月別アーカイブ: 1月 2019

『バックパックに想いを込めて!!』

関東地方はカラカラの天気だというのに、北陸・東北、そして特に北海道は寒波が停滞して豪雪となり、ホワイトアウトによる死者が出たり、連日の雪下ろしで疲れ果 てている人達の姿が報道されて、なんとも痛々しい状況が続いている。……私も雪国の出身なので、子供の時に突然のホワイトアウトで死にかけた事があり、また雪下ろしの大変さも知っている。汗だくで雪を下ろしても、その夜半からはまた新たに雪が降り積もり、絶望的な夜明けがまた待っているのである。しかし、屋根に雪がかかる重さは何トンという負荷がかかっており、下ろさないと屋根が崩れ、そこに住む人は圧死する危険があるので雪下ろしは命がけである。…私はその光景を先日テレビのニュ―スで観ていて、ふと考えるところがあった。

 

……北国の屋根事情は知らないが、だいたい関東の方の屋根の傾斜角度は23度~30度くらいかと思う。そこに雪が降ればやがて積もる。……では1トンの雪がズシリと降り積もったとして、屋根の傾斜角度が何度になれば、雪は自らの重みで斜めにズルズルと滑り落ちていくのであろうか?……もっと屋根の傾斜を鋭くすると、家自体の広さは狭くなってしまう。ならば、屋根を2層にして、降雪予報が出た時に、上の層の屋根を操作で動かし、傾斜を例えば30度から50度へと、あたかも初期のサンダ―バ―ドの映画の基地のように作動させて傾斜を鋭くすると、積もった雪は自らの重みで、左右に滑り落ちていくのではあるまいか?……あまりにも、人々は屋根のイメ―ジを概念的に決めつけてしまっており、雪下ろしは運命と思い込んではいないだろうか。……飛騨の五箇山の藁葺き屋根は、屋根の傾斜が45度くらいあり、かなり鋭い。しかし屋根の素材が藁葺なので雪はそこに降り積もる。ならば、屋根の素材(今はスレ―トが主であり、その表面はザラザラである)を考えて、安価で軽い物にして、しかも雪が根雪にならず、次から次と滑りやすいツルツルの素材にしたらどうであろうか?昔と違い、例えばNASAでは開発の更なる改良段階でたくさんの新素材が生まれているが、いま知恵を搾れば、この難題は解決するのではないだろうか?……屋根の裏側にヒ―タ―の配線をする案は既に考えられているが、価格が高く電気代がかなりかさむというので人気はない。むしろ、屋根の素材そのものに画期的なのが開発されれば、それを考えついた会社は、或いは人は大成功必至であるに違いないが如何であろうか。……読者諸氏よ、小学生のような発想だと笑わないで頂きたい。私はけっこう熱くなっているのである。

 

……さて、実は今回のブログのメインの主題は、前述した屋根ではなく、実は「バックパック」である。日本ならまだしも海外に行くと、たくさんの旅行者が盗難の被害に遭っている。背中に背負ったバックパックのファスナーやジッパーが外されて、中の現金やパスポ―トが抜かれるという被害が後を絶たない。……ヨ―ロッパでは中世から泥棒の学校があると言われる程に盛んであり、その技が巧みである。しかし、性善説を信じるかのように、特に日本人は無防備、無警戒であり、バックパックやカバンから抜きとられる被害が実に多い。……以前にANAの機内誌『翼の王国』の編集部からの執筆依頼でパリに取材に行った際に、ズボンの後ろにしまった私の財布が丸見えであった。空港でそれを見た現地のコ―ディネ―タ―の人から「北川さん、それ間違いなくやられますよ」と言うので、私は「大丈夫ですよ。私の神経の張りは普通じゃないですから」と笑って返したら、「彼らは手品師のような技を持っているのよ」と言われたので「確かに!」とすぐに考え直して、財布を服の下に入れ換えて、事なきを得た事があったが、私がよく行くブロカント(骨董市)では、背負ったバックパックに「もしや……」の神経がいって十分に楽しめない。私は今まで全く無事であったが、バックパックから抜かれた人達をずいぶんと見て来たものである。

 

ここ数年来、私はカバン店に入る度にバックパックで探している物がある。……それは、両肩に背負って、背中に面して接する側(つまり、バックパックの裏側に中の荷物を出すファスナーが縦に長く入り、目に見える表側には、見せかけのファスナー〈つまり、ダミ―〉が幾つか細かく付いている)バックパックである。海外に行った際に必要なのは、お洒落なデザインでなく、実践的な防御に徹した物に限るのである。そういうバックパックがあれば、受難からも免れる可能性が高く、またスリがバックパックの表側のファスナーをそっと開こうとしても開かない光景を考えることは愉快なものである。…………そういう実戦的なバックパックがないかと探しているのであるが、これが全く見当たらない。お洒落なコ―ナ―でなく、専門のトラベル用品の店に行っても皆無である。……海外の旅に詳しい友人達に聴いても、見たことがないが、あったらぜひ買いたいね!……それは海外の旅の経験が深い人達ほど間違いなく売れるよ!と言うのだが、なぜか皆無である。だから、私はこのブログで提案するのであるが、このブログを読まれた方で、即、行動力があり、またまとめて現金収入が欲しい人がおられたら、私がいまブログで書いたバックパックの形状内容を幅広く詰めて書いて、すぐに「実用新案登録」の申請登録を先ず固めて、次に「実用新案技術評価書」を取得し、権利を固めてから、カバンの企業に持ち込んで、個数による印税でなく、そのアイデアごとまとめて売れば、「ここに早めの春来る」かもしれないのである。……先行しての出費のリスクもなく、やってみる価値はあるかと思う。ただし、間違っても弁理士に相当の代価を払って「特許申請」の方向性はやらずに、商品の意匠に関する「意匠登録」の方向でやってみて頂けると慶賀かと思います。「そんなに良い話なら何故、自分でやらないのか!?」というご意見もありますが、私は、オブジェの制作に没頭の日々であり、もともと現世欲が薄く、ただ、私は出来上がったそのバックパックが欲しいだけなのであり、毎回、私のブログを読まれている方々への感謝プレゼントのつもりで、今ここに書いている次第。……「へぇ~」と読み過ごすもよし、「おぉ、一丁やってやるか!!」もよし、とにかく私は、海外での見物や撮影に集中したい為にそういうバックパックが欲しいのであります。……先日、用があって新宿に行った際に、あるデパ―トのカバン売り場の人に、「……こういうバックパックは無いだろうか?」と話したら、実に驚き、「全く発想していなかったアイデアですが、それは売れる可能性が高いですね。私が買いたいくらいです。……さっそく会議に提案してみます!」と言っていたので、動き出しているかもしれないが、このアイデアがかなり的を得ている事だけは、何人かに話した直の反応から手応えは十分である。この世は実に夢うつつ。遊び心と本気を入り混ぜて、試しに動いてみるのも一興かと思います。

 

 

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『本郷界隈』

世の中はおしなべて、やれオリンピックだ!、やれ平成の次の年号は何だ?と、メディアに乗せられてかまびすしいが、もし本気で熱くなっているのがいるとしたら、それはよほど阿呆であるか、過剰にセンチメンタルな人間であろう。誘致には賄賂が常識になっているオリンピックの裏の真実―スポ―ツに名を借りただけの拝金ビジネス。西暦と元号(年号)がダブって2つあるという、この面倒な年号制度。新天皇が即位すると改元する「一世一元の制」になったのは明治政府になってからで、察するに山県有朋あたりが「象徴の設計」を目論んだ事に拠るかと思われるが、それ以前は信長や徳川幕府が制定に強く介入しており、この面倒な元号制度の視点から歴史を視ていくと、思いの外に闇が深い。いずれにしても、元号とは概念に過ぎず、平成が終わっても、平成、昭和……と同じく東から太陽がのぼり、環境破壊は加速して深刻となり、AIの不気味な進化によって、人心は渇き、人生から豊かな物語はますます薄くなり、AIの全的な普及によって弾かれた人が爆発的に溢れて雇用問題が暗い影を深刻に落としていく、……ただそれだけである。

 

世の多くの人々の関心は次なる時代へと向かっているようであるが、最近の私はと云えば、ますます昔日の「濃密にして、かつ緩やかに時間が流れていた時代」へと、つまりは抒情を追い求める意識が向かっている。……昨年の秋に本郷の画廊で個展を開催したのも一つの大きなきっかけであったが、年末から最近にかけて、明治・大正・昭和前期の面影をいまだに残している、坂の多い本郷界隈を、制作の合間をみては歩く日々が続いている。……樋口一葉、宮沢賢治、石川啄木、そして鴎外、漱石……といった文豪達の目線と重なるようにして、ひっそりと息づく本郷の界隈を、足の向くままにひたすら歩くのである。そして夜は樋口一葉の書き遺した日記や、啄木歌集を読み耽り、明治中期の空気や音を、そして一葉や啄木の、近代という岐路に直面した表現者としての自立した意識と諦観に触れる日々が続いているのである。………しかし、今から遡る事36年前の1983年の暑い夏の盛り、私よりかなり早くに、この本郷界隈を末期の鋭い眼で歩く人物がいた。……昭和の絵師と云われた、劇画家の上村一夫(1940―1986)である。この地に在った本郷菊富士ホテル(注・画像掲載)を舞台に、そこの住人であった、谷崎潤一郎、大杉栄、伊藤野枝、竹久夢二、モデルのお葉、芥川龍之介、佐藤春夫、斎藤茂吉、菊池寛、そして縛り絵で知られる伊藤晴雨……といった、かなり強度な人物群像と、大正の病んだ抒情を絡ませて描いた名作『菊坂ホテル』と、夭逝した天才作家・樋口一葉を描いた『一葉裏日誌』の構想を得るために、癌で病んだ身体を静かに鼓舞しながら、この坂の街を巡って、昔日の東京の名残を透かし視ていたのである。『一葉裏日誌』の巻末で、「……上村一夫が死んで、〈絵師〉という言葉は死語になる。……1月11日午前1時、朧絵師・上村一夫は手品みたいに、1のゾロ目を並べてみせて、あの世とやらへ飛んで行った。」と、作家の久世光彦(1935―2006)は書いているが、つまり、過去を追う視線とは、耽美な世界を追う視線と何処かで結び付いているようにも想われる。……昨今の、薄く軽く、決して深くは掘り下げない時代に、もはや美の呼吸すべき場所はない。美は昔日の中で今も確かに艶やかに息づいているのである。……『菊坂ホテル』は劇画であるが、その体を借りた、見事な文芸作品である。そして、私が偏愛してやまない浅草十二階(通称・凌雲閣)の存在が、不気味な暗い韻を放って、この『菊坂ホテル』の展開に怪しく関わってもくるのである。……まだ未読の方にはぜひお薦めしたい、これは一冊の奇書である。

 

 

本郷菊富士ホテル

 

 

旧菊坂町

 

 

 

樋口一葉・旧宅の跡

 

 

宮沢賢治旧居跡

 

 

一葉が通った質屋

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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