デクーニング

『ジャクソン・ポロック』

先日、東京国立近代美術館で開催中のジャクソン・ポロック展を観た。44歳で自死したポロックの表現世界。会場に展示されている、実際に彼が使った筆先の切り取られた部分を見ながら、あのアクションペインティングをする際に要した一瞬、一瞬の絶え間ない神経の集中の過酷さを想像した。表現は、実体のポロックを遊離して、一つの「極」へと知らぬ間に達してしまった!!その極北への到達は、表現者としての恩寵でもあり、ゆえに悲劇でもある。

 

会場内の壁面にはポロックの言葉と共に、一時代のアメリカ現代美術を引っ張った美術評論家クレメント・グリーンバーグの言葉が貼られていた。グリーンバーグ曰く、「優れた表現が登場する際には、決まってそこに何らかの醜悪なものがある」と。たいていの人はその言葉とポロックの初期の作品を見て、なるほどと合点する。しかし、グリーンバーグの言葉に批評としての普遍性は無く、在るのは、同時代のみの賞味期限付きのレトリックでしかない。彼の頭にあるのはデクーニングを範とする表現主義への礼讃だけで、視野は狭い。ケネス・クラークやグローマンに比べれば数段劣る。事実、グリーンバーグはコーネルの作品には無関心であった。しかし時代がコーネルに追いつくと、彼もまた脱帽してコーネルを認めたのである。つまり、批評が作品の実質に屈服したのである。私は先に、「批評家の言葉には反応しない」と書いたが、その根拠がここに在る。生意気なようだが、「名人は名人を知る」の言葉どおり、次代の才能を見ぬく眼を持っているのは常に表現者であり、評論家でその役割を果たした者はほとんど皆無に近い。

 

先日、詩人の野村喜和夫氏と本の打ち合わせをした折、野村氏は「時代の中で一番色褪せるのが早いのは〈思想〉である」と語った。この場合の〈思想〉とは、それがあまりに同時代のみを向いたもの、という限定付きであるが、同感である。そして私はそこに「評論もまた然り」を付け加えた。グリーンバーグは極論的言説ゆえに、それでも40年代から60年代の美術界を引っぱり、今は引き算を要するがなおも読める。さぁ、その眼差しを日本の美術における評論に向けてみよう。果たして、過去の誰が浮かび上がるのか? −−− 誰もいない。今もって、それを読み、熱くなれる文を書いた評論家は誰もいない。それに比べて、例えば三島由紀夫が著した美術評論 —– 宗達ヴァトー、ギリシャ彫刻・・・に注いだ眼差しは、今なお光彩を放って底光りをしている。そして、そこから得る物も深い。そう、三島は近代における評論の分野でも、最高の書き手であったのである。私は言い直そう。色褪せるのが早いのは評論ではなく、評論家による評論であり、実作者が書いた評論は、時として、時代を経てなおも生きる。ここまで書いた私は、自分にその刃の切っ先を向けた事になる。—- では、お前はどうなのかと。私は自分の書いた物に確たる自信がある。今刊行中の『絵画の迷宮』、そして与謝蕪村と西洋美術の諸作を絡めた論考、そして次に書く執筆に対して。この自分に強いた緊張こそ、次作が立ち上る母胎なのである。

 

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