………さて、ここに一枚の地図がある。藤牧義夫が消える運命の日となった、昭和10年9月2日の藤牧の足取りを時系列順に追って記した地図である。画面最左(D)の自分の下宿を出発した藤牧は、画面最右(A)に住む姉の太田みさおの家に行き、俄に降り始めた雨の中を画面左下(C)に住む、もう一人の姉、中村ていの家に向かうと言って、みさおの家を出た。そしてAからCの途上にある小野忠重の家(B)に立ち寄ったところで、藤牧義夫の姿は完全に消滅してしまい、以後その姿を見た者は誰もいない。……その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。……小野が語っている藤牧の姿、「飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりだった。それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている。」という言葉からは真逆の、藤牧義夫の壮健な姿が、この距離の数字から見えてくる。
……小野の言葉は更に続く。「……しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。それまで身辺にあった版画の一やまと、あまり多くもない彼の読み物、どれの図版の裏にも彼の鉛筆画の残る、村山知義の表現派やダダの本、「アトリエ」誌のプロ美術特集号などをぶちまけた。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。……(中略)……捜査願いも空しかったという言葉で、仏壇を見ると、位牌には、彼の法号と命日が、私の家から消えたその日をのこしていた。」
……小野は、藤牧がいかに自分を信頼していたかを強調したかったのであろうが、この文で大きな墓穴を掘っている。藤牧義夫は尊敬していた父親の影響で、宮沢賢治や高山樗牛、創作版画の先達だった山本鼎らも会員であった国柱会(満州事変の指揮をとった石原莞爾を擁する)―つまりは右傾化した思想の持ち主であったが故に、小野が(藤牧が最後に置いて行ったと)語ったような、云わば左翼青年が読むような表現派やダダの本を読む筈がない。逆にこれは後に判明するのであるが、小野は、自分が一時はプロレタリア運動に挺身した過去を持つと語り、偽装した経歴を積もらせていくのであるが、彼自身の自宅の本棚にあったのを安直に書き並べた事は想像に難くない。〈小野は藤牧義夫の下宿を訪れるような親しい仲で無かった事が、ここから透かし見えて来よう。〉
……小野が語る、自分はかつての左翼の闘士であったという経歴の嘘を見破ったのは、自身が一時は左翼の闘士であった実際の過去を持つ州之内徹氏である。小野証言に疑いの眼を深めていった州之内氏は推論する。「どちらが正しいか。(中略)いずれにしても、どちらの記述も彼(藤牧義夫)のノイローゼを強調しているのは、その後に来る彼の失踪(自殺)の理由をそこに求めようとするからではあるまいか」。……小野は記す。「…………それ以来、私たちの視界から失われた。おそらく、どす黒い隅田の水底に、藤牧の骨は横たわっていると、いまも友人たちは信じている」と。
……言葉には、言霊(言葉に内在する霊力)というものが必ず宿る。これは不思議な、しかし確かな事である。言霊という言葉は和歌などの調べを想わせる美しい響きがあるが、一方で〈内なる邪〉も宿す。今一度、小野の文を読むと、そこから伝わって来るのは、失った友への哀悼の情では決して無く、ギラリと光る、それこそ濁った情念のようなものがある。……仮に親友が隅田川に投身したとするならば、友が迷うことなく成仏する事を願い、水底に沈む友のイメ―ジに清冽なものを覆って黄泉へと送るのが、当然の心情ではあるまいか。間違っても、「どす黒い水底」、「藤牧の骨」と云った死者を汚すような言葉は使わない。………………とまれ、藤牧義夫の姿はその夜をもって消失し、また下宿からは、彼の版画の貴重な版木がことごとく一夜にして消えた。……藤牧義夫の版画の明らかな贋作が、あたかも秘かに生産工場が在るかのようにして続々と出てくるのは、藤牧義夫の姿が消えてからおよそ40年後の事である。」
近代版画の歴史から次第に藤牧義夫は忘れ去られていったが、その作品が持つ表現力の素晴らしさに最初に注目したのは、画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏(当時まだ20代後半)であった。前述したが大谷氏はまだ日本で注目されていなかったヨ―ゼフ・ボイスの個展を開催し、また青木繁の素描展を開催するなど、慧眼にして行動の人である。藤牧義夫版画の素晴らしさを何とか世に知らせたいという大谷氏の真摯な情熱に対し、当時、藤牧義夫に関する唯一の窓口であり、あまつさえ藤牧の師匠とさえ、いつの間にか呼ばれるようになっていた小野が「個展を開催するならば」として渡した数多の藤牧版画は、そのことごとくが贋作(それも明らかに失くなった筈の実際の藤牧義夫の版木に加筆彫り込みをしたという異常さ)であった。それが一括購入した先の東京国立近代美術館からの指摘で判明する事となり、以来、大谷氏は10年以上の歳月を要して『藤牧義夫眞偽』(学藝書院刊行)と題する、真作と贋作の違いを完璧に精査した文献を出版し、この国の主たる美術館に収蔵されている。……その慧眼の大谷芳久氏と州之内徹氏が時に強力な連携を組み、事件の真相に迫っていく白熱する過程は、前述した駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか―藤牧義夫と版画の虚実』(講談社刊行)に詳しい。そして、私のこのブログの詳細な記述も、駒村氏、大谷芳久氏、州之内徹氏の著書、更には大谷氏からの直接の聞き取りに依り書かれている。
……このブログで連載の形を取るのは、以前に書いたジャコメッティの件以来であろうか。そして長きに渡った藤牧義夫に関するこの連載もようやく終わろうとしている。しかし、ここに至って私は自問する。……かくも情熱を持って(しかも、向島、浅草の各々の現場跡に何度も取材し)書かしめているのは、果たして何であるのかと。駒村氏の実にスリリングな著書を読み、その詳細を知った事の驚き。或は、この事件の謎を人生の最後に取り組み、かなり追い詰めながらも不慮の急死により、その執筆が途絶えてしまった州之内徹氏の無念への想い……。そして藤牧義夫の更なる評価を希求し、逆に不実なものを徹底して断じようとする大谷芳久氏の真摯な情熱。……その全てから発して、このブログは書かれたのであるが、……私自身が40年以上前の美大の学生の時に、実際に小野忠重に会っていたという事実が、やはり大きいかと思う。
…………あれは確か22才の頃であったか。……その部屋には、銅版画の詩人と云われた駒井哲郎氏と私、……そして小野忠重と他に何人かがいた。私は自作の銅版画を卓上に並べ、駒井氏との貴重な話に熱中し、傍の小野には申し訳ないが全く無関心であった。それを敏感に察したのか、小野は次第に肩を震わせ始め、苛立っているのがあからさまに伝わって来た。……どういう経緯でそう言ったのかわからないが、突然私の口から「浅草に叔母がいる」という言葉が口に出た。……正にその瞬間であった。「俺ぁ、お前の作品が嫌いだな!!!」と小野は私に鋭い怒声を浴びせたのであった。卓上に並べた私の作品は、駒井哲郎、棟方志功、土方定一、そして坂崎乙郎……といった美術の分野を代表する先達たちから既に高い評価を受けていた作品であり、22才の若僧に過ぎないとはいえ、私にも強い自信と当然の自負があった。小野の怒声に私もまた怒りを持って鋭い声で返し、その場に異常な緊張が走った。正に殴り合いの寸前であった。見ると、無頼できこえた駒井氏でさえも驚きの顔を呈していたのを今もって覚えている。
〈……その時に私は見てしまったのである。〉―もし駒井氏や余人が傍にいなかったならば、間違いなく私に飛び掛かって来たに相違ない、あの男の自分でも御し難いような内なる獣性を帯びた、その瞳孔の奥に光るもう一つの異様な〈気〉を。〈浅草に……叔母がいる〉……私は何かに促されるようにして、どうしてその言葉を発してしまったのであろうか、今もってそれはわからない。しかし、その言葉を発した瞬間に小野が速攻で切れた事は間違いのない事である。
そして、この〈浅草〉〈叔母〉という2つの言葉は、駒村吉重氏の著書『君は隅田川に消えたのか』に何度か出てくる言葉でもあったが、小野が私に示したあからさまな敵意の真因が何に依るものであるのかは、今もってそれはわからない。……ただ、年月を経ても私の記憶の内に、あの小野が瞬間に見せた敵意を孕んだ私への、刺すような眼孔の鈍い光だけはありありと今も覚えている。……人は、一体どうなればあのような〈眼〉が出来るのであろうか。
……その謎を解くべく、今回のブログは綴られて来たように今は思う。……後の版画の歴史に鮮やかな一頁を間違いなく残したに違いない藤牧義夫。その彼が24才の若さでその生を終える瞬間に、脳裡に去来したものは果たして何であったのか。……そして、いや、だからこそ私は結論として今想う事がある。州之内徹氏が死の直前に綴った最後の文章「……失踪した藤牧義夫がこの水の底に沈んでいるという説もあるが、私は信じたくない。」と書いて、小野忠重が引っ張ろうとしている「隅田川に自死して消えた」という方向への強い懐疑を示したが、この一点だけが州之内氏と私の推理が異なる点である。……私は断言するが、藤牧義夫は、間違いなくこの隅田川の水底に沈んでいると。そして、その現場は、藤牧義夫が故郷の館林に帰る度に乗っていた東武伊勢崎線が隅田川を通過して、北十間川と接する水門の真下近く、……前回のブログで永井荷風と交差した不気味な黒い影、『断腸亭日乗異聞』に登場したその暗い男が向かった隅田川河畔の向島寄りの水底に藤牧義夫は眠っていると私は想う。
最後に後日譚を記そう。……藤牧義夫の墓は館林の故郷に在るが、当然ながらその墓の中に藤牧の遺骨は無い。……一方、小野忠重は今、何処にいるのであるか。……小野は小梅の自宅が空襲で焼かれた後に杉並の方に移ったと聴くが詳しくは知らない。……では今は何処に!?小野は1990年の10月に81才で亡くなっている。そして、その墓は浅草の慶養寺という寺に在る。私はその寺を訪れた事があった。今でこそスポ―ツセンタ―の巨大な建物によって隅田川の景観は全く見えないが、かつてはその寺からは、そして墓地からは隅田川の流れが見えた事と想われる。……その寺の在る場所は対岸に向島が、そして、丁度右斜め45度の対岸には、今し書いた東武伊勢崎線の鉄橋と、その下の水門とその水の面が見えるのである。樋口一葉、幸田露伴、永井荷風たち文人が……鮮やかな美文で綴ってきた隅田川の景観は、今は無い。ただ、隅田川の流れだけが今も、とうとうと流れているのである。(終)
追記.……私が関心を持つと少し遅れてメディアが、その主題を取り上げるという現象は度々このブログでも書いて来た。近い例では前述したジャコメッティの話がそうである。私はブログで、今迄のジャコメッティのイメ―ジを取り除き、娼婦に翻弄される、およそ今迄のストイックな巨匠の姿を覆して書いた。するとその半年後に『ジャコメッティ最後の肖像』という映画がジャコメッティ財団の監修で日本でも上映されたが、それは私のブログを台本にしたかのように、私が記した正にそのままのジャコメッティの姿の提示であり、矢内原伊作で築かれたイメ―ジはあっけなく覆った。創造の舞台裏、それを私は直観的に視てしまうらしい。
……そして今回の藤牧義夫に関しても同じような現象が起きた。駒村氏の著書に登場する藤牧義夫研究家の和田みどりさんから先日連絡が入り、今月の29日(土曜)の『美の巨人たち』(テレビ東京・夜10時~)で藤牧義夫を取り上げるという。〈大谷芳久氏が出演される由である。〉何というリアルタイムであろうか。……この番組のプロデュ―サ―が、ある程度掘り下げて、藤牧義夫の実像とその作品の独自性を観せてくれるのを今は祈るのみである。なお、次回のブログは『もう一つの智恵子抄』を書く予定。知られざる高村光太郎と智恵子の実像が鮮やかに、そしてショッキングに立ち上がります。……乞うご期待。