『狂育の現場は今・・・・』

大津の中学生が悪質ないじめが原因で自殺した。マスコミが思っていた以上に繰り返し報道した事で火は燃え盛り、煙の中から飛び出して来たのは、困惑顔で迂闊さを演じ、詭弁を弄して保身に徹する教育委員会のトップと校長の、何とも人間性の欠落した姿であった。勿論これは氷山の一角にすぎず、全国の小・中・高校に遍在した病巣の根は深い。新聞などを読むと「生きろ!!」をテーマにして、識者たちが生きる事の豊かさについて年少者に呼びかけているが、その声は実際には届いていないのが実情であろう。昨今のいじめは昔と違い、文部科学省が定めた劣悪な採点制度により、事無きをもって諒とする事なかれ主義が蔓延し、教師が仕事に情熱を無くした事がその根底に一因として大きくある事は誰もが気付いている事である。その根本的な原因を廃止して改めなければ、大津の(もはや刑事事件といっていい)悲劇は繰り返されていくであろう事は間違いない。

 

しかしそれにしても、昨今の子供達は何故かくも脆くなってしまったのだろうか。いじめから自殺へと直結する発想など、昔は全く無かったと記憶する。古い話になるが、私が中学生の頃は「原爆」というあだ名の怒声天を突くような教師、元憲兵の書道教師、真珠湾奇襲に加わった美術教師などがぞろぞろといて、結果として良い意味での緊張感があった。その中でも勿論いじめはあったが、各人がそれなりに自分でその状況を突破してきたように思う。私も例外ではない。病弱な為に、朝は病院に寄ってから通学していた私に執拗な暴力をふるってくる者がいた。さすがに私は考え、攻めてくる隙をねらって足技をかけ、相手を壁側に押し倒す作戦を立て、そして実行した。「まさか!?」の油断で相手は頭をしたたかに強打し、保健室に運ばれた。以来いじめは無くなった。その相手と、昨年の同窓会で酒を飲んでいるのだから、人生はわからない。

 

私の日課は、朝の9時にアトリエの前の図書館に行く事から始まる。ここで新聞を読むのである。それは神奈川版の新聞であるが、毎日のように性犯罪の記事が載っている。そして犯人の職業のトップが〈教師〉である事に最近私は気がついた。地方版でそうならば、それは全国に比例して教師の性犯罪が多発している事になる。彼らは教師になる時に人生の安定設計図を立てた筈に相違ない。〈仕事のストレス〉が原因であると自白の際に語っているが、それが許される理由には勿論ならず、その多くが免職になっている。もう少し待てば定年。それがわかっていても暴発する程に、教師もまた追い詰められているのか・・・!?それに加えて、教師の登校拒否、さらにうつ病までを発症しているケースも多いという。私は大学4年時に教員試験を受けて高校に採用が決まったが、結局その安定の道を蹴って、不安定な作家の道の方を選んだ。プロになれる保証など勿論無いが、教師の職に就かなかった理由は唯一つ、子供達の作品に点数をつけて評価を下さなければならないという実におかしな制度に対し、自分が妥協していけないと思ったからである。二十歳頃に自分で決めた人生の選択であるが、つくづく教師にならなくて良かったと思う。その頃の眼前の〈安定〉は確かに魅力的に映りはしたが、妥協してそれを選んでいたら、今の私の眼は虚ろな洞となり、ぽんかんと街を彷徨していたに相違ない。それ程に今の教育における、平穏を装うための採点制度(注:この制度は上記した生徒への採点ではなく、学校および教師に対して設けられた五段階制度。問題を抱えない教師ほど出世する!!)は、生徒たちを歪ませ、教師を無気力化させ、ひいては教育委員会を狂育委員会へとますます変質化させていっているのである。ガンと同じく病巣は根こそぎ取らなければ、この国はますます衰弱し、奇形化の相を呈していくであろう。

 

森有礼(もりありのり)は、伊藤内閣で初代の文部大臣になった人物であるが、ドイツの教育制度を範として国家主義的な学校令を制定した人物である。それが思慮の浅い国粋主義者によって欧化主義と誤解され、憲法発布の日に森は大臣室で暗殺されている。森は云う、「教育は国家の根幹である」と。この書は額装されて今も大臣室に掛けられているが、その至言の重要さに振り返る者は誰もおらず、書は日に焼けて、今ではすっかり褪せてしまっているという。ことほどさようにこの国は、上っ面の平和の代償として、情緒面で最も狂った国に成り果ててしまったのである。

 

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