月別アーカイブ: 2月 2023

『歌舞伎とダンス―光と闇の叙述』

今月は2日続けて力の入った公演を観た。先ず11日は、歌舞伎座の二月大歌舞伎.第二部の『女車引』と『船弁慶』。翌12日は荻窪の「アパラタス」での勅使川原三郎佐東利穂子両氏による『月に憑かれたピエロ』である。

 

 

歌舞伎の『女車引』は、七之助雀右衛門魁春による艶やかな舞である。幕が開いた瞬間から目映い光に照らされた花道から三様態の女房たちが舞出て来るのであるが、その次に観た『船弁慶』共々、非現実的な過剰な照明の光が綾なす効果は、舞台を、またその演目の世界を極めて平面的に見せ、「表こそが全て」の、虚構が現実を凌駕する表象のみの人工的、活人画的な芸の空間である。奥行きは約束事としての想像に託され、ひたすら艶やかな華と、一皮剥いだ奥にある狂気が入れ替わりながら一幕、或いは数幕の作話が展開するのである。

 

……過剰な光…と云えば、元々は出雲大社の巫女であった出雲阿国の「かぶき踊り」を祖とするこの芸の照明は、夜は蝋燭の細い光であった。昼は自然光を借り、夜は束ねた蝋燭の光が作話を演出し、それに合った演目が作られていった。……今日のような人工の目映い光に次第に移行したのは明治以降からと聞くが、背景画に描かれた書割(かきわり)のあえてリアルな写実性を排した表現と同じく、嘘っぽさと、その光の過剰さはリンクして、観者の脳内の想像力の中でようやくの実と美が活性を帯びるという、考えてみれば歌舞伎とは、構造の危うさに支えられた特異な芸道と、言えるのかもしれない。

 

 

 

翌日に観た『月に憑かれたピエロ』(シェ―ンベルク作曲・元来の歌詞はフランス語であるが、勅使川原氏はあえて語調の強いドイツ語を採用し、それに佐東さんの柔かな翻訳の語りを加え、聴覚による二重の揺さぶりを演出)は、過剰な光に拠る歌舞伎とは真反対の、計算し尽くされた薄暗い闇の深度が物理的な遠近感を越えて、私達の記憶の遠近法までも揺さぶり、ノスタルジア的な感慨までも立ち上げた魔術的な舞台であった。

 

……私事で恐縮であるが、以前に、詩や批評を扱う『ユリイカ』の編集長から「久生十蘭」の特集号に載せたいので詩を書いてほしいという依頼があり、私はその詩の中に久生十蘭の本質を表す意味で「ダンボ―ルで作られた月」という言葉を入れた事があった。今回の舞台装置で勅使川原氏が作った薄い金属板の月が見せた効果は、久生十蘭のその特異な文学空間を超えるア―ティフィシャルな冴えを呈した巧みな造形性があり、歌舞伎の書割以上の妙味に、私をして歓喜させたのであった。

 

私がその日に観ていたのは表現の形としてはダンスであるが、途中から、この舞台の構造は能のシテ方とワキ方をも取り入れているのでないかと直感した。……デュオを踊り、最終に近い場面で横たわっている佐東利穂子さんがもしワキを演じているならば、最後は立ち上がって去って行くであろう。……そう思って観ていると、はたして最後に佐東さんは立ち上がり奥の暗部へと静かに姿を消し、舞台に一人残って座したシテ方のピエロ、勅使川原氏の指先が虚ろなままに何かを暗示して舞台は完全な闇と化す。……そこで全てが終わりとなる。……この、もしかすると能の構造までも取り入れているのではあるまいか!、という直感は私の唯の独断なのであろうか?……しかし、勅使川原氏の愛する枕頭の書が世阿弥『花伝書』である事を私は思い出していた。……これは私の制作におけるメソッドとも云える持論であるが、表現に際し異なる二元論を導入すると、より重奏的な膨らみが表現に増すという事を私は体験的に知っている。……この場合、『月に憑かれたピエロ』という海外の原典に、日本の夢幻能の構造が二重螺旋のように入り込み、表現空間に量りがたい深みが呈している、と私は視たのであった。

 

このダンスの舞台であるアパラタスが出来てから早くも十年になるという。ご縁があって、私がここに通いはじめてから早八年になる。……その途中から気づいた事があった。氏の舞台を観ていると、その途中からふと、自分の幼年期の記憶が、この巧みに演出された闇の透層の中で突然(しかも毎回、それは場面を変えて)よみがえって来るのである。……懐かしい感情がわき上がるや、それが舞台のその日の演目に加乗して表現空間がいよいよ膨らみを増して来るのである。

 

……幼年期の仕舞われた記憶が突然蘇るのは何も視覚だけとは限らない。聴覚、嗅覚、触覚、更にはふと覚えた微かな気配からも記憶が蘇る時がある。……ボルヘスの言葉に「一人の人間の夢は、万人の記憶の一部なのだ」というのがあるが、勅使川原氏のダンスとは、それが身体表現として完成して閉じたものではなく、人々の記憶を揺さぶり、ノスタルジアを立ち上げる詩的な装置として、毎回、放射されたものであると考えた方が或いは近いのかもしれない。

……ちなみにアパラタスとは「装置」という意味である。歌舞伎の表の平面性を強調した美学に対し、勅使川原氏のそれは、闇の暗部の彼方に限りない記憶の遠近法を孕んだ詩学であると、或いは言っていいものではないだろうか。

 

 

 

 

…………さぁ、充電の後は自分の制作に向かわねばならない。ダンス公演の翌日は名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんと共に、競作の主題について語り合った。そして、馬場さんと私が共に惹かれ、気になっているヴェネツィアを舞台に、馬場さんは俳句で、そして私は様々な方法を駆使して、追えば逃げ去る「逃げ水」のごとき魔性と謎を帯びたヴェネツィアに迫る事で決まった。……その他にも詩集の執筆、オブジェの制作、画廊での個展、……鉄の表現、他にもやるべき事が春からは山積している。……もうこの辺りで長かったコロナの圧迫感とも意識的に訣別しなければならない。……人生は本当に短いのだから。

 

 

 

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『巴里に命を刻む二人の話』

前回のブログの舞台は京都であったが、今回は一転してパリである。……年末、そして先日に歌人の水原紫苑さんから、パリでの現地詠を含んだ歌集『快楽Keraku』(短歌研究社刊行)と、昨年過ごしたパリ滞在の日々を短歌、写真と共に綴ったエッセイ集『巴里うたものがたり』(春陽堂書店刊行)が送られて来た。……最近、私は森有正の『遠ざかるノ―トル・ダム』を読んだばかりで、今はモンマルトルの坂道を主題にした鉄の立体も作っている折であり、正にパリづくしである。

 

水原さんはわが国の現代短歌の紛れもない第一人者である。30年以上前に比較文化学者で評論家の四方田犬彦氏宅の何かの集まりの時にお会いしたのが始まりと記憶しているので、お付き合いはかなり古い。自宅が近いという事もあり、才ある表現者として身近に感じる存在である。ご本人は柔にして自然体の人であるが、次々と刊行される短歌に綴られた表現世界は、美しい日本語で開示された幻視の領土が拡がり、光と底無しの闇が交差する危うさがある。そして何れの作品もその完成度はきわめて高い。

 

 

「シャルトルの/薔薇窓母と/見まほしを/共に狂女と/なりてかへらむ」

「彫刻と/オブジェのあはひ/ゆく蝶を/ひたにおそれき/ことのは以前」……………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何れの作品にも、鋭く研がれたナイフの切っ先のような鋭さと、時に美しい狂気すらある。新刊『巴里うたものがたり』のエッセイの本は、私がかつて1年近く住んでいたパリが舞台なので、実に愉しく懐かしく一気に読んでしまった。水原さんが滞在したホテル・カルチェラタンは、私がいたサン・ジェルマン・デ・プレ界隈にも近く、記憶が重なって、自分が旅人であるような錯覚すら覚えてしまった。……文中、オペラ座に和装で行くのを願うが、狙われる事は必至なので友人に忠告されて断念する下りは、与謝野晶子のパリ滞在(明治45年)、林芙美子がパリに滞在した(昭和六年)時とは隔世の感がある。しかし晶子や芙美子にとってパリが一過性の街であったのと違い、この人は、また3月からパリに行くが、パリでの客死すら厭わない覚悟が透かし見えて来て引き込まれる。……滞在中はソルボンヌに学び、日々のエッセイを書きながら、写真家が被写体を狩るように、又は鋭く呼吸するようにして集中して一気に短歌を詠んでいく。……なるほど、この人はこのようにして歌を詠んでいるのかというのが垣間見えて面白い。

 

先日、私はヴェネツィア行もお薦めしたが、既にそれもこの春からの予定に入っているという。……限り無く美しい日本の言の葉によって紡がれる、西洋の硬く乾いた硬質なマチエ―ルとの対峙がどのようなイメ―ジの化学反応を産んで、更なる深化へと、この人を導いて行くのか見届けたいものである。……以前からの私の願望であるが、ヴェネツィアを舞台にした壮麗な歌集の出現を、水原紫苑女史に期待しているのである。……そして、この度刊行されたこの二冊をぜひ読まれる事を、このブログの読者諸氏にお薦めする次第である。……さて次は、パリで客死した画家・佐伯祐三の話。

 

 

 

……先日、東京ステ―ションギャラリ―で開催中の佐伯祐三展を観た。10代の中学生の時に画集で出会って以来、佐伯祐三は今もって一番好きな画家である。……佐伯の集中力(一点を仕上げるのに要した時間は僅かに30分から2時間)は神憑り的で、しかも完成度も高い。パリに行き、佐伯がフォ―ヴィスムの画家ヴラマンクに油絵の作品を見せた時に、「このアカデミック!」と一蹴され、強いショックを受けたという逸話は有名であるが、実はこの逸話には先に続きがあって、ヴラマンクは「しかし、色彩感覚は良いものを持っている!」と佐伯を誉めているのである。……佐伯の作品を観ると、確かに優れた色彩感覚がそこに視てとれるのと同時に、彼の作品の骨となっているのは、作品の奥に透かし見える幾何学的な秩序感覚の先鋭な才気であり、また硬質さに対するオブセッションとフェティシズムである。

 

佐伯はゴッホに傾倒していた事もあって、その死もゴッホと重ね合わせるように、神経衰弱、肺炎の悪化による自殺未遂、そして狂死という事で、何れの佐伯祐三伝説も同じように書かれているが、しかし、私には以前から引っ掛かっている〈或る事〉があった。それは現存する数葉の写真の中にある。……寒風の中、街頭に出てひたむきに描く佐伯祐三の姿。しかし、その横に佐伯の幼い娘(彌智子)が写っているのであるが、ずいぶん以前から私はそこに違和感を覚えていたのである。……集中して挑むように画布に向かう佐伯祐三。……何故その真剣勝負の時に、気が散る存在の幼い娘がいるのか?

 

 

 

 

……常識的に視て、佐伯が絵に集中する時には常に妻の米子が娘の面倒を見る筈である。……佐伯は午前早くから写生に出て、暗くなるまで描く事に没頭していた筈。……その長い時間、では米子は何処で何をしていたのであろうか……。佐伯祐三の死因については諸説ある。……中には事件性すら思わせる説もあるが、私の推理は、……佐伯がある時を契機にして何かに憑かれたように作画に集中して神経を磨り減らして行くのであるが、それは何もゴッホへの傾斜、自己の完成度への焦り……といった伝説的なものではなく、原因は、もっと身近なパリの日常生活の〈或る時〉にあったと私は視ている。……或る事実を知ってしまった佐伯が、その怒りを他者でなく、自らへ向けた自傷行為の果てに墜ちていった、詰まりは緩慢なる自殺行為の果ての客死であったと私は推理しているのである。……この推理と近いものを、例えば美術史の裏面までも詳しい山田五郎氏(評論家・編集者・コラムニスト)なども考えているように思われる。

 

 

 

荻須高徳

 

 

 

薩摩治郎八

 

薩摩千代

 

里見勝蔵

 

藤田嗣治

 

 

 

……とまれ、これは推理するに足るドラマ性を多分に含んでいるのであるが、そこに登場する人物達の画像をここに掲載するに留めて、ひとまず今回のブログの筆を置く事にしよう。……年表の表に書かれた物語はあくまでも表皮に過ぎない。「事実は小説よりも奇なり」という言葉をここに残して。

 

 

 

佐伯祐三「カフェのテラス」

 

 

佐伯祐三「ガス灯と広告」

 

 

佐伯祐三「広告貼り」

 

 

 

……さて、今月は11日に歌舞伎座の二月大歌舞伎『女車引』と『船弁慶』を観劇予定。……翌12日は荻窪のカラスアパラタスで、勅使川原三郎佐東利穂子両氏による今年初のアップデイトダンス公演『月に憑かれたピエロ』(2月14日迄、公演開催中)、……そして翌13日は、先月の寒波で延期されていた名古屋に行き、俳人の馬場駿吉さん、名古屋画廊の中山真一さんとの打ち合わせで、俳句と私の作品との接点の可能性について語り合って来る予定。……異なる優れたジャンルに積極的に触れる事が、自身の表現に善き展開をもたらして来る。……絶え間無い充電と、制作の日々が今月も続くのである。

 

 

 

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