『全生庵で幽霊画を観ながら考えた事』

私が親しくさせて頂いている富蔵さん(本名・田代冨夫さん)は、金属や硝子に関する技術に長けた超技巧の持ち主で、時にロマンティシズム漂う不思議なオブジェも作られる。最近作は写真家アジェが撮したパリの古い街角の建物を真鍮で立体化して再現し、その精密さと着想の妙に私は驚いた。

 

……先日、その富蔵さんと日暮里で待ち合わせ、共に谷中にある全生庵という古刹で展示開催中の幽霊画を観にいった。その日も蝉時雨の鳴く暑い午後であった。……全生庵は幕末の剣客・山岡鉄舟を開基とする臨済宗国泰寺派の寺で、幽霊噺を得意とした初代三遊亭円朝が生涯収集した100点以上の幽霊画を所蔵しており、夏の一時期に限って、円山応挙、河鍋暁斎、伊藤晴雨……などの作品を展示して一般に公開しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

……私は以前にも何回か来ているが、富蔵さんは意外にも、この寺は初めてだと言われ熱心に観ておられる。その富蔵さんを見て、今日一緒に来て良かったと私は思った。……今回、私が幽霊画の中で一番気に入っているのが展示されてなくて残念だったが、それは責め絵の画家で知られる伊藤晴雨の作品で、静まった草むらの中に朽ちた鎌が落ちていて、その錆びた刃先に女性の細い髪の毛が数本、妖しく絡まっている作品である。幽霊画は直喩よりも、むしろ気配などの暗示の方がはるかに怖い。……私はそう想うのである。…………そして私はふと思い出していた。今から30年ばかり前に実際に体験した、あの時の事を。…………

 

私の大学の先輩で石井健二さん(現・徳島大学名誉教授)という人がいる。当時は東京芸大美術学部の写真センタ―で、石井さんが助手をしている時であった。その頃、私は独自で日本ではまだ未知の銅版画写真製版技法であった「カ―ボンティッシュ」に一人で取り組んでいた。取り寄せた海外の技法書を訳しながら頑張っていたのであるが、真空密着の装置がないとこれ以上は出来ないという壁に突き当たっていた。窮したあげく石井先輩に電話をすると、その技法に興味を覚えた石井さんは「じゃ、芸大の写真センタ―にいるからおいでよ」と言われ、私は行き、それから二人の研究、試作の日々が始まった。さすが国立、私が必要としていた設備が揃っていて素晴らしい。……最初に行った日の夕方、奇妙な事に気がついた。学生達が帰って行く時、私達に「さようなら」ではなく「……お気をつけて」と言うのである。石井さんに訳を聴くと「まっ、いずれわかるよ。」と言って言葉を濁す。センタ―内をよく見ると、至る所にかなりの数で「お札」が貼ってある。石井さんは学究肌の人で、暗室に度々籠ってあまり出て来ない。その内、私は自分がする作業に熱中し、それは気にならなくなっていた。……何日目かの夜、試作が深夜に及び、徹夜をする事になった。試作はしかし、二時頃に終わったので、石井さんは研究室の寝床に行き、私は広い作業場の床に寝袋を借りて休み、……やがて眠りに落ちていった。

 

寝袋を被ったまま寝ているので真っ暗であるが、……先ほどから私の周りを歩くカツッ、カツッ、とした靴音の響きで目が醒めた。その靴音は今の時代の靴音の響きではなく、例えば軍人の履く、靴底に鋲を打ったあの革の硬い靴音の響きを直に想わせた。……誰だ!?先輩か?と不審に思い、手を内側のチャックのつまみに持っていき一気に開き、辺りを見回した。……しかし、広い室内(真っ暗な)に人影はなく、しんと静まりかえったままである。さすがに異変を感じた私は、石井さんの部屋を開け、寝ている石井さんを揺さぶって起こした。……「その靴音なら、知ってるよ。徹夜の時は毎晩だから、それより、まだ夜中だから北川もまた寝た方がいいよ!」。……しかし、寝れる筈もなく、私は先ほどの部屋に戻って灯りをつけ、朝まで目を光らせて何者かの再びの出現を待った。……朝になり、石井さんに話すと、面白い逸話(来歴)を話してくれた。それに拠ると、昔、このセンタ―付近は彰義隊と官軍との乱戦の場所であり、多くの死者が出た場所だという。「しかし、私が聴いたのはあきらかに軍人の靴音でしたよ」と言うと「戦争の終わり頃に、この芸大は確か陸軍の師団の宿舎であり、何人かが集団自決した場所だから、そっちの方が出たのかも知れないね。北川が聴いたその靴音は、僕も何回も聴いてるよ」と石井さん。……その日の昼前にセンタ―長のSさんが来られたので、昨夜の体験を話すと、Sさんはここの暗室で最近不気味な体験をしたと言う。古美術研究で奈良の仏像を撮影した学生達が暗室で現像をしていた。すると、その暗室から突然何人もの叫び声がしたので、Sさんが注意をしに入ると、学生達が恐怖に怯えながら、現像中のプリントを指差した。それを見て、Sさんは愕然とした。現像液の中に沈んでいるそのプリントには、確かに奈良の寺で撮した仏像が映っていた。しかし、その仏像と二重重ねになって人の顔が映っていた。その人物は最近亡くなったSさんの知人で、学長選に落ち、地方に赴任したその先で亡くなった人なのであった。

 

……そして2日後に、更なるもう一つの異変が起きた。その日は撮影の日であり、私は石井さんと一緒に広いスタジオの中で撮影の準備をしていた。石井さんはカメラの準備をし、私は被写体の花瓶を置くテ―ブルの床の位置を示す為、座り込んでチョ―クでその位置に印を付けていた。「頭、頭、気をつけて!」石井さんが言ったのか誰か?は知らないが、何処からか聞こえたその声に「大丈夫ですよ……」生半可な返事をした瞬間、頭に猛烈な激痛を覚え、私は倒れこんでしまった。……天井に吊ってあった撮影用の重い黒布を巻いた鉄の重いパイプが、正に私の頭上めがけて落下して来たのである。頭の後ろ側に当たったのでまだ良かったが、真上だったら即死だった可能性もある、それほどの重い鉄のパイプであった。……石井さんが慌てて私を抱き起こしたが、既に頭からは血が噴き出しており、側の洗面所で見ると顔までが真っ赤な鮮血に染まっていた。しかし私は馬鹿だった。何故か野生の熊に自分を重ね、そう言えば手負いの熊も病院に行って治したという話は聞かないし、治療費も無いし、病院に行かずとも、傷口はやがて塞ぐと思っていたのである。その日からどれくらいが経ったのか。アトリエで電話中に突然体がひんやりとし始め、急に悪寒が全身を襲った。私はさすがにまずいと思いタクシ―に乗って病院に駆けつけた。……医者は私の頭を見て、「馬鹿者!!なぜこうなるまで放っていたんだ!もうちょっと来るのが遅かったら腐敗した菌が脳に入り、お前さん死んでいたぞ!!!」と烈火の如く怒られ、緊急手術で、私の頭は包帯が何重にも巻かれ、あの『耳を切った自画像』のゴッホの絵のようになってしまった。……その後、芸大を出た人達に訊くと、みな一様に「あの写真センタ―だけは、度々、足音や人影、または怪奇としか云えない現象が頻繁に起こり、誰も近づかない有名な場所ですよ」と話してくれた。

 

上野戦争、更には敗戦時の集団自決……。しかしそれは遠い昔の悲劇だというのに、何故、彼らは私達の「今」と交差して、この三次元に現れるのであろうか。私の周りを苛立つように歩いた、あの靴音の主には、果たして私の存在が見えていたのか否か。時間は観念だけで、実際には存在しないという説もある。例えばここにA4大の紙が在るとして、その左端にA、右端にBという文字を書くと、そのAB間の距離は約30cm。この左右の距離を終戦時(1945年)と現在(2020年)の時間距離(つまり今昔)と考えると、その間75年。しかし、中心に折り目を付けて折ると、左右の間に距離は無くなり、AとBはピタリと重なって来る。……この左右を折るという一つのモメントのアクションが、アインシュタインが提唱した「時空間には捻れがある」という意味と重なって来るのでもあろうか。……さてその後、私には、1988年の春の花見時に京都の先斗町で遭遇した、いわゆる生霊体験と言うのがあり、これはなかなか無い体験であるが、もはや1回のブログの紙面が尽きたので、これはまたの機会に書くとしよう。

 

 

…………………… そんな昔の事をぼんやりと思いだしながら、富蔵さんと一緒に全生庵を後にして、根津の方角を目指して蛇道に行き、以前のブログで書いた太平洋美術会研究所の、最初に在った五軒長屋という場所を探した。……中村彜、松本竣介、長沼(高村)智恵子達、各々の時代を生きた、嘗ての日本美術史に意味あるその場所は、なかなか見つからなかったが、富蔵さんの粘りある情熱によって助けられ、遂に現場跡に辿り着けたのであった。その後、私は富蔵さんにかき氷をご馳走になった。……私は、これから日暮里に戻られるという富蔵さんと別れて、暑さで逃げ水さえ立つ弥生坂を上がり、東大の構内を抜けて本郷三丁目駅を目指して、なおも歩いた。そこに私を待つデザイナ―のK氏がいて、私に相談があるらしい。相談に乗るのは構わないが、その日の私は暑さでほとんど思考停止の状態であった。……コロナ禍に加えて今度は熱中症、更には地震や台風が私達を待っている。令和になってから何故か加速的に断末魔的な様相に世界がなっている。正に「地獄とは、この世の事と見つけたり」の感である。今日観た幽霊画は、そんな中での叙情的な懐かしい、一幅の涼にさえ、私には思われたのであった。

 

 

カテゴリー: Words   タグ: , , , , , ,   このメッセージのパーマリンク

コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律