横浜中華街

『占星術vs実証主義的人間』

…横浜山手の根岸の坂を上がった所に、相模湾を眺望できるレストランがある。荒井由美(松任谷)の初期の代表曲『海を見ていた午後』の舞台となったレストラン『ドルフィン』である。その眺めのいい坂を少し下がった所に山下清澄さんという銅版画家の友人が住んでいたことがあった。ロマネスク趣味のその作品は三島由紀夫マンディアルグ寺山修司らが評価していた。

 

…ある日、彼の自宅で話をしていると山下さんがこう言った。(僕の知人で女性の占星術師がいてね、実によく当たる。なかなかの美人で確かミス慶応だったと思うけど、裕次郎から映画界入りなどの話があっても彼女は全く関心がなく、ひたすら占星術の技を究める事だけに生きているような女性でね。この世の万象に起きる事や人間各人の運命が、その人間が産まれた時の星の配列と何らかの因果関係があると確信するようになり、ひたすらその技の研鑽のみに専心して生きている不思議な女性だよ。彼女は最近、元町(横浜)の裏通りに店を出しているけど、どう?…よかったら紹介するけど、今から行かないかい?)……私は2つの日本語で返事をした。…ぜひ…と。

 

…その当時、私は横浜山下町の海岸通に住んでいたので、歩いて中華街を越えれば元町はすぐである。…(こんな近くにこんな店があったのか)…そう思って薄暗い店内に入ると件の女性(仮にSさんにする)はいた。確かにSさんは美しい人だと思ったが、それよりは一見して直感力の鋭さを内に秘めたものを私は強く感じた。その時に未だ小学生だったお嬢さんも一緒だった。Sさんはゴヤが好きだというので話が盛り上がり、やがて山下さんと私は店を出た。…後でSさんから聞いた話であるが、お嬢さんは勘が鋭いらしく私達が帰っていった後でこう言ったという。(さっき来た二人で、ママとずっとお付き合いしていくのは、あの北川さんの方よ)と。…そして事実そうなった。またSさんも、私が店内に入って来た瞬間に、普通と明らかに違う鋭い気を放っているのを感じとったという。

 

…その頃は版画をあまり作っておらず、またオブジェの妙に目覚める前だったのでかなり暇な時であった。だから日々の散歩がてらに元町のその店に度々行き、私の中学生時代に体験した(著名な俳優夫妻の幼児が、住み込みの家政婦に浴室で絞殺された事件があった時に、私は夢の中で正にその殺されていく瞬間を生々しくリアルタイムでカメラを回すように透かし視てしまった)話や、その後も思った事が現実になる予知夢を頻繁に視てしまう話などをたくさん語った。…Sさんいわく、占星術の店といっても実際に来る客は、浮気の話や相手を代わりに呪い殺してほしいという俗な依頼ばかりで全く面白くない。…だから、私が話す体験談は、本当の占星術の深みに絡んで来るので実際に面白く、具体的に勉強になるのだと話してくれた。誤解がないように云うが、占星術師といっても、皆がみな万能的に当たるのではない。医者と同じで、ほとんどの者は素人に毛が生えた程度と見て間違いないだろう。

 

…元来、直感力の鋭い人間が古代から伝えられて来た、例えば占星術の場合、カ-ドを介した透視術を更に研鑽する事で漸くその内の何人かだけが本物になっていくのである。…だから依存性の強い人間が客になった場合、占星術を商いにしている似非占星術師にとっては待ってました!の大事な客であるが、Sさんのような人はそういう客は煩わしいので殆ど避けている。……Sさんの場合、資産は潤沢にあるので、食べていく為にやっているのではなく、あくまでも稀人のような手応えのある人物の出現を期して店を開いているようである。

 

私の知人・友人は各々に独自の道を究めている個性的な人が多いので何人かを連れて行きSさんに紹介した事があった。…例えば、この国を代表する詩人の一人であるTさんを連れていった時は特に面白かった。…生年月日をTさんが言うとSさんが机上にカ-ドを並べてこう言った。(ごく最近、とても親しい人を亡くされましたね)と。…Tさんは私に小さく耳打ちし(…吉岡実さんの事だね)と言った。…西脇順三郎以後のこの国を代表する詩人の一人、吉岡実さんはつい数日前に逝去したばかりなのである。……Sさんは続けてカ-ドを読み解きながら、Tさんにこう断言した。(近いうちに大きな賞を取りますね)と。…果たして、二週間ばかりして、Tさんは賞としては一番評価の高い読売文学賞を、故・澁澤龍彦さんと共に同時受賞したのであった。

 

…私はいつも無料で視てもらうのであるが、海外に留学する文化庁の在外研修員の試験の前に開催した個展の時には、このような事があった。…個展が始まる1週間前にSさんは私に次のように助言してくれた。(作品をプリントした紙やきの写真を二枚と、作家としての詳しい履歴書を一枚用意しておいた方がいい)と。…何故なのかは訊かなかったが、ともかく私は用意して個展初日を迎えた。…初日の午後に築地の朝日新聞本社の学芸部長で美術評論家の小川正隆さん(後の富山県立近代美術館館長)が画廊にふらりと来られた。…小川さんは池田満寿夫さんを介して面識はあったが、個展の案内状は出しておらず、また画廊側も出していなかった。…何かに引かれるようにして個展に来られた小川さんはこう言った。(とてもいい個展なので文化欄で紹介したいのですが、作品を撮した紙やきはありますか?)と。私は用意していた作品の紙やきの写真を渡すと、(あぁ助かります。これがあれば直ぐに載せられます)と。…会期の後半直ぐに新聞に写真入りで大きく紹介されたので、人がたくさん来てくれて個展は盛況であった。

 

…小川さんが画廊に来られた時に(そうだ!)と思い、私はこう言った。(実は文化庁の試験に応募したいのですが、小川さんに推薦状を書いて頂く事は可能ですか?)と。…私は群れるのが嫌なので団体展の組織に入っておらず、もう一つの美術評論家連盟は、面識のあった土方定一さんや坂崎乙郎さんは既に故人の為、知己は無かったので、他に推薦状を書いてくれる人が浮かばず困っていた時に、小川さんが現れたのであった。(推薦状、もちろん書きますよ。そうだ、北川さんの経歴を書いた書類のようなものはありますか?)と。…小川さんに履歴書を渡して、間もなく推薦状が送られて来た。…画廊から去っていく小川さんを見送りながら(…そうか、Sさんが用意しておくようにと言ったのは、この事だったのか…と私は思った。

 

……そして、文化庁の留学試験日がやって来た。…版画部門のその年の倍率は確か800倍くらいであったと記憶する。…もちろん自信はあるが、受かる為に事前に裏工作とか必死で仕掛けて来る者がいるらしい。…一次、二次の書類選考を突破して最終選考は面接である。…残った40名ばかりの作家が控え室で自分の名前が順に呼ばれるのを待っている。…私は官庁内の古くて薄暗い天井をぼんやりと見ながら(まるで処刑前の赤穂浪士みたいだなぁ…)と思った。……面接員は左右に役人20名づつ。正面に審査委員長、美術評論家ほか数名の書記官がいた。…この時の美術評論家はよりによって私が最も評価していない人物であった。…よほど私はこの相手が嫌いなのであろうか、喋っている途中から怒りに似た妙な感情が沸いて来て、私は止せばいいのに、この評論家にグイグイと逆に迫った。

 

審査が終わった後で、(あぁ、やり過ぎてしまったなぁ、)と思ったが後の祭。………2週間ばかりして元町のお店に行くとSさんが含み笑いをしながら、面白そうにこう言った。(この前の面接の時、もの凄く強気で攻めていたでしょ)と。…(確かにバンバン攻めましたが、どうしてわかるのですか!?)と訊くと、その面接の時間に私の事が気になってカ-ドで視ていたのだという。……そして、Sさんは笑いながらこう言った。(来年は、北川君は日本にいないと出ているから、大丈夫、受かっているわよ)と。…半信半疑の妙に浮わついた気分のまま家に帰ると、留守電がチカチカと点いていた。…受話器を取ると、録音の声で文化庁からであった。…在外研修員に内定した事を知らせる電話であった。

 

…占星術を信じる人、信じない人、各々にいて当然である。…信じない人、そこに確とした論拠は実は無い。何故なら体験していないから(だけ)である。また依存するように過信、盲信するのも気持ちが悪い。…というより他力本願になり、その実人生に拠って立つ足場が弱くなってしまう。…ただ私のように度々不可思議な事を実体験すると、占星術、またその他にある占い云々といった概念的なものを超えて、何か不可思議な交感の法則めいた絶対律のようなものが、私達の人智や想像力を越えて存在する事は否定できないように思われるのであるが、読者諸兄はどう思われるであろうか?…想えば、無から美という有を引き出す営みとしての芸術も然り、また詩の発生する瞬間に立ち上がる瞬発力もまた何物かとの交感する発火行為に他ならない。…不可思議。…ただそれだけが残るのである。

 

…さて次回は、この占星術に真っ向から挑んだ二人の人物、織田信長とレオナルド・ダ・ヴィンチの知られざる逸話を紹介する予定。引き続きの乞うご期待である。

 

 

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『……まさか、パリで!!』

連休が明け、さぁこれからコロナ第9波に?……それとも一応の終息へ?の岐路に私達は今、立っているわけだが、ともあれ毎日響いていたあの悪夢のような救急車のサイレンがしなくなった事だけは慶賀である。……想えば長く息苦しい3年間であった。そして私達各々の運というものを実感する機会でもあった。

 

……さてこのブログも書き出してから早くも15年以上の月日が経った。内容の程はともかくとして、文量の多さでは最早『源氏物語』をとうに抜き、今やプル―ストの大長編小説『失われた時を求めて』に迫る勢いになってきた。…とはいえこれは私の謂わば「日記」、生きた証の夢綴りのようなもの。これからも気分転換のように気軽にお読み頂ければ何よりである。

 

昨今は加速的に凄まじいネット社会となり、無駄な情報やフェイク、仮想感覚が日常的に入り込んで来て、実に空虚でかまびすしい。……文豪永井荷風は明治期に早々と「便利さには何の意味や価値も無い」と看破しているが、その便利さを人類がしゃかりきに追った結果が、今、ここに殺伐とした精神の請求書となって私達の前に突きつけられている。……同じ価値観が人々(特に若い世代)を同じ方向へと向かわせ、人々から豊かな「個」の妙味を奪いさっている。

 

 

 

 

…最近は、寝る前に本を読みながら眠りに入っていく事が多い。しかし睡魔が急にやって来て本が落ちると顔に当たって危ないので、もっぱら文庫本である。それもバラバラな種類の本が寝床の横には積み上がっている。

 

……例えば最近は、『魔都上海』(劉建輝著)『岡本綺堂・近代異妖篇』『北原白秋詩集』『ジヴェルニ―の食卓』(原田マハ著)『創造者』(ボルヘス著)……といった具合。

 

 

昨夜、その中から原田マハさんの『ジヴェルニ―の食卓』を読み始めたら、冒頭は夜明け時の光が寝室に入り込んで来る描写から始まっていた。

 

「南に面した窓の鎧戸の隙間が、うす青い横縞を作っている。遠く近く、鳥のさえずりが聞こえる。/薄氷のような夜を溶かして、まもなく夜明けが訪れる。朝の光が部屋の中をたっぷりと満たすよりずっとまえに、ブランシュはあたたかなベッドを抜け出さなければならない。

 

…………以前に出した私の詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』に収めた『紙束』というタイトルの詩が同じ光の主題だった事を思い出し、原田マハさんの小説と私の詩の描写の比較をしてみたくなった。

 

 

『紙束』

「朝まだ来だというのに/光がすでに眩しい。紙束が温み 文字が温み/やがて室内が温む。/闇が全て消え去った頃に/呼び鈴が鳴り/レカミエ夫人の不意の帰還を告げるであろう。」

 

また同じ主題、同じタイトルで、私の第一写真集『サン・ラザ―ルの着色された夜のために』でもヴィジュアルでその時間帯の光を表すべく挑んでいる。(私のアトリエ内を撮した写真である。)……小説、詩、写真での各々の攻め方の違いが、少しでも伝われば有り難い。また同じ詩集中の『長い夜に』というタイトルの詩では、それより少し前の夜明け前の気配を書いているので、ここに写そう。

 

 

『長い夜に』

ギザルド通りを抜けて/サン・ミッシェルへと至る/一九九一年四月二日の午前二時の廻廊。/そのしじまにMary Ussellaは眠る。/暗室と化したパリの幾何学の庭で。/セ―ヌの波紋のように白布が流れ/午前の白い朝が目覚める前に。」

 

 

 

先日、横浜中華街にある画廊「1010美術」(倉科敬子さん主宰)から個展案内状がアトリエに届いた。平山健雄さんという方の個展で、ステンドグラスでは第一人者で、山口長男から学んだ人です、ぜひいらして下さいと、案内状に書いてあった。……山口長男は佐伯祐三とパリで深く関わった画家なので佐伯に関する何かが訊けるかもしれないと思い、久しぶりに横浜中華街の画廊を訪れる事にした。……中華街は、私が30才から15年間住んでいた山下町・海岸通りの真後ろにあり、思い出がある町である。……しかし久しぶりに訪れてみると、かつての油断をすれば消されかねないような怪しい気配や情趣は失せて、ただの観光地と化していて、人、人、人で溢れかえっていた。

 

 

 

 

↓同じ場所

 

 

 

中華街は知り尽くしているので、画廊の場所はすぐにわかった。……画廊主の倉科さんから、個展を開催しているステンドグラス作家の平山健雄さんをご紹介頂いた。……「この人からはいろんなお話が伺えそうである。」一目視てそう直感した私は、最初からいきなり本題の佐伯祐三に関する、山口長男が平山さんに語ったという貴重な逸話、またパリの教会のノ―トルダムやサントシャペル……の構造の違いなどについて質問した。平山さんの造詣は実に深く、私はその場の平山さんが語った何気ない話から、次回の個展のタイトルも一瞬で閃いたのであった。

 

……そして平山さんの現在のアトリエのご住所を訊いて驚いた。……15年以上続いているこのブログの中でも最も名作と評価の高い『未亡人下宿で学んだ事』というタイトルの、つまりは私が大学院時代に住んでいた横浜市港北区菊名町の住所のすぐ間近なのであった。つまり現在のお互いのアトリエも、歩いて行ける程にすぐ近くなのである。

 

…………更に話は続いて、私が1990年から1991年にパリに住んでいた場所の話になり、「…私はサンジェルマン・デプレ地区のギザルド通り12番地の最上階の屋根裏部屋に住んでいました。……マン・レイジュリエット・グレコの家が近く、天窓からはサンシュルピス教会の古い尖塔が見えました。家の通りのすぐ前には、いつも閉まっている真っ黒い重い扉のレズビアンバ―がありまして……」と話した瞬間、平山さんが突然「……レズビアンバ―!あった、あった!!」と大きな声を発したのには驚いた。

 

「…!?」と思って平山さんに訊くと、1976年にパリに渡りフランス国立高等工芸美術学校のステンドグラス科に入学して以来、幾つかした転居の中で、平山さんはそのレズビアンバ―の上の部屋に住んでいた女性の部屋に転がりこんで住んでいたのだという。そして、あの店の重く黒い扉は深夜になると静かに開くのだという。…………今、この画廊で向かい合って話している正にこの位置のままに、広いパリの中で、時代を隔てながらも、平山さんと私の住んでいた場所は向かい合い、そこを拠点に充電、研鑽の時間が流れていったという事がわかり、この偶然の妙にお互いが暫し何ともいえない感慨を抱いたのであった。

 

 

……出会いとは不思議なものであるが、特に見知らぬ異邦の国でのこの偶然がもたらした感慨は、アトリエに帰ってからもしばらく尾を引いたのであった。……近いうちに、私のアトリエのすぐ近くに在るという、平山健雄さんのステンドグラスの工房を訪れてみようと思っている。……まだまだ不思議な話の続きが出て来そうな予感がするのである。

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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