月別アーカイブ: 12月 2018

『勅使川原三郎・中原中也・一葉・啄木・……そして森鴎外』

ふと、振り返ってみると、今年はいつになく多忙な1年、怒濤のような1年であった。……2月初旬に、決して目にする事の出来ない筈の遠い過去(明治~大正)の遺構・浅草十二階の煉瓦(想えばタイムスリップのような不思議な時空間の捻れの中に入って)を入手出来た事が、何かの暗示のように今年の幕開けにあり、初春に、ぎゃらり―図南(富山)、画廊香月(東京)と個展が続き、次いで福島の美術館「CCGA現代グラフィックア―トセンタ―」での個展『黒の装置―記憶のディスタンス』展が6月から9月の長期に渡って開催され、重なるようにして、作品集『危うさの角度』が求龍堂から出版され、続いて日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの連続10回目となる大規模な個展『吊り下げられた衣裳哲学』があり、次いで、歴程特別賞の授賞があり、次に本郷の画廊・ギャラリ―884での個展……と続いて、あっという間に12月に入ってしまった。特に5月からは、作品集の校正の日々と、個展の為の制作が重なり、神経の休む間もない集中する日々が続いた。しかし、こだわりに徹した成果として、個展はいづれも反響が大きく、また作品集も好評で、最近では、台湾の美術書を商う書店でも販売されている由。……美術は容易に国を越境する力があるので、美術書の老舗・求龍堂の更なる奮起を、引き続き願うのみである。

 

……さて来年は、3年ぶりに鹿児島の画廊レトロフトでの個展開催も決まったので、都合5回の個展が既に2019年内に予定されており、加えて、ギャラリ―サンカイビの企画で、イタリアの写真家―セルジオ・マリア・カラト―ニさんとの二人展の話もあり、イメ―ジと体力のかなりな放射の年になるかと思われる。……そのためには今は暫しの刺激的な充電の時であるが、それに最高に相応しいものとして、以前から楽しみにしていた勅使川原三郎氏のダンス公演『黒旗 中原中也』を観に荻窪のカラス・アパラタスへと向かった。拝見した結論から云えば、私は酩酊、感嘆の興に強度に酔ったのであった。勅使川原氏は今月初旬に東京芸術劇場で佐東利穂子さんとのデュオを含めた2作構成で、シェ―ンベルク作曲、アルベ―ル・ジロ―の詩に基づく『月に憑かれたピエロ』を、そして『ロスト・イン・ダンス―抒情組曲』(これは佐東さんのソロ)を、音楽と歌唱と対峙するようにして熱演したばかりであるが、日を置かずして、もう新たなる作品創作に取り組み、一転して中原中也のかつてない像を鮮やかに立ち上げたのである。「人間である以前に、先ず何よりも詩人であった中原中也」、ささくれたように挑発的であった中原の、御しがたい言行ばかりが周囲の関わった人によって殊更に伝わっているが、中原の詩の見事な構成力と、その幻視者としての眼差しが産んだ表現の高みを第一に評価して創作された、今回の新作。……闇の中にありありと浮かぶ中原中也の幻像のリアルさ。玄妙な域に達した照明と音楽、そして勅使川原氏自身の朗読という肉声の生々しい相乗が産んだ、1時間という時の器の中に刻印された中原の幻像は、二重写しと化した勅使川原氏自身の肖像のようにも思われる。私は拙著『美の侵犯』の中のMAX-ERNSTについて記した章の中で、勅使川原三郎氏の事を「……私はこの天才が紡ぎ出す巧みな作劇法……」と書き、天才という言葉をなんら躊躇なく使っているが、この断定に狂いはなく、今は更に確信を深めている。美という感性の危険水域、その美の近似値に息を潜めてうずくまっているのは華麗なる毒と狂気であり、それを刈り込む事が出来るのは、過剰な才能を持った選ばれし人だけであり、天才とは、その過剰な才能をもって生きる事を宿命付けられた者の謂であると、ひとまず定義付ければ、勅使川原氏も中原中也もそこに重なって来よう。

 

……想えば、中原中也の詩は、私の若年時の神経の高ぶりと苛立ちと焦り……を冷やす鎮静剤のようなものであったかも知れないと、今にして漸く思う事がある。プロの表現者としてスタ―トする前は、私もまた一匹のささくれた獣のようなものであった。後に自死を選ばれた美術評論家の坂崎乙郎氏は23才時の私の版画を評して「神経が鋭すぎて、このままではあなた自身が到底持たない」と諭すように語り、坂崎氏を評価していた私は、坂崎氏に会った日の帰途の新宿の雑踏の中で、自分の感性を「短距離」から「長距離ランナー」へと自らの意志で強引に切り換えた。また、池田満寿夫氏は「君は生な神経が表に出過ぎている」と、危ぶんだ。……そのような時に読んだ中也の詩は、前回のメッセ―ジで記したランボ―と同じく、私の苛立つ神経をとりあえずは鎮め、結局は更に揺さぶる、そのような存在、詰まりは自身を映す鏡であった。……その頃、『文藝読本』に載っていた中原中也晩年(享年30才)の家が見たくて、北鎌倉の寿福寺を訪れた事があったが、境内の奥深く、鎌倉扇ヶ谷に、まだそのままに残って建っていたのには驚いた。……今は壊されて現存しないが、その家は小暗いまま、巨大な岩陰に押し潰されそうなままに小さく建っていたのが消えない遠い記憶の中にありありと今も在る。

 

……最近の私の関心は、先月に開催した本郷の画廊での個展の事もあってか、本郷の菊坂から西片町辺りに住んで明治を生きた人物……樋口一葉石川啄木、そして、場所は少し外れるが、森鴎外に集中している。日がな、一葉の日記を丹念に読み、御しがたい衝動に吠える啄木の短歌を読み、そこに登場する、例えば浅草十二階の事などに想いが馳せていく、この12月の年の瀬の日々である。その一葉関連の研究書の中に、森鴎外が作った「東京方眼図」(春陽堂から明治40年に刊行)なる、妙な物が出ていて、ふと私の気を引いた。……ずいぶん以前になるが、逗子で流し素麺を一緒に食べた事がある、作家の森まゆみさんの著書『鴎外の坂』の冒頭は、この「東京方眼図」なる物の記述から始まるのであるが、それを見たいと思っていたら、またしても私の神通力が通じたらしく、先日、横浜の古書市で300円という安値で見つける事が出来た。……今の地形と違い、明治40年時の、まだ浅草十二階が、関東大震災で崩れる前の地図であり、十二階の場所とその近くに在った「十二階下」と隠語で呼ばれた、谷崎潤一郎、永井荷風、石川啄木、室生犀星、竹久夢二……等が通い詰めた性の妖しき巣窟の詳しいエリア、また一葉や啄木、宮沢賢治などが、世代を少し隔てて住んでいた具体的な場所、また現在は東京ド―ムであった場所が当時は、陸軍の兵器を保管する巨大な軍事施設であった事などが次々とわかり、地図を眺めていて興味が尽きないのである。そして、この興味の最終の行き先は「森鴎外」という強度にして高次な矛盾を生きた人物へと行き着くのであるが、今は、この強靭な手強い難物に入っていく為の云わば、外堀を埋めている段階なのである。鴎外を通して、現代の我々が見落とし、遂には失って来た物の多々の姿を、透かし視てみたいと思うのである。

 

 

 

 

 

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『詩人・ランボオと共に』

本郷の画廊・ア―トギャラリ―884での、作品集刊行記念展も盛況のうちに無事に終わり、また新しいコレクタ―の方々が出来て、実りの多い個展であった。この地は、樋口一葉、石川啄木、宮沢賢治などが住み、また谷崎潤一郎・竹久夢二・坂口安吾、大杉栄……達が数多く住んだ伝説の宿―本郷菊富士ホテル跡も近く、午前中は画廊の近辺を廻って古の文芸の生まれた背景を確認する面白い時間が持てる有意義な2週間でもあった。

 

その個展の合間に一日だけ画廊の休みの日があったので、横浜美術館で開催中の駒井哲郎展を観に行った。……先に観た友人達から、横浜美術館の展示の下手さ、ルドン・ミロ等のオリジナル作品が駒井哲郎の作品と直に並んで展示されている為に、駒井哲郎の作品が弱く見えてしまった……などという厳しいメールが届いていたので気になっていたが、ようやく観に行けたのであった。そして、友人達からの指摘がまぁ一面では当たっている事に頷きながらも、少し想うところがあった。……駒井さんがルドンやミロ、またクレ―などの作品に出会った時は、今ほどに彼らの作品情報も豊富な時でなく、また画集の印刷も鮮明でない時代であった。その時に駒井さんが見て直感した感動の純度の高さはいかばかりであったかと想う。この、内に荒ぶるものと無垢の精神を宿した、本質的に詩人の感性を多分に持った人は、憧れに似た想いで、彼ら西洋の芸術家の作品を前にして、熱く拝するような想いで接し、またそのエッセンスを得んとして、しかし憧れのままにその域を出る事なく試作したかと思われる。情報もまた黎明期の少ない中で、この不足は多分に表現者として豊かな揺れや解釈の誤解を生んで、駒井さん独歩の物語や表現の独自性を紡いでいき、例えば代表作『束の間の幻影』に結実していったのである。このような、不足な時代の情報への飢餓感は、他には、デュ―ラ―やゴッホに憧れながらも、しかしデュ―ラ―やゴッホには劣るとも、後に切通しの坂の玄妙な幻視を結晶化した岸田劉生に例を見ると同じく、現場主義的な推察がまた比較論的に必要なのである。それを一言で云えば、西洋の精神や感性の強度な硬質さに対し、岸田劉生や駒井さん、また諸々のこの国の表現者の感性はあまりに抒情的であり、ずばり駒井さんの感性の近似値を云えば、美術よりもむしろ文芸の方に近く、福永武彦あたりに着地するかと思われる。

 

……会場を廻って行くと、駒井さんの遺品が幾つか展示されていた。その中に駒井さん愛用の白い帽子があり、私は、あぁ、あの時に駒井さんの横にこの帽子があったというのを鮮明に想いだし懐かしかった。……あの時、それは確か7月の初夏の頃であった。美術館が作成した私の作品図録を開くと、『姉妹』という作品を作ったのは1973年、私が21才の未だ美大の学生の時であった。版画科の作品批評会なるものがあり、助手が「今日は駒井先生はお休みです」と言った。言った瞬間に私は(最早この場にいる意味無し)とばかりに席を立ち、教室から出ていった。残った学生達は唖然とし、他の2名の教授達は私の態度に憮然としたようであった。私は出来上がったばかりの『姉妹』を駒井さんはどう見て、どういう言葉が返ってくるのか、ただそれだけに関心があり、数日後に電話で駒井さんにその旨を話すと、その1時間後に世田谷の自宅から、私が待つ美大の教室に来てくれた。……駒井さんは作品を見て一目で気にいってくれて、手応えのある言葉を話してくれた。……しかしタイトルの話になって意見が別れた。「北川君、この作品のタイトルは何と言うのですか?」と尋ねられたので、私は「『姉妹』と付けようと思います」と話すと、駒井さんは「『姉妹』をやめて『双生児』にしなさい」と言う。「いや、もう決めていますから」と話すと、珍しく駒井さんはニヤリと唇を歪めて「北川君、私はタイトルは上手いのですよ」と、珍しく上からの目線で言ったので、私は「駒井さん、せっかくのお言葉ですが、タイトルなら私も少しばかり自信があります。やはり『姉妹』にします』!!」と、我が考えを通した。……その場所の、暗くて硝酸の臭いがする教室の駒井さんの横に、この帽子があったな……と懐かしく私はそれを眺めた。…………私が拒んだ『双生児』と、私が付けた『姉妹』には似て非なる距離がある。駒井さんの言語感覚が持っている、湿潤な、暗くて重い、つまりは日本の風土にそくした抒情性に対し、私の『姉妹』は非対称的な幾何学的配置で、硬質である事をオブセッションのように要する私の資質の映しであり、何よりも、この『姉妹』は三島由紀夫の小説『偉大なる姉妹』への挑戦として、異様なグロテスクさを孕みながらも、秘めた暗示性の刻印を意図した作品なのである。〈駒井先生!〉……といって、まるでカルガモの子供のように追随する学生や助手が、当時は数多くいたが、数十年とはいえ、生まれた時代が違う人に追随し、その影響下に沈むと、次なる時代に於ける表現者としてのリアリティ―が立たなくなる事を私は知っていた。そして自らを弟子と称する者達に「師を越えられぬ者は愚か者である」と手稿に厳しく記した、ダ・ヴィンチの洞察した言葉が在る事も既に私は知っていた。……私が銅版画の自作に「Comedie-de-soif」という文字(「渇きの喜劇」の意味)を稚拙なフランス語でギザギザと苛立つように刻んだ時に、駒井さんは「君はランボオを読んでいるのですか!?」と、すかさず静かに語りだして来たのも、また心の深部に響く手応えがあったが、しかし、表現者の先人ではあっても譲れないものは譲れない。駒井さんは、私の版画制作時の初期に於ける手応えのある人であったが、私は表現者の一人として醒めた距離を置いていた。駒井先生とは決して語らず、「駒井さん」という呼称を本人の前でも通し続け、駒井さん自身もそれを喜んでいた。……しかし、駒井さんよりも、またこのすぐ後に出会った棟方志功さんや池田満寿夫さんよりも、私は強く意識する人物がいた。銅版画史に残る世界的水準の名作と云っていい、天才詩人アルチュ―ル・ランボオをモチ―フとしたランボオの連作を版画集で刻んだジム・ダインという存在が私に於ける手強い牙城であり、遥かなる高みであった。私はジム・ダインのランボオの版画のポスタ―を室内に貼り、画集がインクで黒ずむ迄に読み返し、このジム・ダインなる天才の表現のエッセンスに迫るべく格闘する日々であった。そして、ランボオは私の表現者としての初期から近年に至る迄、その対象に迫る視点と技法は変わりながらも、長年にかけて挑むに足る牙城であった。

 

2008年の冬に、私のサイトに、フランスから突然のコンタクトが入った。Claude Jeancolasという人からである。……日本でも翻訳本が出ている、アルチュ―ル・ランボオ研究の第一人者で、20冊以上の著作が出ている人である。氏からのメール文には「ランボオをモチ―フとした美術作品を一堂に集めたアンソロジ―の美術書にあなたの作品も載せて、更に生地のシャルルヴィルに在るアルチュ―ル・ランボオ記念館で作品展を開催したいので、ぜひ出品して頂きたい。ちなみに東洋からの選出作品はあなただけであり、出品作家は他に、ピカソ、ジャコメッティ、クレ―、エルンスト、ミロ、メ―プルソ―プ、ジャン・コクト―、ジム・ダイン……である。」と書いてある。最後の方に書かれていたジム・ダインの名を見た時、私は重なるように意識していたランボオとジム・ダインが浮かび「もちろん、喜んで!」という返事を返した。その後に送られて来た、彼がテクストを書くための質問の数々は実に手応えのある文で、日本の美術評論家とは格段にレベルの異なる成熟した知性とセンスの高さを刻んだものであった。……私は各々の質問に丁寧に答え、最後に「アルチュ―ル・ランボオは私において既に客体である」と締めくくって返した。後日、パリのFVW EDITION社から刊行されたClaude Jeancolas氏著作の『LE REGARD BLEU D”ARTHUR RIMBAUD』には前述した作家達の作品と共に私の二点の作品も見開きで掲載され、実に緻密なテクストが各々に配されている。私について書かれたテクストの冒頭は「〈ランボオを理解出来るのは、私たち西洋人だけである〉といった思いを我々ヨ―ロッパ人はひそかに抱いていたが、北川健次の強度な作品は、その考えを覆してしまった」という記述から始まっている。私は永年共に歩いて来たランボオの生地シャルルヴィルの記念館を展覧会に合わせて訪れ、ランボオの生原稿の詩、そして、私が通り抜けて来た20世紀の美の先達の作品が掛けられている館内を学芸員の人に案内されて廻り、牙城として来たジム・ダインのランボオの版画の前を通り、私の二点のランボオの版画作品の前に来た。……メ―プルソ―プ、そしてマックス・エルンストの作品がその近くで展示されていた。

 

……その2年後の2010年、やはりClaude Jeancolas氏の企画で、今度は『RIMBAUD MANIA』と題した展覧会が、パリのマレー地区にある16世紀の遺構、パリ市立歴史図書館で開催された時に選出された美術家は、ピカソ、ジャコメッティ、ジム・ダイン、ジャンコクト―、そして私であり、各々のランボオ作品が展示され、パリの出版社「Paris bibliotheques」から作品集が刊行された。…………ランボオとの長い旅がこれで終わるかと思っていたら、その数年後に、20代からの牙城であったジム・ダインと対面するという機会が突然やって来た。名古屋ボストン美術館で開催されたジム・ダイン展に合わせて来日した本人に、館長をされていた馬場駿吉さんが引き合わせてくれたのである。私はランボオの作品ほか数点を持って会う事となった。ジム・ダインは、ランボオミュ―ジアムで展示されていた私の作品をよく覚えていると語り、私の肩に手をかけて「俺は、パリのセ―ヌ河沿いにある古書店で、この小僧(ランボオの事)の生意気な面構えを見て、作品で抹殺する事にしたのだ!天才詩人ランボオというよりも前に、この顔、この面の皮の厚い顔にたちまち触発されたのだ!!」と語ってくれた。20代の前半に、ジム・ダインのランボオ作品と出会い、そのポスタ―を壁に貼り、何とかその高みに上がりたいと希求して来た人物が、正に今、しかも近代の版画史に残る作品の制作時の秘話を直接本人から語られる日がやって来ようとは……。だから人生は面白い。私が、ランボオはもはや客体であると考え、イメ―ジを皮膚化する試みとしてランボオの顔の皮膜を突き破ったのと同じく、ジム・ダインはランボオの顔を抹殺する事にした。考えてみると、ランボオへの眼差しに於ける視点には近いものがある事を、私は彼自身の生な言葉から知ったのであった。ランボオへのオマ―ジュ、そして彼の詩のイメ―ジの中に溺れるようにして刻んだ版画、そして最後に至った客体としての皮膚化されたランボオの表象の顔。……ランボオとの旅は果たしてこれで終わりを遂げたのか!? ……しかし、私と同じく、ランボオに挑み、ランボオを捕らえんとして、表現者としての初期から意識して来た人物がまだ他に二人いる事を私は知っている。詩人の野村喜和夫氏と、ダンスの勅使川原三郎氏である。野村氏とは、共著での詩画集『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』で共にランボオに迫り、勅使川原氏の場合は、『イリュミナシオン・ランボ―の瞬き』の公演の文章を今年の1月に書いた。自作とは別に今少し、ランボオとは歩みを共にする事になるかも知れないという予感がある。……さてもランボオとは一枚の鏡。私の折々の変遷を映し出す危うくも鋭い一枚の鏡なのかもしれない……と、今ようやくにして思うのである。

 

 

 

(左)北川健次 (右)ピカソ

 

 

(左)ジム・ダイン (右)ジャコメッティ

 

 

 

 

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