで3回目であるが、今回のが最も原作の美意識を生に映していると思った。美輪明宏の放つ華はやはり天性のものがあり、そこに完璧な三島の台詞が相乗して、生霊や、老婆にして絶世の美女が、耽美的に幻視のアラベスクを織り成していくのである。美輪の美意識への確信は、観客をしてもはや、一神教の宗教へと拉致していく凄みがあるのである。

 

 

 

 

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『あぁ、杉田君!』

春である。風景が、空気が、光が、うす桃色の含羞に色づく満開の桜の春である。……しかし話は少し前に遡る。先だって、高校生7人と引率者1人が雪崩に巻き込まれて亡くなった。明らかに業務上過失致死傷罪に相当する人災であるが、私達はあらためて雪崩の恐怖に戦慄したことは記憶に新しい。私はその事故の後に、個展の為に福井に滞在していた。遠景に見る白山連峰の頂には未だ冠雪がその白をとどめており、それを見ていた私は雪崩の恐怖へと繋がる高校時代の、ある記憶を思い出していた。

 

雪崩に巻き込まれた人が、その大量の雪におしつぶされた時、人ははたしてその雪の中でどういう状態になっているのか!?……私は、いや私達のクラスの同窓の友の多くが、それを目撃するという、滅多にない体験をした事があった。………………あれは確か高校2年の冬であったかと思う。校舎を建て直す為にしばらくの間、私達はプレハブの仮校舎で授業をするはめとなった。その日は前日からの大雪の為に校舎の屋根には大量の雪が積もり、窓越しの雪が、重く窓ガラスにおし寄せていて、為にガラスが割れそうな危険な状態にあった。授業をしていた教師が状況を見かねて「誰か、外に行って雪掻きをしてくれる者はいないか?」と言うと、杉田君が勇んで「じゃあ、僕がやります!!」と言って手を挙げた。手を挙げたのは確か杉田君1人だけであったかと記憶する。

 

「おぉ杉田!……やってくれるか!」と言って教師は喜び、すぐに長靴を履き、重いスコップを持った杉田君が雪を踏みしめ、踏みしめしながら現れた。何が嬉しいのか、笑みを浮かべた杉田君がガラス越しに教室の私達に手をふっている。クラスの何人かがそれに応えて手をふっている。杉田君はすぐに雪掻きを開始して、積もった雪が少しずつ減っていくのが見てとれた。その日は快晴で、作業をする杉田君が早くも汗ばんでいるようであった。…………その時であった。突然、頭上にもの凄い音が響き、私達は咄嗟に天井を見上げ、次に反射的に窓外を見た。そこに、頭上から容赦なく雪崩れ落ちてくる大量の雪にのたうちながら、口を開けて何かを叫び、両の手は虚空に跳ねる杉田君の姿があった。……しかし、そのあがないも虚しく、次々と頭を、そして体に容赦なくのしかかってくる雪の執拗さに耐えかねて、身体を崩して遂には倒れ伏していく杉田君の受難の様を、私達は室内にいて、まさにライブで見ることになったのである。……しかもあろう事か、倒れると同時に一瞬にして杉田君は失神してしまったのであった。目を閉じた物言わぬ杉田君の上を、雪崩れ落ちる雪がなおも襲って、やがて……静かになった。その上をおまけのように雪の固まりがまたポトリと落ちた。……子供の頃に瓶に大量の土を先ず入れて、次に数十匹の蟻を入れ、その瓶の外を囲うように黒い紙を回しておくと、翌日には蟻の巣の断面が瓶のガラス越しにありありと見えるのであるが、丁度それと同じ具合に、私達は、雪崩れの下で雪の重みと冷たさを受けて、グッタリと失神して眠る杉田君の様を、窓越しに驚きと戦慄を持って眺め見たのであった。雪崩れの中で人はこうなってしまうのか!!……表現は悪いが、滅多にないこの視覚体験を私達はまるで学習、更に言えば鑑賞するかのようにして眺めたのであった。………すると教師が、やがて己が身に降りかかってくるであろう責任の重みに気付いて「おい、誰か助けに行って来い!」と叫んで、今度は自らが教室を飛び出して行った。そして杉田君の上の雪掻きをしながら、やがて静かに眠る杉田君を引き上げて、その顔を気付けの平手打ちをして、次第に杉田君は意識を取り戻していくのが、これまたライブで見てとれたのであった。

 

……グッタリとした杉田君が朦朧の内に意識を取り戻した事は、まぁ慶賀ではあったが、私はその様を見ながら、半年前のある光景をふと思い出していた。……それは、九州に行った修学旅行の時の出来事であった。……阿蘇の草千里という所ををご存じであろうか。カルデラのなだらかな傾斜に彼方まで拡がる緑の広野。高い空に浮かぶ白い曇。かつて画家の坂本繁二郎がこの風景を愛し、放牧されている馬や牛を描いた、ゆったりとした穏やかな風景……。その何事もなしの風景を切り裂くように……突然の異変が、私達の内から急に飛び出すようにして起きた。1頭の荒ぶる馬が狂ったように急に走り出したのである。……駆けていくその馬の背に必死でつかまっている人影が見えた。見るとそこに乗っていたのが、杉田君であった。彼は女子高生に良いところを見せたいと思ったのかどうか、ともあれ観光客を乗せて歩く馬に金を払って乗ったまでは良いのであるが、どうやらその馬の(つまりは雄!)微妙なゾーンに近い部分を、何かの弾みで蹴ってしまったらしく、驚いた馬は杉田君を乗せたまま、彼方の遠景へと走り去り、遂には見えなくなってしまったのであった。その拉致されるように走り去る杉田君を追うように、調教師の拡声器から「手綱を引いて、体勢を低くして下さ~い」という声が虚空に響いたのであった。…………その半年後のまたしてもの、つまりは馬から雪への受難を見て、この杉田君のつくづくの運命に静かに想いを馳せたのであった。……月日は瞬く間に経ち、その後の杉田君の人生を私は知らないのであるが、記憶の中の杉田君は、馬と共に今もなお草千里の広野をエンドレスに駆け続けているようなイメ―ジがあるのである。

 

……さて個展である。福井での個展は今月末まで続くが、私自身はと言えば5月の10日から人形町のギャラリー・サンカイビで開催される写真の個展『暗箱の詩学―サン・ジャックに降り注ぐ、あの七月の光のように』の準備で相変わらず忙しい。案内状やチラシの打ち合わせは7日に画廊で行われ、それが終われば額装のすぐの準備が待っている。その写真展を最後に私は秋の個展に向けて、アトリエにひたすら籠って制作の日々が待っている。新たな方法論と試みの日々が待っているのである。

 

 

 

 

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『稲妻捕り』

4月1日から福井で個展があるので、午前中にアトリエで制作してから、明後日の25日まで個展開催中の画廊香月のある銀座に通う日々が続いている。……しかし、最近の私はと云えば、宮沢賢治や正岡子規の臨終前の闘病日記のような気分で、毎日、体温計を計る日々が続いている。昨年までは体温が36.8度と、こども並みに高かった体温が何故か急に下がり、信じがたい34.7度あたりをふらふらしているのである。周りの人は〈よく生きていますね〉と首をひねるが、別な体温計で計っても指す数字は変わらない。不整脈もあるので、まぁいつ不測の事態が訪れても、善き人生であったという気持ちのままにたぶん逝くかとは思われるが、この低体温の日々はいささか憂鬱なものがある。

 

……さてさて、突然な書き出しになるが、美術家の清水晃さんをご存じであろうか!? 舞踏の土方巽が、清水さんの作り出す、なんとも禍々しく不穏な気配に満ちた〈黒のオブジェ〉を愛し、絶賛して、清水さんに〈稲妻捕りの作家〉という言葉を作って献じたほどの異才の人である。土方が寄せる清水さんの才能への評価は高く、かの中西夏之が嫉妬したという逸話さえあるほどの、特異にして鋭いオブジェ〈黒の装置〉の作り手である。私が清水さんと知り合ったきっかけは、確か野中ユリさんからの紹介であったと記憶する。……清水さんのご自宅がある埼玉県の目沼(この名前も清水さんにピッタリである)を訪れたのであるが、清水さんご夫妻とは初めから話の波長が合い、楽しい会話が弾んだ。……すると途中で奥さまが清水さんにヒソヒソの耳打ちをしだした。(あなた、北川さんとウチの○子を……)、と聞こえた

 

途端、(おぉ、それは面白い!!)と言って、私の方を向き、(どうだろう!……良かったらウチの娘と一緒にならないか!?とニコニコしながら話されたのであった。まぁ、話は話として面白かったのであるが、もし話が進んだら、清水さんと私は義理の親子になっていた可能性もあったのだから世の中は面白い。……さてその清水さんであるが、土方巽の仕事に協力して作った舞台衣裳に凄い物がある。それは真っ赤な長襦袢に石をたくさんくっ付けた何とも、狂女を想わせる代物であるが、その衣裳を着た舞踏家の高井富子さんが〈まんだら屋敷〉という公演で踊った由である。……さてこの、石をたくさんくっ付けた長襦袢を私は実際に見たことがなく、以前から見たい見たいと思っていたら、いま開催中の私の個展に、映像作家の宮岡秀行さんが大きな箱を抱えて現れた。私は初対面であるが、話していたら、先ほど清水晃さんのご自宅に行かれて、私の事も話題に出たと言われた。私は実は以前から見たい物があって、と件の長襦袢の話をし出したら、実はいま、この箱の中にあります!!!と言って、長年私が見たかったその長襦袢が、いともあっさりと現れたのには驚いた。宮岡さんは、それをこの個展を開催している画廊香月のオ―ナ―の香月人美さんに5月の両国の舞台で着せて踊らせ、その映像を撮るのだという。……香月さんは舞踏家の大野一雄の弟子であり、この石のたくさんくっ付けた長襦袢を着て踊るには最適の人材だと思って、清水さんから衣裳をお借りして、その足で画廊に来られたという次第なのであった。

 

……長襦袢にびっしりとくっ付けた沢山の小石。……清水さんのこの着想には、しかし思い至るものがあった。それは私の子供時代に遡る。……私が小さかった頃はまだ精神病院といった洒落た物は無く、道行く人群れに混じって、時おり狂女がゆらゆらと揺れながら歩いていたものである。近所にそういう女が棲んでいて、真っ赤な襦袢を肌を露にしながら暮らしていた。小学生だった私は、そのエロチックな姿態にひかれて、学校が終わると走って帰り、その家の前の材木置場の上に上がってランドセルを置き、狂った女が家から出てくるのを、出を待つ観客のようにドキドキしながら待ったものである。想えばあれが私のヰタ・セクスアリスであったか。しかしその女は、ある日忽然と消えた。自ら火をつけたのか失火かはわからないが、真っ赤な襦袢を着て、灼熱の炎の中で絶叫したか、或いは笑ったままに昇天して消えた。翌朝、通学路にその焼け跡が無惨なままの黒の灰塵と化し、その鼻をつく臭いだけが今も私の記憶の淵にある。 ……狂女の話では久世光彦さんから面白い話を伺った事がある。〈狂女〉をテ―マにしたグラビアか何かの企画で、デビューまもない若い女優をモデルにして撮影をした事があった。……若い女優に真っ赤な襦袢を着せて土蔵の前で演じさせたが、演技がいま一つ盛り上がらない。久世さんは閃いて、その女優に道に落ちている小石を拾って投げ始めた。それにつられたかのように他のスタッフ達もまた、その女優に小石を投げている内に、女優もまた火が点いたらしく、狂った妖しい表情を浮かべながら迫真の狂女へと化していったその様を見て、久世さんはその女優の内面に凄まじい秘めた才能を覚え、この女は出てくるなと直感したという。。……はたして久世さんの読みは当たり、その女優は清楚と狂気とドスを秘めた不世出の演技を開化させていき、最高の地点で逝った。……その女優の名前を夏目雅子という。

 

私が書いた詩に、〈水ぬるみ 光はあらぬかたを指しているというのに ヴェネツィアの春雷を私はいまだ知らない〉という一節がある。私は夏のヴェネツィアで、アドリアの夜の海に銀の閃光を放ちながら凄まじく落ちていく雷を何度か見た事があった。そしてその時の体験の感動のままに「ヴェネツィアの春雷」という連作のコラ―ジュを作った事があった。しかし、土方巽が清水晃さんに贈った言葉〈稲妻捕り〉という造語は、清水さんの生地が富山、土方が秋田という共に日本海側にあり、鈍色の暗い空から大地、或いは海上に落ちる雷の荒ぶる様を知っている者どうしに響き合う「頌」である。私が最も素晴らしいと絶賛する〈犬の静脈に嫉妬することから〉というタイトルを立ち上げた土方巽独自の言語感覚の成せる技なのである。美術の真の舞台裏と、その交遊の様を知らない詩人、或いは学芸員が多いが、このタイトルを瀧口修造、或いは他の作者と勘違いをしている者がいるが、間違いは正されるべきである。少し考えれば、瀧口修造の言語感覚の内にはそこまで実存的に荒ぶるものは無く、似て非なるものである事は容易に透けてくるのであるが、直感の鋭さを欠いた人には、この微妙にして絶対的な差が見えて来ないのは残念な事である。……さて、銀座の画廊香月での個展「立体犯罪学―Victoriaの黒い地図」も、いよいよ25日(土曜)が最終日となった。作品の新しい展開を観るべく多くの人が来られた。そして作品の多くがコレクタ―の人達の所有するところとなっていった。……次の個展は4月1日から福井で始まるので、その制作でかなり神経の張り詰めた日々が続いているが、先ずは、この低体温をなんとか治さねばならないと思っている私なのである。

 

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『次々と個展の企画が……』 

新しいアトリエに2トン車で4台分の荷物を運び入れて、ようやくの引っ越しが片付いた。2メ―トル40センチ幅の巨大な作業台2つがアトリエに配置され、制作が順調に進み、新作が次第に形になっていく。……今年の春は引っ越しの後に休む間もなく、3月(東京)、4月(福井)、5月(東京)と個展の予定が入っており、すぐに切り換えて集中的に制作に専念の日々が続いているのである。そして先ずは3月6日からの4回目となる個展が、銀座・画廊香月で明後日から始まろうとしている。四年前に、尊敬する先達の画家の池田龍雄さんから「もし良ければ1度、画廊香月で個展を……」というお話があり、池田さんからの話ならばと前向きになって実現して以来、毎年、この画廊での個展がだいたいこの時期に開催するのが定着して、早くも連続4回目である。画廊香月での個展は3月25日で終わるが、次は4月1日から、福井の画廊サライでの2年ぶり2回目となる個展が4月末日まで開催され、5月からは、昨年の夏から秋にかけてパリとブリュッセル、そしてロ―マで撮影した写真展が、明治座近くにあるギャラリーサンカイビで開催する予定で、いま最後のプリントの段階まで作業が進んでいる。そして秋には高島屋・美術画廊Xでの連続10回目となる個展の企画が入っており、また新たな表現領域での展開を計るべく、脳裡の中でじわじわと構想が立ち上がってきている。継続は力なりという言葉を裏付けるように、高島屋の今年の開催時期を問い合わせる熱心なコレクタ―の方が早くもおられるが、表現者としてなにより燃えてくる話であると思っている。…………今日は画廊での展示作業があるので、今回のメッセージは概括的なお知らせに終始してしまったが、近々に書く予定のメッセージでは、また興味ある話をと、考えている次第である。

 

 

 

 

 

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