岸田劉生、冨山秀男、画廊香月、西村陽平

『近代の呪縛―岸田劉生』

私のアトリエはガラス張りなので、制作をしている姿が外から丸見えである。云わば、人間動物園。非日常的な感のこのアトリエの中が珍しいのか、度々人が眺めながら歩いて行く。先日の暗くなった夕方には、小学生らしき小さな女の子が扉のガラスの前に立って真剣にアトリエの中を覗いていたのには一瞬ゾッとした。まるで〈座敷わらし〉のような雰囲気で立っていたのである。見ると、その暗がりの横に父親とおぼしき人が並んで立っており、気がついた私に、娘に代わってという感じで頭を下げていた。…時には散歩中の犬さえも意識して眺めながら去って行く。犬は確かに何かを考えているようだ。……駅に行く近道の路地裏に在るので、朝の8時頃は、皆が同じ方角に急ぐ姿と、その横顔がガラス越しに見える。……確か、石川啄木の短歌に似た光景を詠んだのがあったなと思い、歌集を開くと果たしてあった。「人がみな/同じ方角に向いて行く/それを横より見ている心。 啄木」   実景の描写というより、予定調和的で画一的な社会の型にはまっていく近代人への批判を込めた、覇気強し人―啄木の骨頂の歌か。……また、昼下がりに、制作の手を止めてぼんやりとガラス越しに外を眺めていると、左右から見知らぬ男女がすれ違う一瞬が、ふと見える時があり、そんな時には妄想が膨らんで、天才歌人―春日井建の歌を思い出す。……「行き交へる/男女が一瞬かさなれる/はかなき情死をうつす硝子戸」

 

 

先日、東京駅のステ―ションギャラリ―に『岸田劉生展』を観に行った。劉生の絵は度々観ているが、今回はどうしても観たい作品が出品されているので、制作の合間を縫って駆けつけたのである。それは劉生の代表作であり、日本近代絵画の頂点に立つ作品とも云える『道路と土手と塀(切通乃写生)』を側面から描いた作品がある事は知っていたが、それが今回、並んで展示されているというのである。岸田劉生のその絵の描かれた現場は以前に取材の仕事を兼ねて見に行った事があった。きっかけを作ってくれたのは雑誌『東京人』であった。ある日、『東京人』の編集部から突然電話がかかって来て「東京都内にまだ残っているらしき、近代絵画の作品が描かれた現場に行って感じた事を何か書いてほしい」という内容であった。「しかし具体的に何処か、ありますか?」と訊くので、その場で「劉生の代表作―切通乃写生の現場が確か在ると想うので、それを書きますよ。」と約束して電話を切った。……切った後で、しかし、描かれた現場は代々木であったのは記憶にあったが、その頃は今と違い、ネットも無ければスマホも無い頃であったので、はたして……と考えた。……しかし、岸田劉生研究の第一人者は冨山秀男さんである事は知識として知っていたので、104で調べて、当時、館長をされていた京都国立近代美術館にアポ無しで電話をすると、運よく出勤の日で、直ぐに電話に出てこられた。ちなみに私は冨山さんとは一面識も無い。……しかし名前を告げると、冨山さんは私の事を知っていたのには驚いた。以前に東京国立近代美術館で開催された『東京国際版画ビエンナ―レ展』に出品していた私の作品が記憶にあり、名前も覚えていてくれたのであった。おかげで話はトントンと進み、渋谷から現場迄の具体的な道順、詳しい住所を冨山さんは実に親切に教えてくれた。劉生に関する私の考え―高槁由一の遺伝子として劉生は在るという事、また、京都に移ってからの劉生の性急な失墜について私見を語ると冨山さんは興味を持たれ、暫く電話口で語り合った。……さて、その劉生展であるが、やはり麗子を描いた一点と、『切通乃写生』の完成度の高さとその強度は、何回観ても素晴らしい。そして、その横に、今回観たいと思っていた、その現場を真横の遠望から描いた作品が在り、私はその二点を比較した。『切通乃写生』を名作たらしめているのは、人とも電柱の影とも見える、画面を斜めに走る暗い影の存在である。この影の存在が、画面に不穏な気配と謎を作り上げ、観る人の想像力を煽るのである。……作品として近似値的に近い作品を何か挙げろと云われれば、私は躊躇なくキリコの『通りの神秘と憂愁』に指を折る。「影の詩学」という点に於いて、劉生とキリコの各々の作品は合わせ鏡的に似ていると私は想うのである。……しかし、その絵を見ると、影は明らかな電柱のそれであった。物象を物象として描きながら、そこにふと立ち上がる強度な何物かの存在、……それは自らを御し難く生きた劉生の突き上げるアニマの映しであったと私は思っている。……冨山さんに教わった通りに行くと、童謡「春の小川」のモチ―フになった現場跡があり、更に行き、緩い坂を下って振り返ると、そこが『切通乃写生』が描かれた現場であり、それを示す木碑が立っている。左側の塀は今は、秀和レジデンスのマンションであり、高みに描かれていた蒼穹の空は今は澱んで跡形も無い。……名作は、その時代を如実に刻印しながら尚も普遍に生きるものである。……劉生の言葉にあるように「いい画は皆、永遠の間に、夢の様にふっと浮かんでいる。」のである。

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の5月に個展を開いた、銀座の画廊香月西村陽平展『花の骨』が開催されている。5月の個展の時に西村さんが打ち合わせで画廊に来られた際に私は初めてお会いしたのであるが、それ以来、私はこの西村さんの個展を楽しみにしており、満を持して初日に伺ったのである。……「書物を骨として、炎の中で今し物語が開く」、会場の中でこの言葉が直ぐに立ち上がった。1000度以上の高温の加虐的な熱波を浴びて、書物に記されていた言葉は溶けて、開かれた危うい骨の結晶と化し、語り得ぬオブジェが、「客体」のその原初の姿を露にする。……西村さん、そして画廊香月のオ―ナ―香月人美さんがおられたので、すぐに西村陽平さんとの二人展の企画が立ち上がった。私のオブジェと西村さんのオブジェには危うい接点があるのを私は直感した。それは硬質なマチエ―ルと、その反美学とのアクロバティックな共存である。イタリアの写真家セルジオ・マリア・カラト―ニさんとの二人展の話もギャラリ―サンカイビのオ―ナ―の平田さんの企画で進んでいるが、時として、芯のある独自な表現世界を展開している方との、良い意味での競作展は、別な創造の引き出しを拓いてくれる生産的な切磋があるものである。……とまれ、西村陽平さんのこの展覧会は、私がいま一番に推すものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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