ジャクソン・ポロック

『再び、ベーコン登場』

神田の神保町の古本屋街を一日中歩いて帰ってくると既に夜半であった。TVのスイッチを入れ、着替えをしていると、TVの画面でも私と同じように服を脱いでいる男が映った。どうやらこれから踊るらしい。見るとその男は、俳優の田中泯氏であった。豊田市美術館で開催中のフランシス・ベーコン展の企画としての踊りがこれから映し出されるのである。以前に東京国立近代美術館で見たベーコン展では、大きなスクリーンに舞踏家・土方巽の「四季のための二十七晩」の映像が映し出され、私は企画者のセンスの妙を以前にこのメッセージ欄で讃えた事があった。土方は肉体の権能の極北にまで迫り、それは豪奢で、限りなく危ういまでに美的であり、さらに云えばベーコンの表現をも超えて肉体の闇の深部に迫真していた。さぁ、田中泯氏はどうだろう!?

 

踊りが始まって一分も経たない内に私は「これは、・・・・・違うな!!」と思った。上手い、下手ではない。では何が違うのか・・・?私は頭の中でそれを整理した。①これはコラボレーションでもなくオマージュでもない。②そもそもベーコンの表現を通して肉体(肉魂)の根源を開示しようとする事に難がある。③自身における舞踏家としての核が伝わってこない。④表現として足り得る為のフォルムがない。⑤田中泯氏の才能は、実は、その顔相の特異さ(役者としての)にこそあるのではあるまいか!?⑥⑦・・・etc. 私は見ていて途中から、この踊りの最後はおそらく〈完結〉として閉じずに散文的に分散するな・・・と予感した。はたして私の予感は当たり、踊り終えた田中氏自身の言葉の内にその事への言及があった。「踊っているうちに、自分が何処に行ってしまうのか・・・わからなくなってしまった」と云うのである。企画者の試みへの意欲は私は評価したい。しかし、ベーコンの表現と対峙しうる〈肉魂と傷の裂け口の闇〉の凄まじい体現者はおそらく今は皆無であろう。田中氏は、体のその重心ゆえに、あまりにも地上的であり、例えば勅使河原三郎氏は天上的であり、土方巽のごとき地上性と天上性とをあたかも奇術師のごとく併せ持つ怪物的な才能はもはや残念ながら無いのであろう。番組の最後で、田中氏はベーコンの晩年の作を評して、金と名声に負けた変節と語ったが、デヴィッド・リンチ氏はそこに表現の幅としての解釈を見せていた。私はデヴィッド・リンチ氏と同じ見方である。時代がベーコンに追いついたのではない。時代がベーコンの表現と重なってきて、まさにこの21世紀はグロテスクでオブセッショナルな様相を呈してきているのである。私は以前のメッセージでベーコンの絵画を正に「現代のイコン」と評したが、同じ事をここで再び記そうと思う。

 

・・・ところで,昨今の美術館は入場者を得るために(愛)とか(ハート)をテーマにした虚な企画が目立つが、私がもし企画者ならば真逆の企画—obsession(強迫観念)と美の問題を絡めた展示をやってみたいものである。13世紀初頭の、神への礼讃を描いたフラ・アンジェリコの『受胎告知』の巨大なコピーを入口の初めに見せ、次はダヴィンチの『大洪水』による人類死滅のヴィジョンから異端審問による処刑図を経て、時代は一気に19・20・21世紀に飛び、ゴヤゴッホムンクスーチンピカソジャコメッティダリベルメール、そしてベーコンと続き、そこには声無き絶叫のオンパレードが続く。西洋は個人の自我意識が確立しているから、人はその肉の皮膚の内から絶叫の声を放つ。さて・・・日本はと、振り返ってみると、そこに荒ぶるようなヴィジョンが無い事にふと気付く。この国においての〈孤独〉は、時代性の情緒の内に紛れて終には甘美なのである。

 

詩人・野村喜和夫氏との詩画集『渦巻きカフェあるいは地獄の一時間』の刊行を記念して開催された、私と野村氏との対談が、現在発売中の『現代詩手帖』八月号(思潮社刊)の巻頭に所収されているので、興味がおありの方はぜひ読んで頂きたい。書評も、「二人の作品は等価どころか、ひとつになって新たな世界を創り出すのに成功している」(中村隆夫氏評)、「詩画集のひとつの達成として興味深い。(略)ここでは視覚作品と詩が、その乖離自体をひとつのオブジェとして呈示してもいるのだ。」(田野倉康一氏評)、「互いの主体の強度は保たれ、作品はぶつかり合うことなく戦い、それが二人の作品の交差となって、この書物の緊迫した膨らみを象り・・・(松尾真由美氏評)など好評であり、売行きも好調で、普及本・特装本ともに近々に完売の可能性も見えてきているようである。

 

対談の中で野村喜和夫氏は「・・・そもそもコラボレーションというのは、詩と美術の場合は、言語表現と造形表現との闘争的な共存であるべきで、本文と挿絵、あるいは作品とキャプションという関係では全くない。」と語っているように、私たちの共同作業の出発点には先ず〈私たち自身への批評眼〉があった。それが読者の多くに正しく伝わっているのだと思う。前述した田中泯氏の踊りに対して〈・・・違うな!!〉と思ったのは、つまりはそこなのである。ベーコンに対峙して肉魂の闇に迫るには、田中氏はベーコンの絵に度々登場する〈こうもり傘〉や、〈不毛な部屋〉といった既存のイメージを援用せずに、自身が抱えている主題で自立したものをやるべきであったのではあるまいか・・・。観者はベーコンの絵画の自立性、田中氏の踊りの自立性を見て、まさに先の田野倉氏の言を借りれば、その乖離自体の中に観者各々が問題意識を立ち上げ、自問するのである。田中氏がこの企画において計った距離の取り方、その在り様を、私は〈・・・違うな!!〉と直観したのである。それにしても、田中氏はあまりにも熱演であり過ぎた。

 

かつて、舞台の下で撮影している若き日の写真家・細江英公氏に対し、土方巽は演じながら〈今、撮れ!!〉 〈今、撮れ!!〉というシャッターチャンスのサインを〈気〉で送っていたという。何という複眼!何という恐るべき余裕と集中力!!そう、演じ手ではない、もう一人の醒めたプロデューサー・土方巽が、実は観者たちの背後の暗部にいて、自身の舞踏の絵姿を一瞬ごとに鋭く冷静に見ているのである。高ぶるのはあくまでも観客であり、演じ手は、何処かで醒めていなくては、作品にフォルムは立ち上がらない。表現主義・現場主義におけるジャクソン・ポロックがその恰好の例である如く、又、我が国の能がそうである如く、カオス(絶対の混純)をカオスたらしめる為には、その作品(化)として支えるための見えない、しかし確かな支持体が要る。その支持体の本質をこそ、真の意味での〈様式美〉と云うのである。

 

ベーコンの絵画がグロテスクを超えて、ついにはイコンのごとく美しい聖性さえも帯びているのはそこであり、ベーコンの画家としての本能は、したたかにも、それを知っているのである。

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『ジャクソン・ポロック』

先日、東京国立近代美術館で開催中のジャクソン・ポロック展を観た。44歳で自死したポロックの表現世界。会場に展示されている、実際に彼が使った筆先の切り取られた部分を見ながら、あのアクションペインティングをする際に要した一瞬、一瞬の絶え間ない神経の集中の過酷さを想像した。表現は、実体のポロックを遊離して、一つの「極」へと知らぬ間に達してしまった!!その極北への到達は、表現者としての恩寵でもあり、ゆえに悲劇でもある。

 

会場内の壁面にはポロックの言葉と共に、一時代のアメリカ現代美術を引っ張った美術評論家クレメント・グリーンバーグの言葉が貼られていた。グリーンバーグ曰く、「優れた表現が登場する際には、決まってそこに何らかの醜悪なものがある」と。たいていの人はその言葉とポロックの初期の作品を見て、なるほどと合点する。しかし、グリーンバーグの言葉に批評としての普遍性は無く、在るのは、同時代のみの賞味期限付きのレトリックでしかない。彼の頭にあるのはデクーニングを範とする表現主義への礼讃だけで、視野は狭い。ケネス・クラークやグローマンに比べれば数段劣る。事実、グリーンバーグはコーネルの作品には無関心であった。しかし時代がコーネルに追いつくと、彼もまた脱帽してコーネルを認めたのである。つまり、批評が作品の実質に屈服したのである。私は先に、「批評家の言葉には反応しない」と書いたが、その根拠がここに在る。生意気なようだが、「名人は名人を知る」の言葉どおり、次代の才能を見ぬく眼を持っているのは常に表現者であり、評論家でその役割を果たした者はほとんど皆無に近い。

 

先日、詩人の野村喜和夫氏と本の打ち合わせをした折、野村氏は「時代の中で一番色褪せるのが早いのは〈思想〉である」と語った。この場合の〈思想〉とは、それがあまりに同時代のみを向いたもの、という限定付きであるが、同感である。そして私はそこに「評論もまた然り」を付け加えた。グリーンバーグは極論的言説ゆえに、それでも40年代から60年代の美術界を引っぱり、今は引き算を要するがなおも読める。さぁ、その眼差しを日本の美術における評論に向けてみよう。果たして、過去の誰が浮かび上がるのか? −−− 誰もいない。今もって、それを読み、熱くなれる文を書いた評論家は誰もいない。それに比べて、例えば三島由紀夫が著した美術評論 —– 宗達ヴァトー、ギリシャ彫刻・・・に注いだ眼差しは、今なお光彩を放って底光りをしている。そして、そこから得る物も深い。そう、三島は近代における評論の分野でも、最高の書き手であったのである。私は言い直そう。色褪せるのが早いのは評論ではなく、評論家による評論であり、実作者が書いた評論は、時として、時代を経てなおも生きる。ここまで書いた私は、自分にその刃の切っ先を向けた事になる。—- では、お前はどうなのかと。私は自分の書いた物に確たる自信がある。今刊行中の『絵画の迷宮』、そして与謝蕪村と西洋美術の諸作を絡めた論考、そして次に書く執筆に対して。この自分に強いた緊張こそ、次作が立ち上る母胎なのである。

 

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