月別アーカイブ: 7月 2020

『谷中幻視行―part①』

……二月頃から、アトリエに籠ってオブジェの制作の日々が続いている。しかし、発想の転換や充電も兼ねて、時折は行きたい所に出かけてもいる。ここ連日続いていた長雨がその日は止んだので、これ幸いとばかりに日暮里から下車して谷中への散策をする事にした。……日暮里は、「日暮しの里」という言葉が語源である。その名が示すように夕焼けが美しく、震災前までは、この高台からはかつては素晴らしい眺望が見えたらしい。蛍が出て、この地から根岸にかけては多くの文人墨客が住んでいた。

 

さて、日暮里駅を出て御殿坂を上がるその途中に、すぐに本行寺(別名・月見寺)という大寺がある。小林一茶も句を詠んだこの古刹には、先ずは目指す永井尚志(若年寄)の墓がある。幕臣中随一の切れ者であり、大政奉還の上奏文を書いた人物である。しかし、とてつもなく広い墓地なので、その場所がわからない。……「御免下さい」と言って寺内に入り、奥から出て来たご住職に問うと、塀沿いの最奥がその墓であるという。「永井尚志の子孫に、永井荷風と三島由紀夫がいますね」と言うと「そうです。この三人は繋がっています」との返事。「何故、永井の墓がこの寺にあるのですか?」と問うと、「この寺の開祖が初代江戸城を築いた太田道灌で、永井はその子孫になります」との答え。……と言う事は三島由紀夫、永井荷風の先祖が太田道灌に結び付く訳で、これは知られざる「ファミリーヒストリ―」として勉強になった。ちなみに言えば,藤原鎌足にそのルーツが辿り着く。……ご住職は、私の質問に響くものがあったのか、帰り際に茶菓子を「持っていきなさい」と言って手渡してくれた。……令和の今と隔絶して江戸・明治の時間が止まったままのような深い趣のある古刹である。

 

 

 

……その隣の寺が経王寺。幕末の上野戦争で彰義隊の分屯所があった場所であり、その史実を映すように、入口の山門には官軍が撃った弾痕がいくつか生々しく残ったままである。穴に指を入れると、中指が丁度すっぽりと入ったので、それから官軍が撃った弾の大きさが見えてくる。

 

さて、その隣が延命院。樹齢六百年という椎の木を見ながら本堂の方に進むと、目立たない右陰にひっそりと建つ古い墓が一つある。墓の主は「行硯院日潤聖人」。享和の初め頃に、江戸城の奥女中や商家の内義、その数およそ60人以上……を惑わし、祈祷と称してかなり淫らな色事に耽ったという悪僧、いわゆる延命院事件の主役、住職日潤の墓である。やがて寺社奉行の捜査が入って露見、後に死罪となっている。この事件は後に河竹黙阿弥の『日月星享和政談』で芝居にもなった由。……前回のブログに書いた怪僧ラスプ―チンや道鏡、また以前のブログで書いた鎌倉尼寺の尼ばかりを狙った怪僧と言い、困ったものであるが、まぁ話としては面白い。その墓をじっと見た後で写真を撮る。……「夕焼けだんだん」を下って、谷中銀座の蕎麦屋で、谷中の名物と言えば谷中生姜なので、生姜、海老の天麩羅が入った蕎麦を食べ、最も気になっていた次の場所へと向かった。

 

 

 

延命院と経王寺の間の路を石塀に沿って歩く。長谷川利行、いずみたく、橋本関雪……達が住んだ路を、その先、諏訪神社の方に私が目指す「太平洋美術研究所」があった筈なので、その跡地を目指して進むと、幻覚なのか、……「太平洋美術研究所」の看板がありありと見えて来たのには驚いた。……実は、この「太平洋美術研究所」、美大に入りたくても貯えがない家庭に育ったので、美大を諦めて、ここに入ろうかと真剣に考えていたのが16才の高校生の頃であった。あの頃は中村彜や佐伯祐三にのめり込んでいた時期である。…………しかし、この太平洋美術研究所は明治の初期は、黒田清輝の白馬会と洋画界を二分する存在であり、初期の学生に坂本繁二郎、朝倉文夫、川端龍子、後に中村彜、中村悌二郎、……長沼智恵子(後の高村智恵子)などが学んだ研究所であり、私の狙いはそれほど間違ってはいなかった。ただ、あまりに時代の読みを間違っていた。……なにしろ、東京の国立という地名を知らず、夏期講習会のチラシを見て、国立(くにたち)美術研究所を、「こくりつ」の研究所と思っていた、そんな具合なのであった。もうとっくに無いと思っていた建物が、まるで私を待っていたかのように、幻のように眼前に在るのを見て、私は感動してしまった。……もし親が美大行きを許可しなかったら、私は上京して谷中近辺に下宿をして、ここに来た可能性が多分にあったのである。玄関のチラシを見ると、「高村智恵子が描いたデッサンが二点発見さる!!」と書いてあり、私はしげしげと見入った。……そして、扉を開けて中に入ると、奥から絵描きらしい人が出てきたので、「実は、昔、ここに入りたかったのですよ!」と言うと、「今からでも入れますよ!」と親切に言ってくれて、「二階が雰囲気があるので、良かったらご覧になりませんか?」と言って二階に通された。扉を開けて驚いた。松本竣介も時おり来て描いていたという、戦前の面影を残したままの画室がそこにあったのである。

 

後で帰ってからじっくり森まゆみさんの本を読むと、果たしてその画室の事が書かれている文章を見つけた。……「古びた灰色の建物の中を、ギシギシいう木の階段を上り、そうっとドアを開けると、薄暗い画室で何人かがキャンバスに向かっていた。O.ヘンリ―の『枯葉』を思わせる、油彩の臭いが漂う独特の雰囲気がある場所である。」と書いてあった。……帰りに、もう1度、その絵描きらしい人が「良かったら、是非!……いつでもお待ちしていますので!」と言って、案内の要綱を詳しく書いたチラシを渡してくれた。……歩きながら私は考えた。……もしここに入っていたら、後の私の人生は果たしてどうなっていたであろうか。……ほんのちょっとのモメントや偶然で、人の一生なんて大きく変わってしまう。……だから人生は面白いのだと。

 

さて、私が次に向かったのは、今日の本命の谷中墓地である。……私は以前から、この墓地の中を自転車に乗って、時に風のように飄々と。また時に、周りの誰も知らないもう1つの全く別な顔をして鋭い目付きで人生を送っていた、一警察官の足取りを追っていた。それを今日は詰めに来たのである。……その為に、私は墓地の中に在る派出所にも行かなければならないのであった。

 

…………次回part②に続く。

 

 

 

 

 

 

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『ラスプ―チンの忘れ物』

……先日、谷崎の『細雪』や、川端の『雪国』などの翻訳で知られるサイデンステッカ―の著書『東京下町山の手』を読んでいたら面白い事を知った。幕末の1858年頃から感染が広まったコレラ(通称コロリ)は、当時、長崎港に停泊していたイギリスの船から広まった由。今年2月に新型コロナウィルスの感染者を多数乗せて、さ迷える幽霊船のように横浜港に長期停泊していたクル―ズ船と同じパタ―ンであり、やはりイギリスの船であった。まさに歴史は繰り返すを地で行く話である。……さて、その幕末のコロリの流行であるが、当時「試衛館」という剣術道場を経営していた道場主の近藤勇はハタと困ってしまった。コロリの為に入門者が途絶えてしまい経営が行き詰まってしまったのである。周りは次々と感染者が出て、死者が絶えないのであるが、不思議な事に、この道場の食客としてごろごろしていた、土方歳三、沖田総司、永倉新八、山南敬助……達、天然理心流の凄腕の連中(後に新撰組の原型となる)は全く感染する気配もなく、ただ、この後、どうやって食べていくか?……だけを憂いていた。あくの強い連中には、コロリ菌の方から避けていたような節がある。そして彼らは、徳川家茂の上洛警護をする幕府の「浪士組」募集に応募し、活路を求めて京都へと向かった。……やがて、京都でこの連中から暗殺される運命にあった、あくの強さと強烈なキャラを兼ね備えていた芹沢鴨(水戸藩浪士・後に新撰組初代筆頭局長)もまた活路を求めて運命の転げ坂を辿って、地獄へ引き寄せられるように京都へと向かった。……その後の顛末は読者諸兄のご存じの通りである。

 

…私は覚えている。……あれは私が18の暑い夏であった。美大に入った私は、ふと西陣織の職人にでもなろうかと思って大学の夏休み時に京都へと向かった。……しかし、駅に着いて私が直ぐに向かったのは何故か西陣ではなく、壬生であった。この地に残る新撰組発祥の地、彼らの宿舎(屯所)が今もそのままに遺る八木源之丞邸を見に行ったのである。その当時は今のような新撰組ブ―ムは未だ無く、訪れる人もさほど無く、また屋敷は非公開の為に門が閉まったままであった。……歴史好きな私は熱い感動のままに大きな屋敷の周りをぐるぐる廻っていた。……すると、門が突然開き、中から八木家の子孫とおぼしき初老の方が出てくるところに偶然遭遇した。一瞬閃くものがあり、「……私はまだ学生ですが、大学で幕末の歴史を頑張って研究しています!」と言った。(もちろん、美大に幕末史の講座などはない)……すると温厚そうなその方は「もしよろしおしたら中に入りませんか?」と気軽に言ってくれて、私を八木邸の中へと導いてくれた。〈私は肝心な時に、こういう人との導きのような出会いが実に多い〉……100年以上もずっと非公開の為ゆえか、広くて薄暗い屋敷の中は幕末の頃の空気がそのままに残っているような張りつめたリアルな気配に充ちていた。……「そこの火鉢、土方はんや沖田はん達が、寒い冬の日に囲んでいたそのまんまや言うてました」……幾部屋かを巡って離れに行くと「ここで、この文机に芹沢はんが躓いたとこを斬られたんですわ」。「この鴨居にも、こんな深う刀傷が付いてますやろ」……私は「…確か、お梅(芹沢の愛妾)も一緒でしたね」と言うと、ご当主の八木さんは手応えを覚えて熱が入ったらしく「可哀想にお梅さんは、たぶん沖田はんや思いますけど首をはねられましてな、昔はこの天井にそのお梅さんの血が噴き上げて、えろうぎょうさんかかってしもうて、まぁその後もずっとそんままでしたが、来た嫁がえろう気持ち悪がって、仕方おへんから弁柄(べんがら)で塗ってしもたんどす」。……「一緒にいた芹沢の仲間の平山(五郎・通称めっかちの平山)はんは斬られましたが、まぁ運が良かった言うんでしょうなぁ、野口、平間いう人は真夜中に芸妓と一緒にここから走って、畑の向こうに消えていったと聞いてます」。……私は深夜に畑の向こうに必死で逃げていく野口健司(のちに切腹)、平間重助、そして災難に巻き込まれた芸妓の必死な姿がリアルに透かし見えるようであった。…………さて芹沢鴨、この京都で暴れまくった性豪列伝に載るような男の名を聞くと、私はそのあくの強さから、したたかな免疫力のごときものを持ったタフな男の名をそれ以前の歴史の中に想い浮かべるのである。……奈良時代の女性の天皇「孝謙天皇」。その孝謙天皇が病に臥せっていた時に加持祈祷を行って接近し、その寵愛を受け、ついには「法王」の座にまで出世した男である。道鏡は女帝をたぶらかして皇位を狙った「日本三悪人」として平将門・足利尊氏と同列に並ぶが、いわゆる性豪列伝を代表する人物として今にその名を残している。

 

……しかし、道鏡の上を行く人物がロシアにいた。……ご存じ、帝政ロシア末期の祈祷僧……ラスプ―チンである。ラスプ―チンの生涯は前述した道鏡に似ている。ニコライ2世の皇后アレクサンドラと血友病の皇太子の治療と称して宮廷に入り込み、アレクサンドラの寵愛(愛人説が高い)を受けて、ロマノフ朝を影で操る怪僧となり帝政は乱れ、後に二月革命が起きて第二次ロシア革命へと至るのである。……退廃するロマノフ朝の皇族三人がラスプ―チンの暗殺を謀り、私邸に招き入れ、青酸カリ入りのケ―キを食べさせ、毒入りのワインも飲ませたがラスプ―チンが平然としているので、次にピストルで何発も撃ち込んだ。……ようやくぐったりとなったラスプ―チンを、近くの運河(氷が張って冷たい)に投げ入れた。やがて死体が上がって来て検死をして、再び驚いた。……なんと、ラスプ―チンの死因は意外にも溺死であった。…という事は、数発の銃弾を被弾してもまだ彼は死んでおらず、運河の冷たい水底でようやく溺れ死んだというわけである。……毒でも死なず、被弾しても死なない驚異的な抗体の持ち主ラスプ―チン。今のコロナ渦の時代に生きていたら、どのような姿がそこにあるのであろうか!?……突出した強力な抗体を持った人間の遺伝子を大量に殖やして新型コロナウィルスに対抗するという研究が進んでいると聞くが、もしラスプ―チンが今いれば、この化け物のような驚異的な生命力はかなり世界に貢献する事、大だと思うが如何であろうか。……今回は、現在サンクトペテルブルグの博物館に保管され一般にも公開されているラスプ―チンの性器のご紹介を持って、このコロナ渦関連のブログを終わろうと思う。……ちなみに女性たちが楽しそうに見学しているのが気にかかるが、もう1つ、ちなみにラスプ―チンの娘マリ―が父親の遺物のそれを返すよう博物館側に求めているという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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