中長小西

『……新緑の今、アトリエで一人想う事。』

……この国の四季のうつろいの妙や風情が無くなって既に久しいが、考えてみると、今のこの時期が一年の内で最も気持ちの良い時期なのかもしれない。暑すぎず、寒すぎず、生きているには丁度良い。

 

…………5月が近づくと制作も集中と加速に入る時期だが、しかし充電も大事と思い、先日、二月公演に続いて歌舞伎座の『鳳凰祭四月大歌舞伎』に行って来た。

 

演目は坂東玉三郎片岡仁左衛門による『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』。一階席なので仁左衛門が間近に迫って来て演技をするのが面白い。眼前で江戸の粋が妖しい艶を帯びてリアルに揺れるのである。玉三郎はもはや円熟の極み。泉鏡花の『天守物語』の玉三郎を初演の時に観ているから、この天才が見せる折々の花を観て来た事になる。舞台はおよそ三時間。歌舞伎が放つ様式美と写実の混淆が視せる危うい虚構の華は、確かな充電となって、幕後にアトリエへと急いだ。……今日中にやるべき制作の続きがまだ残っているのである。

 

 

アトリエに着くと郵便受けにギッシリと小包が。……中を開けると二人の詩人から新刊の献呈本が届いていた。高柳誠詩集『輾転反側する鱏たちへの挽歌のために』(ふらんす堂刊行)と、野村喜和夫対談集『ディアロゴスの12の楕円』(洪水企画刊行)。お二方ともお付き合いは古い。特に野村氏とは共著もあり、今回の対談集には、私も対談者の一人として名を連ねている。タイトルに「楕円」の文字を入れているのは野村さんの機知である。……周知の通り、楕円という形の中には2つの中心点が存在する。それを対談という二人の関係、対峙する形に見立てているのである。

 

 

野村さんとは今まで2回対談をしている。1回目は雑誌の企画でご自宅の書斎。この本に載っているのは、東京.茅場町のビル内に在った森岡書店のギャラリ―で開催した野村喜和夫・北川健次詩画集刊行記念展『渦巻カフェあるいは地獄の一時間』時の記念イベントとして企画された対談で、初出は『現代詩手帖』に掲載されたものを再構成した内容である。

 

各々の方が発言してなかなか面白いが、わけても私が面白かったのは、詩人の阿部日奈子さんとの対談「未知への痕跡」である。阿部さんともお付き合いは古い。ヴィラ・グリュ―ネヴァルトという昭和初期建立の謎めいた洋館に住み、才媛にして明晰、その深さはなかなか捕らえ難く、静かな謎を秘めた詩人である。……もしご興味のある方は、書店もしくは以下に申し込んでご購読下さい。

 

 

「洪水企画」

神奈川県平塚市高村203-12-402   TEL&FAX-0463-79-8158
http//www.kozui.net/
価格.2420円(税込)

 

 

 

先日、東京・京橋のア―ティゾン美術館に行った後、日本橋に移転して特別展を開催中の画廊『中長小西』を訪れた。……この画廊の空間が放つ洗練された美意識の結晶深度、そして画廊のオ―ナ―の小西哲哉氏の感性の鋭さは、今日の美術界において別格の突出した存在であると断言していいだろう。送られて来た展覧会図録を見て、私は早く観たくなり展覧会初日に訪れたのであった。

 

……「その作品が優れているか否かは、その作品を茶室に掛けた事を想像すればすぐわかる」という考え方、見抜き方は、偶然にも私と小西さんの共通したものであったが、その事を映すように、移転して新装なったこの空間は、正に茶室のわびさびと今日のモダンを共有した感があり、その展示空間に棟方志功川端龍子山口長男村上華岳池大雅香月泰男……他二十名のジャンルを越えた作家の作品が、静かに、深い静謐な韻を漂わせながら展示されていた。

 

……中でも、棟方志功の巨大な版画が放つ引力は凄まじい。私事になるが、私が二十歳の時に作った銅版画『Diary』を棟方志功は一目見て絶賛し、当時美大生であった私は早々と作家として生きていく自信を氏から得たのであるが、この時の私の版画は表現主義的なものを帯びていた。おそらく棟方志功は私の作品の内に氏自身の感性の映しを視た事は想像に難くない。……その棟方志功こそ、わが国における最初の表現主義の体現者である事はもっと語られ、研究される必要があるであろう。(あまりにも棟方志功の版画は民藝運動の柳宗悦河井寛次郎らの域に組み込まれて語られる感があるが、時代や淘汰を越えて今、更に新しく、強いモダンな相を棟方志功の作品が放っている事に気づいているのは小西哲哉氏くらいであろう。)

 

 

…………画廊の中で、私は恐ろしい作品を視た。村上華岳の『風前牡丹圖』である。一方向から激しく吹く風に揺れながら耐える牡丹の花に配された朱色の滲み。そこに籠められた危うく魔的な何物かの気配、…………私は拙著『美の侵犯―蕪村×西洋美術』(求龍堂刊行)を書いている時に、蕪村が最も執着し、最も多く詠んだ花が牡丹である事を知ったが、その事を思い出したのであった。「牡丹散りて 打ちかさなりぬ 二三片」は有名であるが、私が華岳の絵から連想したのは「地車の とどろと響く 牡丹かな」、「牡丹切って 気の衰へし ゆうべかな」、「散りてのち 面影に立つ 牡丹かな」の三句であった。特に「地車の……」の句が放つ夏の真盛りの光の下の壮麗雄大にしてグロテスクな牡丹の描写は正に華岳のそれと照応する。……察するに、華岳は蕪村の俳句からその多くを吸収している事は間違いないであろう。

 

 

 

 

 

……この中長小西の展示は今月の29日(土曜)で、いったん終わり、次に継続して5月8日(月)から再開し、20日(土)迄の展示予定になっている。昨今の美術界、また表現者の作品は衰弱の感を見せて停滞堕落の一途であるが、芸術は何より強度であり、美術館や画廊は美の感性を鍛える観照の場であるのが本道である。……その意味でも、今回の展覧会は私が強く推す内容である。

 

 

画廊「中長小西」

東京都中央区日本橋3丁目8-13 華蓮ビル6F
TEL03-6281-9516
http//www.nakachokonishi.com/

 

 

 

 

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , , , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『満開の桜に寄す』

名古屋ボストン美術館館長の馬場駿吉さん、美学の谷川渥さん、それに東大の国文学教授のロバート・キャンベルさん等、多士済々の方々がたくさん会場に来られて、盛況のうちに新作個展が終了した。個展の手応えが大きく、企画者の森岡督行さんからは、さっそくまた来年の個展の依頼の話を頂いた。森岡書店のレトロモダンな空間は、私のオブジェが面白く映える空間である。また新しい試みをしたいと思う。

 

個展が終了した翌日、東京国際フォーラムで開催中の『アートフェア東京』に行く。今回も海外を含めて多くのギャラリーが、自分たちの推す作家の作品を出品しているが、玉石混交の観があり、そのほとんどが芸術の本質からはほど遠い(石)として映った。その石の群れの中に在って、唯一光彩を放つ〈玉〉として映ったのは、またしても「中長小西」であった。またしても・・・・と云うのは、数年前のアートフェアで中長小西が出品していた天才書家・井上有一の、それも彼におけるトップレベルの作品や瀧口修造のそれを見て以来、私がアートフェアの印象をこのメッセージに書く際に必ず登場するギャラリーが「中長小西」だからである。その中長小西の今回の出品作家の顔ぶれは、斎藤義重山口長男白髪一雄松本竣介ジャスパー・ジョーンズモランディピカソフォンタナジャコメッティデュシャン、そして今回は私の作品も出品されている。未だ存命中の私の事は差し引くとしても、それにしても堂々たる陣容であり、他の画廊を圧して揺るがない。私の作品も含め、その多くに早々と「売約済み」が貼られ、如何に眼識のあるコレクターの人達の多くがこの画廊を意識しているかが伝わってくる。かつての南画廊、佐谷画郎以来、ギャラリーの存在が文化面にも関わってくるような優れた画廊は絶えて久しいが、オーナーの小西哲哉氏は、その可能性を多分に秘めている。若干四十一歳、研ぎ澄まされた美意識を強く持った、既にして画商としての第一人者的存在である。

 

昨年の秋に「中長小西」で開催された私のオブジェを中心とした個展は大きな好評を得たが、その小西氏のプロデュースで次なる個展の企画が立ち上がっている。未だ進行中のために多くは語れないが、その主題は、今までで、ドラクロワダリラウシェンバーグの三人のみが挑んだものであり、難題にして切り込みがいのあるものである。ここまで書いてピンと来た方は相当な美術史の通であるが、ともあれ今後に御期待いただければ嬉しい。

 

その日の午後に、国立近代美術館で開催中のフランシス・ベーコン展に行く。予想以上に面白い作品が展示されていて、かつてテートギャラリーでベーコンの絵を見て、ふと「冒瀆を主題とした20世紀の聖画」という言葉を吐いたのを思い出す。教皇を描いたベラスケスやマイブリッジの連続写真などが放つアニマをオブセッショナルなまでに感受して、その振動のままに刻印していくベーコンの独自な表現世界。今回の展示で秀れていたのは、展示会場で天才舞踏家・土方巽の「四季のための二十七晩」の映像が上映されていた事であった。この演出法はまことにベーコンのそれと共振して巧みであった。ずいぶん昔であるが、私は土方巽夫人の燁子さんとアスベスト館の中で話をしていて、急に燁子さんが押し入れの中から土方の遺品として出して来て私に見せてくれた物があった。それはヴォルスやベーコンの作品の複製画を切り取ってアルバムに貼り、そこに自動記述のように書いた、彼らの作品から感受した土方巽の言葉の連なりであった。その中身の見事さ、鋭さは三島由紀夫のそれと同じく、「表現とは何か!?」という本質に迫るものであった。私はそれを夫人からお借りして持ち帰り熟読した事があったが、そこから多くの事を私は吸収したのであった。そのアルバムが、今、ガラスケースの中に展示されていて、多くの人が熱心に見入っている。このアルバムの意味は、次なる舞踏家たちへの伝授の為に書かれたものであるが、精巧な印刷物として形になり、文章も活字化されて伝われば、一冊の優れた“奇書”として意味を持つ本となっていくに充分な内容である。ともあれ、このベーコン展はぜひともお薦めしたい展覧会である。

 

個展が終わると同時に、今年の桜が急に満開となってしまって慌ただしい。桜はハラハラと散り始めの時が私は一番好きである。今回は、桜の下に仰向けに寝ころばり、頭上から降ってくる桜ふぶきを浴びるように見てみようと思っている。梶井基次郎の小説のように、春に香る死をひんやりと透かし見ながら・・・・。

 

追記:先日、慶應義塾大学出版会から坂本光氏の著書『英国ゴシック小説の系譜』という本が刊行された。表紙には私のオブジェ『Masquerade – サスキア・ファン・アイレンブルグの優雅なる肖像』が、装幀家の中島かほるさんの美麗なデザインによって妖しい光を放っている。久世光彦氏との共著『死のある風景』(新潮社刊)以来、私の作品を最も多く装幀に使われているのは中島かほるさんである。この本はなかなかに興味深い。味読して頂ければ嬉しい。

 

カテゴリー: Words | タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『個展 – 中長小西』

中長小西(NAKACHO KONISHI ARTS)での個展が、20日からいよいよスタートした。前日の飾り付けは、オーナーの小西哲哉氏のミリ単位での作品展示の位置、照明へのこだわりが徹底されて夜半過ぎまでかかったが、それを反映して洗練された完成度の高い展示となり、作品が更に映えて密度の濃い会場空間が立ち上がった。

 

 

初日の開場と共に、先ず最初に入ってこられたのは日本経済新聞社のK氏であった。会場内をゆっくりと一巡して再び『パスカルの耳』と題したオブジェの前に立ち、即決したようにコレクションとしての購入を決められた。この早い決断は私を驚かせたが、そういう決断はその後も続き、予想以上の作品が、初日からたちまち私の手元を離れていく事となった。もとより作者とは、作品がこの世に形を成すための客体的存在であり、作品からイメージを夢見のように紡いでいくのは、作品を所有する人の主体的な特権である。その意味でコレクションという行為もまた、作者とは異なるヴェクトルを持った豊かな創造行為であるという持論が私にはある。

 

二日目の来場者の中に美術雑誌の編集者のB氏がいた。B氏は今回の作品を見て「今年に入って五百以上の展覧会を見て来た中で、最高にレベルの高い内容だと思う!!」と、私に感想を告げてくれた。いろいろな方が個展の感想を語ってくれるが、B氏のように仕事上も含めて数多くの展示を見ている人はいない。その意味でより客観性を持ったB氏の言葉は、私の現在形に対する自信と確信を強度に抱かせてくれるものがあった。今後仕事に対峙していく上で、このB氏の言葉はひとつの強い追い風となっていくであろう。

 

さて、今回の個展は『立体の詩学 – 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で』という題を付けている。少しそれについて語れば、フリュステンベルグとは、パリ・六区に現存するフランス浪曼派の巨匠- ウジェーヌ・ドラクロワの館がある所の番地名である。その館には美しい庭が在り、私はその場所を、今回の個展で発表する作品のイメージを紡ぐ場所として想定した。ご存知のように昨今の美術作品の多くは、色彩各々が本来持っているドラマやアニマを失って、薄く脆弱なものと化している。しかし本来、芸術とは強度であり、危うく、かつ毒があり、ゆえに深く美しいものであるべきであろう。私はその批評的考えをベースとして「色彩のアニマの復権」をテーマとして立ち上げ、タイトルにそっと、その意図を伏せた。ドラクロワは、その象徴として登場しているのである。「立体の詩学」は、詩の分野だけでなく、芸術創造の最終行為においてポエジーを孕ませることは必須であり、私の作品は美術という分野を超えて、〈詩〉の領域に在るものでありたいという想いから付けたものである。現代の美術の傾向は、ますます無機質な不毛なものへと行きつつあるが、私は、それとは真逆の、有機的な韻を帯びた馥郁として名付けえぬ危うい作品を作っていきたいと思っているのである。

 

 

「立体の詩学 - 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で」BOXオブジェ(部分)

 

「千年の愉楽 - サルーテ聖堂の見えるヴェネツィアの残照 」BOXオブジェ(部分)

 

 

カテゴリー: Event & News | タグ: , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

『中長小西』

1990年代のアートフェアーは横浜で開催された〈NICAF〉などに代表されるように、海外からも一流の画商が参加して質の高いものがあった。私も個展という形で当時の取扱画廊であった池田美術が出品したが、その時は真向かいのブースでドイツの画商がJ・コーネルの箱の作品を十点ちかく出品し、なかなかに緊張感の漂う見応えのある展示内容であった。

 

しかし、次第に個性のある画廊が姿を消して、代わりに右並えの流行ばかりを追った画廊(とは言い難い)がぞろぞろと出てきて、先述したアートフェアーも質の高さが次第に消えていった。数年前に訪れたアートフェアーもかくのごとくで、仕切られた各々の空間での展示は、そのほとんどが唯、並べただけの美的センスの伝わって来ないものが多く、私は未だ途中であったが帰ろうと思って出口へ向かった。すると、或る画廊の空間がふと目に入って来て私は足を止めた。他の画廊とは全く異なる緊張感がそこからは伝わってきて、私は引き寄せられるようにその前に立った。そこに展示されていたのは、私も生前にお会いした事のある天才書家、井上有一の今までに拝見した中でも最高の書(それはクレータピエスと同質の凄みを持っていた!!)、そして瀧口修造デカルコマニー山口長男など、決して数は多くはなかったが、圧倒的な質の高さと、何より張り詰めた美意識がその空間からは伝わってきて私を魅了した。画廊の名前は「中長小西」(NAKACHO KONISHI  ARTS)。初めて知る名前であった。その時、オーナーは不在であったが、私は一人の眼識を持った人物がそこにいる事を直感した。その中長小西のオーナー小西哲哉氏とお会いするのは、それから一年後のことであった。

 

中長小西が開廊したのは2009年の秋である。銀座一丁目にあるその空間は、まるで無駄をそぎ落とした茶室を連想させた。黒を基調とした壁面には、山口長男・斎藤義重李禹煥・・・といった現代作家から陶芸の加守田章二深見陶治、そして奥には村上華岳の掛軸がある。又後日訪れた時にはジャスパー・ジョーンズマルセル・デュシャン・・・といった作品があり、時代・ジャンルに促われずにトップクラスの作品だけを紹介していこうという画廊のコンセプトが静かに伝わってくる。オーナーの小西氏は、中長小西の開廊までは14年間、老舗の水戸忠交易で平安時代から現代までの美術に対する修行を積み上げてから独立したという筋金入りの歩みがあり、その眼識に一本のぶれない眼差しがある理由を私はそこで理解した。

 

その中長小西で私のオブジェの個展『立体の詩学 — 光降るフリュステンベルグの日時計の庭で』が今月の20日(木)から10月6日(土)まで開催される。私の持論であるが、或る作品が本物であるか否かは、例えば、洗練された美意識の極を映した茶室に掛けてみれば瞬時でよくわかる。本物はそこに同化し、偽物は弾かれる。例えばクレーデュシャンジャコメッティー、・・・彼らの作品を茶室に掛けてみる事を想像して頂ければ、私の云わんとするところが伝わるかと思う。その茶室の本質を画廊空間に移したような洗練が、この中長小西には存在する。その厳しい空間での展示は、私の表現者としての本能を激しく揺さぶってくるものがある。オブジェという、この名付けえぬ不可思議な存在物が、〈客体〉となってどう映るのか。個展を間近に控えた私の最大の関心がそこにあるのである。

 

〈マルセル・デュシャンの珍しいマルチプル作品〉

 

 

 

 

 

 

「中長小西」(NAKACHO KONISHI  ARTS)

住所:〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目15-14 水野ビル4F

TEL/FAX:03-3564-8225

営業時間:午前11時~午後7時

日曜休 *22日(祝)は開廊


 

 

カテゴリー: Event & News | タグ: , , , , , , , , , , , , , , , , | コメントは受け付けていません。

商品カテゴリー

北川健次詩集『直線で描かれたブレヒトの犬』
Web 展覧会
作品のある風景

問い合わせフォーム | 特定商取引に関する法律