『巴里炎上』

……あれは、3年くらい前の9月頃であったか、ベルギ―とパリに撮影に行った時の話。まだイスラム過激派組織(IS)が盛んにテロ活動をしていた時、私と写真家のM氏はバスに乗っていて「ISがパリのメイン観光地を狙うとしたら、次は何処を標的にすると思うか!?」という物騒な話をしていた。そして私は言った。「自分がISだとしたら、狙うのはル―ヴル美術館かノ―トルダム寺である」と。……最も打撃が大きいのは、この二つであると考えたのである。……その翌日、私はセ―ヌ沿いの古書店「Shakespeare and Company」の脇の道を撮影の為に歩いていると、パトカーが何台も停まっていて不穏な気配。……後日知ったのだが、私が危ない発言をしていた正に同じ頃、以前にISのテロリスト達が射殺されたのを恨んだ女性たち四人組が、正に私の予言通り、ノ―トルダム寺院に、ガスボンベを積んだ車ごと激突しようという杜撰なテロ計画が進んでおり、私が古書店の脇を通る数刻前に、計画を察知したパリ市警によって、その通り近くで決行直前に逮捕されたのであった。(この未遂事件は後日、NHKでも特番で報道されたので、ご覧になった方も多いかと思う。)……ともあれ、その時、ノ―トルダム寺院は危うく難を逃れたのであった。

 

 

しかし、歴史的にも象徴的な意味でも最もパリの心臓部と云える、そのノ―トルダム寺院が、原因未だ不明の火災によって炎上し、建物の中心上層部がことごとく灰塵に帰した。その炎上する様は中継で報道され、世界中が驚愕し、悲しんだ。……私がその炎上する様を観て、すぐ脳裡に重ね合わせたのは昭和25年に起き、三島由紀夫が題材とした『金閣寺炎上』を撮影した記録映画の場面であった。観念の美と現実の美が相乗して燃え盛る様は、悪魔的なまでに美の顕現化した姿であり、私達の原初的な感覚を揺さぶって、ある意味エロティックでさえもある。私はノ―トルダム寺院が巨大な黒のシルエットとなり、その後ろで加虐的なまでに燃え盛る業火の様を見て、今、この瞬間に、暗夜のノ―トルダムに一目散に走った俊敏な映像作家が必ずやいるに違いないと想った!……1ヶ所に定点観測のようにビデオカメラを設置して、この瞬間に、美の結晶的刻印を絡め取らんと冷静に凝視している俊敏な人物が、悲嘆にくれる民衆の群れ中に紛れ込んで、間違いなくいるに違いないと想った。もしいたとしたら、その人物は私の稀有な美的同胞であるに違いない!!……サイレントで流されるノ―トルダムの崩れいく映像の姿は、もはや神の代わりにAI なるものを絶対神として仰ぎはじめている、愚かな現代の歯止めなき傾向に対して、我々にとって真に貴重な物は何だったのか!?を突きつけながら、過去の時間の知の殿へと去り行く告別の姿としてもそれは映ったのであった。……そして美とは毒を孕んだ強度にして麻痺的なものであるという意味でも、ノ―トルダムの燃えいく姿は、多くの示唆を含んだものとして私には映ったのであった。……しかし、世の多くの人々は、この度のノ―トルダム寺院炎上を、人類史的な意味や世界遺産的な意味も含めて大いなる損失と叫んでいるが、実は、その意味で今回のノ―トルダム寺院炎上よりももっと大変な、取り返しのつかない事が、それ以前に、このパリで現実に起きてしまっているという事に全く気付いていないのである。……それについて、次回、強い憤りと共に私は書きたいと思っている。

 

 

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『春の雪』

昨日、北関東地方を中心に大雨が降り、やがて雪となって、散り始めた桜の花びらの上に白く積もった。……いわゆる「春の雪」である。三島由紀夫の絶筆『豊饒の海』4部作の第1部のタイトルはまさしくその『春の雪』。輪廻転生・唯心論などを絡めたこの長編小説の序としては「春の雪」というイメ―ジは暗示的でたいそう美しいが、しかし、昨日、現実に降った春の雪は、気象の狂いを如実に示し、今夏の更なる気温の上昇を暗示してたいそう不気味極まるものがある。日々定まらない気象の変動で、私達の内面の疲労はそうとう疲れきっているに違いない。

 

さて、元号が「令和」というのに決まった。旧きを辿れば、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と幕末には激しく入れ替わり、明治、大正、昭和、平成……と続き、この度の「令和」であるが、明治辺りから元号の響きが緩んで来たのに対し、この度の「令和」は、また聖武天皇の天平時代に戻ったような、今と馴染まない復古調となり、意味を砕けば、人々の間の最も大事な和を冷やすようで、いささか冷たく素っ気ない。……元号というのは例えるならば、夏休みが終わった9月の新学期の教室に突然現れた転校生のようなものに似て、ある日突然の感がある。最初は馴染まなかったであろう昭和や平成……。しかし、事情があって次の転校生と入れ替わりで遠くに去っていくのを知るや、たちまち感傷的になり、去っていく同窓生に「本当は、お前の中に俺の思い出がたっぷり入っているんだよ!」と、取って付けたような寂しさひとしおとなるのであるが、この度の「令和」は、かなりひんやりとしていて、あまり向こうからも打ち解けて来ないように思われる。担任は「まぁ、みんな、うまく付き合ってやってくれよ」と云うのであろうが、「令」の語感の冷たさには、それにしても他に無かったのかと、万葉集に詳しい、その学者さん達の、マニアックな知識は結構だが、肝心な言霊の受容センスの無さには、いささかの「おむずがり」も出ようというものである。

 

 

 

 

 

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『桜の下の芥川龍之介』

昭和二年、すなわち芥川龍之介が自殺する年に谷崎潤一郎と交わした「小説の筋」をめぐっての論争は、近代文芸史を代表する一つとしてあまりにも有名である。……芥川は、技巧を凝らさない筋のない小説こそ良いとするのに対し、谷崎が主張したのは、作為や技巧に富んだ小説こそ是とするものである。この各々の主張は、つまりは美意識の相違を通して彼らの資質(芥川の本質は短篇―詩的散文にあり、谷崎はそれに対して緻密で肉厚な構造体を要する長編にある)にまで及んでいるのであるが、この論争はいま読み返してもなかなかに面白い。……しかし、この二人、論争はしたが普段はいたって仲が良く、才は才を知るの言葉を映すように、よく連れ立って出かけてもいる。しかし、仲の良さは死後までも続き、二人の墓が向かい合って在る事を知る人は、あんがい少ないかと思われる。……墓の在る場所は染井墓地に隣して建つ慈眼寺。時は折しも満開の桜が咲く快晴の日。「思い立ったが吉日」は、自由業の云わば特権のようなもの。さっそく出掛けてみる事にした。場所は豊島区駒込、下車する駅は〈巣鴨駅〉である。

 

……巣鴨駅を出て、とげぬき地蔵のある巣鴨地蔵通り商店街に向かう道があるが、そこに入らず通りを右に横断して細い道を進んで行くと、突然右側に、いかにも怪しく謎めいた昭和初期に造られたと覚しき帝都の面影を残す古びた洋館が現れてくる。―その名を『ヴィラ・グルネワルト』。……いかにも怪しい訳ありのようなネ―ミング。火曜サスペンス劇場の舞台としては最適なこの洋館には、私の旧知の友が二人、各々に住んでいて久しい。フランス語翻訳の達人で、西脇順三郎論などの論考も著している中村鐵太郎君と、歴程賞などを受賞している詩人の阿部日奈子女史である。舘の玄関の扉を押すと、重く鍵が掛かっていて開かない。……事前連絡無し、思い立っての突然の訪問であったが、建物の前で携帯電話をかけても、何故か二人とも繋がらない。……ひょっとしてもしやと思い、半開きに開いている窓に向かってオ~イと各々の名前を読んでも返事がない。というよりも建物の住人全員が神隠しにあったような無人の気配、……先を急ぐ旅ゆえ、やはり○○なってしまったのかも知れないとここは急ぎ結論付けて、次のお目当て地の「芥川チョコレ―ト」という、昭和30年代に在った紡績工場のような懐かしい工場へと向かうが、かつて記憶しているその場所に工場の姿が無い。……信号待ちしている自転車に乗った初老の人に訊ねると、最近、巣鴨駅近くに移転したという。聴きなれない「芥川チョコレ―ト」という、この味のある名前。ちなみに芥川龍之介とは無関係らしいが、帝国ホテル専門にチョコレ―トを作って納めているらしい。以前に来た時はチョコレ―トの甘い香りが漂っていたものである。……さて、先ずは染井墓地である。折しもソメイヨシノが満開のこの広大な墓地。……岡倉天心、高村光雲・高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、土方久元(龍馬、中岡慎太郎と共に薩長同盟の仲介に尽力)……等の著名な人達が眠る墓地をゆるりと抜けて慈眼寺へ。境内にある墓地の奥まった場所に、今日の目的である芥川龍之介、そして谷崎潤一郎の墓が向かい合って在る。この二人の墓を目指して来たと思われる何人かの参拝者の姿があった。……芥川龍之介の墓は独立して在り、横の墓に妻の文、ご子息の也寸志、比呂志……の墓碑銘が彫られている。向かいに在る谷崎潤一郎の墓は、やはり独立して潤一郎の墓が在り、その周囲に親族の墓が在る。但し、谷崎潤一郎の墓は分骨であり、もう1つの墓は京都・法然院(やはり桜の名所)に在る。暫し二人の墓を観ながら、生と死の境の無さに想いが至る。…………晴天のこの日、まだ時間があるので、巣鴨の商店街を抜けて、「庚申塚駅」から都電荒川線に乗り、終点「三ノ輪駅」へと向かった。……途中の「飛鳥山駅」を通過した辺りで、車窓から一瞬、チラッと見えた電信柱に「尾久」という地名を記した白いペンキ文字が目に映り、私の脳裡にピンと来るものがあった。……〈荒川区尾久〉……間違いない、ここは、かの阿部定事件(昭和11年)が起きた待合い「満佐喜」が在った場所である。……以前のメッセ―ジでも書いたが、私は以前に、立教大学女子大生殺人事件の犯人、大場教授の別荘裏の事件現場(……警視庁の捜査が始まった同日に)行き、また昭和13年に起きた、津山30人殺しの現場が在った岡山県、美作加茂の現場にも行ったが、不覚にも阿部定事件のこの現場は未だ来ていない。……かつて私は、非公開となっている東京大学医学部解剖学標本室を訪れ、私の事を妙に気にいってくれている教授と話をしている際に、成り行きでたまたま阿部定事件の渦中の逸物(つまり、被害者・石田吉蔵の切り取られた○○)の現物の標本を見たことがあり、ぜひいつか現場へ!……と思っていたのだが、作品制作や個展、はたまた撮影の旅に追われて機会を作れなかったのであるが、う~む、またしても先方(場の強い磁力)から喚ばれているようにも想われる。今日、偶然目に入った電信柱の文字は、私にはそう想われる。…………さて、電車は終点の三ノ輪駅へと着き、私は明治の中期を駆け抜けた天才―樋口一葉の遺品が展示されている記念館へと歩を進めた。……ここ半年近く、私はこの天才女流作家、―かの森鴎外をして(真の詩人)とまで言わしめた樋口一葉の作品世界とその人物に入り込んでいる。……この人物が持つ計り難い多面的な謎と、その純度の高い詩心については、また近々にこのメッセ―ジで書く事を期して、今回の「桜の下の芥川龍之介」を終える事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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『産婦人科に行った日の事』

……季節は啓蟄となり、春の芽が息吹きはじめた或る日、多摩美大で喋っている友人のTから連絡があり、「たまにはもの語りなどしよう」との誘いがあったので、気分転換のつもりでアトリエを出て、世田谷の上野毛にある大学を久しぶりに訪れた。……上野毛駅を出て、かつて私も通った多摩美大への道は、まるで時が止まったように昔日の姿を留めていて懐かしい。20才の頃の、よれよれの服と生意気な面。そして金が無いので伸ばし放題の髪をした自分とすれ違うようで妙に懐かしい。……大学の門を入ると、記憶のままに右側の下り傾斜にある、うす暗い駐車場へと至る。信じがたい話だが、この大学には体育館なるものが無かったので、空手部と剣道部がこの狭い駐車場を半分に分けて汗を流していた。当時、私は剣道部に入っていたので、古い日記を開くように、ここにはいっそうの思い出がある。……Tとの約束した時間にはまだ間があったので、私はふと昔日の或る日の事を思い出し、「そうだ、あの時お世話になった、あの産婦人科医院はまだあるかな!?」と思って、大学のすぐ真裏、瀬田にあった産婦人科医院へと向かった。しかし、その辺り周辺を廻っても、あの日の夕暮れに明々と灯っていた「○○産婦人科医院」の大きな看板は見当たらず、あの時、お世話になったあの医院は無くなっていた。そして替わりに、あの日の苦い出来事がまた、フラッシュバックのようにありありと甦って来た。

 

 

……あれは、私が3年の時であった。独学で銅版画にのめり込み、版画科の学生達が制作している明るい時は剣道に励み、皆が帰った夕方から私は誰もいない版画実習室で一人、作品を作っていた。……そしてその日は、私は銅板にミリ単位の間隔で定規を使いカッタ―を引いて深々とした線を刻んでいた。どす黒く、精神に斬り込んでくるような鋭い暴力的な黒の面を作りかったのである。のめり込んで作っていると、現実感が無くなってくる時がある。その時がまさにそれであった。……ザクッと心臓を突くような鋭い感覚と次に鈍い痛みが走った時、、カッタ―の硬い刃先は定規を斜めにえぐってなお走り、更に私の左の親指を深々と斬り込んでいた。パックリと開いた指の腹。直後に噴き上げてくる鮮血を見て、誰もいない実習室の中で私はどうすべきか焦った。何故なら、既に夕方で保健室は閉まっており(開いていても常駐の保健医など見た事がない)、血はどんどん流れ出てくるのである。そして、混乱する頭の中に、剣道部の稽古時に防具を付け裸足で走っていた時にふと見た、瀬田の畑と人家の間に場違いのように建っていた、○○産婦人科医院の事が過ったのであった。

 

指を布切れで押さえながら、大学裏にある産婦人科医院に走ると、まるで地獄で仏のように看板の明かりが灯っていた。医院に入ると、看護婦が二人出てきて、布に染まった鮮血を見て、すぐに事を理解してくれた。「とにかく中へ!」と促してくれたその時、床に鮮血の塊がボタリと落ちた。「おっ、綺麗だな!」と思った瞬間、私の背筋をひんやりとした震えるものが走り、不覚にも私は失神し、後ろへと倒れていった。手慣れた看護婦が倒れていく私をハタと受けとめてくれたのは、いま思い返しても頭が下がる。その看護婦二人が私を抱えて何処かへと運んでいくらしい。…………やけに眩しい照明がバチりと私の顔面を照らしたので、ふと我に帰ると、私がいる場所は分娩台の上であった。数年前のブログに書いたが、かつて私はブル―ジュの博物館の中に設置してあった本物の古いギロチン台の展示を見て、部屋に人が誰もいない事が後押しとなり、好奇心を押さえきれないままに台の上によじ登り、紐で釣り下がっているギロチンの刃の下に首を潜らせ、マリーアントワネットの断末魔の感覚を味わった事があった。もし紐が切れたら一巻の終り「ブル―ジュで日本人の旅人、まさかの事故死!」であるが、恐怖よりも好奇心の方が私を震わせてやまない。とはいえ、ギロチン台に首を潜らせた人間も珍しいかと思うが、次にまさかの分娩台の人になろうとは……。ともあれ、院長の手慣れた技術によって傷口は縫われ、包帯が巻かれて私は安堵した。そして感謝を述べ「今日は治療費は持っていませんので、明日持って参ります!」と云って医院を後にした。……しかし、明日の食費のあてもない苦学生に保険の効かない高い治療費など払えない。……私は医院を去る時に今一度振り返り「すみません、お世話になりました」と呟いた。……名前も告げておらず、私はこのまま消えようと思ったのである。

 

その後、次第に傷口は塞がっていったが、まだカッタ―で銅板に線を切り刻むだけの力は出ない。その時に作っていた作品「Diary―Ⅱ」は、近々にあるコンク―ルに出品する予定だったが、応募〆切迄に時間がない。……その時、美大の後輩のSの事が閃いた。Sは私の事に興味があるらしく、時々、版画の実習室にも遊びに来ている。私はSに電話をして、カッタ―で線を引く作業の手伝いを頼むとSは喜んでやって来た。そして、私の代わりに作業をしながら、傍にいる私との会話を楽しんでいた。……まさかの事が起きたのは、その時であった。私の耳に「北川さん、やっちゃった!」という信じたくないSの悲鳴が響き、見ると、左利きのSは私の時とは真反対の右の親指の腹がパックリと開き、その顔は痛みで歪んでいる。……時刻はあの時と同じ夕刻。私はSを励ましながら、あの、もはや訪ねる事はない……と思っていた産婦人科医院へ行くしかない、と腹を括って駆け込み、Sもまた分娩台の人となった。……Sにも、また院長に対しても、もうしわけないという気分と、とうてい払えない治療費の事が頭を過りながら、Sの治療されるのを見守っていた時、院長が私に「あれからずいぶん経ったねぇ!」と笑いながら語る声が聞こえた。「えぇ、全くこいつが……」と、私は分娩台の上にいるSの頭を軽くピシャリと叩きながら、訳のわからない返答をした。…………私はしかし幸運であった。今のように儲け主義に走って「医は仁術(博愛)」が遠退いた時代と違い、その院長は私がまさに極貧であるのを理解してくれて、今は死語となった「出世払いでいいから、余裕が出来たら持って来なさい」と云ってくれたのであった。…………それからずいぶんの時が経った。あの時、既にご高齢であった院長は、もう亡くなられてしまったに違いない。……私は、あの時に医院があったと覚しき場所に暫し立ち、美大へと戻った。大学に戻り、研究室で助手の人から、かつて地下に在った版画の実習室も、今は演劇の学科の倉庫になってしまったという話を聞いた。…………約束していたTと、暫く美術の現況についてもの語りをして、私はアトリエへと戻ったのであった。

 

 

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『饗庭孝男さん―我が文芸事始めの人』

……前回のメッセ―ジで、私は画家の到津伸子さんについて書いた。その文中で、私はパリの深夜のカフェで、到津さんに積極的に文筆活動をしていく事を強く薦めた事を記した。彼女の友人で作家のロラン・トポ―ルもまた同じ頃にそれを薦めていたという。到津さんは私達の薦めもあってか、以後の拠点をパリから日本に移し、文筆活動を精力的にしていく事となる。……しかしその頃(1991年の冬)の私はと言えば、雑誌『太陽』からの執筆依頼で『X宛のバルセロナよりの書簡』という短い連載文や他雑誌からの紀行文をパリの屋根裏部屋で書いているくらいで、文章に関しては未だ散文的な日々を送っていた。到津さんにアドバイスはしたが、自分への何かモメントのような物を私はまだ見いだせないでいた。その私が文章への意欲を俄然立ち上げたのは、石のパリの灰色の冷たさが和らぎ始めた頃であった。……パリの14区に世界中の留学生や研究者が滞在している「パリ国際大学都市」というのがあり、そこにバロン薩摩と称された薩摩治郎八が私財を投じて建てた日本館がある。ある日、私はそこに滞在している友人で、当時は京大の建築科の助手であった平尾和洋さん(現・立命館大学教授)を訪ねて行った事があった。しかし平尾さんはまだ帰って来ていなかった為に、私はそこにある図書室で本を読みながら彼を待つことにした。その図書室の中で、幾冊かの本をつらつらと読んでいた時に、私は初めて饗庭孝男(あえば・たかお)という優れた文芸評論家の存在を偶然知ったのであった。何気なく書棚から取り出したその本は、饗庭さんの『石と光の思想』という本であった。……10代の頃から、三島、川端、谷崎、また泉鏡花、永井荷風……更には数多の詩人達の作品らに影響を受けていた私ではあったが、優れた文芸評論……というよりも、その深い思索を実に美麗にして読みやすい文体で綴ったそのフォルムに、私は打ちのめされ、自分の進むべき指針を得たような決定的な出逢いを覚えてしまったのである。以前にニュ―ヨ―クから頂いた池田満寿夫さんからの手紙に「私はあなたの文学との関わり方にも大いに興味があります。」と記された一文があったが、自分が進むべき文章の有り様へのヒントが、饗庭さんの文章との出逢いで漸くうっすらと見えて来たのであった。しかし……具体的な発表の場など、美術の分野にいる私などにあろう筈がない。

 

〈日本館〉

 

しかし、一年間の留学を終えて帰国した私に、積極的に文章を書いていく事になる大きな転機が待っていた。名編集者としてその慧眼を知られる新潮社の中瀬ゆかりさん(現・出版部部長)と幸運にもめぐり逢えたのである。……文芸誌『新潮』の中の小説の挿画を画く事になり、その打ち合わせで先ずはお会いしたのであるが、中瀬さんは私の語る留学時の様々な話に興味を持たれ、視点と着想に独自性があると言われた時は大きな自信となった。中瀬さんは不思議な眼力の持ち主で、これから伸びていく人は、私にはオ―ラのような光を放って輝いて見えるのだと言う。その後に本郷にある東大の医学部解剖学教室の部屋で再びお会いした時に、先ずは『新潮』に文章を書くように突然言われた。『新潮』と言えば、三島由紀夫、川端康成ほか名だたる文豪達の主要な発表の舞台であるが、そこに近々に書くように言われた私は、いきなりの事にさすがに緊張したが、硝子という素材への私の偏愛と郷愁を主題にした『水底の秋』という文章を書いてOKとなり翌月号にそれが載った。そして中瀬さんからは続けて書くように言われ、私はピカソ、ダリ、デュシャンの知られざる逸話を絡めた『停止する永遠の正午―カダケス』という、80枚ばかりの原稿を書いた。中瀬さんは私の手書きの原稿をプロならではの速読の物凄い速さで読み進み、書き直し無しの一発OKがその場で出た時は、本当に嬉しかった。……中瀬さんはその後、『新潮45』に異動されて編集長として活躍されるのであるが、異動後もいろいろとサポートして頂き、本当に助けて頂いた。そして、私は続けて、フェルメ―ル試論とも云うべき『デルフトの暗い部屋』を書いて『新潮』担当編集者の方に渡した。……掲載の是非の知らせがなかなか来ずに気をもんでいたある日、『新潮』の編集長自らが電話をかけて来られ、昨日、編集会議があり、編集者全員の一致で掲載が決まった事、また美術に関する物としては過去に類が無いほどの緻密にして美しい文章である事を言われ、引き続き執筆していく事を強く薦められた。私はその時に、目標としていた饗庭さんの事がふと頭を過った。……その後に書き下ろしで170枚以上となる異形な視点から書いたレオナルド・ダ・ヴィンチ論『「モナリザ」ミステリ―』を書き上げ、新潮社から『「モナリザ」ミステリ―』のタイトルで、以上の三部作を収めた本が刊行されすぐに増刷となり12000部以上が読まれて話題となった。……そして、書き下ろしの詩を80点近く入れた写真集(沖積舎)を出し、また新潮社からは久世光彦さんとの共著『死のある風景』の刊行などが続き、求龍堂からは『美の侵犯―蕪村X西洋美術』……へと刊行が続いていく。この本も話題となり、多くの書評が書かれたが、最も鋭い批評眼で知られる齋藤愼爾(さいとうしんじ)さんからは、新聞の書評で「この国の美術評論家が束になってもかなわない事を、北川健次はこの一冊で成し遂げた」と書かれたのは嬉しい手応えがあった。しかし、それに相当するような存在感のある美術評論家が、では現実にいるかと云えば、現在全く見当たらないのは、美術界の哀しい現実かと、また思われる。

 

鉄をも切り裂くような鋭い批評眼を持った齋藤愼爾さんに新刊の『美の侵犯』を献呈としてお送りするのは、些かの躊躇いというのがあった。真っ向から否定されるのではという不安と、この眼力の高い人ゆえにこそ、踏み絵に乗るようなつもりで送らねば……という想いが交差していたのである。だからすぐに齋藤さんから電話が入り、その切り口を絶讚されて、「新聞の書評欄に書く!!」と云われた時は安堵し自信もまた甦って来た。しかし、本をお送りするのに躊躇した人がもうお二人存在した。……日本を代表する比較文学者の芳賀徹さんであり、もうお一人が饗庭孝男さんである。芳賀さんの『与謝蕪村の小さな世界』『絵画の領分』……といった名著の数々から、比較論的にかつ複眼的に物を観て、考える事の豊かさと蒙を開かれた私は、30代に芳賀さんの本に出逢って、どれだけ視野が拡がった事か。しかも芳賀さんには一面識もないにも関わらず、私は今まで多大なる影響を芳賀さんから受けた事を記した手紙を添えて本をお送りした。まもなくして、その芳賀さんから「私も本当はこのような自在な切り口で、蕪村を書いてみたいと思っています。」と書かれた長文のお手紙を頂いた時はさすがに熱くなり、また執筆の労が一気にほどけていくような安堵と手応えを覚えたのであった。……しかし、饗庭孝男さんには、まだまだ!という躊躇が先行して遂に送らないままに時が過ぎていった。……それからも饗庭孝男さんは、私にとっての鋭い指針であった。

 

時が過ぎて、私はそれまで19年間過ごしたアトリエを移り、現在の仲手原という場所に引越して来て、新たに制作の場を作った。通りから一歩入った閑静な場所である。……引越して来て片付けも完了し、ようやく落ち着いたある日、そのアトリエに詩人のKさんが私との詩画集の打ち合わせの為に来られた事があった。……詩の舞台はヴェネツィアにしたいというKさんとの話の流れで、話題がふと饗庭孝男さんの話になった。饗庭さんの本の中にもヴェネツィアが度々登場するからである。……聴いて驚いた事は、Kさんは饗庭さんと長い知己があり、最も影響を深く受けた人であるという。しかし、その後に続いて出た話に私は驚いた。……饗庭孝男さんのお宅は、私のこのアトリエのすぐ間近にあり、その饗庭さんは私がこの場所にアトリエを移すべく引越して来た、まさにその同じ月に亡くなられたのだという。私はKさんに饗庭孝男さんのご住所を教えて頂き、すぐにその場所へと向かった。何と歩いて数分の場所にそのお宅はあった。……そして、饗庭さんと私のアトリエの間には、饗庭さんが散歩の折りによく休まれていたという小さな公園があった。そこは私にとっても密かな安息の場所であった。……パリで偶然に知った饗庭さんの文章の、美しくも強靭な思索と陰影に富んだ世界。その方向の凛とした気韻ある表現の有り様を範として、私は文章を、自分の分野を越境するようにして書くようにようになった。その範とする私を導いてくれた人が、まさか私の間近に長年住んでおられて、数多の美しい文章を紡いでおられ、私はその場所に引かれるようにして引越して来た、……というのも、また何かの不思議な縁なのであろうか。…私にとって、文章を綴る営みというのは、オブジェなどの「語り得ぬ領域」に対する、もう一方に在る「語り得る領域」という、これもまたスリリングな世界である。…………思えば、中瀬ゆかりさん、芳賀徹さん、……そして饗庭孝男さんは、私が文章を書いていく上での導きの人達である。私が次に書く内容は、更に深化したものでなくてはならず、またそのように自分を追い込む事は、表現者としての愉楽でもあるだろう。とまれ、この不思議な導きを得難い縁と思って、また新たに次なる執筆に私は向かいたいと思っている。

 

 

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『到津伸子さん』

私が画家の到津伸子さんと最初にお会いしたのは、当時契約していた銀座の番町画廊であった。ある日、私が画廊に入っていくと、画家とおぼしき目の鋭い利発そうな女性が自作の版画を床に並べて、画廊主の青木宏さんと個展の打ち合わせをしているところであった。青木さんが、「到津さん、彼が北川健次さん!……」と紹介すると、その女性はチラリと私を見て「あぁ、パリで池田満寿夫さんから、あなたの事は聞いてたわ、彼は褒めていたけど、でも私には鎖国時代の伴天連(バテレン)のような版画にしか見えないわ!」とズバリ言った。私は「バテレンとは面白い!……確かにそうかもしれないね!」と笑い返すと、一転して柔らかな微笑を見せてくれた。私は「……この人とは、永い付き合いの友達になるな!」と直感した。そして思ったとおり、以後40年近い付き合いの、云わば同志のような関係を結んでいく事になる。……到津さんは、芸大の油画科を卒業すると、すぐに単身でパリに渡り、30年近い日々をパリでボヘミアンかつ高等遊民のように画家生活をして過ごすという自由な人生を選んだ。そして鋭い独自の眼を養っていき、あくまでも世間の常識には囚われない、醒めた批評精神の持ち主となっていった。…………昨年の11月末、私が本郷の画廊で個展開催中にも来てくれて、一緒に画廊を出て、夕暮れの神田川沿いの道を歩いた。彼女は、昨年の4月に急逝したお母さんの話をして、「母は、来年の桜の咲く頃に私は死ぬわと予言して、そのとおりに突然亡くなったの」と話し、「よかったら母の写真、見てくれる?」と言って、バッグの中から一枚の写真を取り出した。凛とした、美麗な顔の女性で、横光利一の小説『上海』にでも出てきそうな、品格と謎を秘めたような姿がそこには写っていた。「美しいね、この時代の女性の美しさを全部持った人だね」と話すと、嬉しそうに笑った。……到津さんは最近、急に足が痛みだし、画廊に来る前に順天堂病院に寄ってから画廊に来たのだという。「あなたは、大丈夫なの?」と言うので「膝が痛い時があるけど、気にしてないよ、なんだかピノキオが壊れていくみたいで、意外と自分で面白がってるよ」と話すと、相変わらずね……とばかりに笑ってくれた。……それから、この国がもはや体が無いまでに狂ってしまっている事、松本竣介……の事などを話しながら歩き、御茶ノ水駅まで来て、「じゃ、さようなら」「またいつか!」と言って握手をして別れた。改札口に向かう彼女を見送りながら、とても不思議なくらい気持ちの良い別れ方だったなと思い、清々しい余韻が残った。……それが、まさか到津さんとの、この世での最後の別れになるとは知るよしもなく、私は年が明けても、時おり、その日の事を思い出していた。…………到津さんと深く関わっておられたギャラリ―サンカイビの平田美智子さんから、「到津伸子さんがスキルス性の癌で今朝亡くなられました」との知らせが入ったのは昨日の夕刻であった。私と別れてから1週間後にガンが見つかったが、もはや手遅れであり、僅か1ヶ月半後の先日の早朝に亡くなられたのだという。有明がんセンタ―の最上階、彼女の病室の窓からは、東京湾の眺望が眼下に広く眺められる、彼女の人生の終章に相応しい壮大にして美しい眺めであった事を、連絡を頂いた平田さんから伺った。……そして私はいま、走馬灯のような想い出の数々を振り返りながら、茫然としているのである。

 

到津さんとの想い出は幾つもあるが、やはり、私がパリに住んでいた28年前の時が最も記憶に残っている。……パリ6区のサン・ミッシェル通りとサン・ジェルマン通りが交差する角に老舗のカフェがある。その中で私と彼女は珍しく深夜まで真剣に話し合っていた。彼女はそれまで、画家でありながら雑誌にパリの文学者へのインタビュ―記事などを時おり書いていた。その文章の座りかたや切り口に独自の才能を感じた私は、この辺りで拠点をパリから東京に移して、文章も本格的にやっていく事を薦めた。彼女の独自な視点と、日頃語る切り口は、話をするだけでなく、文章にして残す形、第三者にも広く伝わった方が良いと思ったのである。……私はその後に拠点をロンドンに移す事になりパリを去るが、その頃に彼女は腹を決めて日本に拠点を変え、文章での表現活動も積極的にやっていく事となった。……彼女の文才に眼をとめた編集者が動いて、雑誌「マリ・クレ―ル」にパリの日々を綴った連載を書き始め、次にエッセイをまとめた『不眠の都市』を講談社から刊行した。私は送られて来た本を読んで、その才能に震えた。そして彼女にすぐに電話をして「エッセイの形を借りた、これは間違いなく文学だよ!……小説に膨らむ主題を、あえてエッセイの鋳型に入れた事で内容に膨らみと艶が出ている!到津さん、見ててごらん、この本は間違いなく賞を取るから!!」。……果たして私の予言した通り、この『不眠の都市』は、その年の第19回講談社エッセイ賞を授賞する。……吉行淳之介、池内紀、四方田犬彦、阿川佐和子、須賀敦子……と続いたこの賞はレベルが高く、このまま文章と絵画、そして以前から始めていた写真の幅広い作家活動を開始するかと思われた。しかし、到津さんは次は長編の小説に挑むという。……私はその話を聞いて、珍しく反対の意見を出した。……彼女の本質は短編こそ合っていると分析し、その事を伝えた。あたかもスノード―ムのような掌に乗る器のかそけき短編の中に、パリで体験した事実と、虚構を入れ混ぜて、非在のパリ、非在の東京を往還し、彼女が私に教えてくれた、パリに実在する美しい言葉―「冬のサ―カス」の語感のような夢のアラベスクを織り込んでいく事にこそ、彼女の最たる可能性があり、その方向を独歩していけば、彼女しか出来ない新たなジャンルを確立出来ると私は思ったのである。……しかし、到津さんは、私は長編小説で行く!という。彼女の体験の中には、まぁしかし、エッセイや短編の形でなく、長編でしか立ち上がらないイメ―ジ世界も秘かにあるのであろう。そう思った私は、その後の執筆を遠くから見守る事にした。……そして、その後、私自身も次第に文章を精力的に書き始め、文藝誌『新潮』での発表を機に、新潮社や求龍堂、他から単行本を出し、写真集も刊行していく事になり、到津さんと会って話をする時は、絵画、文学、映像、写真、……多岐に渡った話をする仲になり、表現活動における貴重な同志のような存在になっていった。常に考える人であり、故に話も面白く、……故に今、大きな何ものかを失ったような不条理な喪失感が私を襲っている。……到津さんは、その後、10年以上をかけて長編小説に挑み、600枚以上を書き上げて、校正も終わり、まさに刊行直前での急逝であったと聞く。……彼女の死を知った夜に、到津さんの夢を見た。……というよりも、亡くなられて間もないこの時に、別れを告げに現れてくれたのだと想う。……夢はこうであった。……綺麗な屋敷の中の端に不思議な幾重にも折れ曲がった長い階段を何故か私が上っていく。……階段の下に到津さんがいて、私に「ねぇ、面白いでしょ!」と下から声が聞こえてくる。私はズンズン上りながら「まるでピラネ―ジやエッシャ―の絵のような果てのない階段だね」と言う。彼女は「面白いでしょ、きっとあなたなら面白いと言ってくれると思ったの!」と弾んだ声が聞こえてくる。しかし、次に上から声をかけても、下にいる筈の彼女の存在感が、いつしか消えており、私は階段の上に在って、但、空(くう)を見つめる所で、弾けるように夢は終わったのであった。……夢から醒めた私は、この無限に長い階段の意味を考えて、スッと気が付いた。……この長い階段は「長編小説」の暗示なのだと気が付いた。到津さんは、私に十年以上をかけて書いた600枚に到る長編の小説を、私に読ませたかったのだと気が付いたのであった。………………「地上とは思い出なりき」と稲垣足穂は語った。また澁澤龍彦は「人生とは夢のようだという言葉があるが、本当に夢なのかもしれないね」と亡くなる直前に語った。……また、「私達の終の住みかとは忘却である」と、ある詩人は私に語った。……とまれ、私は最後に御茶ノ水駅での別れの時に到津さんに交わした言葉―「また、いつか!」を思い出の中に放って、しばしの魂の交感をしていたいと思っている。

 

 

 

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『バックパックに想いを込めて!!』

関東地方はカラカラの天気だというのに、北陸・東北、そして特に北海道は寒波が停滞して豪雪となり、ホワイトアウトによる死者が出たり、連日の雪下ろしで疲れ果 てている人達の姿が報道されて、なんとも痛々しい状況が続いている。……私も雪国の出身なので、子供の時に突然のホワイトアウトで死にかけた事があり、また雪下ろしの大変さも知っている。汗だくで雪を下ろしても、その夜半からはまた新たに雪が降り積もり、絶望的な夜明けがまた待っているのである。しかし、屋根に雪がかかる重さは何トンという負荷がかかっており、下ろさないと屋根が崩れ、そこに住む人は圧死する危険があるので雪下ろしは命がけである。…私はその光景を先日テレビのニュ―スで観ていて、ふと考えるところがあった。

 

……北国の屋根事情は知らないが、だいたい関東の方の屋根の傾斜角度は23度~30度くらいかと思う。そこに雪が降ればやがて積もる。……では1トンの雪がズシリと降り積もったとして、屋根の傾斜角度が何度になれば、雪は自らの重みで斜めにズルズルと滑り落ちていくのであろうか?……もっと屋根の傾斜を鋭くすると、家自体の広さは狭くなってしまう。ならば、屋根を2層にして、降雪予報が出た時に、上の層の屋根を操作で動かし、傾斜を例えば30度から50度へと、あたかも初期のサンダ―バ―ドの映画の基地のように作動させて傾斜を鋭くすると、積もった雪は自らの重みで、左右に滑り落ちていくのではあるまいか?……あまりにも、人々は屋根のイメ―ジを概念的に決めつけてしまっており、雪下ろしは運命と思い込んではいないだろうか。……飛騨の五箇山の藁葺き屋根は、屋根の傾斜が45度くらいあり、かなり鋭い。しかし屋根の素材が藁葺なので雪はそこに降り積もる。ならば、屋根の素材(今はスレ―トが主であり、その表面はザラザラである)を考えて、安価で軽い物にして、しかも雪が根雪にならず、次から次と滑りやすいツルツルの素材にしたらどうであろうか?昔と違い、例えばNASAでは開発の更なる改良段階でたくさんの新素材が生まれているが、いま知恵を搾れば、この難題は解決するのではないだろうか?……屋根の裏側にヒ―タ―の配線をする案は既に考えられているが、価格が高く電気代がかなりかさむというので人気はない。むしろ、屋根の素材そのものに画期的なのが開発されれば、それを考えついた会社は、或いは人は大成功必至であるに違いないが如何であろうか。……読者諸氏よ、小学生のような発想だと笑わないで頂きたい。私はけっこう熱くなっているのである。

 

……さて、実は今回のブログのメインの主題は、前述した屋根ではなく、実は「バックパック」である。日本ならまだしも海外に行くと、たくさんの旅行者が盗難の被害に遭っている。背中に背負ったバックパックのファスナーやジッパーが外されて、中の現金やパスポ―トが抜かれるという被害が後を絶たない。……ヨ―ロッパでは中世から泥棒の学校があると言われる程に盛んであり、その技が巧みである。しかし、性善説を信じるかのように、特に日本人は無防備、無警戒であり、バックパックやカバンから抜きとられる被害が実に多い。……以前にANAの機内誌『翼の王国』の編集部からの執筆依頼でパリに取材に行った際に、ズボンの後ろにしまった私の財布が丸見えであった。空港でそれを見た現地のコ―ディネ―タ―の人から「北川さん、それ間違いなくやられますよ」と言うので、私は「大丈夫ですよ。私の神経の張りは普通じゃないですから」と笑って返したら、「彼らは手品師のような技を持っているのよ」と言われたので「確かに!」とすぐに考え直して、財布を服の下に入れ換えて、事なきを得た事があったが、私がよく行くブロカント(骨董市)では、背負ったバックパックに「もしや……」の神経がいって十分に楽しめない。私は今まで全く無事であったが、バックパックから抜かれた人達をずいぶんと見て来たものである。

 

ここ数年来、私はカバン店に入る度にバックパックで探している物がある。……それは、両肩に背負って、背中に面して接する側(つまり、バックパックの裏側に中の荷物を出すファスナーが縦に長く入り、目に見える表側には、見せかけのファスナー〈つまり、ダミ―〉が幾つか細かく付いている)バックパックである。海外に行った際に必要なのは、お洒落なデザインでなく、実践的な防御に徹した物に限るのである。そういうバックパックがあれば、受難からも免れる可能性が高く、またスリがバックパックの表側のファスナーをそっと開こうとしても開かない光景を考えることは愉快なものである。…………そういう実戦的なバックパックがないかと探しているのであるが、これが全く見当たらない。お洒落なコ―ナ―でなく、専門のトラベル用品の店に行っても皆無である。……海外の旅に詳しい友人達に聴いても、見たことがないが、あったらぜひ買いたいね!……それは海外の旅の経験が深い人達ほど間違いなく売れるよ!と言うのだが、なぜか皆無である。だから、私はこのブログで提案するのであるが、このブログを読まれた方で、即、行動力があり、またまとめて現金収入が欲しい人がおられたら、私がいまブログで書いたバックパックの形状内容を幅広く詰めて書いて、すぐに「実用新案登録」の申請登録を先ず固めて、次に「実用新案技術評価書」を取得し、権利を固めてから、カバンの企業に持ち込んで、個数による印税でなく、そのアイデアごとまとめて売れば、「ここに早めの春来る」かもしれないのである。……先行しての出費のリスクもなく、やってみる価値はあるかと思う。ただし、間違っても弁理士に相当の代価を払って「特許申請」の方向性はやらずに、商品の意匠に関する「意匠登録」の方向でやってみて頂けると慶賀かと思います。「そんなに良い話なら何故、自分でやらないのか!?」というご意見もありますが、私は、オブジェの制作に没頭の日々であり、もともと現世欲が薄く、ただ、私は出来上がったそのバックパックが欲しいだけなのであり、毎回、私のブログを読まれている方々への感謝プレゼントのつもりで、今ここに書いている次第。……「へぇ~」と読み過ごすもよし、「おぉ、一丁やってやるか!!」もよし、とにかく私は、海外での見物や撮影に集中したい為にそういうバックパックが欲しいのであります。……先日、用があって新宿に行った際に、あるデパ―トのカバン売り場の人に、「……こういうバックパックは無いだろうか?」と話したら、実に驚き、「全く発想していなかったアイデアですが、それは売れる可能性が高いですね。私が買いたいくらいです。……さっそく会議に提案してみます!」と言っていたので、動き出しているかもしれないが、このアイデアがかなり的を得ている事だけは、何人かに話した直の反応から手応えは十分である。この世は実に夢うつつ。遊び心と本気を入り混ぜて、試しに動いてみるのも一興かと思います。

 

 

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『本郷界隈』

世の中はおしなべて、やれオリンピックだ!、やれ平成の次の年号は何だ?と、メディアに乗せられてかまびすしいが、もし本気で熱くなっているのがいるとしたら、それはよほど阿呆であるか、過剰にセンチメンタルな人間であろう。誘致には賄賂が常識になっているオリンピックの裏の真実―スポ―ツに名を借りただけの拝金ビジネス。西暦と元号(年号)がダブって2つあるという、この面倒な年号制度。新天皇が即位すると改元する「一世一元の制」になったのは明治政府になってからで、察するに山県有朋あたりが「象徴の設計」を目論んだ事に拠るかと思われるが、それ以前は信長や徳川幕府が制定に強く介入しており、この面倒な元号制度の視点から歴史を視ていくと、思いの外に闇が深い。いずれにしても、元号とは概念に過ぎず、平成が終わっても、平成、昭和……と同じく東から太陽がのぼり、環境破壊は加速して深刻となり、AIの不気味な進化によって、人心は渇き、人生から豊かな物語はますます薄くなり、AIの全的な普及によって弾かれた人が爆発的に溢れて雇用問題が暗い影を深刻に落としていく、……ただそれだけである。

 

世の多くの人々の関心は次なる時代へと向かっているようであるが、最近の私はと云えば、ますます昔日の「濃密にして、かつ緩やかに時間が流れていた時代」へと、つまりは抒情を追い求める意識が向かっている。……昨年の秋に本郷の画廊で個展を開催したのも一つの大きなきっかけであったが、年末から最近にかけて、明治・大正・昭和前期の面影をいまだに残している、坂の多い本郷界隈を、制作の合間をみては歩く日々が続いている。……樋口一葉、宮沢賢治、石川啄木、そして鴎外、漱石……といった文豪達の目線と重なるようにして、ひっそりと息づく本郷の界隈を、足の向くままにひたすら歩くのである。そして夜は樋口一葉の書き遺した日記や、啄木歌集を読み耽り、明治中期の空気や音を、そして一葉や啄木の、近代という岐路に直面した表現者としての自立した意識と諦観に触れる日々が続いているのである。………しかし、今から遡る事36年前の1983年の暑い夏の盛り、私よりかなり早くに、この本郷界隈を末期の鋭い眼で歩く人物がいた。……昭和の絵師と云われた、劇画家の上村一夫(1940―1986)である。この地に在った本郷菊富士ホテル(注・画像掲載)を舞台に、そこの住人であった、谷崎潤一郎、大杉栄、伊藤野枝、竹久夢二、モデルのお葉、芥川龍之介、佐藤春夫、斎藤茂吉、菊池寛、そして縛り絵で知られる伊藤晴雨……といった、かなり強度な人物群像と、大正の病んだ抒情を絡ませて描いた名作『菊坂ホテル』と、夭逝した天才作家・樋口一葉を描いた『一葉裏日誌』の構想を得るために、癌で病んだ身体を静かに鼓舞しながら、この坂の街を巡って、昔日の東京の名残を透かし視ていたのである。『一葉裏日誌』の巻末で、「……上村一夫が死んで、〈絵師〉という言葉は死語になる。……1月11日午前1時、朧絵師・上村一夫は手品みたいに、1のゾロ目を並べてみせて、あの世とやらへ飛んで行った。」と、作家の久世光彦(1935―2006)は書いているが、つまり、過去を追う視線とは、耽美な世界を追う視線と何処かで結び付いているようにも想われる。……昨今の、薄く軽く、決して深くは掘り下げない時代に、もはや美の呼吸すべき場所はない。美は昔日の中で今も確かに艶やかに息づいているのである。……『菊坂ホテル』は劇画であるが、その体を借りた、見事な文芸作品である。そして、私が偏愛してやまない浅草十二階(通称・凌雲閣)の存在が、不気味な暗い韻を放って、この『菊坂ホテル』の展開に怪しく関わってもくるのである。……まだ未読の方にはぜひお薦めしたい、これは一冊の奇書である。

 

 

本郷菊富士ホテル

 

 

旧菊坂町

 

 

 

樋口一葉・旧宅の跡

 

 

宮沢賢治旧居跡

 

 

一葉が通った質屋

 

 

 

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『謹賀新年―1月の佐伯祐三』

昨年は、近年あまりない多忙な一年であった。制作の間は当然無言であるが、昨年はその時間が特に長かったせいか、反動で全ての個展が終わった年末の日々はよく喋った。私のオブジェや版画について鋭い論考のテクストを書かれている四方田犬彦氏(比較文化・映像の論者・著書は160冊以上に及ぶ)や、谷川渥氏(美学の第一人者)とも久しぶりにお会いして喋りあい、宇都宮の市民大学講座では、拙著『美の侵犯―蕪村X西洋美術』の中からゴヤとヴァルディについて熱心な聴衆を前にして語り、暮れの28日には、ダンスの勅使川原三郎氏と荻窪の公演会場『アパラタス』で、たくさんの観客を前にして対談をおこなった。23時頃には終わる予定であったが、終電時間がとうに過ぎ、観客が帰ってからも話題が尽きず、場所を移して話が続き、結局、東の空が明るくなるまで喋って帰途についたのであった。……そして年が明け、一転して静かな正月が訪れた。

 

新年の1日、2日はアトリエの中で静かな時間が過ぎていった。……窓外の景色を眺めながら、来し方の日々をぼんやりと思い出していた。……そしてふと、若年時より私の最も好きな画家で影響を強く受けた―佐伯祐三の事を思い、彼がいた当時のパリ(95年前)に、自分が過ごした、今から29年前のパリの冬の光景を重ねてみた。……1991年1月6日、私は前年の秋に1ヶ月ばかりバルセロナに住み、年末にパリの郊外トルシ―へと移り、パリ6区のサンジェルマン・デ・プレにあるギザルド通り12番地に引っ越して来たのであった。その部屋は偶然であるが、かつて写真家エルスケンが棲み、写真集の名作『サンジェルマン・デ・プレの恋人たち』を現像した部屋であり、天窓から差し込む強烈な光の体験を通して、私が写真を撮影し始めるきっかけとなった部屋でもあった。……石畳のしんしんと冷えた1月のパリは寒い。その厳寒のパリに在って、私は、この街を駆け抜けて30歳の若さで、精神の病と結核のために亡くなった天才画家―佐伯祐三の事を考えていた。

 

……「私は巴里へ行って街の美しさにあまり驚かなかった。その一つはたしかに佐伯祐三氏の絵を沢山見ていたからだと思ふ。祐三氏の絵は外人が巴里に感心した絵ではなく、日本人が巴里に驚いた表現である。同一の自然も見る眼に依って違うことの事実は、分かりきったことである。誰もそれには気附かぬだけだ。佐伯祐三氏は最初にそれに気附いた画家の一人である。(中略)日本人が巴里を見た眼のうちで佐伯氏ほど、巴里をよく見た人はあるまいと思ふ。」(横光利一・佐伯祐三遺作展覧会目録より)

…………14歳の頃に私は佐伯祐三の作品を知り、取り憑かれたように佐伯の作品の模写をし、線路の鉄路や駅舎、古い教会など、佐伯の絵のモチ―フに似た、パリのそれと重なりそうな場所を求めて描きまくり、時には吹雪の中で三脚にキャンバスを固定して絵を描いた事もあった。硬質な対象、鋭い1本の線への拘り、正面性……今思えば、自分の資質の映しを佐伯祐三の作品に見て感受していたのであるが、とまれ、私が最も影響を受けた画家の一人が佐伯祐三である事は間違いない。……そんなわけであるから、初めてのパリを見て、横光利一の文章にあるように、佐伯祐三の作品の事が浮かんで来るのは自然な事なのであった。……そしてパリの部屋にいて、持参して来た荷物から佐伯祐三の画集を取り出して読んでいた時、ふと面白い事に想いが至ったのであった。それは佐伯祐三がパリに在って描いた作品数に対して現存する作品数があまりに少ないという事である。……例えば、〈CORDONNERIE(靴修理屋〉という作品は、パリ滞在時にドイツの絵具会社に買われ、現在は行方不明であるが、それにしても……と、私は電卓を打ちながら考えた。多くの作品が美術館などに収蔵され確認され、現存する数は360点あまり。しかし、1日に二点以上描く事もあり、かつて佐伯がパリに滞在した月日を考えると450点近くは描いた事になる。気に入らず焼却した作品もあるというが、単純な推定にしても、計算に差がありすぎる。ひょっとすると、このパリの何処かに、まだ佐伯の作品が人知れず眠っているのではないだろうか……私は1991年の1月に、パリの部屋の中で、ふと、そんな事を考えていたのであった。

 

……それから月日が経った今年の正月、私はアトリエで、昨年末の古書市でたまたま見つけて買った新潮社刊の『佐伯祐三のパリ』という、小さな画集を開いていた。……その中に、佐伯祐三研究の第一人者として知られる朝日晃さんの文章が載っていた。「……私は1991年の1月、パリ環状線の北東、モントルイユの引っ越し荷物倉庫で、薄っぺらいひん曲がった木の額に入った佐伯祐三氏の作品を見付けた。既に死去した船乗りの荷物の中にあったものを、日本人の作品……と、うろ覚えのままの姪が家具などと一緒に持ち続けていた。発見した絵は、はみ出しそうな視角で、街角の二階建てレストランや周辺の古い壁を抱き抱え、ピラミッド形構図は石畳の街の空間を緊張させている。……倉庫の中で私は背筋が寒くなった。きっとアトリエ探しで歩きまわっている間に見つけたモチ―フ、と見当をつけた。」……そして朝日晃さんは翌日から、発見されたその絵の現場風景探しを始め、遂に1月の寒いパリの中、歩き始めて5日後に、その絵の現場を突き止めたのであった。……1991年の1月、私がパリの部屋で、佐伯の作品はまだこの街に人知れず眠っている筈に違いないと、何故か閃いて結論づけた、正に同じ頃に、そのパリで、思った通り、佐伯祐三の作品が発見されたのである。……私はその文章を読んで、偶然の一致に驚くよりも〈あぁ、またしても〉という想いであった。……昨年の2月に、このメッセ―ジ欄でも書いたが、大正12年の関東大震災で崩れ去った、あの江戸川乱歩の最高傑作『押し絵と旅する男』の舞台となった浅草十二階(通称―凌雲閣)の高塔。明治から大正にかけて建っており、震災で崩れ去って今は無い筈の、その高塔をせめて幻視しようと、私は隅田川河畔に建っているアサヒビ―ル本社隣の高層の最上階にあるレストランから浅草寺の方角にかつて在った浅草十二階の姿を、幻視への想いの内に透かし見ていた。……すると、(後日に詳しく知ったのであったが)正にその同じ日、ほぼ同じ時刻に、浅草花屋敷裏を作業員が工事していた地中から、その浅草十二階の1階部分の赤煉瓦の遺構が現れ出たのであった。そして、後日に行ったその工事現場で、長年想い続けていた完全な姿の浅草十二階の赤煉瓦までも、何故か現場に人の姿の絶えた淡雪の降る中で入手して、今、それはアトリエに大事に仕舞われているのであるが、同じ時刻、あるいは予知的な後日に、私の脳裡に閃いた事が、点と点を結ぶように現実化するという事は、このメッセ―ジでも度々書いて来たので、今回の佐伯祐三の遺作発見の符合も、静かな感慨で受け取ったのであった。……佐伯祐三、浅草十二階……と強い想いを抱いていると、奇妙な、不可解な時間隨道(トンネル)を通って、現実の前に現れる。……この、いつからか私に入り込んだ直感力はインスピレ―ションとなって、イメ―ジの交感を生み出し、オブジェやコラ―ジュ、或いはタイトルや執筆の際の、自分でも異常と思う事がある閃きの速度や集中力となって現れ、私をして作品化へと向かわせるのである。………………思うのだが、私達表現者が「芸術」や「美」と正面から立ち会い、この危うい魔物と絡み合うには、この交感力こそ最も必要な能力なのではないだろうか。私は、インスピレ―ションの鋭さを孕んでいない作品には全く反応しない。……例えば佐伯祐三の作品から伝わってくる最大の物は、巴里の硬い壁のマチエ―ルを通して、〈絶対〉という言葉でしか表わせられない、何物かを捕らえんとする激しくも崇高な、衝動なのではないだろうか。放射された衝動の〈気〉が転じて〈強い引力〉と化す!!……そうとしか言えないものが、そこには宿っているのである。

 

 

〈佐伯祐三〉

 

 

〈1991年1月に発見された作品と現場写真〉

 

 

 

 

 

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『勅使川原三郎・中原中也・一葉・啄木・……そして森鴎外』

ふと、振り返ってみると、今年はいつになく多忙な1年、怒濤のような1年であった。……2月初旬に、決して目にする事の出来ない筈の遠い過去(明治~大正)の遺構・浅草十二階の煉瓦(想えばタイムスリップのような不思議な時空間の捻れの中に入って)を入手出来た事が、何かの暗示のように今年の幕開けにあり、初春に、ぎゃらり―図南(富山)、画廊香月(東京)と個展が続き、次いで福島の美術館「CCGA現代グラフィックア―トセンタ―」での個展『黒の装置―記憶のディスタンス』展が6月から9月の長期に渡って開催され、重なるようにして、作品集『危うさの角度』が求龍堂から出版され、続いて日本橋高島屋本店・美術画廊Xでの連続10回目となる大規模な個展『吊り下げられた衣裳哲学』があり、次いで、歴程特別賞の授賞があり、次に本郷の画廊・ギャラリ―884での個展……と続いて、あっという間に12月に入ってしまった。特に5月からは、作品集の校正の日々と、個展の為の制作が重なり、神経の休む間もない集中する日々が続いた。しかし、こだわりに徹した成果として、個展はいづれも反響が大きく、また作品集も好評で、最近では、台湾の美術書を商う書店でも販売されている由。……美術は容易に国を越境する力があるので、美術書の老舗・求龍堂の更なる奮起を、引き続き願うのみである。

 

……さて来年は、3年ぶりに鹿児島の画廊レトロフトでの個展開催も決まったので、都合5回の個展が既に2019年内に予定されており、加えて、ギャラリ―サンカイビの企画で、イタリアの写真家―セルジオ・マリア・カラト―ニさんとの二人展の話もあり、イメ―ジと体力のかなりな放射の年になるかと思われる。……そのためには今は暫しの刺激的な充電の時であるが、それに最高に相応しいものとして、以前から楽しみにしていた勅使川原三郎氏のダンス公演『黒旗 中原中也』を観に荻窪のカラス・アパラタスへと向かった。拝見した結論から云えば、私は酩酊、感嘆の興に強度に酔ったのであった。勅使川原氏は今月初旬に東京芸術劇場で佐東利穂子さんとのデュオを含めた2作構成で、シェ―ンベルク作曲、アルベ―ル・ジロ―の詩に基づく『月に憑かれたピエロ』を、そして『ロスト・イン・ダンス―抒情組曲』(これは佐東さんのソロ)を、音楽と歌唱と対峙するようにして熱演したばかりであるが、日を置かずして、もう新たなる作品創作に取り組み、一転して中原中也のかつてない像を鮮やかに立ち上げたのである。「人間である以前に、先ず何よりも詩人であった中原中也」、ささくれたように挑発的であった中原の、御しがたい言行ばかりが周囲の関わった人によって殊更に伝わっているが、中原の詩の見事な構成力と、その幻視者としての眼差しが産んだ表現の高みを第一に評価して創作された、今回の新作。……闇の中にありありと浮かぶ中原中也の幻像のリアルさ。玄妙な域に達した照明と音楽、そして勅使川原氏自身の朗読という肉声の生々しい相乗が産んだ、1時間という時の器の中に刻印された中原の幻像は、二重写しと化した勅使川原氏自身の肖像のようにも思われる。私は拙著『美の侵犯』の中のMAX-ERNSTについて記した章の中で、勅使川原三郎氏の事を「……私はこの天才が紡ぎ出す巧みな作劇法……」と書き、天才という言葉をなんら躊躇なく使っているが、この断定に狂いはなく、今は更に確信を深めている。美という感性の危険水域、その美の近似値に息を潜めてうずくまっているのは華麗なる毒と狂気であり、それを刈り込む事が出来るのは、過剰な才能を持った選ばれし人だけであり、天才とは、その過剰な才能をもって生きる事を宿命付けられた者の謂であると、ひとまず定義付ければ、勅使川原氏も中原中也もそこに重なって来よう。

 

……想えば、中原中也の詩は、私の若年時の神経の高ぶりと苛立ちと焦り……を冷やす鎮静剤のようなものであったかも知れないと、今にして漸く思う事がある。プロの表現者としてスタ―トする前は、私もまた一匹のささくれた獣のようなものであった。後に自死を選ばれた美術評論家の坂崎乙郎氏は23才時の私の版画を評して「神経が鋭すぎて、このままではあなた自身が到底持たない」と諭すように語り、坂崎氏を評価していた私は、坂崎氏に会った日の帰途の新宿の雑踏の中で、自分の感性を「短距離」から「長距離ランナー」へと自らの意志で強引に切り換えた。また、池田満寿夫氏は「君は生な神経が表に出過ぎている」と、危ぶんだ。……そのような時に読んだ中也の詩は、前回のメッセ―ジで記したランボ―と同じく、私の苛立つ神経をとりあえずは鎮め、結局は更に揺さぶる、そのような存在、詰まりは自身を映す鏡であった。……その頃、『文藝読本』に載っていた中原中也晩年(享年30才)の家が見たくて、北鎌倉の寿福寺を訪れた事があったが、境内の奥深く、鎌倉扇ヶ谷に、まだそのままに残って建っていたのには驚いた。……今は壊されて現存しないが、その家は小暗いまま、巨大な岩陰に押し潰されそうなままに小さく建っていたのが消えない遠い記憶の中にありありと今も在る。

 

……最近の私の関心は、先月に開催した本郷の画廊での個展の事もあってか、本郷の菊坂から西片町辺りに住んで明治を生きた人物……樋口一葉石川啄木、そして、場所は少し外れるが、森鴎外に集中している。日がな、一葉の日記を丹念に読み、御しがたい衝動に吠える啄木の短歌を読み、そこに登場する、例えば浅草十二階の事などに想いが馳せていく、この12月の年の瀬の日々である。その一葉関連の研究書の中に、森鴎外が作った「東京方眼図」(春陽堂から明治40年に刊行)なる、妙な物が出ていて、ふと私の気を引いた。……ずいぶん以前になるが、逗子で流し素麺を一緒に食べた事がある、作家の森まゆみさんの著書『鴎外の坂』の冒頭は、この「東京方眼図」なる物の記述から始まるのであるが、それを見たいと思っていたら、またしても私の神通力が通じたらしく、先日、横浜の古書市で300円という安値で見つける事が出来た。……今の地形と違い、明治40年時の、まだ浅草十二階が、関東大震災で崩れる前の地図であり、十二階の場所とその近くに在った「十二階下」と隠語で呼ばれた、谷崎潤一郎、永井荷風、石川啄木、室生犀星、竹久夢二……等が通い詰めた性の妖しき巣窟の詳しいエリア、また一葉や啄木、宮沢賢治などが、世代を少し隔てて住んでいた具体的な場所、また現在は東京ド―ムであった場所が当時は、陸軍の兵器を保管する巨大な軍事施設であった事などが次々とわかり、地図を眺めていて興味が尽きないのである。そして、この興味の最終の行き先は「森鴎外」という強度にして高次な矛盾を生きた人物へと行き着くのであるが、今は、この強靭な手強い難物に入っていく為の云わば、外堀を埋めている段階なのである。鴎外を通して、現代の我々が見落とし、遂には失って来た物の多々の姿を、透かし視てみたいと思うのである。

 

 

 

 

 

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