『サン・ジェルマンの2つの話―Paris』

…昨日、二つの見応えのある写真展を観た。渋谷の文化村ザ・ミュ―ジアムで開催中の『写真家ドアノ―/ 音楽/パリ/』展と、東麻布のPGIで開催中の『川田喜久治/エンドレスマップ』展である。川田喜久治さんの写真について語るのはかなりな力業が要るので、近いうちにブログでじっくり書くとして、今日はドアノ―から、このブログは始まる。ドアノ―は大戦後のパリを撮した「記録」の人である。記録は、その記録の域を出る事は難しいが、時として記録の域を越えた「奇跡的な瞬間」を結晶のように撮してしまう事がある。

 

 

 

 

 

…………ここに1枚の写真(1947年撮影)がある。パリ6区、サンジェルマン・デ・プレ教会を背に、無心に犬と戯れる一人の若い女性(二十歳前後か)。繊細さと、ぶれない矜持を内に秘めた、なんとも魅力的な姿である。ドアノ―は、この光景が放つ「何か」に惹かれてシャッタ―を押した。無名の若い女性と、通りすがりの写真家の一瞬の交差が、この瞬間を奇跡に変えた。……まだ無名のこの若い女性は、数年後にその才能を一気に開花させて、世界的にも最高峰のシャンソン歌手ジュリエット・グレコへと羽化していく。……そして昨年の10月に93歳でその栄光に充ちた生涯を終え、背景に写っているサンジェルマン・デ・プレ教会で葬儀が行われた。……しかし、この写真に撮られた瞬間、この女性は自分の運命をもちろん知らず、撮したドアノ―自身も知る由もない。ただ、カメラのレンズだけが、この一瞬を定着させ、グレコの生涯の時間と運命を凝縮して刻印したのである。……パリは、このような伝説とその名残が、物語りを綴るように至る所に息づいている所なのである。次の話も、同じくサンジェルマン・デ・プレ地区に纏わる話である。

 

……前回のブログで、30年前に、イギリスに拠点を移す前の半年間、パリに滞在していた事を書いた。その時の私の宿は、12 rue Guizard(パリ6区・ギザルド通り12番地)の6階の屋根裏部屋であった。サンジェルマン・デ・プレ教会からも近く、リュクサンブ―ル公園も近い場所に在る、数百年はゆうに経つ古い建物。まるで蜥蜴の舌先のように歪に摩滅した螺旋の石の階段を息を切らして昇っていった最上階に、私の部屋があるのである。しかし、天窓からはサンシュルピス教会の鐘楼が間近に見え、時おり、重く響く鐘の音が、飛翔する天使の羽根を想わせて響いてくるのであった。

 

……スペインから引っ越して来たのは、1990年12月の28日, ……パリは薄雪に覆われていた。私は灰白色の厳寒の街を毎日歩きながら、高揚した気分の中で、美術や文藝に向かっていく自分の為にイメ―ジの充電に励んでいた。……しかし、疲労が祟ったのか、ある日、急に重度の風邪をひき、薬局に行く体力もなく、部屋でただひたすら寝込み、空腹と衰弱の中でかなり危ない数日を過ごしていた。「ひょっとして……死ぬのか?」…そんな想いさえ真剣に過るようになっていた。……そんなある時、ふと寝床の先を見ると、天窓から射し込む四角い光の面が床に突き刺さるように鋭く映り、それが次第に寝ている私の方に移動して来るのが見えた。……唯の光であるのに、私にはその光が何やら魔的な「何物か」の化身のように思われ、私は初めて光というものに恐怖した。……そのくっきりと映えた光の面は次第に近づいて来て、遂に寝ている私の頭から腹部迄を鋭く照射し、部屋の奥へと移って、やがて消えた。光を全神経で、正に犯されるようにまともに浴びる。その間、私は何か得体の知れないものと明らかに交感しているのを感じとっていた。……そして信じられない奇跡が起きた。光をまともに浴びたその日の午後から、嘘のように熱が引き始め、気力が次第に戻って、私は階段を伝って外に出て、とりあえずの食事をした。正に生き返る心地であった。……その翌日であったか、私は何故か急に本格的に写真が撮りたくなり、セ―ヌの岸辺やル―ヴルに行き、彫刻を撮影するなどして、次第に写真という世界の妙に惹かれていった。誇張なく言えば、写真家としての私の出発は、正にあの時の光の受容から導きのようにして始まったのであった。……(この辺りの私の体験は、後日、写真評論家の飯沢耕太郎さんが詳しくテクストに書いている。)

 

 

 

 

 

……私が住んでいたギザルド通りは、僅か50m近い短い通りである。小さな古い店だが、ミシュランに載るム―ル貝の美味しい店があり、前の黒塗りの店は、男子禁制のレスビアン嬢達が深夜に集う妖しい店である。このラテン地区に近いエリアはリルケやマンレイ等が住んだ場所であり、亡くなると建物の所にそれを記したプレ―トが掛けられる。……「番地は忘れたけれど、写真家のエルスケンが、確かこのギザルド通りに住んでいた筈」……そう教えてくれたのは、パリで知り合ったマガジンハウスの元編集者のS女史であった。編集者だけになかなかに詳しい。……しかし、この通りにそれを示すプレ―トは無かった。……何かの間違いだろう。写真集の名作『セ―ヌ左岸の恋』はもちろん私も知っていた。しかし、その内にその事は忘れていき、半年後の夏に、私は拠点をロンドンに移す為にパリを去り、その年の暮れに日本へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

……帰国すると、そのエルスケンが度々私の前に現れる事となった。……帰国して間もなく何気なくテレビ を観ていると、エルスケンを特集したドキュメンタリ―が流れていて、病(確か癌であったか)で死にいく病室のエルスケンの姿がそこにあった。……それから2年後の春に、渋谷の文化村のザ・ミュ―ジアムで『エルスケン写真展』が開催されたので観に行った。どういう訳かエルスケン続きである。……会場内に貼られたエルスケンの詳しい略歴を見て、私は驚いた。……そこに記されていた住所は、12 rue Guizard、私が住んでいた、あの同じ建物であった。オランダから無銭旅行でパリに着いたエルスケンに余裕のある金はない筈。ならば住むのは一番安い、あの屋根裏の部屋では?……興味を持った私は、会場内にあった図録にそれを追った。……それとは、エルスケンが自写像で、ひょっとして部屋も撮しているのでは……と思ったのである。はたして予感は当たり、図録最後のエルスケンの自写像に写っていた背後には、私が慣れ親しんだ、そして死にかけもし、後に写真へと導かれた、(屋根の傾斜の為に奧に行くにしたがって高さが低くなる)、あの思い出のある部屋に、私は数年ぶりに導かれるままに再会したのであった。……『セ―ヌ左岸の恋』の名作がプリントされ、エルスケンの主要な人生を彩った、あの部屋に私もまた住んでいたのか!その想いは何故か切ない感慨となって溢れて来た。…………そして、図録に書いてあったエルスケンの亡くなった日を知って、また私は驚いた。……〈死亡日.1990年12月28日。〉……私がパリに着き、初めてあの屋根裏部屋に入った、正にその日に、エルスケンが亡くなっていたのであった。

 

……日本では無計画に次々と旧居を壊し、その跡形も無くしてしまう。そこに人と人とのドラマを繋ぐ時間の繋がりは何も無い。しかし、石で出来た街―パリは、建物だけは残り、ただそこに住んだ人々が次々と人生のドラマを綴って消えていくのである。あのジュリエット・グレコが佇んだ場所に写っている石段は今も在り、教会も在り、そしてエルスケンが住み、その40年後に私が住み写真に目覚め、そして今は誰か別な住人が住み、皆、次々と死んでいき、ただ石の硬い建物だけが人生のドラマを紡ぐ舞台のようにして、次なる人を静かに待ち受けている。……このようにブログを書いていると、また写真を撮りに異邦の地へと旅立ってみたくなる。……今、このアトリエにはジュリエット・グレコの歌声が響いている。その声を聴きながら、しばし昔日の想いに酔ってみようと思うのである。

 

 

(前回のブログでご紹介した私の第一詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』の反響が大きく、読まれた方々から連日、お手紙やメールで実に嬉しい感想を頂いている。また、前回のブログを読まれた方々から詩集を購入されたいという申込みが連日アトリエに届き、以来毎日、購入された方々への署名書きと詩集の発送に追われていて、作者として大きな手応えを覚えている。

……前回のブログで予告したモンマルトルの不気味な話は、今回、紙数の関係で次回のブログに延期する事になってしまったが、次回は、私の詩集の中からニジンスキ―について書いた詩を自作分析する試みからブログを始めたいと思っている。……また限定出版の為に詩集の在庫が少なくなって来ているので、購読をご希望される方は、前回のブログの購入方法をお読み頂けると有り難いです。……次回のブログのタイトルは『モンマルトルの美しき姉妹―Paris』。乞うご期待です。

 

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