高村光太郎

『ヴェネツィアの春雷in名古屋』

先日の5日、銀座の永井画廊で開催中の、松崎覚さんという方が制作した蝋人形の展覧会を観た。夏目漱石ジョン・レノンサルトル太宰芥川チェ・ゲバラピカソ…他、等身大9体の極めて精巧な蝋人形が画廊に整然と展示された様は、実に異様な気配を発していて眩暈すら覚えた。

 

…ロンドンのマダムタッソ-パリの蝋人形館でも観てきたが、それらの人形に比べて、技術の冴えは松崎さんの方が格段に優れている。体臭や息遣いまで伝わってくるほどに生々しいのである。

…かつての明治期の生き人形も凄味があるが、例えば乱歩の『人でなしの恋』や『白昼夢』に見る如く、この人形という世界の行き着く先にはあやかしの倒錯性が潜んでいて、一種幻葬的な世界へと引き込んでいくものがある。

 

 

画廊の永井龍之介さんと久しぶりに少し話をした。以前に開催された私の個展の後に、新橋の永井さん行きつけの店で話し合った時も、なかなか面白かった。…周りの客の喋りがうるさい中で、店の隅の席で私達が熱く話しあったのは、『水中花』の詩で知られる詩人の伊東静雄高村光太郎についてであった。以前にこのブログでも書いたが、光太郎が書いた智恵子抄に秘められた贖罪について、永井さんの返答がどう来るのか興味があったのである。…永井さんは美術の域を越えて実に博識で、突然話題を変えても、全方位的に更に話が膨らんでいく人である。………永井さんは松崎さんの蝋人形を他と差別化する為に、「蝋彫刻」として今後、展開していくようである。

 

 

銀座の永井画廊を出て、荻窪へと向かった。…ダンスの勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんが海外の公演が長かったための、久しぶりの日本での公演『骨と空気』の初演を観るのである。公演時間はおよそ一時間、……「圧巻」という言葉しか出て来ない見事なその舞台に、しばし失語症になってしまった。……勅使川原さんの突出した才能は、演出、照明にまでも深く及んでいるが、何をおいても身体の動きの速さはまた別格である。

 

…1つの例として、複数のダンサ-と激しい動きをしている時に、高速度カメラで撮影した人がいた。どのような速い動きをしていても高速度カメラでは当然、被写体は停まって写ってしまう筈である。…プリントした時のその画像では、ダンサ-達の姿は確かに停まっているが、唯一人、勅使川原さんだけは、なおもぶれて写っていたという。高速度カメラでもなおぶれて写ってしまうという事は、もはや異常な速さと見ていいだろう。…彼にとっては、その速度もまた美であり、そして詩なのだと私は思っている。そして、その異常な速さが紡ぎだす特異な残像の重なりが、私たち観者の脳内でポエジ-として結晶化し出した頃に、彼の見事な作劇法は大団円としての夢幻へと移ろいを転じて、舞台は暗転するのである。

 

…私は観ている途中でふと、彼の見事な身体表現に最も相応しい観客は誰か…と考え、すぐに世阿弥の事が頭をよぎった。…すると、公演が終わった後で観客に向けて話をする勅使川原さんから、その時、世阿弥の名前が出たのであった。……………猿楽を芸術の高みへと昇華した世阿弥の『風姿花伝』を読むと、その随所の言葉に、勅使川原さんのメソッドと重なるものを私は覚えてしまうのである。

 

………次回の公演は、5月24日から6月5日まで。佐東利穂子さんのソロで『悲しみのハリ-』(映画「惑星ソラリス」より)である。…7月中旬まで展覧会が3つ入っていて制作や準備で慌ただしいが、次回の公演も、私はまた予定を入れているのである。強い刺激と、確かな充電を得る為に………。

 

 

 

先日の9日に、名古屋画廊で開催する、俳人の馬場駿吉さんと私の二人展『春雷疾駆/ストラヴィンスキ-の墓上』展(5月9日〜24日)の初日なので名古屋に行って来た。…展覧会の舞台はヴェネツィアである。私はヴェネツィアには撮影もはさんで5回行っているが、馬場さんは実に10回以上もヴェネツィアを訪れて、それは100作以上の俳句作品になっている。

 

 

 

 

 

 

…夜半に見た真っ暗なアドリア海と真っ暗な空が合わさって巨大な舞台となり、春のある夜にそこに観たのは荒ぶる銀の走りと化したヴェネツィアの春雷であった。その凄まじい荒ぶる様は、ちょうど蕪村が詠んだこの俳句と重なるものがあるだろう。……「稲づまや/浪もてゆへる/秋津しま」。……秋津しまとは日本の事。極東の島国に俯瞰的に走る雷光の様をまるで宇宙から視たような想像力を持って詠んだ蕪村の秀句。………斜めに、或いは横に、そして突き刺さるように垂直に落ちる雷の荒ぶる様を視た私は、その時の強い印象が忘れ難く『ヴェネツィアの春雷』という連作となって10数点の作品を作った事があった。

 

…その体験談をある日、馬場さんにお話をすると、何と馬場さんもその凄まじい春雷を深夜のヴェネツィアで目撃されたという。…今回の二人展の肺種はその時に立ち上がったのである。…この展覧会で、私は20点のオブジェやコラ-ジュ、そして20点のヴェネツィアで撮影した写真を出品し、馬場さんもヴェネツィアを詠んだ俳句を出品されている。……廃市幻想の水の島  - ヴェネツィア。俳句と美術という珍しい形でのイメージの競演をぜひご高覧ください。

 

 

 

 

 

 

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『交尾を見ながら考えた事』

……「あぁかけすが鳴いてやかましい」と詠んだのは、詩人の西脇順三郎であるが、ここアトリエの前にある桜の樹の上では、先ほどから蝉がしきりに鳴いてやかましい。ジリジリと実にやかましい。あまり異常に鳴くのでさすがに見に行った。……見上げても樹の色に同化した蝉の姿はわからないが、鳴き声のする高みを注視すると、そこに蝉がいた。普段は行く夏を惜しむ抒情の風物として聴こえるが、それにしても今日の蝉の鳴き声は尋常でない。……夏の終わりに急かれたのか、雌を求めて必死に雄が鳴いているのである。

 

……すると別な樹の上から1枚の葉がハラリと落ちたかと思うや、急に風が吹いたようにその雄の側に流れてピタリと停まった。強さを誇示する鳴き声に誘われた雌が遊び女(あそびめ)のように翔んで来たのである。しかし、雄のすぐ横にくっつくのではなく10㌢ばかり間をとっているのは、お安くはないのよ!と言わんばかりの、雌なりの矜持か。見ていると、動かない雌に焦れた雄が下に下がり、次に雌の背後に忍び寄って、約束事のように交尾が始まった。けっこう長い時間、交尾が続き、時おりジジッ、ジジッ……というわけありな声を雄が発している。

 

その交尾中の雌雄の姿を見ていると連想が浮かんだ。……借金の返済を迫られている雌(もとは遊女、今は堅気の商家の妻)。その雌を力尽くで手籠めにしている豪商・穀田屋五兵衛(執拗なかつての男)……。場所は……京都、そうなるとやはり白川辺りが相応しいか。すると、私は雌のすぐそばに、どうしても健気で気丈な娘を配したくなった。……こうなってくると連想が止まらず、物語の一コマがありありと浮かんで来る。私はやはりこういう場面では、水上勉の小説『しらかわ巽橋』が相応しいと思い、記憶の中の登場人物たちの台詞をそこに重ねた。……祗園の一等地である白川巽橋の付近で、焼き鳥の屋台を引いて女手ひとつで娘島子を育てる、茶屋の女中上がりの勝代。……勝代は島子に言う、「〈男は女を喰いものにする動物や、負けたらあかん……うちらは、この世で、ふたりきりや。男を鼻であしらう女にならな、生きてゆけん〉」。すると島子が言う、「そうや、うちも出直しや」。

 

 

 

……私はなおも考えた。……私はそのような事を連想したが、ではこの蝉の交尾現場を見ながら、他の人はどう思うのかと。私の大学の後輩のS・H君(自称spiritual・artist いわき市在住)は、世界の万象全てをエロティシズムの視線で視てしまう特殊な能力というか、煩悩の持ち主なので、『O嬢の物語』的な禁忌、禁断のイメ―ジをそこに過剰に紡いで、おそらくは一人でうち震えるであろう。

 

また上智大学神学科を出て、暫くボロ―ニャ大学で教鞭をとっていたアベ―レ神父(A proposite del prete Abele)ならば、そこに神の荘厳を視て十字を切り、小説の神様と云われた志賀直哉ならば、人間の理性では御し切れない動物的な側面を、人間のどうしようもない業として描いた『暗夜行路』の如く、その微細な動きを容赦ない観察者の眼で写し取り、生の見立てをそこに重ね描くであろう。……要するに同じ事象でも、それは観る人の感性の違いで様々に異なって脳内で再び変容するのである。漱石が『草枕』の中で書いた「……ただ、物は見様でどうでもなる。レオナルド・ダ・ヴィンチが弟子に告げた言に、あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれるとある。一人の女も見様次第でいかようとも見立がつく。」と書いたように。

 

……これは表現作品を観賞する際に全て云える事である。……例えば、映画や演劇、ダンス、能、歌舞伎、音楽……などを観たり聴いたりする時に、会場に1000人の観客がいたとしよう。すると、その作品を観た観客は全て同じものではなく、各々の感性の違いによって実は脳内に映った異なったものを観ている事になる。……ここに、実は内的感動としての1000のかそけき孤独が各々に生まれるのであるが、しかし、劇場の暗い闇の中でその1000の孤独から派生した各々の熱い「気」のようなものが空間で不思議な〈交感〉を産み、そこに生まれる熱いものがエモ―ション(感動)となって、観る人達に相乗した感動をもたらし、その時にこそ、その作品も本当の作品となって立ち上がるのである。

 

……故にそれは、やはり実体験としてのライブ(生)でなければならないのである。(……但し、今私が云っているのは、あくまでも優れた表現作品にのみ云える事であって、凡な駄作は全くこの限りではない。)……また、美術、文芸の詩や小説などは、観賞享受の構造があくまで1対1の関係性ゆえに、作品との孤独な対話さらには観照は、ついに孤独な深化を極める事となる。……ここまで書くと、かつてオランダ・デン・ハ―グのマウリッツハイス美術館で観たフェルメ―ルの代表作『デルフトの眺望』の事を思い出す。この神性の宿りと云っていい美しい作品を観たプル―ストやゴッホ、ジャン・コクト―達が孤独ゆえの熱い感動を各々に文章で残しているが、私も熱い感動をそこに覚えたものであった。その感動とはつまり、いま自分が確かに生きている事の真の高揚感であったと云えるものであるが、この感動は孤独な一人であったからこそ生まれたものであり、もし連れがいたなら、この感動は薄まっていたに違いない。

 

 

なおも私は考えた。私の人生とは何であったかと。その答えの一つとして、想えば、私の人生は交尾ばかり観て来た人生であったのでは……というふうにも云えるだろう。犬や猫の交尾は誰もが見ている。……それに加えて私は蟷螂(カマキリ)の交尾を視、その交尾中に雌によって雄が頭から食べられているのを見た。乾いたパリパリというその音は今もありありと記憶にある。蜥蜴も見た。珍しいのは鶴の交尾であった。……これは正に寸秒で終わるアクロバティックな難易度の高いもので、私は鶴の雄に同情したものである。…そして、今見た蝉の交尾。…… 更に私は、そのものずばり『交尾』という題の小説を書いた梶井基次郎の事を思った。梶井がその小説を書いた現場が見たく、学生の頃に湯ヶ島の梶井が滞在していた宿にはるばる行った日の事を。

 

ふと樹の上を見やると、雌雄の蝉は何処かへと消えていた。あとには蝉の形の妙だけが残った。丁度、幼児の円く膨らませた掌を伏せて、そっと引くと、そこに蝉の幻の形が立ち上がる。そんな感じである。……すると高村光太郎の木彫りの名品『蝉』の事が頭に浮かんだ。光太郎は木彫りの彫刻の方が断然にいい。

わけても『蝉』は、『鯰』や『柘榴』と共にいい。……最近、高村光太郎の事が何故か気になって仕方がない。……高村智恵子が亡くなった後、酒に酔った光太郎が三河島の呑み屋で「智恵子は俺のこの手で焼いたんだ」と、独り呟き、またロダンに憧れ、はるばるパリに会いに行きながらも、実は会わずに、しかしまるで会ったかの如く装う光太郎の内なる矛盾と闇の深度に関心があり、そこが日本近代史の一つの切り口になると私は睨んでいるのである。…………………………そう思っている間に時間がずいぶん経ってしまったので、そろそろアトリエに戻らなくてはならない。……10月20日からの高島屋の個展に向けて、『聖セバスティアンの殉教』を私は今、制作中なのである。

 

 

 

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北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
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