#マルセル・デュシャン

『「モナ・リザ」はいつ割れたのか⁉…part②』

拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』を刊行してから20年が過ぎた、昨年秋の事。高島屋の個展会場にいると、ある日、年輩の女性の方が現れた。(…直感で、美術に関わっている人だな…)と思い話しかけると、修復を生業にされているとの事。ならばと思い、『モナ・リザ』の事で以前から少しずつ気になっていた事があったので、話題をそこに向けてみた。

 

…(以前から疑問に思っていたのですが、モナリザの絵にある亀裂ですが、原因をどう思われますか?…ダ・ヴィンチの技法はスフマ-トという、時間をかけて絵の具を薄く何層も重ねていく技法で、彼の他の絵には亀裂はなく、モナリザだけに何故か亀裂が入っていますが…?)と私。…(あれはたぶんニスのせいではないでしょうか…)と、その方は話された。…ダ・ヴィンチが最後に塗ったニス、そして後世の何度かのニス塗りによる経年劣化の為に亀裂が生じたのだというのである。

 

…しかし私には疑問が残った。ダ・ヴィンチはフランソワ1世に招かれて最期の地であるフランスのアンボワ-ズに赴いた際に、遺作『洗礼者ヨハネ』『聖アンナと聖母子』と共に『モナ・リザ』も携えており、ダ・ヴィンチは最期まで絵に手を加えていたという。…そして手の描写からモナリザは未だ未完成であったという指摘もある。………ならばダ・ヴィンチは生前には仕上げのニス塗りを未だしていなかった事も考えられて来る。…亀裂のもう1つの原因として、モナリザが描かれた薄いポプラ材の板の収縮がそれではないか…という説もある。(しかし、おなじ支持体の板を使った他の絵には亀裂は無い…)

 

…………年が明けた元旦の日に、例の小野・藤牧事件について推理の詰めをしていた時に、突然横から割って入って来るように(…もしかすると『モナ・リザ』の亀裂は、ダ・ヴィンチ自身が意図的に入れたのではないか⁉)…という大胆な着想が卒然と閃いた。…この説を考えた先人はいないか⁉…と思い、早速AIでチェックした。(AIは使いようでは思索が次々に進むので効率的に便利である)…すると(ダ・ヴィンチ自身が意図的に亀裂を入れた事を裏付ける資料や専門家の見解は存在しない。)という返答。…つまり私以前に誰もこの説を立ち上げた人物は具体的には500年間いなかった事になる。

 

私は頭の中に入っている西洋美術史において亀裂の目立つ作品を、2つばかり思い浮かべてみる事にした。先ずはAの画像の作品(作者・題不明)。…次にBの画像(ペトルス・クリストゥス作・『若い女の肖像』)は、中国の実に美しい絵皿を想わせ、むしろ亀裂がこの作品を名画たらしめていると言っても過言ではない作品。しかし共に後世に入った亀裂と思われる。…描いた絵の具が完全に乾くのを待たずに次の絵の具の層を入れると、異なる乾燥による捻れで、亀裂が起きて来る。しかし、ダ・ヴィンチが考案したスフマ-トという技法は、極薄の半透明な色彩層を何度も塗り重ねる技法で、亀裂が生じにくいダ・ヴィンチ独自の唯一無二の技法である。上記した二例の作品は全面的に亀裂が入っているので、永い時を経て起きた劣化による亀裂である事がそれとわかる。

 

 

(A)

 

(B)

 

…では私が、仮説ながらも『モナ・リザ』の亀裂はダ・ヴィンチがある意図を持って自身が入れた亀裂であるという根拠をこれから書こう。上記の2つの画像を見てわかるように、外因によって生じた亀裂ならば、画面全面に亀裂が入っている筈である。…ではこれから掲載する『モナ・リザ』の顔の部分アップ画像はどうであろうか⁉

 

 

 

 

…如何であろう。…もし後世に入った亀裂ならば先述した二点と同じく、モナ・リザの顔にも全面的に均一に亀裂の走りが入っている筈である。…しかしご覧になっておわかりのように、顔の最もハイライトの部分(つまりより立体感を出す明るい部分)には亀裂が目立たなくなっており、うっすらと亀裂の上をなぞるようにして、あたかも化粧の仕上げを描写するように、更なる筆の走りが実に巧妙に在る事を。これはダ・ヴィンチが描画の或る段階で亀裂が入るように絵の具の乾燥を操作し、亀裂が入った時点で、絵の具を柔らかい薄い布で亀裂を強調する為に詰め、その後をまた明るい肌色の絵の具で最も明るい部分を
描いていった事が、可能性として想像の上に見えては来ないだろうか。

 

前回のブログで拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』の内容について幾つか書いたが、もう1つご紹介しよう。ダ・ヴィンチが遺した手稿には、数々の考えが書かれているが、モナ・リザに関しては一切の記述・言及が無い…というのが研究者や識者の間での定説であった。…私はむしろ絶対に書いてある筈!という考えで、この国で読める手稿の全てを読破し、間違いなくモナリザについて言及している箇所というのを見つけたのであった。それにはこう書いてあった。…「或る作品の中で、異なった2つの遠近法が使われている場合、その作品は不気味で不安な印象を観者にもたらす」と。

 

 

モナ・リザの絵を観ると、腕を組んで妖しく微少する女性像は真正面から描かれているが、背景の謎めいた山河は、やや上から見下ろした視点で描かれた俯瞰的な描写という、異なる2つの視点、つまり異なる2つの遠近法で描かれているではないか。正にダ・ヴィンチの言葉そのままの事がモナ・リザには描かれているのである。

 

………(その絵は不気味で不安な印象を観者にもたらす……)、…私達がモナ・リザを観て率直に懐く印象は、正しくダ・ヴィンチが意図して手稿に記したそのままである。

 

 

………………………さて、私はここまで書いて来て、はたと気がついた。今回のブログの書き方でいくと、大変な分量になり、ブログというより、例えばフランス学士院に提出するような膨大な量の内容になってしまうのではないか…という事を。……一昨年に、アンドレ・マルロ-の見事な翻訳でも知られる竹本忠雄さんに、拙著『「モナ・リザ」ミステリ-』をお読み頂いた際に、この本は、翻訳してフランスでも実際に問うに値する内容と高く評価して頂いた事を、今、書いていて思い出した。このままいくと、とてもこのブログでは収まりきらなくなってしまうのである。なので少し先を急がねばならない。

 

 

〈実は亀裂は美しい。〉…というよりも、観る人にある意味、扇情的といってもいい程の感性を揺さぶる効果を与えるという事は、美学的にも謂えるかと思う。…その例を3つ挙げよう。…先ずは亀裂に美を見出だした「金継ぎ」という先人の優れた感性。…次に、先に掲載したペトルス・クリストゥスが描いた絵画の亀裂がもたらす効果は、まるで李朝の割れた皿の白い肌のように美しく、かつ妖しい。

 

 

…そして最後は、ピカソと並んで20世紀美術の美に対する新たな認識を呈示したマルセル・デュシャンの代表作・通称大ガラス作品『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』に視られる亀裂の大なる効果である。…デュシャンは途中まで作った処でこの作品を放棄した。…最後の詰めが浮かばなかったのである。ガラスに亀裂が入ったのは偶然であった。…作品をトラックで運んでいた際の運転手の運転が荒く、運搬途中でガラスに偶然亀裂が走った。…最初にそれを見たデュシャンは悲嘆したが、さすがにデュシャンである。…彼はこの事故による亀裂を恩寵と捉え、そこに視覚と観念の美を見出だしたのであった。

 

 

『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁さえも』

 

 

 

前回のブログで、ダ・ヴィンチが晩年に描いた、或る奇妙な一点の素描(晩年のダ・ヴィンチの後頭部に肉付けして描かれている後ろ向きで微少する女の描写)を掲載した。…私がこの素描こそ、晩年のダ・ヴィンチが秘かに描いた『モナ・リザ』の真意を暗示した素描であるという推理を込めて。

 

 

 

…それと、亀裂をダ・ヴィンチ自身が意図的に入れた…という事を併せ読むと、1つの仮説の内にモナ・リザに込めた真意のようなものが立ち上がって来る…それは『モナ・リザ』の顔は、『ペルソナ』(仮面)を意図して、その内にダ・ヴィンチ自身が孕んでいる、両性具有的にして、不可解極まる本源的な謎を封じたのではあるまいか⁉…という考えである。

 

 

 

 

…………しかし、この推理が仮に当たっていたとしても、それを確認する事は、未だ行方不明になっている残りのダ・ヴィンチの手稿が見つかって、そこに真意が書かれていない限りは永遠に謎である。…何故ならダ・ヴィンチは既に死んでしまって、永遠に答えてはくれないからである。…あくまでも仮説、しかし仮説を立てる事には大事な意味がある。

 

…芸術の意味とは、深い美を享受する感性の力であると共に、限りなく思索するという、人間にしか出来えない知の力の表れでもあるからである。

 

 

 

 

 

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『断章・二つの展覧会を観て』

 

先ずは写真展から。…先日、東京国立近代美術館で開催中の『中平卓馬 火-氾濫』展(4月7日まで開催)を観に行った。会場の展示が、中平卓馬の作品世界の固有な鋭さを映すように工夫がされていて、その知的配慮とセンスの良さに先ず感心する。

 

 

 

…中平の写真作品は、我が国を代表する写真家の一人川田喜久治の写真が持つ作品世界と共に、不穏な気配、凶事の予感に充ちていて特に惹かれるものがある。しかし川田の作品が個々に時代性を孕みながらも、普遍性という先の時間にもその効力を十分に併せ持っているのに対し、中平のそれはあくまでも60年代のオブセッションの闇に、そのレンズの切っ先が、あたかも同士討ちのように突き刺さっている、そう私には見えたのであった。

 

中平の言葉「…写真は本来、無名な眼が世界からひきちぎった断片であるべきだ」と語っているが、この世界という言葉はこの場合、彼が生きた60年代のそれに錐を揉むような鋭い集中を見せている。…中平の写真には、まるで殺人犯が逃げる時に視えているような風景の映しといった感の脅えがあるという意味の事を、以前に写真評論家の飯沢耕太郎さんに雑談の折りに話した事があったが、その特異なものが何から由来したものなのかを見つけ出す事が、今回、展覧会を訪れた主たる目的であった。…………広い会場の中で寺山修司と組んだ連載の雑誌が幾つか展示されていたのを見た瞬間、「これだ!」と閃くものがあった。…寺山の特異な言語空間(文体)を視覚化すれば、それはそのまま中平のそれと重なって来る。…もう一度、私は「これだ!」と思うものがあった。…寺山の文章が持っている固有な犯意性(犯人は本能的に北へと逃げる-北帰行の心理)とそれが重なったのである。……もう1つ思った事は、川田喜久治の作品各々が一点自立性を持っているのに対し、中平のそれは、引きちぎったメモの切れ端のように見えた事であった。…正に先に書いた中平の言葉そのものを映すように。……

 

 

先日の29日に、ア-ティゾン美術館で開催する展覧会『ブランク-シ/本質を象る』展の内覧会に行く。会の開始は3時からであるが、夕方に用事があるので午後の早い内に美術館に入った。取材中のプレス関係の人が沢山いたが、会場が広いので作品に集中して観る事が出来た。…先の近代美術館の展示と同じく、実に展示に配慮が行き届いていて感心する。展覧会への気合が伝わって来るというものである。…作品の高さ、そして最も大事な照明の具合。その配置。その何れもが作品各々に与えているのは、美というものが放つ超然とした品格である。

 

……周知のようにブランク-シは、ロダンから弟子になる事を求められたが拒絶した。ここに近代とそれ以前との明らかな分断がある事を彼の表現者としての本能が直観したのである。その独歩への意志と矜持と自己分析力が、彼をして時代を画するモダニズムの高みへと押し上げた。…そして、彼の作品の本質が意味するものを見極めていたのはマルセル・デュシャンである。その関係の豊かな物語りが、或る一角の展示の妙に現れていて、いろいろと再確認する機会ともなったのであった。

 

…内覧会の特典は展覧会の図録が付いて来る事であるが、今回の図録は読み応えのある内容で実に面白く、私は帰宅してから一気に読み終えてしまった。この図録はブランク-シについて考える時に今後の一級の資料ともなるに違いない。………中平卓馬の展示では、表現者として写真にも挑んでいる私にいろいろと考える機会を与えてくれ、またこのブランク-シ展では、今、正に制作中の鉄の作品、そして今、構想中の石の作品への善き刺激となる揺さぶりを与えてくれたのであった。…質の高い展覧会を折に触れて観る事は大事な事である。…中平卓馬展は今月の7日迄開催。…そして、このブランク-シ展は始まったばかりで7月7日迄の開催である。

 

 

…最近は制作に入り込んでいるので、なかなか出掛ける事は叶わないが、今、板橋区立美術館で4月14日迄開催している『シュルレアリスムと日本』展と半蔵門にある執行草舟コレクション/戸嶋靖昌記念館で4月30日から開催する予定の『砂の時間』展だけは、ぜひ観ておきたいと思っている。…………実は今回のブログでは、『一から三へと拡がっていく話』と題して昨今の事件騒動について書く予定であり、この展覧会の事はその序章のつもりで書き始めたのであるが、体力と字数がここで燃え尽きてしまったようである。…次回は、その事件の話から、優れた芸人だけが持っている性(さが)と、その狂気について具体的に書く予定。……その頃はさすがに桜も散っている頃か。ともかくも、…乞うご期待である。

 

 

 

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