『キリコ』

先日、久しぶりに私は展覧会なる物を二つ続けざまに見た。『国宝展』と『キリコ展』である。国宝展で私の目を引いたのは雪舟と快慶であった。キリコ展は、入ってすぐに展示してあった1910年代の優れた三作のみが見応えがあったが、他は自分の黄金期の作をなぞったコピーのような作品ばかりである。しかし、その魔法が解けたようなキリコの生態に接するのも面白く、私はたいそう楽しんだ。短かった黄金期のキリコと同一人物とはとても見えない中期から晩年の駄作の山。だが、その駄作を「意味があるもの」として評価している人物が二人いる事は、意外と知られていない。・・・・その二人とは、それまで厳としてあった「美」の偶像的概念に「否」を突きつけたデュシャンとウォーホルである。

 

以前に、ANAの機内誌『翼の王国』から執筆を頼まれて取材先のパリを訪れた折、私は、以前にもこのメッセージ欄で登場した事のある、パサージュ「ヴェロ=ドダ」の古書店主のベルナール・ゴーギャン氏に、その事に関する意見を聞いてみた事があった。勿論、ゴーギャン氏はデュシャンとウォーホルのみが認めている事を知っていたが、破顔という言葉がピッタリの笑い声を立てながら「それは彼ら一流のエスプリだよ。他者がやる前に、自らが自作のコピーを作るという事への、機知を含んだ共鳴だよ。しかし、それは彼らの方向性に沿った肯定であり、おそらくは、したたかな戦略なのだろう。あまり意味を深く追うべき内容ではないと思う」と、一発で完璧な答を返してくれたものである。ゴーギャン氏は実際にウォーホル達とも親交があった人だけに、彼らの建て前と内面の本音の差異という舞台裏をさすがに見破っている。

 

さて、私はそのキリコ展の会場で、昔の自作画をコピーした絵の部分を見ていて、ふと、面白い事に気が付いた。それが、ここに掲載した作品の部分であるが、これだけを見ると、誰かの作品と酷似してはいないだろうか!?・・・・そう、まるでヘンリー・ムーアである。帰宅してから私は本棚に大切にしている一冊の画集を取り出した。昔、神田の洋画集専門の松村書店で購入した、キリコの真の黄金期の作品のみを収めた完全版である。それを開いてみるとオリジナルの制作は1918年とあり、ヘンリー・ムーアがここからおそらくは着想し、私たちが知る、あのムーアのスタイルを確立していった事が“仮説”の内に立ち上がってくる。その時、ムーアはまだ20歳で未だ自分のスタイルを確立していなかったからである。画集の説明に拠ると、キリコはこのフォルムをギリシャ彫刻から着想を得ているとあるが、この辺りについてのキリコとムーアとの関係について言及している論考があるのか否や、私は寡聞にしてそれを知らない。とまれ、再びゴーギャン氏に会う事が出来れば、彼はまたしても即答を返してくれるに相違ない。私はそれを楽しみにして、この冬が明けるのを待とうと思うのである。

 


 

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