本郷菊富士ホテル

『昔、お葉と呼ばれた女がいた』

…今から半年前の話から、今回のブログは始まる。

 

…ある日、知人のAさんから浮世絵を商っている人(仮にBさんとしよう)と神田・神保町の中華料理店で会うので、もしよかったら来ませんか?…ご紹介しますよ。当日は、珍しい版画が直で見れる筈です。… という連絡が入った。好奇心の強い私は、何事も勉強とばかりに勇んで出かけて行った。……月岡芳年広重を持っている私の眼には、しかしその日は結果的に空振りであったといえよう。Bさんが卓上に広げた版画は、かなりマニアックな力士や歌舞伎役者の浮世絵が主で、しかも刷りが弱い。期待していた分がっかりしたが、この店の料理が美味しいのだけが救いであった。

 

 

…話題が変わって版画からBさんの個人史へと移るや、Bさんは昔から恋い焦がれているという或る女性の話を突然し始めた。…料理を頂きながら、まぁ付き合いとばかりに聞いていたが、Bさんは途中からその女性の事をマドンナ、マドンナ…と連呼し始め、もはやAさんや私は眼中にないらしい。…(マドンナ…純潔にして憧れの永遠の女性…か。)…明治の漱石の小説等にはそれらしき女性は度々登場するが、今時にマドンナという言葉は死語に近い。

 

 

しかしこのBさんと違い、漱石の小説に登場する女性性は清楚の裏に計りがたい女性の謎や秘めた毒がある。また泉鏡花に至っては『高野聖』のように、もはや蛇淫と化した魔性の女性からは逃げるしか手はなく、川端康成の『化粧』という短編に至るや、女性はゾッとする氷のごとき戦慄的な豹変を見せ、川端はただ震えてそこに立ちつくすしか途はないのである。

 

 

……うっとりとなおもその女性への想いを一人称的に語るBさんの宙に浮いたような目を見ながら私は思った。(このBさんは知らないのだな。…その女性はBさんにとっては純潔、清楚一色かも知れないが、別な男性に見せるそれは激しく熱いカルメンの顔やも知れず、或る男性には、凄まじい毒婦かも知れないという事を。…男性から見れば遥かに女性は役者であり、相手によって様々に変容した顔を見せる…〈謎〉そのものであるという事を。…そして、実際に様々な顔を見せたばかりか、それが名作の絵画作品となって今もありありと残っている、そのモデルとなったあまりに有名な女性がいた事を、ふと私は思い出した。

 

 

…やがて間違いなくやってくる南海トラフ地震。…その大惨事から死にたくない人には谷中の上辺りに住む事をお勧めしたい。関東大震災の時には、この地の武蔵野台地は盤石であり、他の下町の凄惨な被害と比べ、この地は全く揺れず、被害も皆無であったという。周知のように江戸期からの墓地や寺が多いのも頷ける。……ブログでも度々書いて来たが、今年、私は何回この谷中の地を訪れたであろうか?  …15回?いやもっと来ているに違いない。………私が愛してやまないその谷中の、4丁目3-5の領玄寺の門前に1896年頃から岡倉天心の依頼で開設した宮崎モデル紹介所という、画家の為にモデルを斡旋する所があった。…歌手の淡谷のり子も学生時代にここに所属してモデルをしていたというからその歴史は古い。

 

 

 

……さて、大正のはじめ頃に、この紹介所に佐々木カネヨという、当時まだ12、3才の少女がいた。しかし既にしてトップモデルであったという。その淫靡奔放さ故に付いたあだ名が(嘘つきお兼)。

 

…その放つ妖しいフェロモン故か、カネヨが家で母親と茶漬けを食べていると、硝子が割れて度々小石が飛んで来たという。…上野の美校の学生達が、カネヨの色香に興奮しての事だというから、カネヨが放つ魅力は推して知るべしであろう。

 

カネヨは字も読めず、自分の意志もあまり持たなかったというから、その姿は一種人形を想わせる。

 

 

 

 

このカネヨを独占的に描いたのが、責め絵で知られる伊藤晴雨。その絵の特徴は執拗に描いた髪の毛の乱れに見られるが、よく知られているように晴雨は毛髪に対しての執拗なフェティシズムを持っていた。

 

…谷崎潤一郎は足裏フェチ、泉鏡花が蛇の肌フェチ、川端康成の窃視フェチ…と、美の出処はかくの如くあくまでも暗い。

 

 

 

 

 

……竹久夢二は、カネヨに〈お葉〉という名を付けて、晴雨のそれとは全く異なるカネヨを大正の病んだ衰弱体へと変容させた。…カネヨをモデルにした『黒船屋』は夢二を代表する作品である。

 

 

 

 

…カネヨの別な面を現したのが、藤島武二の『蝶』『芳恵』等の代表作。…女性性の謎はその変容力にあるというが、佐々木カネヨという女性の今に残る写真を見ると、全く別な女性かと思うほどに顔が違う。撮したのは夢二であるが、夢二に見せる顔にして変容の様は多様である。

 

…自身の生き方に意志がなく、その奔放な様を改めるようにカネヨを諭したのは藤島武二であるが、その最初はカネヨの魔性に翻弄されたであろう事は私の想像に難くない。……佐々木カネヨのような顔相は、あたかも病んだ時代、大正そのものの映し絵であって、今日、このような顔相はほとんど見かけない。…………

 

 

 

 

さてBさんであるが、延々とマドンナの話が終わりそうもないので、私とAさんはお開きの気分になって来た。…その日は空振りに終わったが、久しぶりに佐々木カネヨを思い出した事が面白かった。

 

……大正浪漫の幻か。……ふと、そう思った勢いで、夢二やお葉、そして谷崎潤一郎大杉栄伊藤野枝坂口安吾正宗白鳥菊池寛…たちが梁山泊のように住んでいた『本郷菊富士ホテル』跡を、久しぶりに訪ねたい気分になったが、既に夕暮れが近い。…それはまたの楽しみにして、私はアトリエへと戻って行ったのであった。

 

 

 

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『本郷界隈』

世の中はおしなべて、やれオリンピックだ!、やれ平成の次の年号は何だ?と、メディアに乗せられてかまびすしいが、もし本気で熱くなっているのがいるとしたら、それはよほど阿呆であるか、過剰にセンチメンタルな人間であろう。誘致には賄賂が常識になっているオリンピックの裏の真実―スポ―ツに名を借りただけの拝金ビジネス。西暦と元号(年号)がダブって2つあるという、この面倒な年号制度。新天皇が即位すると改元する「一世一元の制」になったのは明治政府になってからで、察するに山県有朋あたりが「象徴の設計」を目論んだ事に拠るかと思われるが、それ以前は信長や徳川幕府が制定に強く介入しており、この面倒な元号制度の視点から歴史を視ていくと、思いの外に闇が深い。いずれにしても、元号とは概念に過ぎず、平成が終わっても、平成、昭和……と同じく東から太陽がのぼり、環境破壊は加速して深刻となり、AIの不気味な進化によって、人心は渇き、人生から豊かな物語はますます薄くなり、AIの全的な普及によって弾かれた人が爆発的に溢れて雇用問題が暗い影を深刻に落としていく、……ただそれだけである。

 

世の多くの人々の関心は次なる時代へと向かっているようであるが、最近の私はと云えば、ますます昔日の「濃密にして、かつ緩やかに時間が流れていた時代」へと、つまりは抒情を追い求める意識が向かっている。……昨年の秋に本郷の画廊で個展を開催したのも一つの大きなきっかけであったが、年末から最近にかけて、明治・大正・昭和前期の面影をいまだに残している、坂の多い本郷界隈を、制作の合間をみては歩く日々が続いている。……樋口一葉、宮沢賢治、石川啄木、そして鴎外、漱石……といった文豪達の目線と重なるようにして、ひっそりと息づく本郷の界隈を、足の向くままにひたすら歩くのである。そして夜は樋口一葉の書き遺した日記や、啄木歌集を読み耽り、明治中期の空気や音を、そして一葉や啄木の、近代という岐路に直面した表現者としての自立した意識と諦観に触れる日々が続いているのである。………しかし、今から遡る事36年前の1983年の暑い夏の盛り、私よりかなり早くに、この本郷界隈を末期の鋭い眼で歩く人物がいた。……昭和の絵師と云われた、劇画家の上村一夫(1940―1986)である。この地に在った本郷菊富士ホテル(注・画像掲載)を舞台に、そこの住人であった、谷崎潤一郎、大杉栄、伊藤野枝、竹久夢二、モデルのお葉、芥川龍之介、佐藤春夫、斎藤茂吉、菊池寛、そして縛り絵で知られる伊藤晴雨……といった、かなり強度な人物群像と、大正の病んだ抒情を絡ませて描いた名作『菊坂ホテル』と、夭逝した天才作家・樋口一葉を描いた『一葉裏日誌』の構想を得るために、癌で病んだ身体を静かに鼓舞しながら、この坂の街を巡って、昔日の東京の名残を透かし視ていたのである。『一葉裏日誌』の巻末で、「……上村一夫が死んで、〈絵師〉という言葉は死語になる。……1月11日午前1時、朧絵師・上村一夫は手品みたいに、1のゾロ目を並べてみせて、あの世とやらへ飛んで行った。」と、作家の久世光彦(1935―2006)は書いているが、つまり、過去を追う視線とは、耽美な世界を追う視線と何処かで結び付いているようにも想われる。……昨今の、薄く軽く、決して深くは掘り下げない時代に、もはや美の呼吸すべき場所はない。美は昔日の中で今も確かに艶やかに息づいているのである。……『菊坂ホテル』は劇画であるが、その体を借りた、見事な文芸作品である。そして、私が偏愛してやまない浅草十二階(通称・凌雲閣)の存在が、不気味な暗い韻を放って、この『菊坂ホテル』の展開に怪しく関わってもくるのである。……まだ未読の方にはぜひお薦めしたい、これは一冊の奇書である。

 

 

本郷菊富士ホテル

 

 

旧菊坂町

 

 

 

樋口一葉・旧宅の跡

 

 

宮沢賢治旧居跡

 

 

一葉が通った質屋

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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