月別アーカイブ: 5月 2020

『コロナ夜話―〈梅雨入りのその前に〉』

先日、木版画家の山中現さんとお茶の水駅で待ち合わせをして、一緒に聖橋にさしかかると橋上がたくさんの人群れで正に密な状態であった。しかも皆が空を熱心に見上げているので問うと、ブルーインパレスがまもなく飛来してくるという。見ると、蒼穹に白い曲線を描いて飛来してくる、その姿があった。医療従事者への感謝と激励を込めたパフォ―マンスとの由。閉ざした閉塞感漂う昨今にあって、それは一服の涼として心地好く映った。

 

 

 

 

知人宅で話をしていると、その人が思い出したように「そう言えば、先日、突然マスク(いわゆるアベノマスク)が届いた」と言って見せてくれた。手に取って見ると、確かにかなり小さいのには驚いた。女性でも小さく、どれくらい小さいかをわかりやすくタレントに例えて云うと、渡辺直美だと紐が耳に届かず、高橋英樹やコロッケだと、まぁ、唇が隠れるくらいか。……しかも、古びた臭い匂い。廃屋の湿った匂いにそれは近いか。

 

さて、そのマスクに関してであるが、トランプとプ―チンだけがマスクをしていないのは面白い共通点だと常々思っていた。。しかも新型コロナウィルスに二人とも何故か罹っていない。大国のリ―ダ―に課せられた強者としての演出は御苦労な事だと思っていたが、気合いなのか、自分が強者だという盲信が免疫力を生んでコロナウィルスをも弾いていたのかとも思ったりしたが、何の事はない、人前ではしていないが、裏では秘かにマスクを愛用しているというのがわかった。しかも、トランプは「ヒドロキシクロロキン」という免疫疾患治療薬を愛用している由。しかし、これがかなりの副作用のリスクがあるという。側近は危険だと言って止めさせる事に必死であるというが、まぁ本人が望むのであれば、それはそれで1つの貴重な、まさしく活きた臨床実験の好例にもなり、結果的にこの危機を突破する何らかの貢献に寄与するかもしれない。全身が既にして副作用の固まりのようなこのトランプという男の今後を、その意味で私は注視していこうと思っている次第である。ともあれ、トランプもプ―チンも、リ―ダ―としてのカリスマ性を演出する為に必死であるが、しかし、振り返って我が国に目をやると、本物の強度なカリスマ性を持った二人の人物がいた事に気付き、改めてその凄さに慄然とするのである。その二人とは、織田信長と上杉謙信である。

 

……信長と謙信には共通点が多い。先ずは戦の勝率が圧倒的に高い事。謙信は71戦中、61勝2敗8分け。一方の信長もまた高く、84戦中、58勝19敗7分けとその勝率は群を抜いている。また、戦の際に、大将たる者は家康や秀吉のように安全な位置で籠に乗り、回りを屈強な武将達が固めて挑むのであるが、信長と謙信だけは例外で、先陣の先頭に自分がいて真っ先に敵陣に斬り込んでいくというから素晴らしい!!。謙信は、毘沙門天(武運の神)が自分を守護しているという狂信的なまでの信念があり、信長に至っては、自分こそが絶対神であるという、これ以上はない信念を鎧として生きた人物である。歴史を絞って視れば、この二人だけが、真のカリスマ性を持ったリ―ダ―の条件というものを持っていると云えるのであり、その背景には、時代の緊張感の凄みというのが、その母胎となっているのかもしれない。

 

 

……さて、ここにチクと面白い画像があるのでお見せしよう。……この画像は山形県天童市の三宝寺が所蔵している「織田信長」の肖像画である。(原画は焼失して無いが、その焼失前に写した同様の絵が、三宝寺以外に宮内庁にも在る)……一見して、私達の知る線描の信長の画像と違うので、そのリアルさに驚かれ、かつ戸惑われるかとも思うが、この肖像画はルイス・フロイスと共に実際に信長に謁見した宣教師が正に同時代に描いた物で、実は織田家の御墨付きも得ている貴重な肖像画である。蛮社の獄(1839年)で刑死した文人画家の渡辺崋山辺りから、ようやく西洋画に迫るリアルな描写が我が国にも出て来るが、その前はご存じのとおり様式化された線描画であった為に、その迫真性が伝わって来ないのが難であった。しかし、この絵は実際に信長を見た、西洋のリアリズムを熟知した、宣教師にして画家であった人物が描いた物であるが故に、私達の想像力とイメ―ジの芯を突いてくる不気味な迫真性を帯びてはいないだろうか。……私がこの信長の肖像画の存在を知ったのは、ビエンナ―レ展に出品する為に打ち合わせで行った際に立ち寄った、近江八幡市安土町に在る「滋賀県立安土城考古博物館」を訪れた時であった。展示してあったのはコピ―であったが、一見して私は直感的に「この顔に間違いない!!」……そう確信した。私の中に詰まっている信長に関する知識(最も記述の信憑性が高いと云われる信長公記を主とした)と、ありありと照応するものを、この肖像画は多分に孕んでいる、……そう私は想ったのである。……コロナウィルスから転じて信長へと話が移ってしまったが、まぁ、自粛のこの時期、少しでも興味を持って頂けると、ブログの書き手として有り難いのである。

 

 

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『ヴェネツィアの水と夢』

……前回のブログで、コロナウィルス感染者ゼロの岩手県の不思議について書いたが、考えてみるとこの騒動の渦中にあって、現在もなお一人の感染者も出ていない岩手県の気丈とも云える異色な存在は、ある意味で死中に活を見るような一つの希望的存在であったような気がする。岩手県だけ何故感染者がゼロであるのかという謎は謎のままに、ある視点から見れば、新型コロナウィルスという敵にも死角のある事が、そこにうっすらと透かし見えたからである。……想えば、岩手はかつては平家の中央集権と離れて独自で強靭な藤原三代の栄華を咲かせた、正に独立自治の気概に富んだ地であり、また不思議な話に充ちた『遠野物語』の舞台でもあり、石川啄木、宮沢賢治、松本竣介……といった、私の好きな今だ色褪せないモダンな感性と豊かな詩心を持った特異な表現者を輩出した地でもあり、私はこの岩手という所が最近ますます好きになってきているのである。……さて、コロナウィルスは少しずつ最初の収まりを見せつつあるが、必ずや第二波が再び襲来する事は必至であろう。その時もなお岩手県が感染者ゼロを維持しうるのか否や、私は注目していたいと思っている。

 

……最近の私はかなり早起きになり、朝のBBCニュ―スを観るのが毎日の日課のようになっている。そのニュ―スで面白いものを観た。……恒例のカ―ニバルを途中で中止して、正に戒厳令の監視下にあるように観光客が絶えたヴェネツィアの運河の水が自浄作用が働いて綺麗になり、画面からは水中深くで生き生きと泳ぐ魚影の姿が映し出されたのであった。……今まで4回ばかりヴェネツィアを訪れた事があるが、運河の水はかなり汚く、夏の臭いは特にひどく、正に廃市の感があった。しかし画面に見るそれは人が絶えた事で生じた奇跡のように私には映った。…………その映像を観ていて、ずいぶん昔に見た或る夢の事を思い出した。…………廃市のように人が絶えた霧のヴェネツィア。その運河の水面を私が乗った黒いゴンドラが滑るようにして或る館の中に入っていく。……運河の水が異常に増した為に、この地の人の姿が全く絶えたのか、他は無人、唯私一人だけがゴンドラに乗っているのである。しかしゴンドラを操る漕ぎ手の姿もなく、ただ私を乗せたゴンドラが何かの強い磁力に引かれるようにして、嘗ての栄華を極めた或る館に滑りこんでいくのである。その暗い館に滑り入ると、全くの静寂の中、大きなガラスケ―スが何かの暗示のようにして対置して置かれていて、そのガラスの中を見ると、あろう事か、何故かダ・ヴィンチとミケランジゥロの素晴らしい素描が全くの無人の静寂の中で展示されているのであった。……私は陶然とした気持ちのままに、ただ、それらを眺めているという夢であった。……しかし、この夢は一種の予知夢であったらしく、時を経てやがて現実のものとなった。ロンドンの大英博物館の別館にあるルネサンスから近代迄の素描を集めた研究室で、日本からの美術の在外研修員として訪れた私は、夥しい数のダ・ヴィンチとミケランジェロの素描を白い手袋をはめたままに、じかに手に持って存分に見る事が叶ったのであった。ガラス越しと違い、自分の掌中にあるそれらは、不気味なまでの生々しい迫力を持って私に迫り、その体験から吸収した事は実に多いものがあり、著作の中でもそれを記した事があった。……さて話を始めに戻すと、人が絶えた事で生じた奇跡とも云える自然界の自浄作用で、この汚れた環境はかくも早く元に戻るのか!という驚きと、今一つの不気味がそこにあった。……もし、人類が絶えたら、長年の環境破壊によって、もはや死に体となりつつある地球の生成と死はその自浄作用によって……という、ある種の苦さと、然りという想いが交錯する感慨を私は抱いた。この想像の果てに辿り着くのは、ポエジ―の本質かと思われるが、その事を暗示してやまない、実に奇妙なものがそこにあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『岩手独立共和国』

……思い返せば、新型コロナウィルスの感染者を多数乗せた、あのクル―ズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が横浜港に寄港した2月初旬頃には、この新顔のウィルスなるものは未だ対岸の火事として映っていた感があった。それがポツポツと拡がりを見せはじめ、この新型コロナウィルスの恐怖はアッという間に拡がり、日本は、そして世界は一変した。自分には及ぶ事はないと誰もが最初は軽く高を括っていた感があったが、この侵犯力の凄さは、かつてのヒトラ―の出現とナチズムの席巻力とちょっと重なるものがある。ここ最近で20万部のベストセラ―となったカミユの名著『ペスト』は、ペストの恐怖を題材としているが、その実はナチズムの恐怖を現している二重の主題が在る事は周知の通りである。……その不気味さは時と姿を変えて、あたかも魔群の通過のようにして繰り返しやってくる。

 

 

 

 

さて、昨今の国内の騒動を見ていると、そのスケ―ルと人材の器の程は全く比較にならないが、構図に限ってみると、何やら幕末時の日本と重なるものがある事に気がついた。……ウィルスを、突然浦賀に来航した黒船に見立てると、その出現で右往左往する幕府が今の政府。その慌てぶりと無策ぶりに、例えば吉村洋文大阪府知事のように、各県が見切りをつけて自らが主張をし始め独自な舵取りを始める様は、外様の各藩から出て来た倒幕の志士にちょっと重なるものがある。そして、感染者がゼロの岩手に目をやると、全く外部の者が侵入出来なかった薩摩藩にちょっと重なるものがある。幕府からの間者や他藩から薩摩に侵入を試みた者は、二重三重に配置された国境警備の薩摩の腕利きの武士によって全員が始末されたのである。土佐を脱藩した後の2年ばかりの行動に謎が多い坂本龍馬は、一説によると、この薩摩に興味を持ち山越えをして入国を試みたが遂に果たせなかったという。ことほど左様に全く無風にして謎が多いのが薩摩藩であり、この度の全く感染者が出ない岩手県の不思議といささか重なるのである。ただ当時の幕府には先導者の勝海舟がおり、早々と議会制の導入を訴え大政奉還を誰よりも早く発案した大久保一翁といった先見の明を持った人材がいたが、今の政府は悲しいかな人物が皆無である点がだいぶ違う。また各県の知事においても、突出した人材が殆んど無いのが今の日本の現実である。……さて岩手、この全く感染者を出さなかった県に大いに関心を持つ私は、岩手県・盛岡市で画廊を経営しておられる下館和也さんにお電話をして、直接その謎について伺った。下館さん明るく笑いながら曰く「岩手の人は我慢強いですからね」という意表を突く答えが返って来た。う〜む、何かありそうだな……岩手の人しか共有していない何か秘密でもありそうな。……私は話の角度を変えて、「まるで岩手だけが独自な共和国のようで、かつての榎本武揚が北海道を新政府に対抗する為に、国際法に照らし合わせて諸外国に共和国の申請と認知を主張したのを思い出しますよ」と話すと、下館さんも榎本武揚のその構想の話を知っていて、「共和国と云えば、作家の井上ひさしさんが小説『吉里吉里人』で、それを主題にしたのを書いていますよ」と教えてくれた。……おぉそうであった。私はその本は読んでいなかったが、話の大まかな筋は知っていた。確か、東北の一寒村が、日本政府に愛想を尽かし、突然、この国からの独立を宣言する話であったが、その舞台が宮城と岩手の県境の架空の村であった由。この小説は映画化の構想はあったが実現されなかったらしい。思うに、今この小説を原本として今の日本に舞台を移し変えた映画を作れば、日本政府に愛想を尽かした国民のカタルシスに響くヒット作の可能性があるかと思うが、脚本を作るなら、やはり三谷幸喜あたりに指を折るか!?……ともあれ、下館さんは岩手の感染者ゼロの謎については言葉を曖昧にして真意を遂に語ってはくれなかったが、やはり何かあると私はますます睨んでいる。しかし情けないかな、いま脳裏に浮かぶのは「わんこそば」か「盛岡冷麺」の存在しかないのである。…………

 

 

 

 

 

 

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『冥土 in japan 』

……今回は物騒なタイトルから始まった。西洋では「Mement mori(死を想え!)」という警句があるが、日本語ではこれに似たような言葉はあまりない(少なくとも今は浮かばない)。……とまれ言葉は無くとも、この3月辺りから、新型コロナウィルスに扮した死神らしき者が私達の周りで死の舞踏を踊っている気配で、否応なくリアルに死を想う日々を過ごしている昨今である。この数ヵ月ほど、彼の世と此の世が実は地続きで、ほんのちょっとのモメントで死が隙間から覆い被さってくるという恐怖感覚を味わった事はなかった。それと昨今の地震の多発化が相乗して、この日本が何やら冥土へと斜めに滑り落ちていっているような、そんな暗くて不穏な「冥土in japan」なる日々である。

 

 

 

 

昔、まだ学生の頃の話であるが、神楽坂の友人宅にいた時に、その友達なる人が来た。その人はその世界では知られたパチンコの名人(つまりパチプロ)で、パチンコ店に行く時に決まって無一文の手ぶらで行き、帰りは稼いだかなりの現金を手に洋々と帰っていくという。……店に入るや、彼は床に落ちているパチンコ玉を1つ拾い、台を決めて静かに腰掛け、必ずその1発の玉でチュ―リップを開かせてから、プロの釘師と自分との闘いが始まるのだという。パチンコ台がコンピュ―タ化された今と違い、昔は名人と呼ばれる渡りの釘師がいて微妙に釘の角度を調節し、それをパチプロなる人がいて、両者の無言の闘いが行われていたアナログの時代だから、突き詰めれば一種の美学とも云えるものが成り立っていた(かと思う)。先日テレビで見たパチンコ狂いの客達は決まって貧相で、なんとも情けないに尽きる感があったが、想えばその時のパチプロなる男は一匹狼とも云える孤独な陰りがあり、今も記憶に何故か残っている。しかし機械化された今は、止める事が出来ない麻薬患者よろしく、自分の意思というよりは仕掛けられた店内の過剰な騒音などにより脳内モルヒネの分泌がパチンコ狂い達の弱い精神を突き動かし、自粛騒動の中を開いている店を求めて、あたかも薬中毒の患者のように延々と流浪しているのである。……「何もする事がないんだよ、いいんだよ俺は、パチンコさえ出来ればコロナで死んだっていいんだよ!ほっといてくれよ!!」歯が数本抜けた、そんな男達の(更に感染を増やす危険性が多々ある)姿を見ていて、ふと浮かぶものがあった。……何台ものパチンコ台、業者と共に彼らを無人の離島か、廃校になった學校の校舎に仮住まいさせ、お望み通り、パチンコ狂いに興じさせるのである。もちろん食事は有料で給される。しかし、彼らは入ったら最期、自分の意思で出る事は許されない。感染が収束するまでは各県の徹底した管理下におかれるのである。……収束後にテレビ局の人が取材でそこに入って行くと、そこにはウィルスにやられた悲惨な光景が映される。しかし彼らの顔を充たしているのは、病んだ脳からの命令とはいえ満足しきった至福に充ちた表情が浮かんでいた、……という結末である。

 

 

 

 

 

……最近、強く印象に残っている事がある。それは、日本と違い徹底した外出禁止令の中、死のリスクを背負いながら必死で医療に励む病院の医療関係者、患者達、……そして市民をあまねく励ます為に鳴らされた、パリのノ―トルダム聖堂から奏でられた、あの巨大な鐘の崇高なまでの響きであった。昨年の火災で自らも傷つきながら、荘厳に鳴り響くその音は、一神教の徒ではない私でさえも奮わせられるものがあった。……昔、パリに滞在していた時に聴いた、下宿の屋根裏部屋の天窓から聴こえてくるサンシュルピス教会の鐘の音、或いはブリュ―ジュで聴いたカリヨンの鐘……他、何れも聴覚に忍び入って来て内なる琴線を揺らし鼓舞してくれるものがあるが、やはり、ノ―トルダム聖堂のそれは圧巻であった。魂が天上的なるものとリンクして、精神がバネと化し力が湧いて来るのである。……文句なく美しい、そう思った。そして思った。日本の鐘はこういう場合、どう響くかと。例えば、テレビを観ていてそのノ―トルダム聖堂の鐘の響きに感動した寺の和尚がいて「よし俺も!……」と熱く思って鐘を鳴らしたら、どうそれは響くか!?……この比較は面白いと思った。西欧の乾いた気象の下で聞く硬質な鐘の音色は、天使の羽根の如く天上へと私達をして導いていくのであるが、日本の寺の鐘は、(除夜の鐘だけは過ぎ去る年を想って感慨深いが)むしろ逆効果であろう。精神を鼓舞するどころか、ゴ~ンと、湿った空気を抜けて響いてくるその鈍くて重い音は、限り無く冥土への誘いとして響いてくるに違いない。時期も時期。下手に鳴らすと、神経過敏な近隣の住人から「縁起でもない、何を考えているんだ!……不気味で気色が悪いからヤメロ!」と抗議が来ることは必至であろう。…単なる鐘の音のマチエ―ルの比較であるが、この発想は、そこに現実の新型コロナウィルスの問題を具体的に挟んでみると、はっきり違いが見えて来るのである。……そう、私は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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