Words

『128年の時空を超えて』

私は今まで、このメッセージを通して私に起きた不思議な出来事を度々書いて来た事があった。……その不思議な出来事とは、私がこうあって欲しい、或いは、ふと頭の中に唐突に閃いた事が、すぐに、あるいは、暫くの時を経て目の前で現実化してしまうという、一種の予知現象の事である。1回なら、それは偶然で終わってしまうものが、私の場合、10代の後半から、それこそ何十回と起きているので、やはり、私の頭の中の回路の一部は、〈時間〉の捻れと何処かで直結しているように思われて仕方がないのである。

 

その例を少し挙げると、①80年代の終わりに〈都市論〉なるものが流行っていた頃、「東京人」という雑誌が目立って注目を浴びていた時があった。ある日の午前中に、私は何故かふと「東京人」に書いてみるのも面白いなぁ!と想ったのであるが、……その日の午後に、何と、「東京人」の編集部からとつぜん電話が入り、私はその求めに応じて〈岸田劉生の代表作『切通之写生』の現場の今昔の違い〉について書いた事があった。②個展で熊本に行った帰り、私はANAに乗って羽田への帰途についていた。羽田に着くや横浜美術館に直行して、新潮社から刊行したばかりの拙著『モナリザミステリ―』についての講演が待っていたのである。その羽田へと向かう機内の中で、私は機内誌『翼の王国』を読んでいた。イタリアの街について誰かが書いた記事を読んで、生意気にも「私ならもっと艶のある紀行文が上手く書けるのになぁ……」と想いながら地上に着き、2.3日が過ぎた頃、『翼の王国』編集部から電話が入り、代官山で会って面会したいという。……その初めての面会の時に知ったのであるが、私の新刊を読んだ編集者が私に興味を持ち、〈次の紀行文の取材は北川で〉という案が編集会議にかけられたのであるが、正にその時、私は空の高みの機上にいて機内誌を読んでいた、その時なのであった。……そして私は念じた通りとなって、写真家とスタッフの3人でパリへと飛んだのであった。

 

③……「ガウディの建てた、あの異形な建築物〈サグラダ・ファミリア教会〉は、何故バルセロナの〈あの場所〉に建てられたのであろうか!?」……どの研究書にも書かれていない、その詳しい背景について、私は電車(東横線)に乗りながら自らに設問し、かつその答をまさぐっていた。……しかし、建築の専門家でない私にわかろう筈がない。……電車は、まもなく終点の渋谷へと近づいていた。私はふと、網棚の上に新聞が打ち捨ててあるのに気がついた。普段は他人が読み捨てていった新聞になど興味がないのであるが、その時だけ何故かふとその新聞が気になり、背を伸ばして手に取り開いて見た。それは確か産経新聞であったかと思う。パラパラと読み流していく内に文化欄の紙面になり、その紙面を見た私は、我が目を疑った。……そこには正に私がいま自問しながら終にわからないでいた、〈サグラダファミリアが、何故バルセロナのその場所に建てられたのか〉という具体的かつ興味深い理由について、日本人建築家の人が詳しく書いた記事が載っていたのであった。…………「そんなに知りたいのなら、ではそっとお前だけに教えてやろうか!!」……悪戯好きな悪魔が、間違いなく私の傍にいる!!記事を読みながら、私はそう思ったのである。

 

④ 昨年の春5月のある日の夜半、私は民放の「報道ステーション」なる番組をぼんやりと見ていた。北朝鮮についての相変わらずの報道を見ていた時、私は全く唐突に、昔、訪れた事のある太宰治の生家「斜陽館」の事がふと脳裡に浮かび、そこでかつて見たビデオの美しい映像 ― 桜吹雪が舞うなか、ゆらゆらと揺れるように、太宰治の生家近くの金木駅の線路上を走る津軽鉄道の古色を帯びた電車の光景を見た時の記憶がよみがえって来た。私は何故か無性にその映像の事が恋しくなり、「あぁ、今一度あの電車を見てみたい」という突き上げる感情を覚えたのであった。…………すると数分後に司会者の(……それでは、ここで気分を変えて、この映像をご覧下さい)という声が流れるや、画面は一転して深夜の暗い駅舎が映り、そこに今し入ってくる最終電車の、ロ―カルで抒情溢れる映像が画面に中継で映し出された。……〈まさか!!〉と思い驚いて見ると、それは正にその少し前に、突然私の脳裡に立ち上がって激しく見たいと希求した、正にその津軽鉄道・金木駅と電車の光景なのであった。………………………………

 

私に度々起こるこの現象……いわゆる人体に潜む超常能力と超感覚の具体的な現れについては、コリン・ウィルソンの著書『サイキック』(荒俣宏監修)に詳しく記されているが、その現象がまた先日にも起きた。これから記すのは、先日書いたメッセージ『夢見るように眠りたい』の後日譚のようなものである。

 

先日、十日以上前に私は、隅田川・吾妻橋の河岸に建つキリンビ―ル本社22階のカフェから、関東大震災で崩れ去った異形な高塔―浅草十二階(通称・凌雲閣)の建っていた場所を遠望しながら、その塔への強い拘り、一目見たかったという、その思っても詮無い想いをたぎらせていた。江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の一節は次のようにある。「……あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………高さが四十六間と申しますから、一丁に少し足りないぐらいの、べらぼうな高さで、八角型の頂上が、唐人の帽子みたいにとんがっていて、ちょっと高台へ登りさえすれば、東京中どこからでも、その赤いお化けが見られたものです。……」。私はこの文に接する度に、遅く生まれてしまった事を悔やみ、もし、明治期に遡って生まれ変われるものであれば、今の生に全くの執着は無い、……それほどに強い想いのままに、カフェの高みから、その蜃気楼、その幻影の塔を透かし見ていたのであった。…………しかし、私が見ていた正にその時、かつて十二階が在ったとおぼしき場所では、信じがたい事が起きようとしていたのであった。

 

「工事中の作業現場から浅草十二階の遺構らしき礎石の一部と赤い煉瓦が発見される!!」という報道が、新聞やネットで流れた日、私は全くその報道を知らずに、前回のメッセージ『夢見るように眠りたい』の文で、正にリアルタイムで、浅草十二階への強い想いを書いている最中であった。そして、その情報を後に知ったのは、シス書店の佐々木聖さんからであった。さっそくネットで見てみると、出てきた浅草十二階の赤煉瓦は、ショベルカーで砕かれ、その破片を、報道を見て駆けつけた人達に配っているという。その群集の中にはアルフィ―の坂崎幸之助さんの姿も混じって映っていたのには驚いた。……そしてネットの最後に、出てきた十二階の赤煉瓦の配布は既に終了し、作業は続行して新しいビルが建つ事、また赤煉瓦の形の良いのだけが数個選ばれて文化遺産として保存される由が記されていた。……その記事を見て万事休す、あぁ、私は何故そこに駆けつけなかったのか!という悔いに包まれた。……しかし、赤煉瓦の配布を終了してから既に十日以上が経っている。私は目の前に現れた蜃気楼が一瞬、現実と交差してふたたび幻となって過去の時の中へ消え去っていくのを覚えた。……しかし、せめて、今回の工事でその建っていた場所が確認された、その場所を見てみたいという思いが立ち上がって来た。東京に出る用事は数日後であったが、それを待たずに明日、行ってみよう、そう思って、その日は寝た。翌朝は雨であった。浅草の雷門に着くと、雨は急に雪へと変わった。薄雪の降りが流れるように美しい。白く霞んで、ふと彼方の昔日の雪をそこに透かし見た。「こぞの雪今いづこ」……そう呟いた中原中也の詩の事がふと浮かぶ。…………白雪の中を、伝法院通り、六区、ひさご通りへと歩いて、ようやくその現場へと私は来た。……しかし、何故か地面を深く掘り下げた作業現場に作業員は全くおらず、ネットで見た、10日前にたくさん駆けつけた人達も当然おらず、現場は不思議な程に全くの無人であった。……私はかつて浅草十二階が建っていたまさにその現場に立ち、ふと何かに誘われるような「気」を覚えて、導かれるままに現場の目立たない一画に目をやった。……そこに私は、信じ難い物が在るのを見てとった。既に配り終えて在る筈の無い赤煉瓦(しかも完全な形のままに)が二つ、ひっそりと薄雪に埋もれるようにして在るのを見たのである。……乱歩の小説の中で「あなたは、十二階へお登りなすったことがおありですか。ああ、おありなさらない。それは残念ですね。あれは一体、どこの魔法使いが建てましたものか、実に途方もない変てこりんな代物でございましたよ。…………」と呟いた魔的な呟きが、ふと頭をよぎる。その魔的な何者かが、この浅草の一角を暫し「不思議な時空」へと変えて、あの電車の中で起きた時のように、私に見せてくれた妖かしのこの時、まさに一時のこの時に、128年の時空が捻れて交差した!!……私はそのように思ったのであった。……かくして今、過去の遠い見果てぬ夢、幻の蜃気楼は、具体的な〈時の欠片〉となって、私のアトリエの医療戸棚の中に、ひっそりと息づくようにして在るのである。浅草十二階―通称・凌雲閣。……その確かな現物が、実物を見てみたかったと永年夢見て来た私のアトリエに、かくして息づいて在るのである。

 

〈追記/ 持ち帰った浅草十二階の赤煉瓦(ほぼ完璧な形状のまま)を、現代のJIS規格で決められているレンガのサイズと比較してみると、現代のレンガは三辺が210×100×60であるのに対し、128年前のその赤煉瓦は三辺が175×100×55と、やや小ぶりであるが、今日のそれと比べると遥かに密度があり、ズシリと重い。設計者のウィリアム・K・バルトンの確かな想いがそこから見えてくる。……アトリエに在るその赤煉瓦は、128年間の時間の澱を孕んで深い古色を帯び、それは終わりの無い夢想を運ぶ、もはや完璧なオブジェとして、いま私の眼の前に在る。……とまれ、浅草・吾妻橋沿いのキリンビ―ル社の22階のカフェから、十二階の在った場所を遠望しながら紡いでいた或る日の見果てぬ夢が、僅か10日の後に、不思議な経路を経て現れ出て、いまアトリエの医療戸棚の中にひっそりと在る事の不思議よ。……私は今日もまた夢見のような気持ちで、浅草十二階のその断片を眺めているのである。〉

 

 

 

 

 

 

 

 

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『夢みるように眠りたい』  

アドリア海に面しているヴェネツィアの寒さは、また日本のそれとは質が違う厳しさである。足下の凍った石畳から直に冷気が伝わって来て感覚が硬直してくるのである。しかし、感性はその分、垂直的になるのでむしろ良い。……とまれ、2台のカメラを駆使した撮影の成果は、詩画集という形で今後に展開していく事になっているので、乞うご期待である。

 

……翌日は、昼過ぎに紀尾井町にある文藝春秋社ビル内で打ち合わせが終わるや、私はすぐに浅草へと向かった。最近、つとに永井荷風の事が頭にちらつくので、彼が愛した浅草隅田川、吾妻橋、言問橋、向島……を眼下遥かに見下ろせるキリンビール社の22階の展望カフェで、〈浅草〉が持っている不思議な魔の引力について考えてみたくなったのである。しかし、それにしても快晴である。……嘘のように晴れ渡った眼下を見ながら、浅草寺のやや左側に、大正12年の関東大震災で崩れ去るまで建っていた、蜃気楼のような浅草十二階―通称「凌雲閣」の事を私は想った。

 

浅草十二階

 

仁丹塔

 

 

映像の魔術師と云われた映画監督のフェリ―ニを愛する私は、ア―ティフィシャルな人工美に何よりも重きを置いている。……故に「現世(うつしよ)は夢、夜の夢こそまこと」と記した江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階は、私のイマジネ―ションの核にありありと今も聳え建っているのである。…………あれは何年前であったか。平凡社『太陽』の名編集長であったS氏から電話がかかって来て「今度、江戸川乱歩の特集〈怪人乱歩・二十の仮面〉で20人の書き手に、乱歩の20の謎をキ―ワ―ドにして書いてもらいたいので、あなたには〈洞窟〉を書いてもらいたいのですが……」と切り出された時に、私はすかさず「〈洞窟〉は書きたくないけれど、〈蜃気楼〉をキ―ワ―ドにして〈押し絵と旅する男〉についてなら喜んで書きますよ」と話した。意外にも、当然企画に入っていると思った〈蜃気楼〉がなく、私は即座にそれならば書こうと閃いたのである。一旦編集会議を開いて……となり、翌日再度電話がかかって来て、私は〈蜃気楼〉を書く事になった。……ちなみに最初に依頼された〈洞窟〉は〈迷宮〉を更に追加して、直木賞作家の高橋克彦氏が書いたのであるが、この時の執筆者は他に、種村季弘、久世光彦、谷川渥、佐野史郎、鹿島茂、石内都、荒俣宏、赤瀬川原平、団鬼六、林海象……他、実に賑やかであったが、すでに今は鬼籍に入られた方も多い。……さて、私はかつて浅草十二階が聳え建っていた場所を22階の高みから透かし見ながら、今一つの蜃気楼―〈仁丹塔〉の事を、遠い記憶をなぞるように、これもまた重ね見たのであった。……ずいぶん以前のこのメッセージ欄で、私は仁丹塔に登った事、中の螺旋階段は途中で行き止まりになっていて、そこに何故か二羽の白い鳩が、突然の来訪者である私に驚いてパタパタと塔内の虚ろな空間に羽ばたいていた事、またその仁丹塔の入口近くには怪しい蛇屋があった事……などを書いた事がある。しかし、もはやそれも遠い記憶、確かに行った事さえも夢見の中の出来事のように虚ろな、正に逃げ水や、蜃気楼のような遠い記憶なのである。

 

 

 

……その、今では幻と化した浅草・〈仁丹塔〉が重要な舞台となった映画『夢みるように眠りたい』(林海象監督)展が、恵比寿にあるギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」で開催中である(24日まで)。この映画は1986年に初上映された時に私は観ており、実に32年ぶりである。この映画を観んと、この度、ギャラリ―に訪れた沢山の観客に混じって私は観たのであるが、この映画は色褪せるどころか、更に不思議なマグネシウムの閃光のような煌めきを放って私を魅了した。……つまりは、この世は〈想い出〉に他ならず、人生もまた幻であると見るなら、映画の本質は、その幻影ゆえの実をまことに映し出している、という意味で、この映画はその本質を直に活写したものであり、フェリーニの『アマルコルド』や、衣笠貞之助の『狂った一頁』(川端康成原作)と並び立つ名作だと私は思う。ギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんから監督の林海象さんをご紹介頂き、私は林さんに、「実は私も仁丹塔に登った事があります」と話すと、林さんは古い共犯者に再会したかのように驚かれ、「あすこに登った人は、意外にいなくて、確かに見えていたのに近づくとフウッと消えて見えなくなってしまう、あれは実に怪しい塔なんだよ」と話されたので、「全く同感、あれは蜃気楼だったんですよ!」と私は話した。この映画でデビュ―した佐野史郎さん、また会場で久しぶりにお会いした四谷シモンさん以外、私はこの塔に登った人を知らないし、存命者ではもうあまりいないかと思われるのである。

 

本展の会場になったギャラリ―「LIBRAIRIE6+シス書店」は、JR恵比寿駅の西口から徒歩2分。少し歩くと、急に恵比寿の喧騒が消え失せ、ふとパリのモンマルトルの一角を想わせるような風が立ち、目の前に急な石段が現れる。その石段を登り、それとわかる何気ないビルの扉を静かに開くと、そこは、全くの別世界。その静寂の中、高い美意識に包まれて次第に気持ちが典雅にリセットされてくる。しかし、このギャラリ―は、いつも決まって何人かの来廊者がいて、静かに作品を鑑賞している姿が見てとれる。……私はこのギャラリ―のオ―ナ―の佐々木聖さんとは20年近い、長いお付き合いをして頂いているが、今もってこの人は謎である。毎回、夢のような優れた企画展示をしているが、元来が〈風〉の人である佐々木さんは、ある日ふと、何の前触れもなくギャラリ―を突然たたんで、気まぐれにサ―カスの軽業師の団員か何かになって、まるでブラッドベリの小説の中の登場人物のように、嵐の夜に忽然と消えてしまいそうな気配を漂わせていて掴めない。掴めないが、この人の拘りと、眼の確かさは本物である。……私は、以前にゲ―テが愛した〈風景大理石〉をこの画廊で買い求めて、今はアトリエの壁に大切に掛けているが、本展でまた1点、写真の素晴らしい作品に出会い、一目で気に入り、購入を予約した。……それが、『夢みるように眠りたい』の1シ―ン、前述した〈仁丹塔〉の屋上に登った、謎の探偵に扮した佐野史郎さんと助手が点景のようになって、仁丹塔から彼方を指差している写真(額入り)である。この写真作品を見た時に、かつてそこに登った時の自分が重なり、本当の自分は、実は今もなお、既に消えて久しい仁丹塔の中の迷宮をいまだに、それこそ永遠にさ迷っているような感覚に包まれて無性に懐かしかった。……この作品は、私にとって〈夢の結晶〉のように大切な物として、後日アトリエにやって来るのであるが、ご興味がある方は、ぜひ24日の会期終了までに訪れて、ご覧頂く事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

LIBRAIRIE6+シス書店

東京都渋谷区恵比寿南1―12―2 南ビル3F

TEL03―6452―3345

Open・水曜~土曜 12:00―19:00 日曜・祭日12:00―18:00

Close: 月曜/火曜

 

 

 

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『時代のマチエ―ル』

先日、恵比寿の東京都写真美術館に『アジェのインスピレ―ション』と題した写真展を観に行った。近代写真の祖と云われるウジェ―ヌ・アジェ(1857―1927)と、その影響を受けた写真家たち(マン・レイ、アポット、森山大道、深瀬昌久、荒木経惟……他)による写真展である。アジェは未だに謎の多い写真家であるが、鶏卵紙に濃いセピア色で現像された彼の代表作の数々を観ながら、わがアトリエの書庫にある、アジェの写真と、マルセル・プル―スト(1871―1922)の文章の抜粋を各々に組み合わせた奇抜な写真集がある事を思い出した。プル―ストが、まるでアジェの写真を見て文章を書いたかのように、まさにピタリとそれらはイメ―ジが合致する魔法のような写真集なのである。……今朝、ふとそれが気になって調べてみると、プル―ストが『失われた時を求めて』を執筆し始めた時が1906年頃であり、アジェが撮影を始めた時が1898年。そして二人の作業は共に死ぬまで続くのであるが、調べてみて、アジェの撮影の時期とプル―ストの執筆の時期がピタリと重なっている事がわかったのである。しかし、文学と写真の分野の各々のこの異才達は全く交流がなく、同じ時代の、あの狭いパリを生きていたのである。時にはそれと知らずすれ違ったであろう、この二人。ジャンルを異にしながらも、表現者の宿命である〈時世粧〉には明らかなる接点があり、その共有の内から、異なる美意識が各々紡がれ形象化していったのである。……しかし、アジェの写真が放つ、或は孕む時空間のマチエ―ルには、いま一人の重なる人物がいる事に気がついた。……わが国の永井荷風がそれである。永井が帰朝後に記して発表した『ふらんす物語』の言語空間が正にアジェの写真と、そのマチエ―ルに於て通低しているものがあると直感したのである。……ひょっとしてと思って調べてみると、永井がパリに滞在したのが1907年~1908年。つまり、アジェが写真を撮影していた時期と重なり、プル―ストが、音がしないようにコルク張りの密室の書斎に籠りながら『失われた時を求めて』を執筆している時期に、正に永井荷風はパリに滞在して、デカダンに耽りながらイメ―ジと感性を育んでいたのである。……そして、アジェ、プル―スト、永井荷風の三人が、それと知る事なく、まさしく同時期にパリに在ったという事を想う事は、わが内なるロマンチケルな心情の部分に響くものがある。……余談ながら、プル―ストと永井荷風には共通項がいま一つある。……それは〈実践者としての覗き趣味〉である。この視線の尽きない欲望とフェティシズムが、より深く、より深くと、時代の澱を突き抜けて、過去の遠ざかっていくものを追い求めて、美的な結晶へと昇華していったのである。

 

さてその永井荷風であるが、少し気になっている事がある。……それは、『ふらんす物語』の文中でイタリアへの旅の希望を明らかに記しながら、何故彼は、例えばヴェネツィアに旅をしなかったのであろうか!?……という点である。あまりに滞在期間が短すぎたからであろうか。否であると思う。……ボ―ドレ―ルやモ―パッサンから多大な影響を受けているのは明らかであるが、いま一つ荷風の眼差しに、その意識に存在として強く在ったのは間違いなく、マラルメの影響下の象徴主義の詩人―アンリ・ド・レニエ(1864―1936)であり、ヴェネツィアを限りなく耽美に綴った彼の代表作『水都幻談』を知っており、また永井自身がレニエの翻訳をしており、レニエを通してヴェネツィアへの旅の希求は当然強く在ったと思われるからである。余談ながら、ヴェネツィアを日本人で初めて訪れたのは誰か!?……それは周知のように、中浦ジュリアンたち四人からなる天正遣欧少年使節であるが、文学者では森鴎外が或はそれであろうかと思われる。……医学留学生としてドイツに学んだ折り、つまり1886年前後頃にヴェネツィアの墓地の島・サンミケ―レ島を鴎外が訪れた記録がある。ちなみに、私の三作目の版画集のタイトル『サン・ミケ―レの計測される翼』の舞台はこの島である。……永井荷風が私淑していた森鴎外、そしてレニエ。……この二人が訪れたヴェネツィアを訪れたいという希望は当然ありながら、何故訪れなかったのかという点が、私の内なる美意識という点で引っ掛かってくる、それは小さな、喉にかかった小魚の骨のような疑問なのである。…………とまれ、永井荷風が行かなかったヴェネツィアは、未だに私における捕らえがたいイメ―ジの領土であり、それはスフィンクスの謎のような手強さに充ちている。私がそこに行くのは、オブジェの作り手ではなく、光の狩人、闇の狩人としての写真家として、明確なスタンスで行くのである。厳寒のヴェネツィアとの対峙、……果たして如何なる対峙が、私をして、そこに待ち受けているのであろうか‼これは表現者としての自らに課した、遂には終わりなき自問の問いなのである。

 

 

 

〈お知らせ〉

前回、1月18日付のメッセージ『光の旅人』の中で、幻の写真家・謎の写真家と云われる飯田幸次郎の事をご紹介し、写真ファン待望の中、その写真集が昨年末の12月20日に刊行されるや、たちまち初版が完売になった事を書きましたが、その後もこの写真家への反響が大きく、この度、第二刷目の写真集が増刷される事になりました。写真の分野での写真集の増刷は異例の事のようです。定価は2700円(税込み)です。……ご興味がおありの方は、発行所の飯田幸次郎写真集刊行委員会の中村恵一さんまで、お問い合わせ下さい。

〒161―0034 東京都新宿区上落合1―18―7―402 中村方 kei.nak@outlook.jp

 

また、飯田幸次郎に関するト―クイベントが、写真評論家・飯沢耕太郎さん、金子隆一さん、そして中村恵一さん他の方々の出席で2月24日(土)の10時から恵比寿の写真集食堂「めぐたま」で開催が予定されております。詳しくは「めぐたま」で検索をよろしくお願いいたします。   北川健次

 

 

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『光の旅人』

……ここに1冊の写真集がある。1932年から1935年の僅か数年間の短い間に写真雑誌『光画』に幻の夢見のような写真を連続的に発表しながら、突然、本人自身が幻のように消えてしまった写真家・飯田幸次郎の写真集である。浅草六区に住み、木村伊兵衛に人工着色の技術を伝授したのも飯田幸次郎であるが、忽然として、台頭しつつある写真の表舞台から消えてしまったのである。…………私がその写真家の存在を知ったのは昨年の秋であった。私のアトリエに毎月届く『がいこつ亭』なる私家版の薄い文芸冊子があるが、詩・映画評論・短歌・小説など多彩な内容が詰まっており、その質は高く私は毎回楽しみにしている。ある日届いたその冊子の中に、私の40年来の知人である中村恵一さんが「飯田幸次郎を発掘」と題して、その消えた写真家について詳しく言及してあり、なかなかに興味深かったのであるが、私はそこに掲載されていた飯田の二点の写真をみて、この写真家がただ者ではない事を直感した。……その数日後に、私は高島屋の個展に中村さんをお呼びして来て頂き、さらに、この幻の写真家―飯田幸次郎について詳しく教えて頂いた。……それによると、最初にこの人物に強い興味を持ったのは、写真評論で知られる飯沢耕太郎氏であった。そして、飯沢氏から中村さんは飯田幸次郎の消えた後の追跡調査を依頼されたのである。……しかし、中村さんの難航しながらも徹底した追跡によって、飯田幸次郎のその後の謎に光が当てられるようになり、今回の写真集が刊行されるに至ったのである。

 

「……看板と建物ばかりで、人の影すらもない、この写真。夜半にふとみた夢の中に、突然現れたようなこの光景。……パリの通りを描いたバルチュスの絵をふと連想したが、あの絵のようなマヌカンめいた人物たちは、ここにはなく、全くの無人……。まるで芝居の書き割りでもあるような。そして人間の視点からは僅かに外れた高みが呈する、不思議な静寂と懐かしさ、そして不安。……この不安は岸田劉生の『切り通し』にも通じる不穏と犯意があるが、やはり、画面を第一に領しているのは郷愁であろう。懐かしいが、しかし今まで見た事のない不思議な風景、不思議な時間。……そして死者たちが静かに佇んでもいるような…………。私は中村さんが飯田幸次郎の写真集を大変な苦労をされて刊行したというのを伺った時に、購入を申し出たのであるが、初版は私が最後ですぐに絶版になってしまったという。

 

 

飯田幸次郎「看板風景」1932年 

 

 

前回のメッセージでも書いたが、先日、川田喜久治さんの写真展を観に.東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」を訪れた。オ―プニングで沢山の来客であったが、私は一点一点、川田さんの表現世界の強度な暗部に入るべく、あたかも現代の『雨月物語』を読むような覚悟で集中して視入った。川田さんの写真には観る度にひんやりとする発見がある。…「美しい、そしてぞっとするような光景」……海外の美術館のキュレタ―達の多くもまたこのように高く評価している川田さんの写真世界は、その表象の皮膚が実に厚い。この厚さは、以前に川田さんと並べて書いたゴヤに通ずる厚さである。……ゴヤの中には、その後のシュルレアリスムや、更にはピカソまでが既に内包されていると鋭く指摘したのは、美術評論の坂崎乙郎や澁澤龍彦といった慧眼の人達であるが、私が川田喜久治という異才の人に視るのも、そういった意味の厚みであり、昨今ますます貧血と迷走の観を呈している写真の分野を尻目に、更には無縁に、川田喜久治さんの強靭な厚みが更に極まりを見せてくるのは必然であり、また事実でもあるだろう。……光の謎を直視している川田さんのみの独歩が、写真が未だ魔術的であった時代の韻を帯びて、現代の陰画の様を光を刈り込んで放射してくるのである。

 

私は前回、今回と続けて写真について記してきたが、この熱い想いは、数年ぶりとなる水都幻想の街―ヴェネツィアへの写真撮影行が控えているからなのかもしれない。また、今年に予定されている数々の画廊での個展、そして、6月から9月の長期にわたって、福島の美術館―CCGA現代グラフィックアートセンターで開催される予定の、大規模な私の個展が控えているからなのかもしれない。そう、つまり私は年始めから熱くなっているのである。……一昨年は中林忠良氏、そして昨年は加納光於氏、そして今年が私の個展と、この美術館では作家を密に絞って個展を開催しているが、これから、この個展に多くの時間を私は割いていく事になるであろう。出品作は私の版画を主として、近作のオブジェも出品する事になっている。……この個展については、折々にまた触れていく予定である。

 

 

 

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『君は初夢をみたか!?』

1月1日だけでなく、2日にみた夢も初夢というらしい。私が2日にみた夢は奇妙なものであった。私がかつて版画で度々モチ―フにしたバレエダンサ―のニジンスキ―が、どうも『牧神の午後』を踊り終えた後らしく、疲れて寝そべっている姿が現れたかと想うや、夢のカメラには次にポンペイの浴場が官能的に霞んで見え、次に噴火前のヴェスビオス火山がわずかに噴煙を不穏げに上げているのが、これまた薄く霞んで彼方に見えるという、……ただそれだけの、いささかの淫蕩、暗示に富んだ夢であった。以前のブログでも書いたが、私は美大の学生時にそれまで打ち込んでいた剣道をやめて方向転換し、何を考えたのか、熱心にクラシックバレエを学んでいた時期があるが、夢に出てきたニジンスキ―はその時の自分が化身した、ふてぶてしい姿なのであろうか。…………ともあれそんな夢をみた。

 

……正月5日は、映画『ジャコメッティ・ 最後の肖像』を観た。観て驚いた。昨年の夏に私はこのブログで、3回に分けてジャコメッティのこれが実像と確信する姿を直感的に書いた。それはこの国の評論家や学芸員、更にはジャコメッティのファン、信奉家諸君が抱いているようなストイックな芸術至上的な姿ではなく、殺人の衝動に駆られ、特に娼婦という存在にフェティッシュなまでの情動を覚える姿―その姿に近似的に最も近いのは、間違いなく、あのヴィクトリア時代を血まみれのナイフを持って戦慄的に走り抜けた〈切り裂きジャック〉である……という一文を書いたが、この映画は、まさか私のあのブログを原作としたのではあるまいか!!と想うくらいに、ピタリと重なる内容の展開であった。切り裂きジャックと同じく、〈女の喉を掻き切りたいよ!!〉と言うジャコメッティの犯意に取り憑かれたような呟き。……マ―グ画廊から支払われる莫大な額の画料のほとんどを、気に入りの娼婦とポン引きにむしりとられる老残を晒すジャコメッティ……。妻のアネットを〈俗物〉と罵り、自らは深夜にアトリエ近くの娼婦街を酔ったように虚ろにさ迷うジャコメッティの姿は、矢内原伊作の名著『ジャコメッティのアトリエ』の真摯な表層を一掃して、不可解な、その創造の神髄に更に迫って容赦がない。私の持論であるが、フェティシズムとオブセッション(強迫観念)、犯意、更には矛盾の突き上げが資質的に無い表現者は、創造の現場から去るべしという考えがある。芸術という美の毒杯は、強度な感覚のうねりと捻れから紡ぎ出される、危うさに充ちた濃い滴りなのである。……ともあれ、この映画はジャコメッティ財団が協力に加わっている事からも、かなり客観性の高い事実や証言に裏付けられたものとして興味深いものがある。

 

7日は、勅使川原三郎氏、佐東利穂子さんのデュオによるアップデ―トダンス『ピグマリオン―人形愛』を観るために、荻窪の会場―カラス・アパラタスに行く。……実は、昨年12月に両国のシアタ―Xで開催された、勅使川原・佐東両氏によるデュオの公演『イリュミナシオン― ランボ―の瞬き』の批評の執筆依頼をシアタ―Xから頼まれていたのであるが、極めて短い原稿量でありながら、これが意外に難航して年越しの作業になってしまった。私はかなり書く速度が速く、拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』の連載時も、毎回二時間もあれば、直しなく一発で書き上げていた。しかし、勅使川原氏の演出・構成・照明・音楽・出演を全て完璧にこなすその才能に対しては、私ならずともその批評なるものの、つまりは言葉の権能がその速度に追いつかない無効というものがあって、私は初めて難渋して年を越してしまった。このような事は私には珍しいことである。最初に書いた題は『勅使川原三郎―速度と客体の詩学』、そして次に書いたのが全く異なる『勅使川原三郎―ランボ―と重なり合うもの』である。そもそも、このような異才に対するには、批評などというおよそ鈍い切り口ではなく、直感によって一気に書き上げる詩の方が或いはまだ有効かと思われる。……さて今回の公演であるが、毎回違った実験の引き出しから呈示される、ダンスというよりは、身体表現による豊かなポエジ―の艶ある立ち上げは、私の感性を揺さぶって強度に煽った。キリコの形而上絵画やフェリ―ニの映像詩を彷彿とさせながらも、それを超えて、この身体におけるレトリシャン(修辞家)は、不思議なノスタルジックな光景を彼方に遠望するような切ない抒情に浮かび上がらせたと思うや、一転して最後の場面で、『悪い夢』の底無しの淵に観客を突き落とす。その手腕は、〈観る事〉に於ける時間の生理と心理学に精通したものがあり、ドラマツルギ―が何であるかを熟知した観がある。とまれ、この美の完全犯罪者は、今年のアパラタス公演の第1弾から、全速力で走り始めたようである。

 

…………翌日の8日は、ご招待を頂き、歌舞伎座で公演中の『初春大歌舞伎』を観に行く。松本白鸚・松本幸四郎・市川染五郎の高麗屋―同時襲名披露を兼ねている事もあり、勘九郎・七之助・愛之助・扇雀・猿之助……と賑やかである。しかし私が好きな、九代目中村福助が長期療養中の為に観れないのは寂しいものがある。静かな面立ちに似合わないこの破天荒者の才が放つ華の光彩には独特の魔があって、他の追随を許さないものがある。……さてこの日、私が観たのは昼の部―『箱根霊験誓仇討』『七福神』『菅原伝授手習鑑』であった。『菅原伝授……』を観るのは今回が二回目である。伝統の様式美の中に如何にして「今」を立ち上がらせるかは、歌舞伎の常なる命題であるが、私はそこに脈々と流れる血と遺伝子の不思議と不気味を垣間見て、時としてこの華やいだ歌舞伎座が一転して暗い宿命の呪縛的な檻に見えてゾゾと想う時がある。三島由紀夫は「芸道とは、死んで初めて達成しえる事を、生きながらにして成就する事である。」と、その本質を見事に記しているが、確かに芸道とは、その最も狂気に近い処に位置しており、精神の過剰なる者のみに達成しえる業なのかもしれない。精神の過剰が産んだ美とは、西洋では例えばバロックがそれであり、この国に於いては、歌舞伎、すなわちその語源たる「かぶく―傾く」が、それに当たるかと想われる。精神、感性の過剰のみが達成しえる美の獲得、……それはこのブログの先に登場したジャコメッティ、それに勅使川原三郎についても重なるものがあるであろう。……さて、飛躍して結論を急げば、おそらく20年後の歌舞伎の世界にあって、これを牽引しているのは、松本幸四郎の長男、……今回襲名した市川染五郎(現在まだ12才)と、市川中車(香川照之)の長男―市川團子、つまり名人・三代目市川猿之助(現二代目市川猿翁)の孫あたりがそれであろうかと想われる。……遺伝とはある意味で残酷なものであり、才はそれを持って宿命へと変える。美におけるフォルム(形・形状)の問題とは何か。……それを考える機会とそのヒントを歌舞伎は与えてくれるのである。…………さて、今月の12日からは東麻布にあるフォトギャラリ―「PGI」で、写真家・川田喜久治さんの個展『ロス・カプリチョス―インスタグラフィ―2017』が始まり、私はそのオ―プニングに行く予定である。私は先に写真家として川田さんの事を書いたが、正しくはゴヤの黒い遺伝子を受け継いだ写真術師という表現こそ相応しい。唯の言葉の違いと思うと、その本質を見逃してしまう。シュルレアリストの画家たちの事を絵師という表現に拘った澁澤龍彦のこの拘りに、いま名前は失念したが、フランスのシュルレアリズム研究の第一人者もまた同意したことと同じく重要である。光の魔性を自在に操って、万象を川田喜久治の狙う方へと強力に引き込んでいく恐るべき術は、正に魔術師の韻にも通ずる写真術師のそれである。私はゴヤの最高傑作の版画『妄』のシリ―ズの何点かを、パリやマドリッドで購入してコレクションしているが、この度、川田さんから届いた個展案内状の写真を視ると、伝わってくるのは、写真の分野を越えて、世界を、万象を、暗黒のフィルタ―で透かし視たゴヤの変奏を想わせて尽きない興味がある。個展は12日から3月3日までと会期は長い。……ぜひご覧になる事をお薦めしたい展覧会である。

 

 

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『去年今年(こぞ・ことし)』

先だって、北朝鮮の兵士が南北の境界線を越えて韓国に逃げこんだが、被弾しながらも、脱走へと彼をして突き動かした最大の動機が、韓国から大音響で流れてくるK-POP 、J-POPを聴いてたまらなく魅了された事に拠るという。ジャン・コクト―かジュネのどちらの言葉であったかは忘れたが、「音楽には気をつけろ」という言葉がある。……これは聴覚から忍び入る音楽の力は、一瞬で感覚の中枢にある琴線を揺さぶり、理屈を越えて内面を激しく揺さぶる効力(場合によっては魔力)を発揮するという意味である。……そう、確かに音楽の力の持っている速度と浸透力はゲリラ的に凄まじいものがあるだろう。……例をあげれば、ジョン・レノンの名曲『イマジン』は、眼を閉じて想像さえすれば、国境さえも無くなるというコンセプトに、美しい韻律の音楽の力が相乗している為に、そのメッセージ力は大きく、静かに、そして確実に人心を動かす力を持っている。社会主義、資本主義を問わず国家の権力者達がこぞって忌み嫌うものこそが、この「イマジン」する事の力なのである。想えば自明な事であるが、国家というものの実質も、つまりは概念が産んだ幻想の産物に過ぎず、その砂上楼閣を崩すには「イマジン」の力をもって攻めるにしくはない。ジョン・レノンを撃った犯人とされるマ―ク・チャップマンとは別に、その場にジョン・レノンを確実に仕留める為に、プロの暗殺者がもう一人いたという説、……またそれを裏付けるかのように、暗殺現場のダコタハウスの入り口付近には、チャップマンが犯行に使用した銃(チャ―タ―ア―ムズ・38スペシャル弾用回転式、通称リボルバー)の、彼が実際に撃った五発の弾より多い数の弾痕が確認されている事、また犯行時に犯人のすぐ間近にいたダコタハウスのドアマンことホセ・サンヘニス・ペルドモという人物は、元CIAのエ―ジェントであったという事実は、チャップマン単独説に抗うかのように、何事かを暗示してなお余りあるものがある。閑話休題、……ようするにイマジン→想像する力、ひいては概念の力、更には観念の力というものは面白く、かつ不思議なものがある。……私達が具体的に体験するその一例として、大晦日から一瞬後に新年が来るわけであるが、あの新年が今来たという慌ただしい心と気持ちの切り替えには性急に強いられるものがある。……そして不思議な事に、つい先ほど数秒前であった12月31日の23時59分前が、いかにも大急ぎで去っていって色褪せてみえるから面白い。……しかし、新年は迎えたが、「時間」というもう1つの流れ、これまた観念の産物であるが、去年と今年という概念を繋げて貫くものが確かに在ると感ずるのも、また事実なのである。その事を詠んだ俳句がある。客観写生を理念としたホトトギスの俳人・高浜虚子の作「去年(こぞ)今年 貫く棒の 如きもの」が、それである。

 

話は変わるが、先日、あまりに蒼い空の美しさに誘われるようにふと思い立って、大田区馬込にある三島由紀夫邸を見に行った。事件から既に47年の歳月が流れているが、三島邸は時が止まったかのように凛とした気配を放って不思議なまでに鮮やかなままであった。門壁の表札には、故人の名を記した「三島由紀夫」の文字がゴチック体で掛かっている。今まで何度か訪れてみたいという衝動はあったが、何故か行かないままに時だけが過ぎていった。……自分が最もその美意識において影響を受けたという、その相手に対しては、何故か微妙な躊躇いというものがあるものである。思えば、私の先達の知人の多くが実際に三島と交際があり、その逸話の多くは直接的に聴かされていた。18歳の時に、三島美学を映した彼の戯曲の舞台美術をやれるのは自分以外にはいないという、根拠のない、しかし有り余る不遜な自信のままに三島由紀夫に手紙を書いて送ったが、果たせるかな、それと僅かにずれるようにして三島が自刃してしまったのは、私の人生に於ける、最初にして最大の無念な挫折ではあった。…………メモした住所をたよりに閑静な住宅街の中に入っていくと、一際大きな白亜の建物があり、それは容易に見つかった。……あの戦後史最大の事件が起きる日の午前に、一台の迎えの車がこの門前に止まり、この鉄の黒い門扉を開けて三島は静かに出て来て市ヶ谷の自衛隊駐屯地へと向かった。……それがまるで劇中の夢のような朧な感覚のままに、辺りは静かで、空の高みにはひと刷けの雲もない蒼穹の拡がりがあった。「人生は夢のようなものだと言うけれど、ひょっとすると、本当にそれは夢そのものなのかもしれないな」……三島の本質を理解していた澁澤龍彦は亡くなる直前に病床でそう語っているが、私は彼のこの言葉が最近はたいそう好きである。……とまれ、2018年がいま、眼前にある。私はまた新たなイメ―ジの領土を求めて歩いて行かなければならない。

 

 

 

 

 

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『12月のミステリー』 

〈今までの怨み、覚えたか!!〉…………まるで、吉良に刃を向けた浅野内匠頭か、はたまた横溝正史のどす黒い怨念因果小説を想わせるような凄惨な殺傷事件が冨岡八幡宮内で起きた。……この八幡宮、以前にも、誘拐された幼児が八幡宮境内の古井戸(現場は、たしか現在はセメントで埋めてある筈)に犯人に投げ込まれて亡くなっているが、その因縁話よりも、江戸時代に今の相撲興行のもととなった勧進相撲が行われて以来、冨岡八幡宮は相撲協会と互助なる密月関係を続けて来ただけに、昨今の貴ノ岩の事件と絡めて、なにやら一層の不気味さがある。昔、二十代の頃に、版画に使うリスフィルムというのを発注しに、江東区冬木にある工場に行く際に冨岡八幡宮の境内を通り、また帰りには度々、今回の殺人現場のすぐ真横にある赤い鉄製の橋上に佇んだり、境内にある歴代横綱の巨大な石に彫られた手形を度々見ていただけに、今回の凄惨な事件の報道画像を見て、同時になにやら懐かしくもあったのである。

 

……少年時を想い返せば、昭和30年代の頃はたいした娯楽もなく、経済の復興途上にリンクしてテレビ中継の大相撲の人気は熱狂的な渦中にあった。私の故郷の福井にも相撲巡業が来て、出来たばかりの体育館で興行相撲が行われた。相撲の黄金期―柏鵬時代がまさに始まった頃である。当時まだ小学3年生の頃であったが、興行相撲が体育館であった日の遅い午後、館内から聴こえて来るどよめくような喚声に突き動かされるようにして、私は体育館の周りを回りながら、何とかタダで相撲を観れる手段はないかと思案していた。……今でもそうであるが、どのような窮地でも必ずや突破口はある!!と考える前向きなたちなのである。そして遂に私は見つけたのであった。体育館のかなり上部に換気の窓が僅かに開いており、そのすぐ側に雨水が流れる排水筒が地上まで延びている。……「あれだ!……あれを伝って換気窓まで上がっていけば、まぁ後はなんとかなるだろう!」……少年の観たいという無垢な欲求は、恐怖に勝る。意を決した私は必死で登っていき、遂に窓の間近まで辿り着いた。……中を見ると、席の最上段にいる観客の後頭部がズラリと見えた。「……おじちゃん、お願いだから…中に入れて……」。掠れた子供の声に一人の男性が気づき振り向いた。まさかいる筈のない空中から小さな手を伸ばす私を見て驚くや、「―おぉ小僧、よく上がって来たなぁ!!」と言って、引っ張り上げて中に入れてくれ、私はご満悦の観客の一人と化したのであった。取組は関脇あたりから観れたので、お目当ての柏鵬の勝負はたっぷりと楽しめたのであった。…………昨今の白鵬などの唯の力任せの荒い相撲と違い、特に大鵬は、相手を余裕でふわりと受けながら懐の大きな器で次第に絞りこみ、ゆらりと倒していくという、正に横綱としての格の違いを見せてくれたが、何よりも相撲に華があり、頂点に立つ者としてのプライドと気品があった。白鵬も、かつては貴乃花を先達の目標として敬い、大鵬も自分を継ぐ力士として白鵬に目をかけていた感があった。……その白鵬の相撲が次第に変わってきたのは、大鵬が亡くなり、彼の優勝記録の32回を越えた辺りからかと思われる。……超然とした禅の境地を表す「木鶏(もっけい)」という言葉を引用して、70連勝のかかった大一番に敗れた名横綱の双葉山が打った有名な電報の一文、「未だ木鶏たりえず」という、神技への孤高な探求心からも遠く、今や相撲は、ガチンコ(本気の勝負)を欠いた、プロレスと変わらない唯の格闘技興行となった感があるのは、時代の流れとは云え、いかにも残念な事である。

 

ここに1冊の本がある。『泥水のみのみ浮き沈み』(文藝春秋刊)と題した勝新太郎対談集である。森繁久彌・瀬戸内寂聴・ビ―トたけし・三國連太郎……といった個性的な対談者が揃っていて、けっこう面白い。その中の三國連太郎との対談(1993年時)の中にオヤ?……と気を引く会話が載っていた。音に対する感性の話を三國連太郎が話している時に、勝新太郎が急に話題を変えて、隣室の相撲中継が気になり、勝(突然、付き人に)貴花田どうした? あっ、まだか。連ちゃん、相撲好き? 三國(好き好き。 勝(今、若花田だって。三國(やっぱり八百長ってあるんでしょ? 勝(ま、精神的にはね。勝ち越しちゃうと、ちょっとあると思いますね。三國(藤島部屋〈注-貴乃花の父親―元大関・貴ノ花が82年に設立した部屋〉はやらないんでしょ。勝(だから叩かれるね。三國さんにしても本当に映画を作ろうという人は叩かれる。だって困るもん、そんな人いたら、目をギラギラさせてだね、「この役はちょっと今日は中止にします。掴めませんから」なんて言ったら、みんなが嫌がるもの。俺なんかが出ても、みんな困るよね。〈勝―別室に相撲を見に行く。戻ってきて〉もうすぐ、貴花田〈注・今の貴乃花〉ですよ。三國(そりゃ、見なきゃ。(二人とも別室で相撲観戦) 勝(貴花田が出る直前に、ソファでいびきをかいて眠り始める) 三國(あれ、寝ちゃってる。……………… 今から20年前に出た八百長の話と、貴乃花のいた藤島部屋の相撲協会内での孤立化を匂わせる話。勝新太郎、三國連太郎、……社会の裏面を熟知しているこの二人の会話には、今にして読むと相撲界の今日に至る構図がうっすらと透けてくるものがある。今回の貴ノ岩の殴打事件、察するにガチンコ(本気の相撲)で白鵬を負かしてしまった貴ノ岩に対する、というよりも、その師匠・貴乃花への、これはどのみち起こるべくしていつかは起きた事件かと思われる。……結局一番、損な割を食ったのは、引退に追い込まれた日馬冨士と貴ノ岩であろう。モンゴル出身の貴ノ岩が、ガチンコにこだわる狂信的なまでにストイックな貴乃花部屋に入門してしまった事が、後の事件の伏線になった事は想像に難くない。……しかし、それにしてもパックリと開いた貴ノ岩(と思われる人物)の頭の傷口。私も撮影用の巨大なスクリ―ンの芯の鉄骨が落ちて来て頭部を激しく打ち、かなりの出血をした事があるが、自らの体験を話せば、頭部の肉は裂けやすく、意外に脆く、かつ出血が激しい。……さて、その貴ノ岩と云われる人物の顔を伏して頭部の傷口のみを撮した画像。その頭をゆらりと後ろにずらして顔をおもむろに上げれば、まさかの別人であったりすれば、これは、これで年末のミステリ―。ともあれ、12月という月は、本当に慌ただしく、かつ過ぎるのが速いのである。

 

 

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『強烈な火花―棟方志功』

どうやら記憶にも遠近法というのがあるらしく、出会った順番ではなく、その人の放つ個性の強度や印象の強弱で、記憶の中に存在の韻を各々に放っているようである。その遠近感でいくと、私の場合最も鮮やかな最前列にいる人物が二人いる。……勝新太郎棟方志功である。勝新太郎との面白い出会いについては以前のブログで書いたので、今回は棟方志功さんとの出会いについて書こうと思う。

 

私が銅版画を独学で作り始めたのは、美大の二年生の19才の時であった。『Diary-Ⅱ』という表現主義的な作品を作ったのは翌年の20才の時である。作り始めて二作目の版画『微笑む家族』という作品を私が住む神奈川の美術展に出して、神奈川県立近代美術館館長の土方定一氏の眼に止まり、美術館に収蔵されたという流れもあって、翌年、再びこの美術展にその『Diary-Ⅱ』を出品したところ、今度は版画部門で受賞した。賞金は当時の十万円。貧乏な美大生にとっては救いの神の賞金である。授賞式は展覧会の会場の神奈川県民ホ―ルであった。会場に着くと、受付の人から仰々しく私の名前を書いた名札を渡されたのであるが、その人が私を見て「あなたが北川さんですか!いや、もう審査の時が大変だったんですから!」と言って、審査時の事を詳しく話してくれた。版画部門の審査員は三人で、その中に板画家の棟方志功さんがおられたのであるが、私の版画が審査員達の前に現れた瞬間、棟方さんは急に席を立って私の作品の所にやって来て、係員から額に入った版画を奪い取るようにして床の上に置き、額のガラスの上から私の作品を掌で撫でまわし、「凄いなぁ、凄いなぁ……」と、あの特徴的なだみ声で呟きながら延々とその動作を続けた為に、審査が30分近く完全に止まってしまったのだという。…………棟方志功。この20世紀の日本美術を代表する巨人の名前はもちろん知っていたが、私はこの美術展の審査員に棟方さんが入っている事など全く知らなかった。しかも、その棟方さんが私の作品を見るや、そういう行動に出た事など、係員から言われるまで私が知るはずがない。……私は話を聞きながら、あの棟方志功の顔が浮かんで来たが、私の作品とその顔が今一つ、どうも結び付かないでいた。式の会場の中に行こうとすると、その係員の人が「今日、棟方さんが来られますので」と告げてくれた。

 

……授賞式が進んでいったが、しかし棟方さんの姿は会場に無かった。「まぁ、そういうものだろう」、私がそう思ったまさにその瞬間、会場にざわめきが走り、紋付き袴姿の棟方志功さんが、頭のてっぺんにかんざしをグサリと突き刺した奥様と同伴で突然現れ、そのまま壇上に上がった。確かにもの凄いオ―ラをこの人は放っていた。……挨拶の第一声は、今でもありありと覚えているが、「夫婦の枕は長まくら!!」であった。……つまり、式に遅刻した言い訳を、先ほどまで夫婦の愛の営みをしていたのだから、まぁ、そこは……と天衣無縫の表情で笑いながら話して、会場の雰囲気を一瞬で自分の話術に引き込んでいく。棟方さんは最初は上機嫌で笑顔であったが、版画部門の審査の話になるや表情が一変して鋭い口調になり、激しい怒りの表情へとそれは変わった。会場は一変して静かになり、ただ棟方さんの言葉だけが響いてくる。棟方さんの話でわかったのであるが、今回の審査で絶対に納得いかない不正があり、それを糾弾し始めたのである。棟方さんは私の作品を版画部門の受賞だけでなく、大賞に値する作品として強く推したのであるが、大賞は既に審査の事前に内々で決まっていたらしく、その受賞者は県の教育委員会関係の御曹司らしい事が、棟方さんの口からズバズバと明らかになっていく。最近よく話題に上がる「忖度(そんたく)」である。「北川さんのあの作品が、どうして大賞にならずに、そんな作品が大賞に決まるわけですか!!……そんな馬鹿な話がありますか。私はこんな馬鹿げた美術展の審査はもう絶対に今後やりません!!」。……棟方さんの怒りを込めた熱い語りはさらに続いたが、私の名前が何度も棟方さんから出てくる事に、私は自信へと繋がる熱いものが湧いてくるのを覚えていた。大賞の賞金は当時の100万円とパリ一年間の留学であるが、私は大賞よりも、遥かにもっと大きな、作家としての今後に繋がる大切な物をこの時に棟方さんから貰ったのであった。駒井哲郎氏からは既に評価を受けており、その後に出会う池田満寿夫氏や浜田知明氏、そして、パリで一緒に展示された、国際的な作家のジム・ダイン氏から受けた評価とはまた別なものが、棟方志功という人にはあるのである。当時まだ20才そこそこであった私に、しかし、この出会いと作品への評価はあまりに大きく、いま思い出しても貴重なものがあった。……式場の帰りに、私は棟方さんと握手を交わし、一緒にエレベーターに乗ったのであるが、この時に棟方さんの本領が発揮された。……棟方さんは、突然このエレベーターが欲しい!!、どうしても家に持って帰りたい!!と子供のような駄々を本気でこね始めたのであった。私は笑いながら、同乗している棟方さんの奥様を見ると、(またいつもの癖が始まった!)と呆れ顔であり、横にいた土方定一氏も爆笑されていた。……棟方さんは、その二年後に亡くなられたのであるが、私の作家への過程における巨きな恩人であり、今もその特異な存在の記憶は昨日の事のように煌めいて在る。……あの日、棟方さんと別れた数日後に、土方定一氏から一通の葉書が届いた。その手紙には、君はもうあのようなレベルの美術展ではなく、もっと高みの上を目指せ!!……という内容の文面が綴られていた。土方氏は、死後もまだ無名だった松本俊介を世に出す契機を作るなど、信じられる慧眼の人である。私はそれに従い、立体や大きな平面に混じって版画は画面が小さいので審査の上で不利である事は承知の上で、当時最大の難関であった現代日本美術展に応募し、ブリヂストン美術館賞を受賞したが、その時の審査委員長であった土方定一氏の強力な推薦があったときく。……とまれ、私は折に触れて、棟方志功という稀代の才能が産み出した作品を観る度に、あの日の貴重な、そして不思議な導きに充ちた〈一期一会〉という人生の妙を覚えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『鏡の皮膚』 

日本橋高島屋・美術画廊Xで開催される個展が少しずつ近づいてきた。今回の会期は11月8日(水)から27日(月)迄であるが、新しいアトリエでの制作はいま正に佳境に入っている。今年で連続9回目、高島屋のこの個展だけで制作した作品数は、延べおよそ600点以上。それ以外の画廊で発表した個展の新作を合わせればかなりの数になる。……そして、作り出して来た全ての作品がコレクタ―の人達の収蔵に入っている事を思えば、間違いなく私は表現者として幸運な人生を歩いていると思う。……24歳で作家としてデビュ―した時に、私の個展の総指揮を担当された池田満寿夫さんは、「これからはコレクタ―の人達と共に歩む事、作品は今後も発表する際には若い人にも購入可能な価格にする事、作品が優れていれば間違いなく自ずから評価され上がっていくから。」というアドバイスを頂き、私は池田さんを信じて先達としての言葉に従った。そして24歳時の第1回目の個展で発表した版画は1点2万円で発表されたが、出品点数25点、エディションは各20部、計500点が1週間の会期中にすべて完売となった。この記録は今も破られていないという。……ニュヨ―クの池田さんからは祝電が届き、私はプロでやっていく自信を固めたが、はたして池田さんの予言どおり、その時に発表した作品の評価価格は、現在は10倍から20倍以上となり、今もコレクタ―の人達の愛蔵するところとなって大切にされている。作品は私の手元を離れて、その人達の各々の人生の中に深く関わっていっているのである。……後年もこの池田さんのアドバイスを私は守り続け、自分が版元となって版画集を8年間で七作次々と精力的に刊行したが、いずれも刊行して3ヶ月間くらいで全作が完売となった。……何より一番大事な事は、作品がコレクタ―の人達にコレクションされる事。……そして、自らを模倣せずに次々と新たな可能性に挑戦していく事。……版画からオブジェに制作の主点は変わったが、先達が遺し伝えてくれたこの言葉を、今も私は金科玉条のごとく守り続けているのである。

 

さて、高島屋の個展であるが、今回の展覧会タイトルは『鏡の皮膚―サラ・ベルナ―ルの捕らわれた七月の感情』である。……私はいつも個展の制作に入る前に、先ずは展覧会のタイトルを決める事から入っていく。言葉とそれらが孕むイメ―ジのあれこれをまさぐりながら、現在形の自分が、今、何処に在り、未生の新たな「語り得ぬ」もののアニマと姿が何であるかを、あたかも気象観測のような視点で、あたかも稲妻捕りのような素早さで絡め捕る事から始まるのである。……そして、タイトルが決まるや、私の視線は集中し、一気に制作に入っていくのである。高島屋の個展案内状は制作の着手が早いので、8月の後半にはもう形が出来上がっているが、私は案内状のデザインにも深く関わっている。……展覧会の案内状とは、その展示内容の表象であり、また象徴性をも孕んでいる伝達交感の大事な関係だと思うからである。……天才舞踏家の土方巽が、「新作の案内状を送った時から舞踏はもう始まっている。」と何かに書いていたのを読んで、確かに!!……と私は蒙を拓かれたのであったが、以来、私は案内状にはこだわりを持ち続けている。……高島屋美術部も同じ理念を持っているので、レイアウト、印刷の校正は徹底して臨んでおり、今度10月3日は、その三回目のチェックが予定されている。……ただ、案内状を発送するのは、私は会期初日の4日ばかり前に届くように送っている。会期が三週間と長いので、そこを考えての事である。だから、このメッセージでの早い時点でのお知らせは、とても大切な意味を持っているのである。…………アトリエで出来上がっていく新作のオブジェを見ながら、私はそこに自分の新たな現在形の姿を、ある種の驚きを持って見つめている。………………さて、次回のメッセージは、強烈なインパクトを持った棟方志功さんが初登場する予定。乞うご期待。

 

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『白黒はハッキリと!!』 

今から27年前の1990年の晩秋のある日、私はスペイン・カタロ―ニャ自治区の北東部にあるフィゲラスのダリ劇場美術館にいた。前日にダリのアトリエ(通称―卵の家)のあるカダケスで過ごし、早朝のバスで、ダリの生地であるここフィゲラスに着いたのである。……奇想の画家・サルバド―ル・ダリの作品が数多く収蔵展示されているこの美術館は、元は朽ちた劇場であったのをダリ自らが設計改造して美術館に作り替えたものである。……部屋ごとに集められた数々の作品を観て行くと、突然、何も展示されていない全くの白くて広い部屋に行き当たった。(……ん、何だろう!?)。見ると、他の観客達はただの通路だと思ってみな足早に取り過ぎて行く。私はふと足下から強い気が来るのを感じて下を見た。……その床面には、「Salvador Dali 1904―1989』と銘が彫られており、私はそれが白い墓石であり、昨年亡くなったばかりのダリの遺体が、この足下の更に深くに眠っている事を知ったのであった。

 

……その墓が掘り起こされて、ダリの遺体がDNA鑑定されるという。……何とも穏やかでない話であるが、事の発端はダリの隠し子だと名乗る女性(マリア・ピラル・アベル・マルティアというタロットの占い師)が現れた事で、ダリの財産(約500億円……意外に安いのは、晩年に近親者たちが勝手に使い込んでいた為)を管理しているダリ財団と、この占い師をめぐって、遺産の相続に絡んだ権利問題に発展しかねない情況が出てきたからである。遺体をDNA鑑定する事を命じたのはマドリ―ドの裁判所である由。そして今年の7月に調査が始まり、先日、結果が出て白と判定され、この占い師には調査に要した多額の費用の賠償請求が近々に課せられるという。………………実は、結果が白である事は、私は当初から既に読んでいた。私事になるが、2004年に刊行した拙著『「モナリザ」ミステリ―』(新潮社刊)所収の「停止する永遠の正午―カダケス」で、ピカソ・ダリ・デュシャンを登場させたが、私はその執筆に際し、多くの資料や逸話までも動員して彼らの下半身事情―いわゆる性癖までも徹底して調べあげていた。その結果、確信を持ったのであるが、ダリは自らを蟷螂(雌に食べられる雄のカマキリに自身を同化する、男性性における性的な不能者)に見立て、ダリの頭上に君臨するガラの横暴に耐える事にのみ性的な恍惚を覚えるという、徹底した受動体であったのである。ダリの「隠し子」と名乗るその占い師が、ダリと自分の母親が関係したと主張する時期は、既にダリはガラの徹底した管理下にあったカダケス時代であり、精神的にも肉体的にもダリの実体の近似値を他に求めれば、浮かんでくるのは、あの谷崎潤一郎の『春琴抄』に登場する丁稚のマゾヒスト・佐助に限りなく近い。……ひたすら堪え忍ぶという忍従の徹底から放射する、独自で特異な美の結晶。谷崎は、マゾヒズムを極める事で、それを超越した耽美主義の誰にも真似の出来ない絢爛たる隱花を咲かせたが、ダリもまた独自な偏執抂の月下の美を顕した。ダリが美の規範(カノン)とした基準は〈可食的であるか否か〉であったが、自身の徹底した受動体の価値を、そこに合わせ見ていたように私には思われる。…………それはそうと、今回の、墓を掘り出してダリの遺体を調査するという話から思い出したのであるが、フランスでは数年前に、ジャンヌ・ダルクを火刑にしたその遺灰からDNA を調査する試みが実施されたというが、15世紀初頭の人物にまで調査する対象が向かうという、その白か黒かの徹底には、痒い所に手が届くという観があって私は好きである。……話を日本に変えれば、「坂本龍馬暗殺の真相」をめぐって何百冊もの本が書かれてきたが、その詰めになると皆一様ですっきりとしない。中岡慎太郎が最後に語り遺したという、死客達の斬り込み状況のみを信じて、それを鵜呑みにしているが、ズタズタに斬られて断末魔にある中岡慎太郎に、定番として語られているような暗殺時の状況を冷静に振り返って語れる筈がない。真相は、薩摩あるいは土佐の政治的な理由に拠って周到に隠蔽された観が強いのである。……いっそ、東山霊山に埋葬された龍馬、慎太郎、そしてその後に埋葬してある藤吉の遺骸(三人とも樽の中に座ったままの土葬)を掘り出して、その頭蓋骨や肩、背骨に残る刃傷痕の強弱、深浅を調べれば、より確実で具体的な惨事の状況と、新たなる真相が見えてくるのになぁ……と、京都に行って墓参の度に焦れったく思う私なのである。もっとも、調査を実践した場合、翌日の朝刊の一面を飾るトップニュ―スになる事は間違いないであろうが。……そして、その龍馬の墓の同じ場所から、三人以外の、(伏せられている)もう一人の人物の少量の骨が出てくる事は間違いない、云わば知る人ぞ知る……の真相であるが。その小さな骨が、龍馬の妻―明治39年に亡くなって、その遺言により、妹の光枝によって横須賀の信楽寺の墓以外に分骨されたお龍その人である事を知って、……これもまた話題になる事は間違いない事ではあるが。………………

 

 

 

 

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