『桜の下の芥川龍之介』

昭和二年、すなわち芥川龍之介が自殺する年に谷崎潤一郎と交わした「小説の筋」をめぐっての論争は、近代文芸史を代表する一つとしてあまりにも有名である。……芥川は、技巧を凝らさない筋のない小説こそ良いとするのに対し、谷崎が主張したのは、作為や技巧に富んだ小説こそ是とするものである。この各々の主張は、つまりは美意識の相違を通して彼らの資質(芥川の本質は短篇―詩的散文にあり、谷崎はそれに対して緻密で肉厚な構造体を要する長編にある)にまで及んでいるのであるが、この論争はいま読み返してもなかなかに面白い。……しかし、この二人、論争はしたが普段はいたって仲が良く、才は才を知るの言葉を映すように、よく連れ立って出かけてもいる。しかし、仲の良さは死後までも続き、二人の墓が向かい合って在る事を知る人は、あんがい少ないかと思われる。……墓の在る場所は染井墓地に隣して建つ慈眼寺。時は折しも満開の桜が咲く快晴の日。「思い立ったが吉日」は、自由業の云わば特権のようなもの。さっそく出掛けてみる事にした。場所は豊島区駒込、下車する駅は〈巣鴨駅〉である。

 

……巣鴨駅を出て、とげぬき地蔵のある巣鴨地蔵通り商店街に向かう道があるが、そこに入らず通りを右に横断して細い道を進んで行くと、突然右側に、いかにも怪しく謎めいた昭和初期に造られたと覚しき帝都の面影を残す古びた洋館が現れてくる。―その名を『ヴィラ・グルネワルト』。……いかにも怪しい訳ありのようなネ―ミング。火曜サスペンス劇場の舞台としては最適なこの洋館には、私の旧知の友が二人、各々に住んでいて久しい。フランス語翻訳の達人で、西脇順三郎論などの論考も著している中村鐵太郎君と、歴程賞などを受賞している詩人の阿部日奈子女史である。舘の玄関の扉を押すと、重く鍵が掛かっていて開かない。……事前連絡無し、思い立っての突然の訪問であったが、建物の前で携帯電話をかけても、何故か二人とも繋がらない。……ひょっとしてもしやと思い、半開きに開いている窓に向かってオ~イと各々の名前を読んでも返事がない。というよりも建物の住人全員が神隠しにあったような無人の気配、……先を急ぐ旅ゆえ、やはり○○なってしまったのかも知れないとここは急ぎ結論付けて、次のお目当て地の「芥川チョコレ―ト」という、昭和30年代に在った紡績工場のような懐かしい工場へと向かうが、かつて記憶しているその場所に工場の姿が無い。……信号待ちしている自転車に乗った初老の人に訊ねると、最近、巣鴨駅近くに移転したという。聴きなれない「芥川チョコレ―ト」という、この味のある名前。ちなみに芥川龍之介とは無関係らしいが、帝国ホテル専門にチョコレ―トを作って納めているらしい。以前に来た時はチョコレ―トの甘い香りが漂っていたものである。……さて、先ずは染井墓地である。折しもソメイヨシノが満開のこの広大な墓地。……岡倉天心、高村光雲・高村光太郎・智恵子、二葉亭四迷、土方久元(龍馬、中岡慎太郎と共に薩長同盟の仲介に尽力)……等の著名な人達が眠る墓地をゆるりと抜けて慈眼寺へ。境内にある墓地の奥まった場所に、今日の目的である芥川龍之介、そして谷崎潤一郎の墓が向かい合って在る。この二人の墓を目指して来たと思われる何人かの参拝者の姿があった。……芥川龍之介の墓は独立して在り、横の墓に妻の文、ご子息の也寸志、比呂志……の墓碑銘が彫られている。向かいに在る谷崎潤一郎の墓は、やはり独立して潤一郎の墓が在り、その周囲に親族の墓が在る。但し、谷崎潤一郎の墓は分骨であり、もう1つの墓は京都・法然院(やはり桜の名所)に在る。暫し二人の墓を観ながら、生と死の境の無さに想いが至る。…………晴天のこの日、まだ時間があるので、巣鴨の商店街を抜けて、「庚申塚駅」から都電荒川線に乗り、終点「三ノ輪駅」へと向かった。……途中の「飛鳥山駅」を通過した辺りで、車窓から一瞬、チラッと見えた電信柱に「尾久」という地名を記した白いペンキ文字が目に映り、私の脳裡にピンと来るものがあった。……〈荒川区尾久〉……間違いない、ここは、かの阿部定事件(昭和11年)が起きた待合い「満佐喜」が在った場所である。……以前のメッセ―ジでも書いたが、私は以前に、立教大学女子大生殺人事件の犯人、大場教授の別荘裏の事件現場(……警視庁の捜査が始まった同日に)行き、また昭和13年に起きた、津山30人殺しの現場が在った岡山県、美作加茂の現場にも行ったが、不覚にも阿部定事件のこの現場は未だ来ていない。……かつて私は、非公開となっている東京大学医学部解剖学標本室を訪れ、私の事を妙に気にいってくれている教授と話をしている際に、成り行きでたまたま阿部定事件の渦中の逸物(つまり、被害者・石田吉蔵の切り取られた○○)の現物の標本を見たことがあり、ぜひいつか現場へ!……と思っていたのだが、作品制作や個展、はたまた撮影の旅に追われて機会を作れなかったのであるが、う~む、またしても先方(場の強い磁力)から喚ばれているようにも想われる。今日、偶然目に入った電信柱の文字は、私にはそう想われる。…………さて、電車は終点の三ノ輪駅へと着き、私は明治の中期を駆け抜けた天才―樋口一葉の遺品が展示されている記念館へと歩を進めた。……ここ半年近く、私はこの天才女流作家、―かの森鴎外をして(真の詩人)とまで言わしめた樋口一葉の作品世界とその人物に入り込んでいる。……この人物が持つ計り難い多面的な謎と、その純度の高い詩心については、また近々にこのメッセ―ジで書く事を期して、今回の「桜の下の芥川龍之介」を終える事にしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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