『暗いトンネルを抜けると、そこは……』

①……最近まで使われていた「地球温暖化」という言葉が終わり、新たに「地球灼熱化」という言葉に変わった事をご存じだろうか?……灼熱、この言葉は凄い。もはや万事休すである。この言葉による警告を発したのは国連総長との由。……まぁ言葉がどう変わろうと、人類自滅のカウントダウンはとうに進んでいる事に変わりはない。数年前のブログに書いたが、それは人々の楽観的な予測を越えて加速的に、かつ容赦なく早まっているという事である。

 

……「永久凍土」と云われたシベリアやアラスカの広大なツンドラ気候地帯では、今、ボトボトと溶けた大量の水が流れだし、もはや停める術はない。……ダ・ヴィンチが、最初は「人類は火で全滅する」と手稿に書き、後に火を水に修正して大洪水の素描をとり憑かれたように描いたが、火を灼熱と解せば「人類は火と水によって間違いなく全滅する」と終にはなるのであろうか。核の外圧やAIによる人間の内面の家畜化を視るより早く、大洪水と灼熱の一気襲来は早晩に来る具体的なものがある。

 

 

②先月末に不覚にもコロナに感染し、陽性がわかった夜には、熱が40度近くに上がり危なかったが、二年前に開発されたラゲブリオカプセルという重症化を防ぐ新薬を処方されたお陰で、翌日は一気に平熱に下がり、喉の炎症も忽ち治まった。しかし四日間は静養して外出を自粛したので、本(主に怪談話)ばかり読んでいた。その時は泉鏡花、小泉八雲ではなく、岡本綺堂の『影を踏まれた女』、内田百閒『サラサ―テの盤』『東京日記』、そして川端康成の短篇集等を読んで過ごした。拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊)でも書いたが、『サラサ―テの盤』を原作にした映画が鈴木清順監督の名作『ツィゴイネルワイゼン』である。直接的な怪奇物語でなく、鎌倉の夜の闇から派生した妖しい気配が通奏低音のように流れる不思議な映画で、この世とかの世が交わる怪異譚である。

 

撮影場所は八幡宮、小町に在るミルクホ―ル、切通し、暗い谷戸などを上手く取り込んでいた。映画を観て数ヵ月後に、映画の中で病院として使われていた実在の建物(湘南サナトリウム)が老朽化で解体されるという報を新聞で知り、その翌日は、私は早々と、鎌倉と逗子の間の小坪に在るそのサナトリウムの建物の中にいた。……サナトリウムは閉鎖されていたが、まだ一部は外来患者の往診を行っていた。……アポ無しで訪れた私は「○○大学の建築科の助手ですが、この建物が解体される事を新聞で知り、拝見させて頂きたくやって来ました」と言うと、北杜夫風の温厚そうな院長が「いいですよ。ゆっくりご覧下さい」と許可がおり、私は廃校になった小学校のような広大な建物の中を観て廻った。かつては多くの結核患者で埋まっていた建物の中は今は無人で、渡り廊下を歩くと鎌倉と逗子から吹いてくる海風が涼しかった。

 

私はこのサナトリウムで、今でも信じがたい光景を見て唖然とした事があった。……或る病室の真ん中で蝶の死骸を見たのであるが、蝶の死骸は十羽ばかり(種類は大小様々)、それが実に綺麗な一直線に並んで死んでいたのであった。……正に、このサナトリウムでロケをした『ツィゴイネルワイゼン』の映画の画面そのままに、眼前に耽美極まる幻のような光景が、あたかも私を待ち受けるようにして在ったのである。…………「死者も夢を見るのか?」「腐りかけがいいのよ。なんでも腐って……」……記憶に残っているその映画の幾つかの台詞が甦って来た。……そしてその時、私は思ったのであった。「はっきりと見える幻もまた在るのである」と。

 

 

……次に読んだのは『川端康成異相短編集』(高原英理編・中公文庫)。本中の『死体紹介人』『蛇』『赤い喪服』……等は再読であるが、その中の『無言』という短篇は初めてであった。……ノ―ベル賞受賞後の川端は全く小説が書けなくなってしまったが、その後の自分を予言するような小説の出だしはこうである。

……「大宮明房はもう一語も言わないそうである。六十六歳の小説家だが、もはや一字も書かないそうである。……」からの出だしを読み進めていくと「!?」と驚いて、本を落としそうになった。……先ほどの湘南サナトリウムの話の続きを思わせる事が書いてあったのである。

 

……鎌倉と逗子の間の名越切通しの傍に小坪トンネル(名越隧道)という、多くの人々が霊を視てしまうという、あまりにも有名な、いわゆる心霊スポットなるものがある。実は鎌倉の長谷に住んでいる川端康成が興味を持ち、深夜にタクシ―をその場所に停め馴染みの運転手と共に数時間、霊の出現を待った事があった。長時間待った後に「やっぱり出ないね……」と川端が話すと、運転手が震えながら「先生、先生の横に……います!!」と語ったという話は有名である。川端には見えなかったが、運転手は女が川端の真横に座っているのがありありと見えたのだという。

 

この話を聴いた私は、早速、小坪トンネルへと赴いた。以前に行った湘南サナトリウム(結核患者が数多く亡くなったという)は既に無くなっていたが、そこから近い所に、そのトンネルはあった。

訪れたのは夏の午後である。トンネルは二つ並んで在るが、その向かって左側が件のトンネルである。中に入り端を歩いて行くと、背後に強い「気」を感じたので振り向くと、何とまさかの黒塗りの霊柩車と遺族を乗せた車が2台、静かに私の横を抜けて行くのであった。

 

そして先方出口の陽射しの明るい所を抜けると、霊柩車は左上へと上がるのが見えた。(……坂が在るのか?)……霊柩車がこのトンネルの上に何ゆえにと思っていると「後に付いて来い!」という、誰かが私を喚ぶような気がして、私は好奇心のままに霊柩車の後から坂を登って行くと、そこは古びた暗い火葬場であった。川端の小説には、こう書いてある。

 

「……鎌倉から逗子へ車でゆくには、トンネルを抜けるが、あまり気持のいい道ではない。トンネルの手前に火葬場があって、近ごろは幽霊が出るという噂もある。夜中に火葬場の下を通る車に、若い女の幽霊が乗って来るというのだ。」

 

……小説ではトンネルの手前に火葬場がとあるが、実際はトンネルの真上、名越切通しの近くにそれは在る。……川端は小説の中で馴染みの運転手に幽霊の実体験をいろいろ訊く語りが続き、「どのへん?」「このへんでしょう。逗子からの帰りで、空車ですね」「人が乗ってると、出ないの?」「さあ、私の聞いたのは、帰りの空車ですね。焼き場の下あたりから、ふうっと乗るんですか。車をとめて乗せるわけじゃないんだそうです。いつ乗るかわからない。運転手がなんだか妙な気がして振りかえると、若い女が一人乗ってるんです。そのくせ、バック・ミラアにはうつってないんですよ。」

 

…………二人の会話はなおも続くのであるが、運転手の話によると、見たのは一人二人ではないという。そして女の霊は決まって逗子方面から現れ、鎌倉の町へ入って、ほっとするといなくなるのだという。

 

さて、私は先にこの小説の冒頭で、後の川端自身、つまり小説を書けなくなった自身の姿を暗示・予言していると書いたが、もう1つ、暗示している事がある。……この『無言』という小説が書かれたのは昭和二十八年の『中央公論』。川端54歳の時であり、19年後に73歳で逗子マリ―ナの自室でガス管をくわえたまま自殺するのであるが、その川端を焼いた斎場が、このトンネルの真上に在った、件の火葬場なのであった。今では綺麗でモダンな斎場に変わっているらしいが、私が見た時は、昼なお暗くて哀しい感じがする、惨めな感の漂う、つまりは川端康成の孤独な生涯にあまりにも相応しい火葬場であった。

 

……この小坪トンネルの幽霊が出るという話。川端が書いた時から逆算すると少なくとも80年以上も前から目撃者がおり、語り続けられていた事になる。……このトンネルの近くには古い墓地や史蹟が多く、また私が探訪した、死の病と云われた結核患者も数多くいた湘南サナトリウムからも近い。……こう書いていると、秋の寂しい時にまた行きたくなってしまうから、困ったものである。……コロナ感染後の静養には、もっと力が入ってメンタルに良い、例えば司馬遼太郎あたりが良いのであるが、つい手がそちらの方向の小説へと向かってしまう私なのであった。

 

 

 

 

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